108.暗い実験場
手を触れると、扉はいとも簡単に開いた。
少し建て付けが悪いのか、軋んだ音が夜闇に響く。テオドアは息を詰め、そっと頭を入れて部屋の中を覗いた。
エイレネはテオドアの肩から地面に降り立ち、ペタペタと気兼ねなく中へと入っていった。
「……普通の家、みたいだ」
『人間が住む〝普通の家〟ってこんな感じなんだ〜。埃っぽいし、血の臭いがいっぱいするんだね!』
「それは普通じゃないよ」
見かけ上は、ごく普通の内装だった。
簡素に部屋が分けられていて、ここはおそらく玄関先。壁には誰が作者かも分からない風景画が飾ってあり、壁紙も綺麗に貼られている。
廊下の奥には、人気はないが、大きなテーブルが置かれた部屋がぼんやりと見える。
けれど、この澱んだ空気と、血の腐ったような臭気。さらには吸い込むだけで咳き込みそうな埃っぽさ。
それ故に、ここがどれだけ「異常」かは判断がつく。
当然ながら、明かりはついていない。テオドアは闇に慣らそうと目を細め、慎重に一歩を踏み出した。
「異変があったら知らせてね。でも、自分の身が危ないときはすぐに逃げること。そのときは知らせなくても良いから」
『ハーイ!』
……なんとも不安になる返事だが、まあ、彼女とて自分の命くらいは守れるだろう。怪鳥なのだし、そこら辺の判断は早いはず。
一人と一羽は、埃っぽい廊下を進んだ。テーブルのある部屋に辿り着くと、鼻や目を突くような刺激臭はますます強くなった。
(エイレネの言う通り……この家で誰か死んでるな。もしかしたら、死後何日か経ってる可能性も……)
それは、人間とも限らない。
魔獣を魔石に変えていたという推測が正しければ、〝首謀者〟にとっては魔獣も実験対象だったはず。切り刻んで放置していても不思議ではない。
ただ、行方不明の少年たちが、今まで生かされていて――つい先日殺された、ということも充分有り得る。
テオドアは、ひどい臭いに顔をしかめつつ、部屋の中央に置かれたテーブルの周りを歩き回った。窓もなく、玄関からの光は届かないので、指先に再び小さな光を灯して。
――見た限り、テーブルの上には数人分の皿が置かれている。食べ終わってそのままなのか、どの皿も汚れていて、こびりついた食べ残しは腐っていた。
これも臭いの原因だな、と、テオドアは心の中で呟く。
(椅子は六つ……六人いた? でも、食事の時間をずらせば何人でも座れる。椅子の数では測れない……)
部屋には調理場も設けられていた。とは言え、暖炉の火で調理するような、ごく当たり前の設備である。
そばには水が溜まった桶も置いてあったが、服らしき布が浮かんでいるので、洗濯桶である可能性が高い。少なくとも、飲み水ではなさそうだ。
とりあえずしゃがんで覗き込むと、桶の後ろに、何か落ちていることに気が付いた。
「……髪飾り?」
女性用の髪飾りだ。剣を床に置き、手に取ってよく見てみたので、間違いはない。
テオドアは髪飾りに疎い――なんなら装飾品すべてに疎いのでなんとも言えないけれど、平民の女性が付けるものではないように見える。
最低でも、貴族。……しかも、この形は、どこかで……。
『パパ! すっごいの見つけたよー!』
深く潜りそうだった思考を、エイレネの声が引き戻す。
テオドアは頭を振り、大きな髪飾りをズボンのポケットへ突っ込んだ。剣をしっかり拾ってから立ち上がる。
「今行くよ! どこにいるの?」
『あのねー、端っこ!』
テーブルをぐるりと回り、エイレネの元へ急ぐ。彼女は部屋の隅、廊下からちょうど対角にある、テオドアがあまり探索していなかった壁際にいた。
パパ、ここを照らして! 言われるがままに光量を強めると、彼女のいるところのすぐそばの床が、赤黒く汚れているのが見て取れた。
おびただしいほどの血だ。一人が流したものなら、まず生きてはいない。
『ここで人間が殺されたんだね!』
「……どうだろう。ここで魔獣を解体したのかもしれないよ」
『エー? だって、この血、人間の血の臭いだよー?』
まあ、そうだろうな。ほぼ予測通りではあったので、驚きはない。テオドアは無言のまま頷き、床板に飛び散った血をつぶさに眺めた。
最低でも、一日以上は経っているはずだ。ここで殺して、そのまま外へ捨てたのか……それにしては、引き摺った跡も、玄関先まで血が滴った跡も無いが……。
エイレネは、黙り込んでしまったテオドアを、不思議そうに見上げた。
『大丈夫、パパ? 具合悪いの?』
「ううん、考えごとをしてるだけだよ。ありがとう」
『ア、そっか! それが終わったら、地下室に行くのね! ワーイ、冒険だ! 楽しみ〜!』
地下室?
