98.〝依代〟の奇跡は起きずに
昔、まだこの世界に、空虚の海と暗い空しか無かった頃。
海に落ちた星のひと欠片を波が洗い、一人の女が生まれた。
女は、世界を見渡し、息する者が自分しかいないことをたいそう悲しんだ。
女は空に手を伸ばし、星のひとつを掴んで呑み込んだ。
女は孕み、月満ちて子を産んだ。
星を呑んで生まれた子は、不思議な力を持っていた。
彼 は世界を駆け、さまざまなものに命を吹き込んだ。
強く光る星を創って、昼ができた。
夜闇を優しく照らす星を創って、夜ができた。
彼 が休んだ時の溜め息で、風が生まれた。
彼 の足跡には植物が芽吹き、木々が生まれ、荒れ果てた大地に生き物が生まれた。
女はその後も子を産んだ。自然からもまた子が生まれた。
ようやく世界がひとりでに循環するようになった時、女は海の底で眠りについた。
生き物のいる海の底は、初めと違ってたいそう賑やかだったからだ。
「――というのが、母神の神殿に伝わる神話です。でも、これでも簡略化されたお話でして。神殿にとっては大事な拠り所なので、あんまり流布したがらないんですよ〜。特に、母神の神殿は、秘儀もあって保守的なので〜」
人があまり来すぎても神域が穢れる、とかで、一般にはこれより簡単な神話しか公開していないみたいです。と、マリレーヌは悲しげに溜め息を吐いた。
確かに、〝依代〟たるテオドアをして、『最高神の母神』については「最高神を産んだ神」くらいの認識しかなかった。他の人間も、それこそ神殿関係者以外は、そんなものだろう。
崇める神は同じでも、崇拝の仕方は違う。ましてや、百年に一度、世界中から注目を集める機会のある神殿だ。
過去に何かがあり、人が大挙して押し寄せる事態にならないよう、慎重に立ち回っていたとしても頷ける。
「先生は、よく教えてもらえましたね。流布するのを嫌がるなら、神話を研究している人にも教えるのを渋りそうな……」
「あ! それはですねえ、うふふ、裏技です。内情を知ってはいるけれど、今はその神殿と関わりがないっていう人に聞いたんです。かなりのご年齢だったので、とても詳しく教えていただけました」
「なるほど。ご年配の方なら、お話もたくさん知っていそうですね」
テオドアが同意すると、マリレーヌは嬉しそうに、胸の前で両手を組み合わせた。
「そうなんです! やっぱり、たくさんお話を集めるには、地道に自分の足で調べるのがいちばんなんですよ! あ、それで、あたしがこの神話を好きな理由が……」
と、彼女はいつものように、自然にクッションを引き寄せて座った。
怪我人を床に座らせていることからも分かる通り、椅子はまだ〝埋まったまま〟だ。
「星を呑んで、不思議な力を持った子が生まれた、というところです。色々な解釈ができるんですよ」
「解釈?」
「父神の暗喩だとか、母神を権威付けるための単なる描写だとか。でも、あたしの解釈では、魔力の根源に関わるお話だと思うんです」
「……最高神が特別なお生まれをした、というだけでは? その、『女』が『母神』で、お生まれになった子が『最高神』なら……」
神が特別な生まれをするのは――テオドアのささやかな知識の中でも――そう珍しい話ではない。聞きかじった神話では、神々は木々の葉が擦れたときに生まれたり、火山の噴火から生まれたり、川の流れから生まれたりしていた。
もちろん、神同士が愛し合って生まれた神も、存在しているようだが。
しかし、マリレーヌは首を振る。
「思い出してください。『女』は、もともと超常的な力を持っていました。星を掴んだり、海の底に沈んだり、明らかに人間の技ではありません」
「まあ……そう、ですね。人間のいない時代のことですし……」
「この力の根源は何か。これを『神気』だと仮定します。神が生まれ持ち、兼ね備えるもの、とされるものです」
彼女の声は、どんどんと熱を帯びていく。瞳がきらきらと輝いて、まるで子どものような様相だ。
テオドアは、黙って床に座り込んだ。
「対して、『女』から生まれた子は、〝不思議な力を持っていた〟と明記されています。神さまですから、わざわざそんなことを書かなくたって良いはずです。それは、神がもともと持っていた力と、明らかに違う力なのだと強調されているようなものです」
「それが、魔力だと?」
「はい。この説で考えると、魔力とは後付けされた力である、と示唆されているも同じなんですよ」
確かに。
神気と魔力は、規模は違えど、できることは同じだ。火を付けるのも、風を起こすのも。魔法と呼ばれるものは、この二つのどちらかがあってこそ発動するものだ。
単に、神の使う力を神気、人間の使う力を魔力、と呼び分けているだけかと思っていたが――
「その神話が、もし事実をありのまま伝えていたとしたら。『最高神』は、神気と魔力を両方とも持っていたことに……?」
「そうだったら面白いですよねえ。確かめようがありませんが、こうやって仮説を立てていくのが楽しいんですよ〜。昔に思いを馳せると、まだまだ知らないことがいっぱいだって、わくわくして――あら?」
マリレーヌが、不思議そうにテオドアの肩越しを見る。釣られて振り返ると、大怪我を負って休んでいたはずのルイスが、棒立ちになっていた。
