125.セラという少女
数週間後、女神たちは宣言通り、「結婚」を受諾してもらいに天界へ旅立った。
とは言え、三女神はまだ神の地位を剥奪されたままなので、今回は「『光の女神』のお付き」として付いていくという。仮に結婚が成せるなら、三女神が罰を受け終えてからになるだろう、と、ルクサリネは語っていた。
受肉体を一度捨て、身軽になって天界へ行く。なかなか面倒な手順を踏まねばならない。そも、受肉はそう何度も繰り返すものではないのだが――テオドアと一緒にいるためだけに、面倒な手順をも惜しまず、やってくれるのだ。
そう考えると、胸の奥がむずつくような、気恥ずかしいような気持ちになる。
さて。現状、この山の上には、テオドアと精霊、あとは巣にこもって子育てに勤しむ『第一夫人』と、その雛たちしかいない。
尋ねて来る者もおらず、〝依代〟としてこなすべき仕事もほとんどない。
テオドアは久しぶりに、のんびりと何も考えずに過ごす時間を得た。
自然の中を散歩したり、本を読んでみたり、鍛錬を再開してみたり。一日の終わりには必ず怪鳥の巣を覗き、子どもたちと戯れ、オルユメイアと過ごしてから屋敷に戻る。なんなら、エイレネやペルレスに請われて、巣に泊まることもある。
ロムナ以下、精霊たちとの関係も良好だ。
ロムナは、屋敷に戻ってから、いっそう力を入れて世話をしてくれた。テオドアには、いつかの夜、湖のほとりで彼女の裸まで覗きかけた気まずさはあったものの――その事実を知ってか知らずか、ロムナ自身は気にする素振りを見せなかった。
あとは、たまに、『光の女神』に仕えている女性使用人たちの「お喋りお茶会」に巻き込まれることもあった。
――そんな日々を続けて、一ヶ月。
女神たちから連絡はないものの、さほど心配していない。テオドアは、その日も、なんとなく登った木の上から夕陽を眺めて、のんびりと時を過ごしていた。
そろそろ帰るか、と思い、屋敷のほうを振り返る。
すると、屋敷の向こうの空から、夕陽に照らされて、何か白い物体が飛んでくるのが見えた。
それはあっという間に全貌を現し、テオドアの眼下に軽やかな足取りで降り立った。
白の馬体に金の鞍を付けたペガサスと、金の髪を持つ謎の少女・セラである。
「ひさしぶりだな」
彼女は相変わらず、妙に拙い喋り方をする。見た目としては合っているのだが、言い回しが硬いほうなので、些細な違和を感じてしまうのだ。
テオドアも挨拶を返し、座っていた枝から地面に飛び降りる。興奮気味に首を振るペガサスを宥めながら、セラもまた、鞍から地面に足をつけた。
「セラさま。今、『光の女神』さまはご不在で……」
「しっている。おまえに用があって来た」
「僕に?」
セラは頷き、こちらへ振り向いた。沈みゆく陽が、彼女の姿を赤く照らす。
「天界にいる『光の女神』から、たのまれた。自分がいないあいだ、おまえの面倒をみろと」
「それは……ありがとうございます」
「いい。もともと、おまえに話すことがあった。いきなり来てわるいが、どこかおちついて話せるところはないか」
「でしたら、屋敷に……いや……」
テオドアは少し考えて言葉を切り、セラに問い掛けた。
「そのお話は、誰かに聞かせても大丈夫なものでしょうか? 僕の屋敷を管理してくれている精霊たちが、最近、しょっちゅう僕とお喋りしにくるもので」
テオドアが、あまり身分の別を気にしない人間だったのもあるだろう。一部の精霊使用人は、テオドアと気軽に会話をする仲になっている。時には、いきなり部屋にやって来て、他愛もないお喋りをして去っていくことも。
本来、精霊とは、気ままでお喋り好きな性質なのだろう。真面目なロムナは眉をひそめるが、テオドアにとっては、堅苦しく傅かれるよりよほど気が楽だった。
それは良いのだが、セラと内密の話をしていて、いきなり押し掛けて来られては困る。もちろん、事前に言っておけば、やって来ないとは思うが……念には念を入れたい。
案の定、セラは言葉を選びつつ、「できれば」と言った。
「あまり――きかれたくはないな。さほど重要なはなしでもないが、好んでひけらかしたいわけでもない」
それから、ふと思い立ったように、ペガサスの鞍にぽんと手を乗せた。