テオドアは首を傾げた。地下に続く階段なんて、見かけただろうか?
「エイレネ。その、地下室って……?」
『? だって、この床の下から、血の臭いたくさんするよ? 人間の死骸が地下にあるんでしょ?』
「あっ、そうなんだ!?」
思わぬ証言を得たテオドアは、目が覚めた思いで膝を打つ。怪鳥の鋭い嗅覚の為せる技か、エイレネは異臭の発生源を突き止めてくれたらしい。
「お手柄だよ、エイレネ! すごい!」
『エヘヘ、もっと褒めて〜』
満足げな彼女を存分に撫でてやり、テオドアは再び血の跡に注視した。と言うのも、この血の下に地下があるなら、なんらかの仕組みがあるのではと睨んだのである。
例えば、そう、『第二の試練』の時。ネイ・デイトーヌがテオドアを嵌めて地下に突き落とした時のような、からくりが。
――結果的に、その読みは当たっていた。
あそこまで派手なものではなかったけれど。
「ここ、血の跡が途切れてる」
テオドアは床を這いつくばり、飛び散ったどす黒い血に光を近づけた。人為的に作ることの難しい血飛沫が、ある地点で途中からすっぱりと途切れ、あとは汚れのない床が続くなど、明らかに怪しい。
そうして、血が途切れた地点には、不自然な切れ目が入っているのも確認できた。
「たぶん、ここが入り口だ。でも、どうやって……」
『エ? パパなら、エイ! で粉々にできるでしょ?』
「うーん、それは最終手段かな」
なんだかんだと切れ目をよく観察し、床蓋を持ち上げるための窪みを発見できたから良いものの。最悪は、エイレネの言う通りに、破壊の限りを尽くすことになっていただろう。
ゆっくりと蓋を押し上げる。地下への階段が見えると同時に、湿っぽく冷えた空気と、いっそう強い臭気が漏れ出してきた。
思わず、片腕で口元を覆う。エイレネのほうを窺ったが、彼女は特に嫌がる素振りもなく、平然と立っている。
こちらは、息を吸うのもやっとだと言うのに。
「こ、こんなに臭うのに、よく平気でいられるね……」
『だって、エイレネ、メガミに守られてるもん』
「ああ……そういえばそんなこと、言ってたような気がする……」
確か、ルチアノが雛二羽を引っ張り出してくるときに、許可を与えた光の女神が加護を施したとか、なんとか。
だが、エイレネは良くても、テオドアは困る。臭いで判断力まで鈍りそうだ。
困った末、エイレネに加護の内容をざっくり教えてもらい、それに似た魔法を創り出して人体を保護することにした。
そして、やっと普通に息ができる状態で、暗い地下への階段を降りていく。
エイレネは、当然のように後を付いてきた。
手元に光があるとはいえ、一歩先は闇。心なしか、一段降りるごとに、どんどん湿気が強くなっていく気がした。
引き返そうか。いや、危険を感じた瞬間に引くから大丈夫。心の中でこれでもかと問答を繰り返し、しかし、足は滑らかに動いて下へと進む。
故に――体感ではあっさりと、階下に辿り着くことができた。
『この扉の先だよ! ものすごいもん!』
「ものすごいんだ……?」
『そう! パパが分かんないことは、エイレネが教えてあげる!』
女神の加護を受けた怪鳥の雛は、嬉しげに跳ねる。パパの役に立てて嬉しい! という気持ちが、全身からこれでもかと発されていた。
今は、過度な悪臭を遮断されているが。鋭敏な彼女はそれでも、〝ものすごい〟ものを感じ取ったらしい。
テオドアは、緊張から唾を飲み込み、目の前の鉄扉を見上げた。
軽く手を置く。玄関と同様、鍵はかかっていないようで、簡単に押し開くことができた。
――初めに目が合ったのは、天井からぶら下がった少年の、虚ろな瞳である。