142.波乱の裁判初日・中編
テオドアは、咄嗟の瞬発力で半身を逸らし、飛んでくる剣の切先を避けた。
銀の煌めきは一直線に空を裂き、ほんの数瞬前までテオドアがいた場所を通り過ぎると、開いたままの扉から外の廊下へと突き立った。
美しい拵えの剣だった。優秀な鍛治職人の手によるものだと思われる。テオドアが魔法で作り出す剣など、比べるべくもない。
状況が飲み込めず、避けた格好のまま剣を眺めて現実逃避をしていると、嘆息混じりの声が背後から聞こえてきた。
「……問題を起こさぬと言うから、見学を認めたのです。このような振る舞いをするなら、即刻退場を願います」
振り返ると、右手側の席に座る柔和な面立ちの女性が、柵の向こうにある席のほうを睨みつけていた。
法廷、と聞こえは良いが、実際は広い会議室のような、質素な部屋だった。テオドアが入ってきた扉を中心に、右と左に長机が置かれ、数人の男女が相対している。
扉と正反対に位置する向こう側には、柵で仕切られた空間があり、十数人が座れる席と、小さな出入り口が設置されている。裁判に関係はないが傍聴をしたい者が座り、好きに出入りできる場所なのだろう。
その柵から身を乗り出して、今しがた剣を投げたであろうお方には――残念ながら見覚えがあった。
テオドアは、後ろ手でそっと扉を閉めた。柔和な女性の厳しい追及は続く。
「ここは神聖なる評決の場です。いくら幼いとは言え、分別はつく年ごろでしょう。『熱意と競争の神』よ、場を弁えなさい」
「だって、そいつ、俺をコケにしたんだぞ! 殺すのが当たり前だろ!」
麦畑でテオドアたちに絡んできた少年神――『熱意と競争の神』は、大いに顔を歪めてテオドアを指差した。
傍聴席に座る、恐らくは神や女神であらせられる方々は、少年の振る舞いをほとんど静観している。
女性は、嘆くように天井を見上げて溜め息を吐く。
彼女の座る右側の長机に、『秩序の女神』や『真実の神』の姿も見えるので、そちら側が「裁判進行役」の席なのだろう。
反対側の長机には、四人の女神と、空席がひとつ。表情からしか窺えないが、彼女たちは少年神を怪訝そうに眺めていた。
「――自分一人の判断で勝手に裁くなど、あなたはどれほど偉くなったつもりなのですか。『最高神』ですら、そんなことはなさりませんでしたよ。良い子ですから、柵を降りて傾聴なさい」
女性の言葉は、幼子を嗜めるような口調だった。
それに大層気分を害されたらしい。少年神は憤りも露わに、さらに騒ぎ立てた。
「ば、馬鹿にするんじゃねえよ! 最高神だかなんだか知らねえけど、もう死んでるだろ!! そんな間抜けなのと俺を比べんじゃねえ、クソババアが!!」
「その通り、『最高神』は消えていますし、私はあなたよりも千年は年上です。しかし、本題はそこではありません」
「〜ッ、老害! いっつも偉そうにグチグチ、古臭い掟だかなんだかを押し付けやがって! 人間なんか、またいくらでもっ、ウジみたいに湧いて生まれてくるだろうが!!」
とうとう彼は、柵を乗り越えようとした。流石に看過できないのだろう、柵のこちら側で状況を見守っていた神々も一斉に身構える。
だが、少年が乗り越え切る前に、傍聴席から立ち上がる者がいた。
「愚息が失礼をしました! 大変申し訳ございません!」
見ると、体格の良い男性が、あっという間に少年を引きずり下ろし、傍聴席の床へ転がした。綺麗な角度で頭を下げた彼は、法廷中に響くほどの大声で謝罪する。
柔和な女性は、周囲の神々を制したあと、静かに口を開いた。
「彼はあなたの子でしたね、『自由と勝利の神』よ。遅く生まれた子であるゆえ、可愛がっているのは分かりますが、少し教育方針を変えたほうがよろしいでしょう」
「まったくその通りです! まさか、父親の剣を勝手に奪うなどとは思いもしませんでした!」
『自由と勝利の神』は、顔を上げ、はきはきと答える。
一見すると息子の不始末を真剣に謝っていて、愛があるように見える。が、それにしては、無理に引きずり下ろされて呻く息子に、一切目をくれない。
その様子が、少し薄気味悪かった。
「そうでしょうね。では、あなたの息子を――」
女性が言い終わるより早く、『自由と勝利の神』は、「はい!」と叫んだ。
「上手く育たなかった罰を与えます! 性根を叩き直しましょう!」
そうして、己の息子たる少年神を、強かに蹴り上げた。
細身の身体が持ち上がり、柵を揺らす。腹を蹴られた少年は、床に落ちるなり、えずいてうずくまった。
だが、容赦のない父親は、彼を横薙ぎに殴り倒し、あらゆる箇所を蹴り、殴りつけた。手加減などまったくしていない証拠に、少年は何発目かで気を失い、ぐったりと床に伏している。
――おぞましいことに、それをも、傍聴席の神々は静寂を守って見ているだけだった。
「止めなさい! 今すぐに! ここは暴力の場ではありません!」
