112.手遅れな兄弟喧嘩
エイレネに伝言を託し、ひと足先に街へ帰ってもらうことにした。
伝える先はもちろん、ルチアノ王子である。あちら側に問題が生じていれば飛んで帰ってくるだろうし、なんならペルレスがこちらを探し出すだろうから、彼らは穏やかに貴族学校へ「訪問」できたようだ。
残された二人は、実験場の建物を出て、暗い森の中を引き返した。
道中、木陰や茂みの奥から獣の気配がしたが、縄張りを進む二人に近寄ろうとはして来ず、遠くで観察するに留めている様子だった。
不思議に思っていると、半歩後ろを付いてくるアンリが、ぼそぼそと呟いた。
「……ここら一帯の魔獣は、手ごろなので狩りました。取り逃したヤツもいますが、狩られるのが嫌なのか魔石を恐れているのか、不用意に近付いては来ません」
「じゃあ、僕がここへ来る時、魔獣が見当たらなかったのも?」
「それは単に、狩り過ぎて魔獣の数が少ないから会わなかっただけですね。運が良かったんですよ。今いるアイツらは、魔石の魔力を察して、見張りに来ているんです」
なるほど。やはり、魔獣も命は惜しいのか。ここで仇を討とうと頑張りがちなのが人間だが、魔獣は自分と子孫の安全を第一に動く。敵討ちという概念は存在しないのだ。
テオドアは少し考えてから、ランタンを持つアンリを振り返った。
「……怪鳥ネフェクシオスって分かりますか? ヴェルタの高山に棲む鳥なんですが……」
「ああ、知ってますよ。この国じゃ魔獣より危険な生物として有名ですから」
「その山にも……もしかして、狩りに行ったりしましたか? そこでも魔獣の密猟が横行している、との噂を聞いたものですから」
すると、アンリは訝しげに首を傾げた。
「……いいえ。俺たちの狩場は『境界の森』です。まあ少し遠出はしたことありますけど、そんな遠くまで行ったことはありません。少なくとも、俺が知る限りは」
「そうですか……分かりました。ありがとうございます」
多くを語らず、再び前を向く。だが、頭の中では目まぐるしく考えを巡らせていた。
ヴェルタ王国は、各地で無許可の魔獣狩りが横行していた。
つまり、『境界の森』もしくは国内で魔獣の住まう山や湖などが、散発的に荒らされていたということである。
怪鳥ネフェクシオスの生息地、あの高山に関してもそうだ。ルチアノは母鳥と雛たちを心配して、わざわざリュカを通じて手紙を届けてくれた。あの山も荒らされているから、と。
――『第一の試練』の時、山中でテオドアを襲った魔獣にも、人がつけたと思しき傷があった。だからこそ、「高山は危険」という忠告を素直に受け取った。
直感が間違いでなければ、あの時から魔獣狩りが流行っていたと考えるべきだが……。
(それなら、そうだ。時期的にもおかしい。あれは確か、一年半くらい前のことだったはず)
彼ら『魔力無し』が主に活動していたのは、半年から数ヶ月ほど前のこと。
もちろん、ヴェルタの魔獣を減らす一端を担ったのは事実だろうが、すべてが彼らの仕業というわけではないらしい。
……他に、原因がある。密猟を行う団体が、別にいるのかもしれない。
テオドアは、背後からのランタンの光で、仄暗く照らされる行く手を睨んだ。
これからだ。まだ、何も終わっていない。
行きとは違う、値踏みするような複数の視線を森の中から感じながらも、二人は無事に、町を囲う壁まで辿り着いた。
開いた穴から町の中に滑り込み、そっと再び蓋をする。
空き地には既に、二人と二羽が待ち構えていた。おそらく、エイレネの伝言を聞いて、飛んできたのだろう。
ルチアノと、二羽の雛。
――もう一人は……?
