103.異様、異常、あるいは兄弟
テオドアは一瞬、息を呑んだ。
しかし、動揺はなんとか表に出さず、少女に向かって微笑む。声もいつも通りだったはずだ。
「ルイスですか? ディシマノ家の?」
「そうです! もしかしてお知り合い?」
「ええ。僕は今年から編入したのですが、本名の長いルイスとはとても仲良くしてもらっています。怪我をしたと聞いて、寮まで訪ねに来ました」
本名の長いルイス! と、表現がお気に召したのか、少女はころころと笑った。他にいるかもしれない「ルイス」と被らないよう気遣ったつもりだったのだが。
しかし、少女はすぐに表情を引き締め、居住まいを正し、「私もお見舞いをするつもりで来たのですけれど」と切り出す。
「お部屋まで訪ねても、話もほとんどしてくれませんでした。もしかすると、思っていた以上に重症なのかもしれません」
「それは心配ですね」
「心配です。最近は、ここの街も物騒でしょう? 何かあったらと思うと、恐ろしくて……」
彼女は自らを抱きしめ、ゆっくりと首を振る。
テオドアはふと、疑問を口にした。
「そういえば、貴女はここまでお一人で来られたんですか? おっしゃる通り、今の学院街はかなり危険だと思うのですが……」
「いいえ、学院の外まで従兄弟が付き添ってくれました。その……『貴族学校』の、です」
と言うことは、ルイスの弟か。
ルイスから門前払いを受けてしまった彼女は、これから急いで学院の敷地内を抜けて、外で待っている従兄弟と合流する予定なのだという。
その話を聞いて、テオドアは、腕を組んで少し考えた。
それから、提案する。
「――学院内を安全に通れる保証もありません。よろしければ、僕がそこまでお送りしましょうか」
「私は嬉しいですけれど、良いのですか? ルイスのお見舞いに来たのでは」
「従姉妹の貴女が拒否されたんです。僕がお見舞いに行っても、追い返されるだけでしょう」
言いながら、テオドアは右手を差し出した。
なるべく嫌味なく、淑女が手を取っても取らなくても良いように、自然な仕草で。
「気が向いたら、後でまた戻ってきて粘りますよ。幸いなことに、今日はお休みなんです」
……果たして、少女はテオドアの手を取った。
年ごろの娘らしく、頬をほんのりと染め、おずおずと歩み寄ってくる。
「私、この前、社交界に出たばかりで……エスコートしていただくのに慣れていないんです」
「じゃあ、格式張らずに行きましょう。実は僕も、そういう振る舞いは苦手なんですよ」
「ふふ。お揃いですね。それなら、お隣を歩かせてください」
二人は穏やかに、肩を並べて歩いた。途中、道が悪くて少女が躓きそうになった時以外は、再び手を握ることもなく。人通りもないので、誰かに見咎められる心配もない。
談笑しながら、短くない距離を抜け、テオドアたちは学院の敷地外の通りへ出た。
こちらも人の行き交いが乏しい。見回りの兵士や、腰に剣を差した立派な身なりの男性の姿が目立つので、おそらく一般の人々が活動を自粛しているのだろう。
少女は、そっとテオドアの袖を掴み、「こちらです」と控えめに引っ張った。
「あまり目立ちたくないので、裏のほうに」
小声で囁く彼女の言う通り、家々の隙間の小さな空間に入ると、少年が一人佇んでいた。
少女の姿を見て明るくなりかけた顔が、後ろを着いてきたテオドアを見た途端に険しくなる。左腕の腕章にさっと手をやったのは、隠すためだろうか。
テオドアは、会釈しつつ彼を見た。
確かに――初めはそもそもルイスを知らなかったが――改めて観察すると、ルイスにどことなく似た顔をしている。薄暗くて確かではないが、そばかすもあるようだ。
「アンリ! 待っていてくれてありがとう。助かったわ」
「大丈夫。……その人は?」
「あら、忘れちゃったの? この前、私たちを助けてくれたお方よ! カヴァルロさまと言うのですって。ルイスのお友だちで、ここまで送ってくださったのよ」
「ああ、あのときの」
アンリ、と呼ばれた少年は、警戒心剥き出しの表情をすぐに変え、笑顔を貼り付けた。貴族らしい、上品な仕草で礼をする。
「その節はありがとうございました。あのとき助けていただかなかったら、どうなっていたことか。……アンリと申します。兄と同じく長い名前なので、本名を名乗らずいることをお許しください」
「テオ・カヴァルロです。あのときは僕もでしゃばり過ぎました。貴方なら、あの場を収めて、こちらの彼女を守りきることもできたでしょうに」
「……いいえ。そんなわけはありません」
彼の笑顔は崩れなかった。テオドアも、それ以上言葉を重ねるのをやめ、少女に向き直る。
「では、僕はこれで失礼します。近ごろは本当に物騒ですから、どうぞお気をつけて」
