144.懺悔する女
テオドアと『光の女神』が向かい合う控室には、気まずい空気が漂っていた。
セラは気を利かせて退出している。誰かが来ないようにそれとなく見張っておく、とも言い置いていたため、近くにはいらっしゃるのだろう。迷惑を掛け通しで、改めて頭の下がる思いだ。
ご厚意に甘えて、今すぐきちんと謝ってしまうのがいちばん良いだろう。
……しかし、どうしても女神の顔が見られず、テオドアはしばらく、自身のつま先をじっと睨みつけていた。
――分かっている。このままでは埒が開かない。そして、先に謝るのはもちろん、理不尽に怒った自分のほうであるべきだ。
テオドアは、幾度か口を開いては閉じ、ためらいつつも、とうとう深々と頭を下げた。
「昨日は、申し訳ございませんでした。さんざんご恩を受けておきながら、この上なく無礼なことを申し上げました」
「ああ、いや……」
応える女神の声は、深く沈んでいる。落ち込んでいるのだろうか。ますます気まずさと申し訳なさが募り、今度は頭を上げづらくなってしまった。
小さく息を吐く音が聞こえる。彼女もまた、こちらへ声を掛けるのをためらっているらしい。
「……顔を上げてくれ。私も……悪かった。お前の八つ当たりなど、笑って受け流せれば良かった。余裕がない証拠だな」
「そんなことは」
「いや、否定せずとも良い。それに、お前の言葉にも、一理があると思った。私たちはあまりにも、お前を振り回し過ぎている」
テオドアが姿勢を正すと、『光の女神』は――ルクサリネは、悲しげに微笑んだ。
彼女が胸に添えた手は、微かに震えている。
「〝依代〟のことも、三女神のことも、結婚のことも。他にも、細かく挙げればキリがないだろう。お前を夫とすると謳っておきながら、結局……」
少し言い淀んで視線を下げ、しかし、続ける。
「結局、私は、お前を下に見ていたということだ。軽く扱っていい存在だと、無意識のうちに思っていた。これでは、急進派の神を笑えない。いや、自覚がない分、よりタチが悪い」
テオドアは、なんと返して良いか分からず、女神を黙って見つめた。
昨日の喧嘩の原因は、間違いなく突っ掛かったテオドアにある。少なくとも、テオドアはそう思っている。
だが、彼女の悔恨が、まったく的外れかと言われれば、そうではない。
やはり――神と人間は違う生き物だ。
人間が神へ勝手な理想を押し付けるのと同じで、神も人間を、ごく自然に下層へ置く。醜く浅ましく慈悲を乞うばかりの、いくらでも替えのきく存在だと、端から侮ってかかる。どんなに慈悲深い神でもそうだ。
大抵の場合は、それで良いのだろう。神は完璧であり絶対である。この世界の人間は、そういうふうに刷り込まれて生きている。生まれてから一度も神を目にすることなく、死に至る。
しかし、テオドアは――女神たちと共同生活を営もうとしている。この価値観のズレは、避ければいずれ、取り返しのつかない問題へと膨らむだろう。
その前に、なんとかしなければいけないのだが。
「すまない。お前の人生を、私がめちゃくちゃにしてしまった」
そう言って、今度は彼女が頭を下げる。テオドアは慌てて、ルクサリネの肩に触れた。
「おやめください! その……僕は、気にしていませんから。むしろ、女神さまに見出されていなかったら、公爵家で惨めな一生を送っています。感謝してもしきれないくらいです!」
「しかし……」
「本当にごめんなさい! あの暴言は、その、心にもない……いや、えっと、まったくないわけではなく、でもものすごくちょっとしか考えたことなくてですね」
自分でも何を言っているか分からないほど、テオドアはしどろもどろに補足する。ようやっと顔を上げてくれた女神だが、その表情は未だに暗い。
自分の中に「神」としての傲慢さがある。常々、人も神も変わらないと言い続けていた彼女が、それを認めるのは、想像以上に辛いことなのかもしれない。