先ほどよりも、一段と顔色が悪くなっている。心なしか身体も震えているようだ。二人の視線を受けているというのに、焦点の合わない視線を虚空に向けて、動こうとしない。
「……ルイス? どうしたの?」
恐る恐る声を掛けると、ようやく我を取り戻したのか、ルイスははっとしてこちらを見た。
「な、なんだ? どうした?」
「どうしたはこっちの台詞だよ。何かあったの? 思い出したこととか……」
「あ、ああ、そ、そうか。いや、何もない。大丈夫、何でもない」
「そっか……」
あからさまに動揺し、挙動不審となっているルイスを、テオドアは複雑な思いで眺めた。
-------
その日の授業は、終始マリレーヌの神話語りで終わった。
近ごろは、テオドアが復習するべき範囲の勉強も、基本的なものはほぼ終わっていた。ルイスの怪我を考慮して、早めに切り上げられる話に、という気遣いもあったのだと思う。
その意図が成功していたかは定かではない。
マリレーヌは神話となると熱くなる女性のようで、伝承の少ない『最高神の母神』について、海辺の民族の海洋信仰と併せてずっと喋り続けていた。
ゆえに、テオドアとルイスが帰路につけたのは、太陽がとっくに沈んだ後のことだった。
「調子は?」
「……別に……」
自力で歩けるくらいには回復しているのか。しかし、ルイスの顔色は依然として悪いままだった。俯き加減で、ずっと何かを考え込んでいる。
怪我だけのせいではないだろう。『母神』の話を聞いてから、ずっとこの調子なのだから。
「……」
テオドアは、肩を並べて歩きながら、星々の輝く夜空を見上げた。
学院から寮への道は、徒歩で十分ほどの距離にある。舗装された道に人の姿はない。正真正銘、ここには二人だけだ。
言うか言うまいか。それが問題だった。
「その……ルイス。例の不良三人組のことだけど……」
迷った挙句に、当たり障りのない遠い話題から切り出す。我ながら臆病なことだ。
ルイスに目を向ける。彼は大袈裟に肩を跳ねさせたあと、目線を彷徨かせながら「何が?」と言った。
「いや。ルチアノ王子に、どうして三人組が怪しいって言ったのかなって。急に言い出してたから、あの時はちょっと驚いたんだ」
「ああ……えー、何だ。そんなの、その前に話題に出してたから、そう思っただけだ」
確かに、王子に呼び出される前、テオドアたちは不良三人組のことを話題にしていた。それを覚えていて、犯人かもしれないと挙げた。ただそれだけ。
筋は通っている。
だが、テオドアには――どうしても、それだけとは思えなかった。
緊張から唇を舐め、一瞬だけ躊躇い、覚悟を決めて口を開く。
「ルイス。ひょっとして、君は――誰かを庇ってるんじゃないかな?」
「……」
「あの不良たちを庇うわけではないけど、彼らが犯人だったら多分、もっと騒がしく犯行をするよ。ああいうふうに、秘密裏に誰かを害するのは、彼らの性格に合わなさそうだ」
あの三人組は、見る限り、己の力を大々的に誇示することを至上としていた。
街の大通りで貴族学校の生徒に絡み、街の人間にそれと分かるよう大っぴらに破壊行動をする。そうやって暴れることこそ、「学院に通う強い貴族」だと思っている節がある。
それが急に方向転換をして、計画的に人を害するなど――まったく可能性が無いとは言えないが――考えにくい。
「彼らがやった可能性を考えるなら、そうだな。いつものように下級生に絡んだけど、やり過ぎて大事になってしまって、急に怖くなって隠れているとか。だから、ここ一週間は街にも現れない」
「……」
「でも、やっぱり彼らにしては、静か過ぎたように思うんだ。下級生に絡むなら、『金貸せやコラ!』くらい、叫びそうなものだよね? そうしたら書店の店主さんが気付くはず――」
テオドアは言葉を切った。
隣を歩いていたルイスが、静かに立ち止まったからだ。
テオドアが二、三歩行って振り返ると、彼は肩を落とし、どんよりと曇った瞳で地面を見つめていた。
「…………分かってる。俺が……俺が間違ってるんだ。今さら、こんなことしたって、取り返しがつかない」
「ルイス、」
「そうだよ……俺は偽善者だ。そうだ、さんざん傷付けておきながら、今になって――クソ!」
痛むはずの両手を、彼は固く握り締めた。そうして、何度も何度も己の太腿を殴りつける。
まるで戒めのように。
「俺たちに奇跡は起きなかったんだ! 〝依代〟さまのような奇跡が! 起こっていたら――こんな――」
言うなり、彼は何かをふるい落とすように首を振り、一目散に駆け出した。怪我人とは思えない速さで、寮への道を走っていく。
「ルイス!」
テオドアの呼び掛けにも、当然ながら答えない。
ルイスはあっという間に、夜闇の向こうへ消えていった。
残されたテオドアは――ただ、大きく溜め息を吐き、額に手を当てて俯く。
やはり、言うんじゃなかった。事件調査という大義があるとは言え、もう少し待つべきだったのかもしれない。
「一歩踏み込むのは、苦手だ……」
どうでも良い人間になら、ずけずけと物申せるものだが。
今のところ悪そうに思えない人間を、尊重しながらも踏み込んで話をするのは、どうにも難しいことだった。