137.神の国にて
テオドアは、遙か彼方の空まで続く階段を、黙って見上げていた。
隣には『秩序の女神』が立っている。足を踏み出しかねているテオドアを面白がってか、視界を遮るように顔を覗き込んできた。
「怖気づいているのね」
「あ、いえ……はい。その、僕が天界に行っても、死なない、でしょうか」
その問いに、『秩序の女神』は少し片眉を上げた。
「お前は〝依代〟でしょう。候補者はみな、天界へ滞在してもある程度は耐えられるのよ。そういう人間しか選んでいないもの」
「そ、そう聞いてはいますが……」
「置いていって欲しいなら、そこに突っ立っていると良いわ」
とは言いつつも、咎める雰囲気ではない。つと前を向いて、慣れた様子で階段を上がっていく。
テオドアは、どういう振る舞いが正解なのか分からず、崖の向こうをじっと見据えた。
『特別居住地』の郊外、ひと気のない荒れ地を抜けた先。切り立った崖の先端から、半透明の階段が天まで伸びている。『秩序の女神』がおっしゃるには、ここを登れば天界への門にたどり着く……らしいのだが。
やはり、想像していたものとは違った、と言おうか。地界で信じられている神々への幻想は、あまりにも現実離れしている――というようなことを、『光の女神』さまから伺ったことがあるけれど。
テオドアも地界の人間なので、さんざん質素な現実を見せられても、まだどこか幻想を捨てきれない節があった。
ではどれくらい豪華であれば良かったのか、と言われてしまえば、分からないのだが。
つくづく、人間とは勝手なものである。
砂の混じった風が、背後から崖の向こうへと吹き抜けていく。
テオドアは崖下のことを考えないように努めながら、意を決して足を踏み出した。靴底でしっかりとした石の感触を捉える。
体重をかけても問題なさそうだ、と思い、上を見上げて、遠くに行ってしまった女神の背中を追った。
少し早足で登ると、長いと思っていた階段も、あっという間に上り切ってしまう。
テオドアは、先に登っていた女神に駆け寄る。階段の先は丸く切り取られたような地面だけが浮いていて、かなり頼りない。
強風に煽られて倒れればおそらく死ぬし、二人乗るだけでも手狭なくらいだ。
門はどこにあるんだろう?
テオドアが無言で周囲を見渡していると、『秩序の女神』は、微笑んで足元を示した。
「わたくしたちは、魔法に頼って生きる生物よ。これ見よがしに門を置くはずないでしょう。見なさい」
その通りに下を向く。
すると、女神の足元から、仄かな光の筋が走り始めた。光は複雑な紋様を描き、円形の魔法陣を作り上げる。
彼女が軽く右手を挙げると、魔法陣はさらに強く輝き――不意に正面から殴られたような衝撃で、テオドアは大きく後ろに体勢を崩した。
強い光で目が焼かれる。
あ、まずい、と思ったときには既に、テオドアの意識は遠ざかっていった。
「――じゃないですか!? 準備もなしに――、――!」
「だから、悪かったって言っているでしょう。継承の儀式以外で〝依代〟を連れてくるのなんて、初めてなんだから」
「それより、――てください! どうしてあなたが、そんな!」
「ああ、目覚めたのね。調子はどう?」
視界いっぱいに広がる『秩序の女神』の美貌に、テオドアは状況を飲み込めず固まった。
数秒の後、そろそろと目を動かして辺りを探る。どうやら『門』をくぐるとき、情けなくも気を失ってしまったらしい。どこかの室内で休ませていただいているようだ。
(……あれ?)
後頭部に違和感を覚える。
枕にしては温かく、少し不安定だ。女神さまの顔もとても近い。なんならお腹が頬に当た――
「――!!」
いよいよ正しく状況を把握したテオドアは、慌てて起き上がろうとする。だが頭を上げた辺りで、すぐに『秩序の女神』の手が額に添えられ、あえなく彼女のもとに逆戻りすることになった。
そう――なぜか、寝台に座る『秩序の女神』の、膝の上で寝ていたのである。
気を失った自分が自ら潜り込むわけはないので、おそらく女神自身が膝を貸してくださったのだろう。そうする意図は不明だが、とにかく、気遣いがあることだけは分かった。
だが、この場にいるのは、テオドアと彼女だけではない。
「膝枕をする意味、あるんですか!? あなたはテオドアさんの伴侶候補ではないですよね!!?」
「別に良いでしょう? わたくしが膝枕をして、お前に損があるの? 減るわけではないのよ?」
「減りますっ! 大切な何かが減って損します!」
寝台の前で地団駄を踏んでいるのが、侍女の姿をした『知恵と魔法の女神』である。
曲がりなりにも、裁判を起こしてまでテオドアを夫に迎えようというお方だ。複数いる伴侶候補でもない『秩序の女神』に密な接触をしているこの状況が、嫌で嫌で仕方ないのだろう。
だが、彼女は罪のせいで、あと数年は神としての地位を行使できない。事実上、『秩序の女神』に逆らえないため、手が出せずに叫んでいる。
一方の『秩序の女神』は楽しげに笑っているので、おそらく、からかうためにわざとやっているのだと思われる。
状況が分かったところで、下手に動くことができないのだが。
どうしたらお二人の言い合いを止められるだろう、と細く息をしながら考える。密着しているので、『秩序の女神』の涼やかな香りを感じないように努めているのだが、成果はあまり芳しくなかった。
「……いったい、なにを遊んでいる?」
しばらくの後、呆れ顔の『光の女神』が部屋に入ってくるまで、争いは続いた。
テオドアは、解放された安心の反動で疲労を感じつつ、寝台のそばに立って三柱の会話を見守った。
「どうして『居住地』から連れ出した。あちらで裁判を開くと聞いていたが?」
「だって、あちらでは万が一のときに対処し難いでしょう? それに、『居住地』の裁判所で決まったことに、妙な言い掛かりをつける輩もいるはずだもの」
「しかし……」
『光の女神』が、こちらに視線を向ける。気遣うような目だ。
テオドアは、事前に聞いていた話と、少し変わっていることに気が付いた。『秩序の女神』がテオドアを天界へ連れてきたのは、ほんのちょっと観光をするだけ、のつもりではなかっただろうか?
当の『秩序』は、微笑みを絶やさずに言う。
「お前もいい加減、うるさい男たちにはうんざりしていることでしょうし。その気になれば、今すぐにでも裁判を開けるわ。――良いことは、早くやるに越したことはないのだから」