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100.踏み込む覚悟

 息が詰まり、心拍数が上がり、汗が噴き出る。

 しかし――その状況は、長くは続かなかった。


「あ!」


 素っ頓狂な声を上げたのは、どうやらルクサリネのようだ。岸辺をあちこち歩き回るような音を立ててから、深く溜め息を吐いて言う。


「……しまった。もう少し奥に着替えを置いておけば良かったな。服が流された」

「えっ。草に隠れて見えないとかではなく?」


 ペレミアナが立ち上がり、一緒に探す気配がする。こちらに来るかと緊張が増したが、幸いなことに、背の高い草のところにはやって来なかった。

 本当だ、ありませんね。ペレミアナも脱力したようだ。


「わ、わたし、そこに置いたの、見てましたし……代わりの服を持って来たほうが良いんでしょうか」

「それならば、わたくしが参ります」


 さっとロムナが動き、向こう岸に上がったようだ。後を追うように、「(われ)も行こう」とティアディケが着いていき、「じゃあ、お任せします。わたしはそろそろ寝たいので」とペレミアナも続く。

 後に残ったのは、服がなくなったらしいルクサリネと、黙ったままのレネーヴだけ。


「お前も残るか? 私は構わないが」


 からかうような声音で、ルクサリネが問う。ややあって、レネーヴは少しむくれたような調子で答えた。


「……どこまで分かっているの? 本当に着替えが流されたのかしら」

「着替えがないのは本当だ。どこまで……か、そうだな。何を必死になっているかは知らないが、無理にでも既成事実を作ろうとしているのは分かる」

「っ……!」


 水を跳ね上げ、どちらかが立ち上がる。流れからして、レネーヴだろうか。


「何? 私が愚かだって言いたいの?」

「そこまでは言っていない。ただ――アレの魂だけではなく、今世の存在そのものを欲するなら、焦りは禁物だぞ。押しに弱そうに見えて、中々どうして強情だからな」


 ――自分が納得しなければ、絶対に()()()へは進まない。難儀なものだ。

 そう言ってルクサリネが笑うと、レネーヴは「それは」と言い募る。

 しかし、二の句は続かなかった。何度か、反論のためか息を吸うが、何も言わずに吐き出して終わる。

 結果的に黙り込んでしまった彼女は、暫しの後、ゆっくりと歩き出した。

 向こうの岸へ向かうのだろう。気配が遠ざかっていく。


「……貴女に先を越されるのは癪だわ。でも、諦めたと思ったら大間違いよ」

「越せるものか。そもそも、怪鳥ネフェクシオス(第一夫人)と子どもたちに許可を得なくては、我々は〝不貞を誘った罪〟で、あっという間に叩き殺される」

「それも……そうね……」


 そうして、レネーヴは湖から上がった。水気を帯びた足音が、だんだんと小さくなって消える。

 湖岸が完全に静寂を取り戻したころ。ルクサリネが、ふと笑って声を上げた。


「もう心配しなくて良い。災難だったな、テオドア」

「……ルクサリネさま……」


 やはり、彼女はこちらに気付いていたらしい。テオドアの緊張が一気に解け、尻もちをつく形で倒れ込む。草が薙ぎ倒されたが、もう音に気を張る心配もないのだ。

 絶対に立ち上がれないけれど、いくばくか気分も楽になった。


「本当に、見つかったら死んでしまいそうで……いや、皆さまが短気だとかそういう不敬な心配ではなく、その、僕の気持ちがというか……」

「ふふ。まあ、いきなり女の園に放り込まれれば、誰だってそうなるだろう。間髪入れずに襲える男はそういない」


 裸の女に慣れている者なら、その限りではないだろうが。――ルクサリネは可笑しそうに続ける。


「おおかた、レネーヴがやらかしたか。あいつもお前の気配に気付いていたぞ。……もっとも、あちらはお前の肉欲に期待していたようだが」

「肉欲……」

「併せ名持ちは、やはり若いな。既成事実を作れば、あとはどうとでもなると思っている。それで成立する仲もないではないが――レネーヴに限れば、後悔するのが目に見えている」


 どういうことだろう。テオドアは首を傾げる。

 その様子が見えているわけでもないだろうに、草を挟んで向こう側のルクサリネは、「簡単なことだ」と言った。


「話を聞くに、あの三人は〝ただの自分〟を見てくれる男に惹かれた。女神でもなく、美しい女でもなく、付随する権力でもなく……個としての自分を。そうだな?」

「はい、そう聞いています」

「であれば、身体から始まる関係は、大いに悩むところだろう。それでも構わないと、割り切っている様子でもなかった」


 他の三人が気付いていなかったのを見るに、お前の意思を尊重できるよう、中途半端な配慮をしていたようだしな。

 ルクサリネの言葉に、テオドアはそっと、抱えていた銀のショールを見た。


 ――確かに、ルクサリネとレネーヴ以外は、こんなに近くまで迫っているテオドアに気付いていなかった。普通なら、女神や精霊を欺くなんて至難の業だというのに。

 光の女神の言う通り、ショールに掛けた魔法に、気配を遮断する作用があったのだろう。

 テオドアが、怖気付いてこっそり帰ろうとしても、障りがないように。


 裏を返せば、一線を越えるか否かを、テオドアに委ねていたということである。


「……僕は、その、思い上がりでなければ――」

「うん」

「皆さまから、ご好意をいただけていることは、知っています。でも、その先をどうしたら良いのか、ずっと迷っているんです」


 本音を言ってしまおう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 よく考えた結果――自分は、誰か一人に絞りきれない。自分が一人だけを選び出すなどおこがましい。そういう結論に至った。

