102.〝魔力無し〟の価値
今から、十年近く前の話である。
学院に入学したばかりのルチアノは、学院中の人間が束になっても敵わないほどの強さだった。自身も、そのことをよく自覚しているようで、「なぜこんな簡単なこともできないのか」と、周囲の人間を半ば見下していた。
つまるところ、持って生まれた体質と天賦の才能で、存分に驕っていたのだ。
攻撃面は優れていたが、知識は同年代より少し上回る程度だった。だからこそ学院に入って勉強する必要があった、と言えよう。
ゆえに、自らの知らない知識を持つ講師には、比較的大人しい態度を取った。
そのうちの一人が、マリレーヌだった。
若き日の彼女は――結婚していると公言はしていたものの、その相手を、親しい者以外には頑なに明かさなかった。口さがない者たちは「下男との身分違いの恋」などと囁き合ったが、真実は当たらずとも遠からず。
隣国・ノクスハヴン帝国の中堅貴族のもとに生まれた、『魔力無し』を夫としていたのだ。
マリレーヌの研究の話を聞くため、理由をつけて研究室に出入りしていたルチアノは、どこかのタイミングでその事実を知った。
マリレーヌの夫は、自身の経験を活かし、『貴族学校』で教鞭を取っていた。実家から見捨てられ、行き場を無くして倦んでいる少年たちを、どうにか救おうと試行錯誤を繰り返していた。
だからこそマリレーヌが惹かれたのだろうし、ルチアノ少年もその姿勢に感銘を受けたようだった。「〝魔力無し〟にも生きる道があるんだ」と、その事実が新鮮で目新しかったのだろう。
「魔力の無い平民たちが幸せに生きられるのに、魔力の無い貴族が幸せに生きられない道理なんてない」
というのが、その男の信念だった。
彼は魔力の有無に関わらず、どんな貴族でも協力し合える世界を作りたがっていた。そうすれば、長い目で見て貴族階級がますます盛んになるはずだと。
――『魔力無し』の立場では、どうにもままならなかったようだが。
それゆえに、自身の信念に共鳴してくれる王子のことを、男は手放しに歓迎した。妻のマリレーヌと共に交流を深め、三人でささやかな茶会を催したり、『貴族学校』の中へ妻と王子をこっそり案内したこともあった。
そんな交流が、一年ほど続いたある日――
男は死んだ。
おそらく、何者かの手によって殺された。
彼の死には不可解な点が多かった。
前日の夜、貴族学校の教員寮に入っていったのが最後の目撃情報で、発見されたのは遠く離れた『境界の森』の中。ずいぶんと国境から離れた地点で、とても数時間で踏破できる距離ではない。
加えて、死体の状態も酷かった。外傷はほとんどないにも関わらず、全身の骨が粉々に砕け、内臓が原型を留めていなかった。
どう考えても、並ならぬ事件に巻き込まれている。
だと言うのに、死因はろくに調査されず、「空飛ぶ魔獣に捕まって地面に叩きつけられた」と、雑な結論が付けられた。
マリレーヌの落ち込みようは酷いものだった。表向きは気丈に振る舞っていたが、休日になると二人のものだった屋敷に引き篭もりきりとなった。
王子もまた、多大な衝撃を受けたらしい。マリレーヌから聞いた話では、「重大な事件かもしれない」と父王に何度か掛け合ったが、一顧だにされなかったようだ。
その少し後から、王子は態度をきっぱりと改め、品行方正に努めるようになった……。
「――王子に何があったのかは、本当のところは分からない。何か、別に原因があったのかも知れない。だが、この件が一因であるのではないかと、わたしは思う」
「……そんな大事な話を、僕に教えてくださって大丈夫なんでしょうか?」
聞いておいてなんだが、この話が露見すれば――ジュディッタの言う通り、マリレーヌの名誉が傷つけられるだろう。
貴族の社会は、『魔力無し』に厳しい。敢えて『魔力無し』と結婚した者が、偏見の目に晒されるのは想像に難くない。
ルチアノだって、そんな夫婦と交流をしていたなどと知られれば、無傷ではいられないはず。
そんな事実を、あっさりと喋って良いものか。聞いた自分を棚に上げてテオドアが問うと、ジュディッタは瞳を伏せ、穏やかな口調で答えた。
「……だから前もって釘を刺したのだよ。だが、こんなにも喋ってしまったのは、きみのせいでもあるだろうな」
「僕の……?」
「この話を、わたし一人に留めておくのは苦ではなかった。しかし、無意識では誰かと共有してしまいたかったのだろう。――あの夫婦と王子が笑い合っているのを、眺めるのは楽しかった」
