121.休学措置
数日ぶりに会ったジュディッタは、ひどく疲れた顔をしていた。
「呼び出してすまないな。そこに掛けたまえ」
彼女の研究室に呼び出されたテオドアは、黙って椅子に腰掛けた。
ジュディッタは執務机から離れ、本棚の前で何かを探すようにうろつき続ける。が、それはこちらを直視しないための行動なのだと、手に取るように分かった。
手近な本を取ったり戻したり、落ち着きなく動きながらも、彼女の声は平静さを保っていた。
「まずは、謝罪を。きみを学院の――いや、マリーの企みに巻き込んでしまった。本当に申し訳ない」
「いえ、……その、僕も積極的に首を突っ込んでいましたし。お互い様ですよ。あまり気にしないでください」
ジュディッタは、テオドアがルチアノに頼まれて、調査のために学院へやって来たことを知らない。マリレーヌの真実だけを知らされている状態だ。
つまり、彼女の視点では、第二王子の推薦でやってきた少年を、転校早々に妙な事件に巻き込んでしまったことになる。
気にするな、とは言ったものの……気にしてしまうだろうな。
テオドアは、あまり言葉を重ねると却って気にさせてしまう、と思い、それ以上言うのをやめた。
「しかし……いや、そうだな。謝罪は学院長を通して、既に行っているはず。……わたしが改めて言うものでもないか……」
彼女は、深く溜め息を吐き、持っていた本をまた棚に戻した。
そうして振り返り、こちらを見る。初めてここで会ったときには強い意志を宿していた瞳が、今はくたびれ、精彩を欠いているようだった。
本棚を背にもたれかかり、腕は組まずに天井を見上げる。その遠い視線の先には何があるのか、テオドアには分からない。
「……きみの実家から連絡があった。きみの婚約者たちは、ずいぶんとせっかちらしいな。学院にいる数年間は婚姻をしないつもりだと聞いていたが」
「そうですね……僕も、数日前に初めて聞いたので、ちょっと戸惑ってます」
実家からの手紙、つまりカヴァルロ家からの手紙、ということだが。
もちろん、話題に上る「婚約者たち」は存在せず、早まった婚姻を理由にアルカノスティアへ帰るための、言わば方便である。
ルクサリネと話し合って決めたことだ。いったんは故国へ帰ろう、と。
「きみのような優良物件を逃すまいと、必死なのだろう」
「ははは……そうだったなら、嬉しいです」
テオドアは、笑いながら頭に手をやった。その左手には、真新しい指輪がある。
もちろん、架空の婚約者ではなく、女神さまたちから頂いた婚約指輪だ。人数分の指輪を嵌めるわけにもいかず、しかしお揃いでなければ全員が納得せず、だが〝第一夫人〟たるオルユメイアには羽しかないので不平等――ということで、全員の意見を反映した装飾の指輪となっている。
雛二羽が交代で翻訳に駆り出されての、本気の会議だったと聞いている。
テオドアの方はと言えば、まだ幼い三羽の雛と遊んだり、交代で戻ってきたエイレネかペルレスを全力で甘やかしたり、ロムナの作る美味しいご飯をみんなで食べたりしていた。
そう、つまり、何もやっていないのである。
(いちおう僕も、指輪の装飾ができる職人を探そうかなーとは思っている、んだけど……)
どうしても、あの熱量に負けそうな気がしてならない。平等を期するために、テオドアのほうからは一人一人に合った指輪(と、怪鳥用の装飾品)を贈るつもりでいるが、果たして気に入っていただけるかどうか。
――特にオルユメイアには、「勝手に妻を増やそうとした」と、真剣にお叱りを頂いている。
腹を括って母子全員を引き受けた以上、彼女の意思も尊重しなければ。ちょっと考えなしだったかもな、と反省しているところである。
今後は、オルユメイアを通してから妻を増やせということだ。……増えるのは良いんだ?