「しずかで話しやすい『穴場』をしっている。夕食までにはかえす、ペガサスにのれ」
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テオドアは、複雑な心境で、小屋を見上げた。
古びた小屋は今にも崩れそうだ。誰かが雑に補修を施した跡があり、それでなんとか体裁を保っているという有様だった。
記憶にあるものより、ずっと古い。材木はほとんど朽ちかけていて、薪を切っていた切り株も風雨で摩耗し、黒く変色していた。
「どうした。はいらないのか」
「……いえ、魔獣が来ないなと思いまして」
ボロボロの戸を開いて中に入りかけていたセラは、不思議そうに――表情は読み取りづらいが雰囲気で――こちらを見た。
それから、周囲を見渡し、「ここは大丈夫だ」と請け負う。
「数十年まえに、ここをみつけたときから、ここらへんでは魔獣をまったく見かけない。近くにおおきな魔獣のほねがあった。おそらくはその魔獣をおそれて、いまだに近寄らないのだろう」
「そう……ですか」
死後まで影響を及ぼすとは、よほど強い魔獣だったのだろう。
テオドアは改めて小屋を降り仰ぎ、密かに覚悟を決めてから、セラに続いて中へと入った。材木を踏み締めるたびに、ギシギシと割れそうな音が上がる。
――ここは、『境界の森』。前世のテオドアが住んでいた、『番人』の小屋だ。
三女神が再現したものとは違い、小屋の劣化が時の流れを感じさせる。百年も前に打ち捨てられた建物だ、形を保っているだけ奇跡だろう。
家具も、前世で使っていたものは何ひとつ残っていない。がらんとした部屋の中で、セラは割れた窓から外を覗き、繋いでいるペガサスの様子を確認したあと、近くに丸めて立て掛けてあった絨毯を敷く。
テオドアと二人で座れるくらいの大きさだった。
「すこし埃くさいが、がまんしてくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます。……それで、ええと、ご用件は?」
テオドアと膝を突き合わせて座る少女は、手の内に飲み物の瓶を出現させた。近くにある欠けた椀を手繰り寄せて、服の裾で拭き、飲み物を注ぐ。
お酒か、と、テオドアは薄闇の中で目を凝らしたが、どうやらただの水のようだ。押し付けられた椀をありがたくいただき、口をつける。
「……ここは、おまえの前世、『境界の森の番人』がすんでいた小屋だ」
飲んでいた水で咽せそうになり、ぐっと堪える。
落ち着け。彼女は事実を語っただけだ。三女神の所業は、天界中に知れ渡っていると聞く。どうしてそんなことをしたのかも、きちんと共有されたと。
ならば、純粋な人間ではなさそうなセラが、知らないはずがない。
テオドアは内心の動揺を悟られぬように、何食わぬ顔で水を飲み干し、「そうなんですね」と答えた。
「ああ。百年まえの、あの三人の女神たちのことで、血筋は絶えたが……『番人』がきえても、『境界の森』はかわらない」
淡々と言いながら、彼女はもうひとつ椀を引き寄せ、拭かずに水を入れて飲んだ。先ほど拭いてくれたのは、テオドアに気を遣ってのことらしい。
「……そもそも、ぎもんに思わないか。なぜ、『番人』がいたのか。魔力のない人間が数人、森をみまもったところで、たかがしれているというのに」
「確かに、それは不思議ですが……」
『境界の森』は広大だ。この地界では、壁に囲まれた国以外、すべてが『森』と言っていい。
そんなところに、少人数の『番人』がいたとて、すべてを見回りきれるわけがない。事実、前世のテオドアも、見回りは己が一日で歩ける範囲に留めていた。
なぜ、『番人』は、『森』に配されることになったのだろう?
セラは椀を置き、姿勢を正した。
真っ直ぐにこちらを見据える瞳は、真剣さを帯びていた。
「――この身は、千年まえ。最高神と女精霊のあいだにうまれた。だが、母たる精霊は、子そだてをきらう性格だった」
「それは……」
「すてられていた赤子を、拾ってそだてたのが、『番人』一族の祖先」
それこそが、因縁のはじまりだった。
と、セラの呟く声が、静かな小屋の中に響いた。