113.燃え滓
あっという間のことだった。
指先から脆く崩れる現象は、服すらも灰にして、瞬く間に右腕を落とした。
引きつった声を上げて、アンリが仰け反る。自分の身に起きた異変が、飲み込めないようだった。
「おい、腕が――!」
ルイスが思わず肩を掴んだが、その衝撃で肩の一部が崩れた。ルイスは手を跳ね上げ、助け起こすこともできずに固まった。
下手に触れれば、悪化する。それを一瞬で悟ったのだ。
だとして、どうやって救えば良いのかは――分からない。
事態は刻々と悪化する。アンリは、恐怖に顔を歪めながら、悲鳴のように叫んだ。
「あああ、熱い! 熱いいいいっ!! 俺の体、体があああああああ!!」
彼は膝をついた。いや、足も灰になったのだ。
テオドアは、走って彼らのもとへ駆けつけた。が、もう、遅い。
もはや胴だけとなったアンリは、無様にも地面に転がった。熱い、熱い、と、燃えているわけでもないのに呻いている。
風にさらわれ続ける灰は、触れると火傷するほどに熱かった。そばに膝をついて、何度か回復魔法や治癒魔法を試みるものの、受け付けてくれない。
まるで……何かが、肉体の回復を阻んでいるような。
「助けてえええええ!! 死にた、死、死にだぐないいいいいいい!!」
こぼれ落ちるばかりに目を見開いて、アンリは絶叫する。
皮肉にも、これが最後の言葉となった。
後に残るのは、痛いほどの静寂。黒い灰の塊。――つい数十秒前まで、アンリだったもの。
突然の出来事に、その場の全員が絶句していた。
テオドアは、夜風に消えゆく灰の塊から、なにか硬い石のようなものを見出す。
拾い出してみると、それは、ずいぶんとくすんでひび割れた、魔石だった。
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「話を聞く限り、幕切れとしては妥当だろうな」
一部始終を黙って聞いていた光の女神・ルクサリネは、そう言いながら脚を組んだ。
寮の寝室、その扉の奥。いちばん初めに辿り着く広間にて、テオドアとルクサリネは話をしていた。
あの夜、アンリが死んでから一週間。
後始末のゴタゴタもようやっと収まり、テオドアは情報整理がてら、ルクサリネの暇潰しに付き合っていた。
彼女としては、夜にはみんなで集まって、水浴びをするのがいちばんらしいが。少し前に、テオドアが水浴び場の近くに来てしまったことが、ペレミアナたちにバレたらしく――風紀を乱す恐れがあるため中止しているのだとか。
お前が望むなら再開しても良いぞ、と悪戯っぽく片目を瞑ってきたが、テオドアは答えを保留している。
さておき、事件の話だ。
ルクサリネは、安楽椅子に身を預け、肘掛けに頬杖をついて目を細めた。
「そのアンリとやらは、既に人間を殺めているのだから、罪は免れない。苦しんで死ぬのも妥当なところだな。罰、という観点で見るならば」
「やっぱり、そうですよね」
「むしろ、拷問にかけられないだけマシだろう。どちらにせよ、冥界で相応の裁きは受けるだろうが」
そこに関してはまったく言う通り。彼は無辜の民ではなく、人間社会の秩序を乱した罪人だ。その死は妥当なものであっただろう。冥界の神すら、おそらく彼を許さない。
そもそも、テオドアが彼を町に連れ帰ったのも、宥めに宥めて、これ以上被害を出さないようにした、という意味合いが強い。もちろん、憐憫もあったけれど。
しかし、第三者の立場にいるテオドアとは違い、兄たるルイスの受けた衝撃は計り知れなかった。
「ルイスは、救いたかった弟を目の前で亡くしたので……塞ぎ込んでいるみたいです。部屋に引き篭もったまま、誰の声にも応えません」
食事が心配になるものの、友人たちが差し入れる食べ物は食べているようなので、最低限、餓死は免れるだろう。テオドアも合間を縫って彼の寮へ訪問したが、動いている気配は扉越しに感じられた。
相変わらず、呼びかけに返事はないけれど。
「死体も残らなければ、思うところもあるだろうな」
と、ルクサリネはしみじみと言う。壁の燭台に灯る橙色の光が、彼女の横顔に深い影を落とした。
テオドアは、座っているソファの近くにある、背の低いテーブルに手を伸ばした。ロムナが気を利かせて作ってくれた果汁のジュースは、喋り続けた喉をよく潤す。