「ええ。ありがとうございます! もし機会があれば、ルイスにもよろしくお伝えください」
少女は可憐に手を合わせ、テオドアへ微笑みかけた。
途端に、アンリから凄まじいほどの圧が発せられた気がしたが、気が付かないふりでやり過ごす。
踵を返して通りに出る。堂々と道の真ん中を歩いていく兵士たちを避け、端に寄りながら、テオドアは思った。
――彼女は、襲撃に遭う心配はないだろう、と。
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テオドアは、来た道を戻り、四角い建物の中に入る。そうして、数多ある扉のひとつの前で立ち止まった。
周囲の気配を確認して、廊下に誰もいないことを確認してから、扉を軽く叩いた。
「ルイス。いるんでしょう?」
返事はない。ただ、扉の内側で、誰かが物を落とす音がした。部屋の主はまだいるらしい。
テオドアは、一分ほど黙って待った。そして、彼が返事をしないことを確認してから、再び口を開く。
「扉は開けなくて良い。でも、この部屋がルイスのものかどうか知りたいんだ。返事だけでもくれないかな」
「……」
しばらく間が空いたあと、ややあって「合ってるよ」と、くぐもった声が返ってきた。
間違いなく、ルイスの声だ。テオドアはほっと胸を撫で下ろし、言葉を続けた。
「さっき、君の弟に会ったよ。君の従姉妹にも」
「!」
「初めは……君が、自分の名誉を守るために、弟のことを隠していたのかとも思った。僕に兄弟はいないから、感覚は分からないけど……外聞が悪いんだろうって」
二週間ほど一緒に行動したが、その間、ルイスの口からは一度も弟の話を聞かなかった。それどころか、家族に関する話も、今思い返せば避けていたように思う。
弟に言及すると、あからさまに動揺する気配が伝わってきた。うろうろと部屋中を歩き回り、どこかにぶつかる音もする。
テオドアは、自分がだんだんと早口になっていくのを自覚した。
「でも、違う。彼を見て分かった。なんというか、雰囲気が異常なんだ。以前、彼を見かけたときは、普通の人間だったのに」
――異様。そのひと言に尽きる。
テオドアの目は、『魔眼』とはいかないまでも、魔力の流れをなんとなく掴むことができる。あらかじめ張られた結界や魔法陣には気付きづらいが、魔法を使われたときははっきりと分かる。
しかし、アンリの場合は、そのどちらでもない。
魔力無し、もしくは魔力が乏しい少年が通う貴族学校にいるのだから、彼はほとんど魔力がないのだろう。テオドアとて、他人がどれくらいの魔力を保持しているかは分からない。
だが、彼を一目見たとき――テオドアは、猛烈な違和感と、喩えようもない嫌悪感に襲われた。
全身から発せられる重苦しい気配。
確実に滲み出ていた魔力の残滓。
仕草は優雅だが、貼り付けた笑みの下から、テオドアに対する敵意も僅かに感じられた。
彼の従姉妹の少女に対しては、決して向けられていなかった感情だ。
「従姉妹と二人で帰って行ったけど、彼女は〝襲撃〟されないと思うよ。君の弟が一緒だし、何より、彼は彼女のことを大切にしているようだから」
「……アンリは昔から、彼女に惚れてた。分け隔てなく接してくれてたから」
「そっか。じゃあ、ますます安心だね」
明るい声で言い切ってから、ふと音量を落とす。
「……ジュディッタ先生がね。襲撃の犯人はあの三人組じゃないって言っていたよ。言葉を濁してたけど、たぶん、君の証言を疑ってる」
「……」
「次にアンリに会ったとき、僕は彼を問い詰めようと思う。違和感があったって、ルチアノ殿下にも報告する。でも、君は……」
テオドアは、ここでいったん言葉を切り、逸る心臓を落ち着かせた。渇いた喉で唾を飲み込み、意を決して続ける。
「君は、どう動いても構わない。向こうに味方して、潔白を証明するために動いても。家族のことに、僕がとやかく言う権利はない」
「……」
「怪我人だし、無理はしないで。じゃあ、また来るね」
本当は、無理にでも問い詰めて、情報を引き出すつもりだった。
しかし、ルイスが庇っていたのが己の兄弟だと、半ば確信して――彼の異様な状態を鑑みて。下手に動けばもっと酷いことになりかねないと、方針を変更したのである。
ルイスの部屋の前から離れ、黙々と廊下を歩きながら、テオドアは考えを巡らせる。
(ルイスが、怪我したのをわざわざ従姉妹に伝えるはずがない。先生たちも、大事にしたくないから、彼の怪我については黙っているようだし)
それに、怪我をしてからたったの二日だ。一週間ほどかけて徐々に噂が伝わったならともかく、あまりに情報の伝達が早過ぎる。ましてや、公には伏せられている情報なのに。
――だから、やはり。
(ルイスの大火傷は……アンリの仕業、なんだろうな……)