157.『魂の女神』は変わり者
扉を潜ると、さまざまな魔物が出迎えた。
決して好意的な歓迎ではなく、何度も噛み付かれたり引っ掻かれたりしそうになったが、それも死の精霊に付いていくうちに減った。どうやら、あれは見せ掛けの脅威で、本当に攻撃を仕掛けているわけではないらしい。
あくまでも、死者に恐怖を植え付ける目的のようだ。
死の精霊は迷いない足取りで進み、テオドアを陰鬱な川のほとりまで連れてきた。暗いはずなのに、目が慣れたせいか、テオドアも躓くことなく歩くことができる。
太陽も月も星もない黒い空を、広い川面が意味もなく映す。川沿いに生えた痩せ細った木が、項垂れて枝の先を浸していた。
雑草すら生えていない川辺で、ランプを持ってぼんやりと佇む男がいる。近くには小舟が浮かべられていて、漕ぐために必要な櫂も無造作に放り込まれていた。
死の精霊は、彼に近付いて言った。
「昨日、し、死んだ人です。あの……いつも通りに、『冥界の神』が座す向こう岸まで……」
「……」
男は無言で頷いた。どうやら、川の渡し守であるらしい。ゆっくりとした動作で櫂を担ぎ、船に乗り込んで静止する。水面を眺める目がガラスのようだった。
どうも魂がこもっていなさそうな――自分の意思がなさそうな動きだ。彼を見ているだけで、薄ら寒いというか、どことなく不安な感覚が胸に去来する。
テオドアが渡し守を眺めていると、死の精霊が言葉に詰まりながら言った。
「い、い、今から……川を渡って、『忘却の泉』に行ってもらいます。え、っと、その、魂に、生前の余計な記憶が混ざると困るので。そしたら、泉の精霊に従って、『冥界の神』の裁きを受けてくだ――」
「おお! 我が愛しの仔、闇より生まれ出たる死の抱擁よ!」
唐突に差し込まれた声に、死の精霊は目を丸くして口を閉じた。
もちろん、この朗々とした声の主は、テオドアではない。テオドアもまた驚き、誰がいるのかと周囲を探った。言わずもがな、渡し守に口を開いた様子はなかった。完全なる無反応である。
当惑する二人に、「彼女」は突如として目の前に降り立った。古代風の服装だが、肩や腰や手足首に、黄金の装飾品を付けている。
暗い紫の髪をキザに跳ね上げ、「彼女」はきらきらしく歯を見せて笑った。
「ディリアの泡沫の如く彷徨う若者。ゆめ忘るるな。歩みを止めぬ茨の道に依りて三度の踏破を得よ。果実は何処へ」
「……???」
何を言っているのかさっぱり分からない。
雰囲気で読み取れば、たぶん、こちらを励ましてくれているのだと思う……そう思いたい。快活な雰囲気と言葉が合致しなさ過ぎて、違和感だらけである。
しかし、死の精霊は、はっとした表情になって言った。
「た……『魂の女神』である貴女さまが、そ、そ、そこまで仰るなんて……!」
(何がどうやって何を仰ってるの?)
「闇の揺籠に眠る雪。静かなる水面に行くは難し。慌て躓き堕ちる神秘の行方。ああ幸なるかな悠久よ!」
「女神さま……!」
どうやら感動的なことを言ったらしい。死の精霊が涙に咽び、握っていた鎌を取り落としてまで跪く。
何がなんだか分からないテオドアは、唐突に現れた彼女――『魂の女神』と死の精霊を、交互に見比べた。
そういえば、少し前に、セラから聞いた気がする。〝『魂の女神』と意思疎通できること自体が奇跡だ〟と。
(ああ、こういうことか……)
二人の会話の場外に立ち、ぼんやり眺めながら思い返す。意思疎通と言うか、まあ、あちらにも会話をしようとする意思はあるんだろうけれど。
……本当に申し訳ないが、意図がまったく汲み取れない。
冥界ってすごいなあ、と関係のないところで変な感動を覚えていたところ、不意に『魂の女神』がこちらを振り返った。
その勢いに気圧されて、テオドアはわずかに足を引いた。
「凍土ゆえの嘆きか。仇となる三日月の影に尊べ。流るる時を忘れ沈み給え」
「……その、ええと、〝君は特別だ、私について来なさい〟と仰っています」
死の精霊が、跪いたままちらちらと『魂の女神』を窺い、言葉を訳してくれる。
そんなこと言ってたんだ……と、ほとんど合点はいかないが、とりあえず頷いておく。
「魔性ある幻に歩む。十」
「え、ええっ……!? こ、この人が黙ってたの、ぜんぶ貴女さまのご指示、だったんですか……?」
こちらは終始置いてけぼりだったが、二人の間では上手く話がまとまったようだ。死の精霊は再び涙を溢れさせ、「良かった……」と目を擦った。
その涙を気にしたふうもなく、『魂の女神』は、存外優しくテオドアの手を取る。
彼女は眩しい笑顔を見せながら、川の上流側を指差した。言葉を介するとかえってなにも伝えられないのを、彼女自身もよく理解しているのだろう。
死の精霊と渡し守を置き去りに、『魂の女神』は歩き出した。
彼女の手を握っていると、なんだか懐かしい気分になる。
――そうか。『魂の女神』は、『知恵と魔法の女神』の母神だった。
冥界の人員不足を補うため、恋仲でもない『冥界の神』と、利害関係で子を成したとか。
娘である『知恵と魔法』とは、何度か手を繋いでいる。懐かしさは、もしかするとそこから来ているのかもしれない。
あるいは、何度も生まれ変わりを重ねているという魂が、自らを司る女神に会えたことで打ち震えているのか。
そんなことを考えながら、変わり映えのしない暗い景色の中を進み――遂に、黒々とそびえ立つ館の前で立ち止まることになった。
「陽光を讃えよ、足掻くものなら」
『魂の女神』は、たぶん、「この中に誰かがいるよ」というようなことを言いながら、無遠慮に扉を開く。
……テオドアは、玄関先で待ち構えていた、壮年の男性と目が合った。
ここに人が来ることを、あらかじめ予見していなければ、ぴったりに出くわすことなどできない。テオドアがこのタイミングで殺されて冥界へ降りてくることは、やはり運命で決まっていたのだろう。
そして、それを予言した何者かが、冥界にいるのかもしれない。
テオドアは、目の前の男性を見上げた。
厳つい顔と鍛え上げられた体つき。毛量のある長い黒髪に負けじと、顔の下半分は黒く長い髭が覆っている。ゆったりとした神の服を身にまとっているが、こちらも黒い生地で作られていた。
何より目を惹くのは、彼が頭上にいただく金の王冠である。
男性は、こちらを見下ろし、目を細めて笑った。
「ようこそ、冥界の館へ。――歓迎しよう、我らが愛娘の婿殿よ」