139.唐突に裁判をする思惑
戻るに戻れず、しかし見知らぬ屋敷で好き勝手に動くわけにもいかず、テオドアはしばらくその場でしゃがみ込んでいた。
すると、そばの階段から、『秩序の女神』がゆっくりと上って姿を現した。視線が合うと、うずくまっているテオドアに驚いた様子で、目を見開く。
「どうしたの? お前、そんなにみすぼらしい顔をしていたかしら」
「……いえ……なんでもありません」
「見え見えの嘘を吐くのね。良いわ、何も聞かないでおきましょう」
そう言って、テオドアの手を取る。
今のところ、親切なお方という印象しかないのだが――『光の女神』とは、何かの因縁があるらしい。
テオドアは深く息を吐き、『秩序の女神』の手に従って立ち上がった。
「……あの、僕は結局、どうなるんでしょう? 『特別居住地』で裁判を受ける……わけでは、なくなったんですよね?」
「ああ、それね。騙して申し訳ないけれど、その通りよ。わたくし、結果が分かりきったことをするのが嫌いなの」
『秩序の女神』は、目を細めて笑った。
「初めから、天界で裁判をさせるつもりで連れてきたのよ。さっきも言ったかもしれないけれど、『特別居住地』での裁判結果は、場合によっては文句が出かねない」
「つまり……『光の女神』さまたちが勝ったら、ということですか?」
「ええ。そもそも、初めからお前を認めないつもりの反対派が多いのだから。少しでも文句をつけられると見たら、ここぞとばかりに付け込んでくるでしょうね」
それが、『特別居住地』の出張裁判を厭った理由。
結婚反対派の神々、そして精霊たちは――自分の望む結果が出なければ、とことんまで争ってくるだろう。
テオドアとの結婚を裁判所が認めても、何かにつけて粗を探し、時には事実を自分勝手に解釈して、捻じ曲げ、なんとしても立ち向かってくるはずだ。
そのようなことを、女神は滔々と説明した。
「千年間、平和な世界で生きてきたでしょう。人間も腑抜けたものだけど、『大戦』後に生まれた神も例外じゃないわ。自分の実力があまりないくせに、口だけは達者に育ったの」
「ああ……そうなんですね……」
まさか、肯定はできまい。神を愚弄する以前に、神々の戦いをこの目で見たことがないからだ。テオドアは、曖昧に頷くだけに留めた。
すると、なにを思ったか――『秩序の女神』は、にわかに腕を広げ、テオドアを優しく包み込んで抱き締めた。
驚いて身を離そうとするテオドアに、ますます力を強める。
ひんやりとした手だ。外に出ていたからだろうか。先ほど、額に当てられた手は温かかった記憶がある。
本当なら、ここまで女性に近付かれたのだから、胸が高鳴るはずだ。体温が上がって、困惑しつつも心地良く思う。
――いつもならば。
だが、なぜだろう。彼女の冷えた体温が、こちらを芯から凍らせるように感じるのは。
『秩序の女神』の方が、少し背が低い。だというのに、絡め取られている――捕まっているような、わずかな嫌悪を覚えた。
無視できるほどの違和感だが、確実な感覚。テオドアは、どぎまぎとした甘い困惑ではなく、心の底から戸惑って、女神の腕の中で固まっていた。
「ふーん、特に異常はなさそうね」
「な、なに、がですか?」
「いいえ? さすがは〝依代〟に選ばれるだけあるわ。普通の人間なら、天界の扉を潜っただけで臓腑が潰れるし、仮に生きて辿り着けても四散して死ぬのだけど」
「四散して死ぬ!!? それ、そ、そんな危ないところだったんですか!?」
「そうよ。でも、〝依代〟候補に選ばれる人間は、みな頑丈だもの。よほどのことがない限り大丈夫だったでしょうね」
「け、結果的には、そうかもしれませんが……」
本当に危ないところだったらしい。改めて、『光の女神』が怒っていた理由が察せられた。
光の女神――
先ほどのことを思い出して、また気分が沈んでいく。あんなに好き勝手を言ってしまって、取り返しがつかないような気がする。
いや、絶対に取り返せない。
テオドアは、やんわりと『秩序の女神』の腕から抜け出し、気を紛らわすために問うた。
「……お伺いしても良いですか。そもそも、〝依代〟候補は、どうやって選別されるのでしょうか」
「そうね――まず、『大戦』前から生きる神々が集まって、各国から目ぼしい人間を見繕うの。だいたい、三人から四人ずつくらい」
その会議では、挙げられた少年の身分や地位、経歴などは一切問われない。ただ、身体の頑強さと――必須ではないが――魔力の豊富な者が選出されやすい。
ここ数百年、選ばれるのは貴族の子息だけだが、遥か昔には平民から候補者が見出されたこともあったとか。
そうして、会議にて決められた数人を、『光の女神』が吟味し、一国につき一人に絞り込む。判断は、かの女神の独自の基準に委ねられるという。
テオドアは、いちばん気になっていた部分を聞いてみることにした。
「その……僕は、地界では『魔力が無い』と言われて育ったのですが……実は魔力があった、というのも、お見通しだったのですか?」