女性が立ち上がって叫ぶが、『自由と勝利』は聞く耳を持たない。ただひたすら、息子の胸ぐらを掴み上げて殴り続ける。
テオドアは咄嗟に駆け寄ろうとして、『夢と眠りの女神』に手で制された。法廷の神が幾人か柵のほうへ集まり、どなたかが魔法を行使して引き剥がしてようやく、理不尽な暴力は止んだ。
『秩序の女神』が、親子を指差して言う。
「……そこの神を、誰か捕縛しておきなさい。別室で監視して。あと、『熱意と競争の神』を、治療してやって」
すると、傍聴席の出入り口から、数人の精霊たちが姿を現した。打ち合わせたかのように滑らかに、『自由と勝利』を捕縛し、気を失った少年神を連れ出していく。
傍聴席の神々は、やはり他人事のように、それを眺めていた。
……精霊たちが去り、やっとひと段落がついたころ。
柔和な女性は、軽く咳払いをしてから、扉の前に立ち尽くすテオドアへ視線をくれた。
「待たせてしまいましたね、〝依代〟――いえ、正確な名を呼びましょう。テオドア・ヴィンテリオ」
「は、はい」
「私は掟を司る神です。『掟の女神』と呼ばれています。基本は私が進行しますので、指示には従ってくださいね」
「はい」
「ではどうぞ、そのまま進んでください。私が、良いと言うまで」
テオドアは、恐る恐る一歩を踏み出した。
絨毯が敷かれているため、足音は響かない。ただ、この場の視線を一身に受けているため、緊張はいや増すばかりだ。
いくばくもせずに、向き合う二つの長机の、目の前まで辿り着いた。手を伸ばせば、机の端に両手が触れられそうだ。
そのまま真ん中の空間を進もうとしたテオドアに、「そこで良いです」と柔らかな制止が入る。
その通りに立ち止まると、足元から魔力の粒が散り、あっという間に講壇が作り上げられた。数段高くなった視線に、黙って戸惑う。
『掟の女神』に目を向けると、彼女は微笑んで言った。
「今からする質問に、真摯に、正直に答えなさい。偽りを言うことは固く禁じます。少しでも己を偽ったと判断されれば、あなたの命はないものと思ってください」
「……はい」
「緊張しないで。正直に答えれば良いのです」
彼女は立ち上がると、手元に一枚の羊皮紙を出現させた。それを読み上げる形で、質問をするらしい。
「一つ。『光の女神』『知恵と魔法の女神』『戦と正義の女神』『夢と眠りの女神』は、あなたと婚姻を結びたいと願っています。そのことに、あなたは同意していますか」
「はい」
「二つ。女神との婚姻で、あなたは人間の範疇を超えた力を手に入れる可能性があります。その力を以て、あなたは天界に楯突くつもりはありますか」
「いいえ、ありません」
「では、今後一切、罪のない神や精霊を傷つけることはしないと誓いますか」
「はい、誓います」
そのような質問が、淡々と繰り返される。
テオドアはただ前を向き、飛び出そうな心臓と溢れ出る汗に苦心しながら、なんとか答えを返していった。聞かれたことに正直に答える――とは言え、自分に不利な問いにはきっぱりと否を返した。
例えば、「この先、天界の利益のために封じられることがあるかもしれないが、それを承知するか」という問いである。
「いいえ、承知はしません」
「理由を伺っても?」
なぜか、傍聴席のほうが俄かに殺気立つ。テオドアは、彼らから目を逸らし、『掟の女神』のほうを向いて言った。
「僕は、天界のために自分を犠牲にするほど、敬虔な人間ではありません。加えて、それを承諾してしまえば、僕はいつでも皆さまの好きなときに封じられてしまう恐れがあります」
「……ええ、そうですね」
「女神さまたちと結婚できても、できなくても、それだけはご免です。僕はもう、天界の皆さまを害さないと誓っています。それでも封じ込めようとお思いなら、別の手段をご検討ください」
「ええ、分かりました。これは不躾な質問でしたね」
『掟の女神』は、特に抵抗もなく、その問いを引っ込めた。
そして、それから二つ三つ応酬を重ね――遂に、彼女はぱっと両手を開き、羊皮紙を掻き消した。
「お疲れさまです、テオドア・ヴィンテリオ。用意していた問いは、すべて終わりました」
「分かりました」
テオドアは、安堵して抜けかかる力をぐっと戻し、平静を保って答えた。
だが、『掟の女神』は、まだ話を続けるようだ。胸の前で手を組み合わせ、数段高いテオドアを見上げる。
「――それと。これは、個人的な、私からの問いなのですが」
「はい」
「皆も気になっていることと思います。そちらの四人と、どのように愛を育んだか」
だんだんと雲行きが怪しくなってくる。テオドアは、緊張とともに、焦燥が湧き上がってくるのを肌で感じる。
『掟の女神』は、軽やかに問うてきた。
「これも、先ほどと同じように、偽りなく答えてください。あなたが彼女たちをどれだけ愛しているかを、はっきりと明確に、一人ずつ述べていただけますか?」