「……アンリが犯人だったことは、あの場にいた僕たち三人と二羽、それから彼の実家しか知りません。ルチアノが直談判をしに行って、醜聞を隠すためのでっち上げに合意してもらったそうです」
「あの王子が? 醜聞隠しを?」
本気で驚いたらしい、ルクサリネは目を丸くして顔を上げた。彼女は『試練』でルチアノと接しているから、余計に信じられなかったのだろう。
無理もない。ルチアノは、曲がったことを嫌う性格だ。テオドアも、彼から事後報告を受けたとき、我が耳を疑った。
「なんでも……『魔力無し』が犯人だと知れ渡ると、激怒した人間たちが無関係の『魔力無し』を殺しかねないから、と。死んだのが厄介者の三人だけで、怪我をした生徒二人は僕が完璧に治したから、交渉がやりやすかった……とも」
「真っ直ぐに見えるあの男も、王族らしい腹黒さを持ち合わせているというわけか。ヴェルタ王家も安泰だな」
テオドアは、返す言葉が見つからずに黙り込んだ。
そうだろうか。あれは、腹黒さと言うより……躍起になっているだけのような気がする。
アンリが文字通りの灰になったとき、ルイスはもちろんだが、何故かルチアノも同じくらいの衝撃を受けていた。
兄弟の血縁でもないだろうに、思い入れもないだろうに――真っ青な顔のまま、その場にしばらく立ち尽くしていたのだ。
彼は、ディシマノ兄弟が仲直りするのを、半ば予見していたようだった。絆を信じていたのか、ルイスと軽く話して何かを感じ取ったのか、それは分からない。
それが、あんな結果を招いた。
ルチアノは、アンリの罪を公表しないために奔走することで、現実逃避をしている。側から見ると、そんな印象を受けてしまうのだ。
そのおかげで、生徒二人は狂った通り魔に襲われ、不良三人組は『境界の森』で魔獣に殺されたことになった。
三人組に至っては、「アイツらなら、無許可で『森』に行きかねない」と、人々に呆れと納得を以て受け入れられていた。
その裏で――復讐に燃える少年がいたことなど、誰も知らない。罪を隠されたと同時に、存在すらも無かったことになってしまった。
魔力のある人間たちに、罪の意識を刻んでやりたい。その上で死んでもらいたい。アンリのそんな野望は、密かに潰えたのだ。
「……それにしても、哀れだな。そうまでして、魔力が欲しいか」
「神さまからしたら、滑稽かもしれませんね」
「貴族連中に蔓延る『魔力至上主義』は、私も把握するところだ。だが、ここまでとはな……百年後が今から思いやられる」
やはり、神々は、人間の魔力の有無をさほど重要視していないようだ。「たくさんあったらお得だな」くらいの感覚なのだろう。
しかし、神ならぬ身の人間たちは、目に見えた特権が欲しいのだ。魔力がたくさんあることで――不遜なことだが――神に近しい存在なのだと、自負したいのかもしれない。
テオドアがそんな憶測を話すと、ルクサリネは、「人間が神になど、なれるはずがないのにな」と、可笑しそうに笑った。
「第一、なってみても、案外面白くはないぞ。テオドア、お前ならよく分かってくれると思うが」
「あー……まあ……そうですね。やることが多くて、正直、優越感を覚える暇がないと言うか……」
目まぐるしかった、儀式漬けの日々を思い出す。神と〝依代〟では、厳密には立場が違うが、最も近しい存在であることもまた確かだ。
高い立場に上がれば、責任も期待も増える。憧れに見合う重圧とは思えない。少なくとも、テオドアにとっては。
「こうしてルクサリネさまにご配慮いただいても、結局、起こる事件に片っ端から首を突っ込んでいますし。平凡な学生生活は、僕にはまだ早かったみたいです」
「なに。解決の目処は立っているんだろう? 早く終わらせて、残りの期間を存分に楽しめば良い」
そう言って、彼女はテオドアを見据えた。
テオドアは既に、首謀者の目星をつけている。そう思って疑っていない目つきだった。
形の良い唇が、緩やかに弧を描く。
「罪人に罰を与えるのは、神の役目だ。戦争すら起きていない国の中で、多くの人間を消耗した悪辣な首謀者を罰するなら――最高神の〝依代〟が最も相応しい」
「……そうですよね」
テオドアは、視線を落として重々しく頷く。
手元のグラスは、既に飲み干して空になっていた。
「明日――仕掛けます。ルクサリネさま、どうか、僕に力と勇気をお与えください」