140.大騒ぎの渦中
「外はすごい騒ぎね」
やっとのことで裁判所に着くと、出迎えてくれた『秩序の女神』はそう言って、気遣わしげに窓の外を見た。
テオドアは、疲労で頭がくらくらしていたが、隣のセラが涼しい顔をしているのを見て、なんとか気を引き締めて立つ。
――天界は、文字通り、別世界であった。
『光の女神』たちと会った屋敷から、『秩序の女神』の別宅へと連れ出されたとき。まだ昼どきだったが、テオドアは、宝石のように輝く草花と、乳白色にけぶる薄い霧に目を奪われた。
空は薄曇りで、その向こうから陽の光がぼんやりと虹の輪を作っている。精霊たちが当たり前のように空を飛び、ひらひらとした衣装で光の軌跡を描いていた。
いくら見渡しても、移動しても、街のように家々が集合した場所はまったくない。草木生い茂る森か野原があるばかりだ。
畑もなければ、狩りをしている様子もない。たまに実の成っている木を見掛けても、鳥以外に食べる者がいないようで、熟し切って地面に落ちているものが大半だった。
なんというか――当たり前だが、人間たちが営み暮らすような「生活感」が、一切感じられないのである。
『秩序の女神』の屋敷も、別宅も、庭園などは無い。あくまでも暮らしやすいように整えられ、外装は質素そのものだ。
それは、ここ、「裁判所」に関しても同じことが言える。
『特別居住地』の裁判所が立派だったので、天界のものはさぞかしすごい建物なのだろう――という予想は、やはり裏切られた。
大きいは大きいのだが、遥か見上げるほどではない。入り口近くに天秤を掲げた男性の像が建っていたが、崇敬の象徴というよりは、装飾に近い雰囲気である。
穏やかな湖畔に建っているため、周囲に建物はなく、普段は騒ぎとは無縁な場所だと思われる。
だが――今日だけは、大騒ぎだった。
「不届き者を殺せ! 殺せえっ!!」
「人間はつけ上がる! 人間は欲深い! 少し許せばどこまでも食いつく!」
「今すぐに八つ裂きにしろ!!」
「死ね! 死ね! 死ね!」
テオドアは、地界の人間だ。千年前ならいざ知らず、今は神と人間が没交渉になって久しい。
交流のある神や精霊以外のことを何も知らないのだが――裁判所を取り囲んで抗議の声を上げる者たちは、みな、ほとんど知らぬはずのテオドアに尋常ではない殺意を向けていた。
男も女も、老いも若きも、神も精霊も。数十人の神聖なる者たちが一堂に会し、湖畔をめちゃくちゃに踏み荒らしてまで怒号を上げている。石を投げたり、魔法を使ったり――武器を携帯している者も少なくなかった。
テオドアは、同行を申し出てくれたセラの機転で、裁判所の裏口から入ることができた。その際に見た表玄関では、男性像の上に乗った者が、大衆を煽るように長剣を振り回していた。
外と比べると、裁判所内は比較的に静かである。
『秩序の女神』は、テオドアの隣に立つセラへ目を向け、言った。
「お前、襟元が乱れていてよ。ここに来るまで、何人くらい薙ぎ倒してきたのかしら」
「ざっと、八人くらいだな。すべて、テオドアにむかってきたやつだ。やはり、乗馬服はうごきやすい」
昨日の「茶会」と比べているのか、セラは自らのズボンの裾をつまみ、そう答えた。
裏口から入るとはいえ、そこにも張っている神や精霊が幾人か存在した。彼ら彼女らは、テオドアを見つけると、怒号を上げながら殴りかかってきた。
それでも、セラが軽くいなして放り返し、執拗に狙う者は気絶させてくれたため、無傷で済んだのである。
なんとか建物内に駆け込んだものの、たった数分で、テオドアは途方もない疲労感に襲われていた。
「ほんっ……とうに、ありがとうございます。セラさま。貴女さまがいなければ、今ごろ揉みくちゃで身動きが取れなくなっているところでした……」
「いい。あいつらくらいなら、そこまで疲労をかんじずに撃退できるからな」
深々と頭を下げると、セラはなんでもないことのように言い切った。『秩序の女神』曰く「劣化している」とは言え、神とその眷属たる精霊を指して、である。
セラが特別なのかもしれないが……半神に、純然たる神が負けるなんて、異様な事態なのではないだろうか?