「アンリ!」
ランタンの光が届かぬ闇から、ルイスが駆け込んできた。相変わらず顔色が悪く、両腕の包帯も巻かれたままだ。
彼は、自らの弟の前、少し距離を置いたところで立ち止まる。アンリもまた、自らが怪我を負わせた兄に、一歩も退がる様子がない。
無言のまま睨み合う彼らからそっと離れ、テオドアは、更に離れた場所にいるルチアノたちのそばへ寄った。
「……どうしてルイスがここに? まさか、連れてきたの?」
彼は怪我人だぞと、非難の視線を送る。近くの廃墟の屋根の上に留まっていた雛たちは、面白がって『ダメだよね〜! オージ、いけないんだ〜!』と口々に囃し立てていた。
ルチアノは――闇の中でぼんやりとした輪郭しか見えないが――慌てたように首を振る。
「ご、誤解しないでくれ! 私は止めたんだ! だが、彼がどうしてもと……」
「そもそも、君とどこで合流を?」
「……貴族学校だ。考えることは同じだったらしい。彼は、自分の弟へ会いに寮を抜け出していた」
曰く――テオドアが彼の寮を見舞った後のこと。
アンリを庇ったことがバレた、と理解したルイスは、夜を待って寮を飛び出し、貴族学校へ足を運んだ。弟と会ってどうするかは分からないが、とにかく、いても立ってもいられなかったらしい。
そこで、偶然にも、狂気の生徒を「訪問」していたルチアノと鉢合わせたのだ。
「彼と軽く話をしているうちに、エイレネがやって来てな……そのまま要件を喋ったものだから、君がアンリを連れて帰って来るというのもバレて……何が何でも付いていくと言って聞かなくなった」
『エイレネは、パパの伝言を伝えただけだもん!』
『間がワルカッタってやつだよ!』
と、雛の抗議が響くが、それをほとんど聞き流し、ルチアノは開き直って胸を張った。
「――そも! 私は口が上手くない! 考えてもみてくれ、私が君のように誰かを言いくるめられると思うかッッ!!?」
「いやそれ、そんなに威張ることじゃないと思うよ……」
否定はしないが。
テオドアは、はあと溜め息を吐いて、肩の力を抜いた。追求を諦めたのだ。
「はっはっは! 割り当てを間違えたな! 私が森で、君が貴族学校へ行けば良かったのかもしれん!」
「でもその場合、君が、死肉にたかる虫と遭遇する羽目になってたよ」
「ひいいっ!? 死肉に虫!? 虫がいたのか!!?」
「いたよ。というかそもそも、ここら辺にも虫がいるのによく耐えられるね」
「飛び込んでくる虫はまだ平気だが、狭い空間で密集する虫には耐えられん!!!」
「じゃあ、ますます無理だったね。狭い空間で密集しまくってたし」
と、テオドアたちがごちゃごちゃと喋る近くで、ディシマノ家の兄弟は真剣な顔で向かい合っていた。
暫しの沈黙のあと、最初に口を開いたのは、ルイスである。
「……家に帰るぞ、アンリ。父さんたちには俺が上手く言っとくから――」
「……は。なんだよ、今さら善人ぶりやがって。『魔力無し』の人殺しなんか、アイツらが許すわけないだろ」
重苦しい空気を察して、二人と二羽は黙り込み、兄弟の様子を見守る。
アンリは、手に持っていたランタンをかなぐり捨てたかと思うと、もうルイスの頬を力いっぱい殴っていた。
怪我人の身体は、衝撃をもろに受けて地面に沈む。
「あ!――」
思わず駆け出そうとしたテオドアは、ルチアノに手で制される。見上げると、彼は真剣な顔で、二人から目を逸らさずに言った。
「大丈夫だ。彼らなら、きっと……」
「……?」
妙に確信めいた口調なのが気になるが、テオドアは素直に引き下がり、引き続き顛末を見守ることにした。
アンリは、倒れたルイスを何度も蹴りつけ、叫ぶ。
「初めっから気に食わなかったんだ!! 俺が出来損ないだって分かった途端に、アイツらの言うこと聞いて無視してきやがって!! 自分だけ良い子ちゃんでいたかったのかよ、ああ!!?」
「それ、は……本当に、悪……」
「後からなら何とでも言えるよなあ!? このクズ!!」
「っ父さんたちは、何言っても聞いてくれなかった……! だから、俺が優秀になって、あの人たちを追い落とせば、お前は……!」
「うるさい黙れッ!! 殺してやるッッ!!」
彼はルイスの胸ぐらを掴み、乱暴に持ち上げた。首が締まったのか、ルイスは苦しげに顔を歪ませ、アンリの手を外そうともがく。
そんな抵抗などものともせず。アンリは、空いた手を兄の顔にかざし、全身に魔力を漲らせ――
「……畜生が……」
――しばらくして、何もできずに震える手を、下ろした。
ルイスを突き倒し、二、三歩後ろに下がって、手首を握って俯く。それは、兄を殺せなかった手を戒めるようにも、暴れ出しそうな魔力を抑えているようにも見えた。
「……畜生、なんで殺せないんだよ……なんでだ……」
「アンリ……」
「クソ、なんで……なんで、悪者でいてくれないんだ。もっと偉そうにしてろよ……恨ませろよ、なんで今さらそんなこと言ってくるんだよ……」
遅いんだよ、と、彼は呟く。
肩が小刻みに震えている。俯いているために表情は窺えないが……泣いているのかもしれない。
テオドアは、隣のルチアノが、低く感嘆する声を聞いた。
「……そうだな。取り返しはつかなかった。遅かったんだ……何もかもが」
アンリは、実験により力を手に入れ、復讐に走った。
それは、自分が孤独だと思い込んだがゆえの凶行だった。
もっと以前に、二人がよく話し合っていたなら――あるいは、別の未来があったかもしれない。
だが、ここに至っても、ルイスは諦めなかった。
ふらつきながらも立ち上がり、一歩、また一歩と踏み締めて、弟に近づく。
「俺たちは間違えたんだ。でも、今からでも、まだ間に合う」
痛みを堪えながら、傷付いた手でランタンを拾い、弟に差し出す。
アンリは顔を上げ、ルイスを見た。唇が、音もなく言葉を形作る。「兄さん」と言っていたような、そんなふうに見えた。
無意識だろうか、ランタンを受け取ろうと手を伸ばす――
――その手が、灰のように崩れ落ちた。