「当たり前でしょう。わたくしたちを何だと思っているのかしら。地界の人間が作る〝測定器〟などより、遥かに正確に魔力を見抜けるわよ」
「なるほど……」
では、どの道、〝依代〟候補には挙がっていたかもしれない、ということか。
最終的には『光の女神』が選んだことに変わりはないが――改めて、先ほど責め立ててしまったことが悔やまれる。
黙り込んでしまったテオドアをよそに。『秩序の女神』はふと、思い出したように付け加えた。
「でも、どうかしら。『大戦』後の神には見抜けないかもしれないわ。――そこまで衰退しているなんて、信じたくはないけれど」
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結局、裁判は明日。天界の裁判所で、急きょ、開かれることとなった。
なんと言っても、『秩序の女神』が開廷を急がせたそうで。「用事」とは、裁判に出る他の神に直談判をして回っていたことを指すのだとか。
その振る舞いには少し違和感を覚えるものの、まだ『光の女神』が彼女を嫌悪する理由は分からない。
――テオドア自身の直感を無視すれば、ごく普通の、少しお節介な女神さまに見える。
テオドアは、当面の間、『秩序の女神』の別宅で寝起きする。これも彼女の強い勧めによるものだ。
四柱の女神とは、あの言い争いのあとに顔を合わせることもできず、連れ出されたのである。
その日の深夜、『特別居住地』から、茶会を終えたセラがわざわざ上がってきた。
テオドアの部屋を訪ねてくれた彼女は、部屋の椅子に座るなり、開口一番に言う。
「おまえは、じぶんの身をかえりみることはしないのか?」
「……はい。考えなしです……」
「おまえの生育環境を、ふかくは知らないが。じぶんひとりで生きているような感覚を、いいかげんに忘れたほうがいい。ここには、しんぱいする者もたくさんいる」
言われていることは、『光の女神』とほとんど変わらない。だと言うのに、今はすんなりと話を聞けている。
テオドアは、椅子に座るセラの前に佇んで、厳しい言葉をひとつひとつ噛み締めていた。
「――あと、あの『知恵と魔法』から話をきいた。おまえと『光の女神』が、はでに喧嘩をしたと」
「!」
いちばん触れられたくないところへ言及され、自然と肩が跳ねる。テオドアは視線をうろつかせつつ、「はい」と消え入るほど小さな声で答えた。
だが、セラに、怒る気配はなかった。ふと語調を緩め、わずかに優しさの滲む声で言う。
「はんぶんは、おまえのせいではないだろう。……『不和の女神』に接触したものは、だれであろうと、そうなる」
「……いえ、だとしても、僕の気が緩んでいたから起きたことです」
本当は、考えないでもなかった。あのときに『不和の女神』に接触したから、このような諍いが起こったのだと。テオドアはなにも悪くなくて、ただ、不和の権能がゆえに起こったのだと。
――だから、あのときの言葉も仕方がない?
そんなわけがないだろう。
テオドアは、自らの拳をきつく握り締めた。手のひらに爪が食い込む感覚がする。
その様子を見てか、セラは、「そうかもしれない」といったん同調しつつ、背もたれに寄りかかって意見を述べた。
「……喧嘩は、たしかにわるいことだ。おまえの言葉は、ほぼやつあたりだった。だが、おまえだけが、一概にわるいわけでもない。それは理解できるな?」
「……はい」
「『光の女神』も、もう少し、言いかたをかんがえればよかった。正論でおいつめてくるくせに、じぶんは隠しごとをする……などと、言われたがわは面白くないにきまっている」
幼い見目とは裏腹に、テオドアが言語化できなかった気持ちを、すらすらと紐解いていく。
テオドアは密かに感服した。
「おもうに、おまえは、ずっと誰かに遠慮していた。じぶんの気持ちを押しかくし、全体の和をおもんじていた。それが……よくもわるくも、成長したということだろう。憎いわけでもない相手と、言いあらそえるまでになったのだから」
「そう……でしょうか」
「ああ。もう少し、自信をもて」
そこまで言ってから、セラは話題を変えた。これ以上は言っても詮無きこと、と思ったようだ。
「『秩序の女神』が、天界で、裁判の開廷をいそがせたらしいな」
「はい。ちょっと、急過ぎると思うのですが……」
「そうだな。ほんとうなら、裁判の日取りはもうすこし先のはずだが、なにか思惑があってのことか……いまの段階では、なんともいえない」
やはり、セラも、妙に思うらしい。
しかし理由までは分からない様子で、軽く首を傾げつつ、考えるように視線を跳ね上げた。
しばらく考え込んでいたが――諦めたのか、軽く首を振って、テオドアへと目を戻す。
「まあ、おまえは、明日からの裁判にそなえろ。きゅうに開廷するからというのも、そうだが。きっと、ひとすじなわではいかないだろう。いろんなことが起きる、と思っておけ」
「例えば、どんなことが?」
「――そうだな」
初日から、反対派のやつらがおしかけてきて、おまえをころそうとする――とか。