間話.にじり寄る災禍
「ルチアノさま! こ――こちらにおられましたか!」
広い応接間へ、側近が泡を食って駆け込んできたとき、ルチアノは見合い相手の手を引き、庭へ出ようとしていたところだった。
いきなりの剣幕に怯えた様子の姫の肩に、優しく手を置いてやりながら、ルチアノは側近に厳しい目を向けた。
「どうした、そんなに慌てて。私は取り込み中だということは、王宮では周知の事実ではないのか?」
「あ、いえ、その! お邪魔をして申し訳なく――」
「よほどのことでなければ、用は兄上か父上に頼む」
「そ、そ――そ! その、お父上のことで!」
そう言って盛大に咳き込む側近へ、ルチアノは驚いたように「父上が?」と問い掛けた。
側近は、今にも倒れ込みそうに扉へ縋りつきながら、何度も頷く。
「お父上さま――国王陛下が、お倒れになりました! 王宮中の医術師と魔術師を呼び寄せて調べましたが、毒でも呪いでもないそうです!」
「そうか……」
「未だ、お目覚めになる気配はありません!」
急いで走ってきたためか、疲労している側近とは対照的に。ルチアノは極めて冷静だった。もう一度、「そうか」と呟き、姫に目礼をしてから側近のもとへ近づく。
「そこまでの重体なら……もちろん回復は祈念するが、万が一ということがある。今からでも父上を見舞えるか?」
「いえ、まだどのような病で倒れられたかは不明です! 伝染する可能性を鑑みて、王位継承の権利を持つ方々は面会を控えていただければと!」
「次の王は兄上だろう。私ぐらい行っても問題は……分かった、分かった。そんな顔をするな」
側近が分かりやすく顔を青くするので、ルチアノは苦笑し、片手を振った。
「事態に変化があったら、また知らせてくれ。いつでも動けるように待機はしておく」
「は、はいっ! ご歓談中、失礼いたしました!」
生真面目な側近は、何度も頭を下げて、また慌ただしく扉を閉めて去っていく。落ち着きのない足音が遠くなり、完全に消えるまで、ルチアノはじっと耳を澄ましていた。
扉の外には、なんの気配もない。
ルチアノは振り返り、「姫」を見た。
「……これが貴女がたのやり方ですか、女神よ」
「あら。わたくしに『望みを叶えろ』と言ったのは、お前でしょう?」
華奢で幼げな金の髪の姫が、妖艶な声音で笑う。
あまりにも年齢に似つかわしくない態度だが、同盟の小国から来た見知らぬ見合い相手ともあって、普段との比較はできなかった。
ルチアノは眉を寄せ、低く問う。
「前にお伺いしたときは……呪いで父を嬲り殺すとおっしゃっていました。ですが、王宮魔術師にも見抜けた様子はない。なにかからくりがあるのでしょうか」
「簡単なことよ。お前が嫌っている……いえ、複雑な思いを抱いているあの女。マリレーヌが、重篤な病に罹らせたの。わたくしが呪いの痕跡を消しつつね」
いくら調べても、呪いの残滓も掴めないはずよ。並の人間なら。
「姫」は軽く肩をすくめた。柔らかなレースがふんだんにあしらわれた、白を基調としたドレス。清純な顔つきがルチアノにふさわしいと、父も兄も褒めていたのを思い出す。
だが、この「姫」は偽物だ。本物の姫君は、小さな故国で、後ろ倒しにされた見合いの日取りを待っているはずである。
見合いはすでに決行されているが――「姫」は、周囲の人間たちの記憶をいじって矛盾を消すと言っていた。しかし、こんな面倒なことをする理由はなんだろう。
ルチアノがしかめ面で黙っていると、「姫」は笑って口元へ手をやった。
「分かりやすいのね、お前。わたくしが、わざわざ既存の人間に化けてまでやってきた理由を、知りたいと思っているんでしょう」
「……はい。いつものように、侍女や魔術師に化けて接触されるのかと」
「そうね。そちらのほうが楽ではある……でも、理解なさい。これは乙女心なのよ」
そう言いながら、「姫」は扉近くのルチアノまで、そっと歩み始める。楚々とした足取りだが、ルチアノは、彼女が食えない女であることをよく知っていた。
何度も、何度も、誘ってくる。
道を踏み外すギリギリのところで、なんとか立っているルチアノを。罪の深淵に引き摺り込もうと、底から手招きをするのだ。
決して、無理に落とそうとはしない。あくまでも、選択権はこちらに委ねられている。
それがまた、余計にルチアノを揺らがせるのだが。
いよいよ目の前へやって来ると、「姫」は、ルチアノの両手を取った。
愛しむような微笑みをもって。
「予行演習のようなものね。仮初でも、恋仲のような振る舞いをしたかったの。……あの女と同じ行動をするのは業腹だけど」
「……」
「お前が承諾すれば、わたくしはすぐにでも従うわ。千年前――それ以前から、恋焦がれているんだもの。なんでもできる。お前が望むものを、なんでも捧げてあげましょう」
「……私は、何も……ただ……」
「ふふ。動揺しているわね。そう、それが当たり前よ。人間も神も、欲で動く生き物なのだから」
ほっそりとした指が、ルチアノの手に絡まる。
ルチアノは――振り払わずに、その光景を眺めていた。ただ深い諦念と、確かに湧き上がる高揚を、胸に抱きながら。
「お前が〝依代〟になっていれば早かったのに。そのために『試練』の内容も細工したのだけど、予定が狂ったわ」
「……テオドアでは、いけませんか」
「ダメよ。あの子は近過ぎる。下手をすると、あのお方に取って代わりかねない。だから、お前なの」
「……」
「それに、あの子は、良くも悪くも現世にしがらみがないでしょう? わたくしの手を取るとは思えないわね」
ルチアノは、静かに唇を噛んだ。
八方塞がりの中で、苦し紛れにでも、テオドアを犠牲にするようなことを言ってしまった。なにが友人だ、さんざん恩を受けておきながら、仇で返そうとするなんて。
逃げたい。
逃げられない。
逃げたくない。
しかし、ルチアノは――怖気付いた気持ちの中にも、己の残虐な心が息づいているのを知っていた。
遠からず、自分は、彼女の手を取るだろう。
それが終焉に近づく行為だと、知っていても。
「良いじゃない。お前は罪を犯すのではないのよ。世界を救うの。なにを迷うことがあって?」
「しかし……」
「改革には痛みを伴うでしょう? 必要な犠牲を払いなさい。そうすれば、理想の世界ができあがる」
「姫」はルチアノの手を引いた。力強く引かれ、軽く前のめりになる。ルチアノは、眼前に迫った彼女の瞳が、希望にきらめていているのを見た。
その瞳はすぐ、冷たく嘲るように歪んだけれど。
「いつか手にした大剣で、お前の成すべきことをなさい」