彼女はふと顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
いつも冷静な態度を取るジュディッタの、初めて見る表情だった。
「きみは不思議な男だ。他者の心を開くことに長けている。きみならば――あらゆる問題も難なく解決できるだろう。今後も頼りにさせてもらうよ」
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研究室でジュディッタと別れたテオドアは、その足で生徒の寮へ向かった。
道順は、途中までは自分が住んでいる『王族専用寮』と変わらないが、ある地点を過ぎると道が二股に分かれている。
今は朝だ。学院では授業中なので、人通りもほとんどない。たまに、慌てて走っていく少年とすれ違う程度である。
しばらく進むと、四角い建物が立ち並ぶ区域に出た。貴族の子息が通うには質素な造りだ。まあ、集団行動ゆえの理不尽も、学院の教育のひとつなのだろう。
ルイスがいる建物は、先ほどジュディッタから聞いている。「お見舞いに行きたいんです」と言うと、すんなり教えてくれた。
「ええと……突き当たりを右……四番……」
メモを見ながら歩き、目当ての建物を見つける。
しかし、そこで思わず足が止まった。
入り口の前で、美しい少女が一人、困ったように寮の建物を見上げていたからだ。
豊かな金の髪に大きな髪飾り。ふんわりとレースのあしらわれたドレス。どこかで見覚えがあるな、と目を凝らして思い出そうとしたとき――
こちらの視線に気付いたのだろう。振り向いた少女と目が合った。
「あ!」
すると、見る間に少女の表情が明るくなる。
それからなぜか無防備に駆け寄ってきて、「あのときの素敵なお方!」と言った。
……あの時? 素敵?
「あの、すみません。どこかでお会いしましたっけ……?」
「お忘れですか? 無頼漢に絡まれていた私たちを、助けてくださったではありませんか!」
「無頼漢……あ、あー、あの時の……」
不良三人組と初邂逅を果たした、あの書店前の騒動のことか。確かに、彼らに絡まれていた二人のうちの女性が、金の髪をしていた記憶はある。
自分としては、かなりでしゃばってしまったなと反省する出来事だった。
ゆえに、記憶からも早急に消されかかっていたのだろう。
非情なテオドアの内心など知らず、少女は丁寧に礼をして、名を名乗った。テオドアも自己紹介を返しつつ、ここにいる訳を問うた。
曲がりなりにも、ここは学院の寮前である。少女一人が訪れるのには少し不釣り合いだし、危険もあるだろう。
すると、少女はこう答えた。
「従兄弟が、酷い怪我をしたと伺いまして」
「従兄弟?」
「ええ。私は次の春から女学院に入学するのですが、学院長のご厚意で、一ヶ月ほどこの街に滞在しております。見聞を広めるためにも、家と異なる環境に慣れるためにも」
曰く、女学院は、男子の通う学院と異なり、良妻賢母になれる女性の育成を主とした場所らしい。
もちろん、それ以外の目的もある。王宮や神殿、学院などで、活躍できる女性を見出すこと。彼女たちにその道を示すこと。
しかし、貴族の女性に何より求められるのは、嫁入りした先の家系を絶やさず、より多くの魔力を持った男児を産むこと。貴族が、わざわざ大切な娘を外に出すからには、女学院にはそちらの成果を期待しているのだろう、と。
「ですから、イリュソリヤ魔術学院と違って、女学院の入学年齢は高く設定されています。卒業の歳も決められていないので、好きな時に入学できるのですよ」
私は今年で十四になります、と、少女は笑った。
見た目では、もっと若いと思ったが。結婚可能な女性が、女学院に学びに来るのか。
「……なるほど。しかし、間違っていたら申し訳ありませんが、貴女の従兄弟は、〝学校〟のほうに通われているのでは?」
テオドアは、なるべく声を小さくして言った。
確か、あの三人組に目をつけられたのは、『貴族学校』の生徒が女性を連れて歩いていたからで、その彼は「今度、女学院に通う従姉妹のため」に街を案内していた。
そんな事情だったはずだ。
すると、少女も、声を低くして答えた。
「その方の、お兄さまです。二人きりの兄弟なのですが、一方は学校、一方は学院と別れてしまっていて……」
――二人とも、家の慣習でとても名前が長くて。怪我をしたのは兄のほうです。
ルイスと、私は呼んでいるのですけれど……。