118.深追いは危険
〝呪い〟――『第三の試練』の時、半神である女性を、醜い竜に至らしめたもの。
魔法も魔術も完璧に知り尽くしているわけではないテオドアには、呪いとは何なのか、分かるようで分からない。
劣化した魔石から発せられる重たい魔力ともまた違う、肌に虫が這うような不快感が部屋を満たしていく。
――唯一分かるのは、女神たちですら下手に手出しができないものである、ということか。
「呪いは、人間が人間に直接掛けるものと、呪いという概念が形を成したものの二種類が存在します。あれは後者ですね。……何人の赤子を犠牲にしたのか、わたしには検討もつきません」
『知恵と魔法の女神』が立ち上がって、テオドアの隣に並び、そっと腕に手を添えてくる。囁くような声には、緊迫感がありありと滲んでいた。
「あれは、どう倒せば良いんでしょうか」
「……分かりません。形になった呪いは、下手に突くと周囲に甚大な被害をもたらします。本体を叩くのが、いちばん手っ取り早いですけれど――」
「――あたしを殺すと、『魔力無し』が犠牲になった事件が立証できませんねえ。その前に、この子たちが制御不能になってしまうんですが〜」
女神の言葉に被せるように、マリレーヌが言う。
その腕の中では、愛らしさの欠片もない赤ん坊が、むずかるように身をよじっていた。腹の穴もいつしか塞がり、彼女は、何事もなかったかのように微笑む。
「じっくり何年も掛けて編んできた呪いですし、いろんな方にたくさんご教授いただきましたのでー……たぶん、女神さまにもちょっと効いちゃうんじゃないかな、と思いますよ」
「……成程。故に、吾の足を避けなかった。否、テオドアを魅了するなどと言う悠長なことをしたのも其の所為か」
相対する『戦と正義の女神』は、無表情を崩さないながらも、じりじりと後退していく。
彼女が本気を出せば、マリレーヌなどひと息のうちに殺せる。周囲の被害を考えず、後々のことも考えないのであれば。
狭い部屋で大立ち回りも演じられず、さぞややりにくい思いをしているだろう。テオドアの心は、申し訳なさで痛んだ。
異様なまでに暴れる赤子を撫でながら、マリレーヌは「そうですよ」と答える。
「あたし、最初から、勝つつもりなんてありませんでした。どんなに強い相手に会っても、逃げて、生き残ったら勝ち……そうでしょう?」
そうして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「さあ、あたしの可愛い赤ちゃんたち。お召し替えをしましょうね」
その途端。
肌のない赤ん坊は、不自然に動きを止めた。
いや――意思を持った動きを止めた、と言おうか。
おぞましく全身を痙攣させ始め、耳障りな悲鳴を上げながらのたうち回る。共鳴するかのように部屋全体が揺れて、吐き気を催すような感覚がテオドアを襲った。
咄嗟にぐっと息を詰め、目を見開いたまま赤ん坊を注視する。
それは、見る間に頭部だけが膨れ上がり――ちょうどネフェクシオスの雛くらいの大きさになったあと、耐えきれずに弾ける。
それを知覚した瞬間。考える前に、身体が動いていた。
「待って!」
「テオドアさん!」
背後から、女神たちの悲痛な声が追い縋る。テオドアは、無我夢中で二柱の腕をすり抜けて走り、『戦と正義』に飛びついて床へと引き倒した。
――直後、轟音。テオドアたちの頭上を「破片」が掠め、そのままガラクタ山を壊して壁に着弾し、炎上する。
振り返ってあとの二柱の無事を確認しようとしたが、あまりに激しい炎と煙に巻かれて、よく分からなかった。
一瞬で、冥界の刑場もかくやというほど炎が上がり、燃え移る。
もはや壁としての体裁すら失った窓辺に、マリレーヌは悠々と歩を進めた。
そうして振り返り、こちらを見下ろすのだ。
「――この数週間、楽しかったですよ。テオドアさん」
慈母のように目を細め、首を無くした赤ん坊を、ためらいなく炎に放る。
それは、奇妙な音を立てながら焼かれ――変形し、膨張し、粘性の翼を生やして立ち上がる。首が無い、極度に痩せ細った成人の身体に、気味の悪い翼が無理に生え出てきたような、そんな形をしていた。
凶悪な見た目に反して、それはマリレーヌを優しく抱き上げた。横抱きにされた彼女は、余裕がたっぷりこもった口調で言う。
「あたし、まだ諦めてませんから。いつか、あたしと最高の赤ちゃんを作りましょうね」
「……呪いの材料に使われるなら、お断りします」
「あら! もう結界の効果が切れちゃったんですねえ――残念です」
ちっとも残念そうではない態度で、マリレーヌは手を振り、化け物と共にさっさと飛び去っていった。
後に残されたのは、ボロボロに崩れ、未だに燃え盛る研究室。
そして、三柱の女神と一人の人間。
全員、普通の人間よりは遥かに強いものの、事はそう簡単ではない。火事のせいで学院が大騒ぎになることは必至だし、無辜の少年たちに被害が及ぶ可能性もある。
テオドアは慌てて起き上がり、魔法で水を作り出して、燃えているところへ手当たり次第にぶち撒けた。
女神たちは、……さすがと言うべきか、水すら出さずに、手をかざすだけで炎を消していく。その方法があったか、とこちらも手をかざしてみるが、やはり彼女たちのように洗練された動きにはならない。
火は消えるものの――なんと言おうか、消えるのが格段に遅いし、不格好なのだ。
それでも、わずか数分で、すべて鎮火した。学院中が火の海にならなかっただけ、一安心である。
テオドアは、ほっと安堵して、焼け焦げた床へ座り込む。と、『戦と正義の女神』が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女は、いつもの表情でこちらを見下ろす。
「――汝には庇われたな。然し、アレを避けられない程、吾は頼りなく見えたか」
「え!? あ、ええと……そんなことは……」
そうだ。彼女は『戦』を司っている。テオドアが庇わずとも、きっと「破片」の軌道を読んで避けることができただろう。なんとなれば、テオドアのほうが足手まといになりかねない。
咄嗟に身体が動いたから、と言って、なんの言い訳になろう。
女神さまを馬鹿にしたも同然だ――と狼狽え、血の気の引く思いを察したか。『戦と正義』は、ふと、微かに口元を緩めて笑った。
「冗談だ。責めては居ない。……他人に気遣われると言うのは、こうも良い気分になるものなのだな」
「あ、そ、それなら、良かったです……あはは……」
遅れて寄り添ってくれる二柱も、当然のように無傷だ。あれくらいは当然、単独でいなせるのだろう。ますます浅慮を恥じ、二柱から掛けられる労りの言葉に恐縮しきりのテオドアは、ふと、『戦と正義』が遠くを眺めていることに気が付いた。
彼女は、崩落した壁の向こう、マリレーヌが消えていった空を見上げている。
テオドアは、恐る恐る問うた。
「ティアディケさま。その、マリレーヌ先生のこと、今からでも追ったほうがいいんでしょうか」
すると、彼女は首を振り、「深追いは危険だ」と断言する。
「あれは――見目通りの女ではない。呪いの……否、呪い以上に危険な何かを孕んでいる」
「孕む……」
呟いたテオドアに、そばに寄り添っていた『知恵と魔法』も、真剣な表情で頷いた。
「そうですね。得体の知れない人でした。あれほどの練度の呪いとなると――おそらくは、協力者の中に、天界に連なる者がいるんだと思います」