「そこで、殺される心配をしていないのが傲慢ね。ふふ、良いわ。女神を娶る人間はそうあるべきよ」
『秩序の女神』は可笑しそうに笑ったあと、自ら先導して、静かな廊下を歩き始めた。
いくつかの扉を過ぎてから、金色の取手がついた扉の前で立ち止まり、叩く。
中から、男性の声が応えた。
「わたくしはこの辺で失礼するわ。次に会うのは開廷後ね」
「はい。ありがとうございました」
彼女はすっと目を細め、順繰りに二人の顔を見たあと、踵を返して廊下の向こうへ消えていった。
代わりに、セラが扉を開く。
書斎のような部屋の中で、明るい茶髪の若い男性が、にこやかに手を上げた。
「やあ、セラちゃん! 久しぶり〜! 元気してた?」
「そこまで、ひさしくはないだろう。〝依代〟選定のときも会った。せいぜい、数年まえくらいか」
「冷たいなー。俺、セラちゃんみたいな半神の感覚に合わせよ〜って思って、努力してるところなの!」
「そうか。がんばれ」
安楽椅子に座って、ぐらぐらと漕いでいた男性は、若干冷たい答えにもめげないようだ。まったく気分を害した様子もなく、「お! 〝依代〟くんじゃーん!」と、隣のテオドアを見て笑った。
「俺、一方的に知ってただけだけど、こうして実物見ると感慨深いもんだよなー。赤い髪の候補者! みんなは他の候補者に賭けてたけど、俺は君がなんかやってくれるって信じてたよー!」
「……。テオドア、こいつは『真実の神』だ。おまえたち『候補者』の試練を監視するやくめをもっている。べつに真面目だからではない。こいつの権能がべんりすぎるだけだ」
「は、はあ……」
テオドアは記憶を探り起こし、『試練』の発表の際に『光の女神』が宣言したことを思い出した。
『真実の神』の名の下に、不正がないよう監視されている。確か、そのようなことを言っていた。
「まあねー。俺は、色んなことを私情抜きで記録できるからさ。それも色んな視点で、映像つき! 歴代の〝依代〟の試練もぜんぶ記録してあるし、俺の屋敷で保存してあるよ。二人とも、観たかったら言ってね! もちろん、セラちゃんだったら一人でも大歓迎だけども!」
「……このように、たいへんなもの好きだ。あと、一度しゃべると、ずっとしゃべりつづける悪癖がある」
「やだなー、悪癖じゃないって! セラちゃん可愛いからさ、俺も張り切っちゃうってワケ!」
「あいにくと、結婚のよていができた。おまえの軟派な思考につきあってやれるほど、ひまではない」
えー! セラちゃん結婚すんの!? 落ち込む!
とは言いながら、彼は笑顔を崩さない。口振りからして、さほど衝撃も受けていないようだ。馴れ馴れしく見えるが、肝心な距離感を間違えない神さまなのだろう。
なるほど、セラの言っていた「ほとんど声を掛けられたことがない」――その例外が彼ということか。
テオドアは一人で納得し、セラの様子を横目で見た。
彼女は、心なしかぶっきらぼうな態度で、「我々は、裁判でどうするべきだ」と尋ねる。
「あ! そうそう、俺は説明係としてね、ちょこっと二人のお時間をもらうんだよね! 立ったままは疲れるでしょ? 座って座って」
『真実の神』は、俄かに立ち上がり、左手を軽く振った。
途端、堅苦しい書斎が、まるで組み換えられるように変化した。あっという間に戸外の景色である。
地面いっぱいに花々が咲き誇る。穏やかなせせらぎとともに川が流れる。抜けるような青空が広がる。暖かな陽射しと川辺の涼しさが、肌身に感じられた。
そんな、のどかな景色に似つかわしくない長椅子が、テオドアたちの前に鎮座している。『真実の神』の安楽椅子もそのままだ。
セラとともに長椅子へ腰掛けながら、テオドアは、『真実の神』を見上げた。
彼は大仰に右手を胸に当て、「天界の裁判とは!」と高らかに言う。
「そんなに地界の裁判所とやること変わらない! ま、地界の細かいことは知らないけど、たぶんそう! 基本的に、〝依代〟くんがやることはほとんど無いね! 裁判中は、この部屋で待機してもらって、用があったら呼ばれる感じ!」
「はい。……ええと、ここで寝泊まりするわけではないんですよね?」
「そうだね! 裁判は一日ごとに区切るから、夜には帰って、次の日になったらまた来るっていうね。あ、でも――」
と、ここで、『真実の神』は初めて表情を曇らせた。
「君の場合はどうかな。外の騒ぎ、この部屋まで聞こえてきたよ。なーんか、若い神とか女神とか精霊が、いろいろやらかしちゃってる感じ?」
「ええ……はい。まあ……」
「うーん。なんだろうな。俺、『併せ名』ちゃんたちのこと、よく分かってないけど……君の裁判が決まったのって、昨日の今日でしょ? それなのにいっぱい集まってるとなると……」
彼は首を傾げると、足元の花の蜜を吸う蝶を、じっと眺め始めた。
その瞳は黒々と丸く見開かれ、表情がだんだんと滑り落ちていく。ただの考えごと、ではない様子だ。
先ほどまでとは打って変わった異様な雰囲気に、テオドアの背筋に冷たいものが走った。
――しばらくの後、『真実の神』は、ひとりで合点して頷く。
「うん……そうだな。たぶん、裁判をやる側に、『併せ名』ちゃんたちの煽動者がいるんじゃないかな」
「煽動者……?」
「さすがに、誰かまでは分かんないけど。少なくとも、〝依代〟くん憎しの気持ちだけで暴れてる、ってわけでもなさそうだね」
『真実の神』はこちらを向き、再び笑みを浮かべたが、真剣な口調で続けた。
「今どきの若者の考えってさ、ちょっと過激なとこあるからさ。『大戦』なんてとっくに終わってるのに、皮肉だよね。……もうちょっと、平和に解決できれば良いんだけど」