99.疲れが吹き飛ぶどころじゃない
――ルイスは、誰かを庇っているのだと思う。
確証があったわけではない。しかし、取ってつけたように「不良が怪しい」と言い出したり、あからさまに挙動不審な態度を取り続けていたので、容易に想像はつく。
彼自身が犯人に協力している可能性もあるが、どうだろう。
襲撃事件の日、テオドアが「教科書を買いに行く」とルイスに言ったのは偶然だった。狙って書店に案内したわけではなさそうだ。
初めから自分の潔白を証明するために案内するつもりでいた――その可能性もあるけれど。
そうだとすると、あまりに手の込んだ不在証明に反して、隠し事が下手過ぎる。犯人も、そんな人間をみすみす仲間にはしないと思うが。
もしや、ルイスの単独犯? いやいやまさか……。
「はあ……」
疲れから、溜め息ばかりが溢れる。
いつものように、寝室の扉より繋がる大広間から、『空間移動』の陣を使って寝所に行く。
寝所は、建物一棟がすべてテオドアの私的空間となっている。誰かを迎え入れるための『応接間』などが省かれている代わりに、娯楽のための部屋がこれでもかと詰め込まれていた。
加えて、ロムナ以外の存在が立ち入り禁止となっているらしい。『光の女神』は、「抜け駆けがないように」と笑っていたが。
――ルチアノが連れてきた雛二羽も、昨日から寝所でお留守番ができている。どういう基準で立ち入り禁止になるのかは、未だに不明だ。
テオドアは、玄関脇の魔法陣から近い厨房に入り、作り置きのスープとパンを食べた。
これまでは、授業が終わるまでロムナが待ってくれていたのだが――不規則な帰宅が申し訳なくなってきたので、夕方の一定時刻を過ぎた後は作り置きにしてほしいと頼んだのである。
とは言え、ロムナはまめまめしく、炊事洗濯掃除をすべて完璧にこなしてくれている。夕食の作り置きで、どれだけ彼女の負担が減っているかは分からない。
階上に上がり、寝台のある部屋へ。
雛たちが棚の上で身を寄せ合って眠っているのを確認したので、明かりはつけない。
テオドアは、上着を脱いで寝台に放り、乱暴に腰を下ろす。
「疲れた……」
明日から、どのように調査を進めていけば良いのか。
何かを知っていそうなルイスと、気まずくなってしまった。ルチアノから来るはずの連絡もまだ無い。
いっそ、一人で不良三人組を捕まえて来ようか。
そうすれば、何かしらの進展はあるはず。
うーん、と唸って、棚に目を遣る。少ない私物と、レネーヴに頂いた銀のショールと、ルチアノから預かったままの魔石が置いてある。
差し込む月明かりに照らされて、魔石は相も変わらず気味の悪い輝きを放つ。ショールも、まるで生きているように柔らかく動き――動き?
動いた? なんで?
(まさか、魔石の横に置いてあったから――!?)
驚愕するテオドアの目の前で、ショールはふんわりと浮き上がり、迷いなき動きで窓辺に飛んでいく。
「え? あ! 待っ、待って!」
器用にも小声で叫びながら、テオドアはショールに飛び付いた。が、ショールは意思を持っているかのごとく腕を抜け出し、窓を自力で開いて飛んでいく。
月明かりの空に、銀色の布が漂っている。
「戻って来て!」
後を追って飛び出す。地面は遠かったが、咄嗟に木の枝を掴んで勢いを殺した。
テオドアが地面に降りると、ショールは高度を下げ、しかし絶妙に手の届かない高さで前を行った。何度か跳んで掴もうとしたが、その度にひょいと躱されてしまうのだ。
そのくせ、テオドアが森の草木に足を取られそうになると、いったん止まって様子を窺うような素振りをする。
――まさか、どこかへ導こうとしているのか?