 しかしそれは、テオドアだけの都合であり、一人一人の意思を無視した結論だ。仮に、全員と関係を先に進めるにしても、きちんと話し合って落としどころを探りたい。

 そのためなら、自身の奥底で煮えたぎる欲望も後回しにできる。その覚悟はある。


「――男らしくないでしょうか。もうちょっと、強引に奪い去る覚悟を持って、全員を幸せにすると豪語できれば、いちばん良いと思うのですが……」

「何を言う。そうしたいならすれば良いが、無理を通せば必ず歪むぞ」


 分かっている。人間関係に正解はないのだろう。だからこそ、迷ってしまう。

 前世も今世も、他者と深く関わってこなかった。その弊害が今、押し寄せて来ている気がする。


「私は――優柔不断も、お前らしいと思うがな。三人の女神を籠絡したのは、その性格以外にあり得ないだろう」

「籠絡って……」

「現に、あの三人は、今世のお前も手に入れたがっている。転生後がいけ好かない男であれば、大人しく魂だけを手に入れることに注力するはずだ」

「こんな臆病な僕に、なにか美点があるのでしょうか。お膳立てしていただいたのに、進むことも逃げることもできなくて」


 いまいち自信を持ちきれず、膝を立てて弱音を吐く。テオドアが押し潰した草に触れないよう、ショールを抱えたまま。

 すると、ルクサリネが、水から上がる気配がした。


「進むことは簡単だ」

「そ、……」

「一線は容易に踏み越えられる。だからこそ恐れているんだろう?」


 彼女は、あっさりと、姿を現した。

 

 薄い壁となっていた草を容易く掻き分け、完璧に均整の取れた肢体を晒す。呆然と見上げるテオドアを目の前に、まるで、当然のように佇む。

 月光は背後から照らしているが――彼女は『光』の女神だ。ぼんやりと輝いているせいで、全身が、張り付く銀の髪や素肌に伝う水滴まで、よく見えた。


 目にかかった前髪を払い、女神はいつも通りに笑う。


「幾千人もの芸術家が、私の裸身を見たがった。幾万人もの男が、私と寝台を共にしたがった。――そのいずれも、私の服を一糸も乱すことなく死んだ」

「――」

「千年以上生きた。たった数年くらい待てる」


 笑みを(たた)えた女神が、ふと身を(かが)めた。目線を合わせ、地面に手をつき、ゆっくりとテオドアに近づく。

 テオドアはその姿に、その美しさに……半ば圧倒されていた。

 自分は豊満だ、と、いつか彼女は言っていた。服の上からでも充分察せられたが、眼前に迫る身体は、その言葉に偽りがないことをまざまざと物語っていた。

 

 不躾な視線にも、女神は不快感を示さない。彼女はとうとう、テオドアと至近距離で向き合った。

 滴る水が、数滴ほどテオドアの頬に降り注ぐ。


「もちろん、今ここで()()()も構わない。……お前が望むならば」

「――あ、の……」

「だが、お前が望むのはそうではないだろう? だから――」


 唇が触れ合った。


 テオドアが状況を把握した時にはすでに、ルクサリネと口付けを交わしていた。

 ほんの数秒にも満たなかっただろう。彼女は潔く身を引く。先ほどとは違い、いたずらが成功したような目をしていた。


「これくらいは褒美にもらっても良いな。なにせ、寄って来る女を軒並み囲おうとする男を、長ければ数十年も待つ羽目になる」

「っな……、そん……!」


 弁明しようとしたが、その通りなので何も言い返せない。テオドアは言葉もなく口を開閉させ、混乱のうちに女神を見ることしかできなかった。

 ルクサリネは瞳を閉じ、「まあ良い」と穏やかに言う。


「お前がちょうど、()()()()()()()助かった。これで、裸で帰らずに済みそうだ」

「!」

「お前も気をつけて帰れ。道に迷うなよ」


 彼女は、いつの間にかテオドアから奪っていたショールを揺らし、肩から羽織った。まったくなにも隠れていないが、頓着せずに湖へ戻り、向こう岸へ歩いていく。


 その後ろ姿を――テオドアは固まったまま、見えなくなるまで見守っていた。

 やがて、彼女が完全に視界から消えると。

 テオドアはふらふらと立ち上がり、岸に出て、湖に頭から突っ込んだ。


 盛大に飛沫を上げ、全身に冷たい水が押し寄せる。

 仰向けに浮かんで夜空を見上げると、火照った肌とともに頭も冷えていく気がした。


「この臆病者め……」


 自嘲する。

 誰かを傷つけたくない。だからこその行動なのに、うまくいかない。何かを選ぶのは何かを捨てるということ。分かっていた。分かっていたはずだ。


 ルクサリネさまは、待つと言ってくれた。


 だが、それに甘え切ってはならない。中途半端が、いちばん誰かを傷つける。触れないなら触れない、踏み込むなら踏み込むと、決断を迫られる時が来る。

 

 それは――どんな人間関係においても、そうなのかもしれない。


「明日は……やっぱり、寮に行こう……」


 先ほど傷を抉ったばかりで悪いが。ルイスにはやはり、知っている情報すべてを、きちんと話してもらわなくてはならない。


 そうしないと、全てが手遅れになる。

 そんな予感がした。

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