男なら、ここで抱き締めて差し上げるべきだろうか。でも、色々と誤魔化す感じがして嫌だな。それならどうすれば……。
などと、肩から手を下ろすこともままならず、おろおろと狼狽えていると……ふと、ルクサリネが口を開いた。
「……私がなぜ『秩序の女神』を嫌うか、知りたいと言っていたな」
「え? あ、ああ……そんなことも言いましたね」
正直、あの時は、言い掛かりと難癖をつけたくて話題に出しただけだが。テオドアが頷くと、ルクサリネは淡々と続けた。
「すべて教える。あの女との因縁も、私の罪も。……今夜、私の城へ来てくれ。人払いを済ませて、迎えに行く」
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とんでもないことになってしまった。
『光の女神』に導かれ、ひと気のない暗い森を歩きながら、テオドアはそう思った。
隣のルクサリネは、テオドアを『秩序の女神』の別宅より連れ出してきてから、ひと言も喋らずにいる。自ら作ったランタンの明かりを、ひたすら黙々と追っているようだ。
セラには一応、書き置きをしてきた。おそらく、朝方までには帰れるだろうから、念のため。
ここは森の中だが、不自然なほど穏やかだ。生き物の気配はするものの、敵意や害意がまったく感じられない。
夜でも警戒をせずに歩けるのは、天界ならではのことなのだろう。
しばらく小道を進み、まったく言葉を交わさずに城へ辿り着く。どうやら、小道は城の裏庭に繋がっていたようで、他者の姿は見つからなかった。
「……あの三人は、理由をつけて私の別宅に移動させた。小間使いの精霊にも休みを取らせている」
久方ぶりに口を開いた女神は、そう言ってランタンを消すと、俄かに己の身体を浮かび上がらせた。城の上階へ飛び、ちょうど窓が開いているところから滑り込む。
遅れて、テオドアの身体も、風に巻き上げられるかの如く浮き上がり、ルクサリネの後をなぞる。大きな窓から中へ入ると、ひとりでに閉まって錠が掛かった。
薄暗い部屋だが、たいそう広いことは音の反響で分かる。
テオドアが窓辺でじっと立ち尽くしていると、部屋の奥から、燭台を持ったルクサリネが戻ってきた。
「適当に座ってくれ。先に湯浴みを済ませても良いが」
彼女は蝋燭の炎に触れ、そのまま息を吹きかける。すると、炎が大きく部屋中に散り、壁や家具の上にある照明器具へ、一斉に灯りが点った。
――紛れもなく寝室である。
調度品のひとつひとつが、華美ではないものの、質の良いものだと一目で分かる。
寝心地の良さそうな寝台に、クローゼット。壁際の机を彩る花瓶の花。わけても目を惹くのは、部屋のほぼ半分を占める、石造りの水浴び場だった。
どのような仕組みか、壁から綺麗な水が溢れ、滑らかな石材で作られた深い窪みの中に流れていく。水位は一向に上がらないため、きっと排水の設備も整っているのだろう。
近くに綿織物や寝巻きが落ちているので、日常で使っている場所なのだと思われる。
「望むなら、湯に変えることもできるが」
「いえ、さすがに……ルクサリネさまの前で、いきなり裸になって入るというのは……」
「それもそうだな」
ルクサリネは薄く笑い、燭台を魔法で机の上に飛ばすと、寝台の端に腰を下ろす。
窓際の壁に背をつけて座ったテオドアに、少し物言いたげな目を向けたが、すぐに落ち着いて話を始めた。
「どこから話すべきか。愚かな私の過去を知られるのは、少し複雑だな。お前に軽蔑されると思うと、たまらなくなる」
「お嫌なら……」
「いや、良い。話すと決めたことだ」
ルクサリネはテオドアを見据え、背筋を伸ばした。その姿には、生半可ではない覚悟が滲んでいた。
「先の『大戦』のことを、知っているだろう。あらゆる命が消えた、千年前の戦を」
「はい。『最高神』も、その戦争で消滅したと、伺っています」
「――その『大戦』のきっかけを作ったのは、私だ」