そもそも、増えることなんて、そうないと思うのだが。
「こういう家庭の事情で学院から帰ることは、良くあることなんでしょうか」
テオドアの言葉に、ジュディッタは唇の端を上げ、眉を下げて笑う。
「よくある、とまでは言わないが、稀にあることだ。家庭の事情はそれぞれだからな。結婚後に学院へ戻ってくる者もいる」
「はい」
「ご両親の手紙では、退学するも休学するもきみの意思に任せる、とあったが――どうする」
テオドアは、ひと呼吸置いてから、はっきりと言った。
「……休学します。ここで退学なんて、その……言い方は悪いですが、ぜんぜん通った気がしていませんし」
「そうだろうな」
「それに、僕、家で学ぶよりも、誰かと一緒に学んでみたいと思います。友だちがいるとかいないとか、そういうわけじゃなくて」
転入以前は、学び舎というものに「友だち」は付きものだと思っていた。正直、今でもそう思っている。
けれど、無理して頑張って友だちを作らなくても、学院では生活していけるし――何より、学院で学ぶことの意義は、そこではないとも思うのだ。
「みんなが、色んな目的を持って学びに来ている。色んな授業があって、色んな先生がいて……その雰囲気だけでも、学院に通う価値があると思います」
「……」
「少なくとも僕は、家で勉強するより、楽しかったです」
まだ、通常の授業にも出ていない身だが。だからこそ、ここで退学してはもったいないと思う。
時間が掛かっても、また必ず戻って来よう。そう考えるくらいには、「学院」という場所自体が気に入ってしまっていた。
「そうか……それならば、良かった」
ジュディッタはふと、目を伏せた。
しばらく黙り込み、なにか考えていたかと思うと、小さな声で呟く。
「……マリーが、あのようなことをしていたなどと、わたしはまったく知らなかった。学生時代から一緒にいたのだがな。マリーとは気心の知れた友人同士だと思っていたし、彼ら夫婦の仲も良好だと思っていた。呑気にも、だ」
「……」
「もしかすると、あの男も――気付かぬうちに加害されていたのかもしれない。最期までマリーを疑わず、愛し続けていたのかもしれない。そう……願って止まないな」
テオドアは、何も言わなかった。
彼女の苦しみは計り知れないし、掛ける言葉も見つからなかったからだ。
友人だと思っていた人にいつからか裏切られていて、当の本人はどことも知れぬ場所へ逃亡している。問い詰めることもできない。過去が全否定されているも同然だろう。
それでも、彼女は、ひと言も泣き言を漏らさなかった。ふと表情を引き締め、再びテオドアに視線を戻す。
「きみの入学試験、わたしがごり押ししただろう。覚えているか」
「……やっぱりごり押しだったんですね?」
「ああ。あれは、半分はマリーに頼まれたことだ。今度、転入してくる王族関係者を、自分が受け持ちしたいと――必ず転入させてほしい、とも。もちろん、きみの実力が足りなければ、その限りではなかったが……」
「なるほど……」
だからこそ、ジュディッタは試験を簡略化したのか。通常通りの試験も受けたけれど、不良三人組を倒したときにはもう、テオドアの転入は〝本当に〟決まっていたのだ。
――「あの時は、きみがルチアノ王子の関係者だからだと思っていたがな」と、ジュディッタは自嘲ぎみに微笑む。
「今なら分かる。マリーはきみを、最初から巻き込むつもりでいた。あの男に似ているきみを、」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
だが、それも一瞬のこと。何事もなかったかのように、話を続ける。
「姿かたちもまったく似ていないのに、何故だろうな……何故か、似ている気がしてならない。雰囲気だろうか。話し方だろうか。或いはそのすべてか……」
そうして、懐かしそうに目を細める。本棚から離れ、歩み寄って来て、執務机の隣に立った。
片手で机の端を撫でながら、ぽつりと言う。
「あの男が生きていたら、きっと、きみと良き友人になれただろうに」