そう思い、そこからは黙って後を追った。
どれくらい走ったのだろう。
森の中、もはや自力では寝所へ帰り着けそうもないくらいめちゃくちゃに駆け回ったあと――木々の少ない開けた場所に出て、ようやくショールはテオドアのもとへ舞い降りた。
役目を終えたとばかり、動かなくなった布を抱え、テオドアは辺りを見渡す。
一見すると、湖のようだった。
風が吹けば水面が波立ち、不思議な紋様を作っては凪ぐ。流れる水の音が聞こえるので、あの大きな川の支流が、こちらで湖を作っているらしい。
テオドアは、柔らかい草を踏み締め、湖岸沿いに歩く。
しばらく行っても何もないので、案内されるほどの何かがあるのだろうか、と訝しんだ。
その時。
ちょうど、湖岸に群生する背の高い草を掻き分けたところで、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――第二夫人への道は順調か? ペレミアナ」
テオドアは咄嗟に、音を立てぬようしゃがみ込んだ。
声が――案外近くで聞こえたというのもそうだが――正真正銘、『光の女神』のものだったからだ。
次いで、少し不機嫌そうな声が答える。
「……なんのことですか? わたし、第二夫人になりたいなんて言ったことありません」
「なに。見ていれば分かる。お前たちはあの男を、丸ごと手に入れたがっているだろう。魂だけでは飽き足らなかったか」
「あなたには関係ないです」
身動きしたのか、ペレミアナの声と共に、水の跳ねる音がする。
ルクサリネは笑う。水面を蹴ったらしい水音がする。
どうやら、テオドアがしゃがんだ場所のすぐ近く、背の高い草の向こう側で、二柱の女神が水を浴びているらしい。
――待てよ。
テオドアは、はたと考えた。
軽く泳ぐならまだしも、水浴びなら――身を清めるための行為なら。
まさか、彼女たちは――
真実に辿り着きかけるテオドアの耳に、また違う女性の声が響く。
「あら、ルクサリネにも関係はあるでしょう。あの人のことを好いているのは同じなんだから」
「でも……レネーヴ、」
「私たちが三人いる時点で、独り占めなんてできないもの。もう一人増えたって誤差のようなものよ」
「否、あの男には正妻が居る。どの道、吾らは二番以下の女でしかない」
「そうよね……でも、驚きだわ。まさか女神が、怪鳥より後の女になるなんてね」
明らかに水の中にいるらしい彼女たちに、テオドアは惑いながらも、じっと息を潜めた。
顔が熱い。おそらく、耳まで真っ赤になっているだろう。
万が一にも見てしまうことがないよう、ゆっくりと後退する。当たり前だが、すぐにこの場を脱することができない。
そのうちに、事態は更に動いた。
「ロムナ。お前も疲れているだろう。ここで身を清めると良い」
「……お戯れを。女神さまがたと同じ水を浴びるなど、わたくしには勿体無いことでございます」
ロムナの声は少し遠い。向こう岸にいるのかもしれない。
ルクサリネは声を立てて笑い、「断るのも不敬のうちだぞ」と悪戯っぽく付け加えた。そのためか、暫しの沈黙――衣擦れのあと、ロムナが湖に入る気配がした。
「これでお前とも裸の付き合いだな。同じ男を想うよしみだ、望むなら上級に格上げしよう」
「お気遣い、ありがとうございます。身に余る栄誉ではございますが、もう暫しお待ち頂きたく……」
「何故だ?」
「……あのお方が、成人を果たすまで。おこがましくも母代わりとして、見守って差し上げたいのです」
二人がなにやら良い感じの話をしているが、それどころではない。
裸? やっぱり、彼女たちは今、なにも身に纏っていないのか?
いやまあ、その、水浴びだから当たり前だけど――
(どうしよう! 動けない!!)
気付かれたら死ぬ。冗談ではなく死ぬ。音を立てることを恐れ、テオドアはとうとう、僅かな身動きさえ取れなくなってしまった。
女神に罰されるから、ではない。
彼女たちは寛大だ。もしかすると、覗き未遂の失態を許してくださるかもしれない。それどころか――万に一つだが、歓待してくださる可能性も。
だからこれは、理性と欲の葛藤とせめぎ合い。テオドアの心の問題だ。
少しでも気を緩めて、一線を僅かにでも越えてしまえば。後がなし崩しになって、あっという間に不敬で爛れた関係にもつれ込みそうで。
誰とも誠実に向き合えなくなりそうなのが、何よりも恐ろしかった。
――『気分が乗ったら、混ざっても良いのよ?』
(そういう……ことですか、レネーヴさま……!)
彼女が銀色のショールを渡してきたのは、このためか。
優柔不断な己に、容赦のない選択肢が突きつけられる。
進むか。
逃げるか。
テオドアは、僅かに隔てた向こう側にいる、裸の女性たちを意識しながら――今にも飛び出しそうな心臓のあたりを、強く掴んだ。