116.偽りの愛で
「あたしね、好きな人、欲しかったんです」
マリレーヌは、弾むような声でそう言った。
床に座るテオドアに跨がり、首もとに抱きついて擦り寄る。もはや、恋人同士の距離だった。
その背に手を回してしまいたくなる己を、必死で律しながら、テオドアは「好きな人?」と聞き返した。
「旦那さんとは、恋愛結婚だったはずでは……」
「そんなこと、あたしひと言も言ってませんよ。旦那さまは、ツテを頼って輸入した『魔力無し』です。当時のあたしにとっては、貴重な『魔力無し』の個体だったので、結婚もしましたし、子どもも作りましたけど〜……」
「子ども!?」
テオドアは、ぎょっとして聞き返した。
彼女のことは「未亡人」とだけ聞いている。周囲も、子どもがいたなんてことを、噂ですら話題に上げなかった。
なにより、昔からの友人であるらしいジュディッタが、マリレーヌの子どもに一切言及していない。夫婦の事情が複雑であるにせよ、友人想いの彼女にしては、なんとも違和感がある振る舞いだ。
……だが、最初から知らなかったとしたら、言及しようもないのか。
驚くテオドアの顔が面白かったのだろう、マリレーヌはくすくすと笑う。
「うふふ、子どもを産んでも、体型維持には気を遣ったんですよ。ジュディはその辺、すごく目ざといのでー。産んだってバレたら、面倒なことになります」
「バレる、って……」
「あたしの産んだ子は、旦那さまの素質を見事に受け継いでいました〜。あたしはそれなりに魔力があるんですけどねえ。王族や貴族が、『魔力無し』を排除するのは、過去にこういった事例があったからかもしれません」
その時は、長年の疑問が解けてすっきりしましたよ〜。と、彼女は嬉しそうに言った。
つまり――マリレーヌは、帝国から『魔力無し』の男性を輸入し、本人には真実を言わず実験を重ねていた。
そのためだけに結婚し、子どもを産んだ。
そういうことになる。
父親の素質を受け継ぎ、生まれた子どもがどうなったかは――彼女の所業を見る限り、幸せになったとはとても思えなかった。
なにせ、存在すらも隠されていたのだから。
「旦那さんが変死したのも、貴女の仕業ですか?」
「あら、うふふ。そうですよー。ジュディが話したんですね。あの人、どうやら、旦那さまのことが好きだったらしいんですよ。面と向かって言われたことは無いですけど、バレバレです」
「そういうもの、なんですか……」
「ええ。旦那さまが死んだときも、王子よりジュディのほうが落ち込んでいました。行方不明だったら、まだ悲しみも軽かったのかなーと、反省しまして。なにせ初めてだったもので、死体の処分が雑になっちゃったんですよ〜」
ゆえに、今回は、初めから『境界の森』で実験を行った、と言う。
前回は、ルチアノ王子が予想外にマリレーヌの夫を慕っていたため、死体処分が雑なのも相まって、少し大ごとになってしまった。その反省を活かした形である。
もっとも、王宮は貴族出身の『魔力無し』にとことん興味がない、という事実も知れたため、まったくの失敗でもなかったそうだが――
「でも、今なら、ジュディの気持ちが分かります。だってあたし、こんなに幸せなんですもの」
マリレーヌはおもむろに身を起こし、テオドアの右手を取って自らの左胸に導く。薄い布越しに、鼓動が早く脈打っているのが、生々しく響いてきた。
上目でこちらを見る彼女は、頬を染めつつ、うっとりと微笑む。
「恋って、こういうものなんですね――胸がドキドキして、貴方を見るだけで幸せです。テオドアさんは、そうじゃないんですか?」
「……」
「抱き締めてください、ぎゅって……ね……?」
テオドアは、自身の気持ちが、否応なく高まっていくのを感じていた。
恐ろしいほど正気だ。感覚が狂わされている感覚など一切ない。だと言うのに、マリレーヌを見ていると、どうしても愛おしく思えてならないのだ。
昨日までは――そんなふうな目で見たことなど、一度もなかったというのに。
頑なに腕を回さずにいると、彼女の顔がどんどんと悲しみに沈んでいく。
多くの命を弄び、さらにテオドアを誘惑しようと迫る悪女に、突き動かすような罪悪感を抱いた。
異常だ。
だが、――抗い難い。
テオドアは、唇を強く噛み締め、冷静になろうと試みる。女神の求めにすら応じずにいる不遜な男が、ここで屈するわけにはいかないのだ。
初めてはせめて、自分を本当に好いてくれる女性たちに――
そうして、ふと、妙案を思いついた。
「……僕とどうなりたいんですか? 好きだと言って、抱き締め合って、それでおしまいに?」
打って変わって穏やかに問い掛けながらも、頭の中では、今しがた思いついた案を検証している。
危険はあるが、賭けてでもやる価値はある。彼女たちなら、おそらく無視できないはずだ。
そして彼女は、確実に細工をしている。昨晩、ああ言ったのだから。
そんなことを考えているとは露知らず。マリレーヌは、眉を下げて落ち込みつつ、律儀に答えた。
「この結界を張る前は、貴方の子種をもらうだけに留めようと思ってたんです。百年に一度の〝依代〟の血を継ぐ子は、どんなふうになるんだろうって」
「……なるほど」
「でも、あたし、今は……離れたくない……」
とうとう目に涙を浮かべ始めたマリレーヌを、テオドアはじっと観察した。
彼女の「結界」とやらが、どんな速度で効果を発揮するのかは知らないが……どうやら、結界内にいればいるだけ、効果が強まるようである。
マリレーヌがこちらにベタ惚れで、テオドアが比較的に理性が働く状態であるのは、やはり『無自覚自己防衛魔法』が多少なりとも働いているからか。
テオドアは、一度、目を閉じた。
それからゆっくりと開いて、彼女へと優しく微笑んだ。
「――分かりました。作りましょう、僕たちの子どもを」
途端に、マリレーヌの表情が、ぱあっと華やいだ。
「ほ、本当に? 嬉しい……嬉しいです……!」
「ええ。僕も、貴女のことが大好きです。この気持ちは偽りだと思いますが、二人の愛の結晶を作るには充分過ぎるくらいです」
己に乗り上げているマリレーヌを、ありったけの愛を込めて抱き締める。振り払おうとしたときは、びくとも動かなかった右手が、彼女を引き寄せるためにはあっさり動いた。
気持ちに抗う必要がなくなったがゆえか、心がどんどんと凪いでいく。テオドアは、彼女の首筋に頭を擦り寄せた。
「見つかる前に、早くしましょう。一回では子どももできないでしょうし、なにより僕が、終われそうにありませんから……」
「テオドアさ……ぁっ……」
物の散らばっていない床へ、上手くマリレーヌを押し倒す。彼女は抵抗せず、大人しく背中から倒れた。
首筋に口付けを落としながら、覆い被さり、片手で彼女の太腿に触れる。そのまま、際どいところまで撫で上げると、肌着のスカートが大胆にめくれた。
テオドアは、緊張からくる心拍数の上昇を感じながら、「脱がしても?」と、聞く。
マリレーヌは、濡れたまつ毛に彩られる瞳で、こちらを見返した。
「はい……でも、」
「でも?」
「キス、してください。最初に……あたし、好きな人とキス、してみたくて……」
「ええ。もちろんです」
彼女の後頭部に手を回し、床に片肘をついて顔を近付ける。
視線が絡み合う。
二人は、そのまま、唇を――
――合わせる寸前に、部屋の窓を、長槍が突き破った。




