私が13歳になった頃のおはなし
私はミア。
産まれて直ぐに育ての母に拾われたって言い聞かされてきたけれど、今となっては私は拾われたんじゃなくて、盗まれたのではないかって思う。
この日の為に。―――
育ての親である女性は、私の心臓にナイフを突きつけ、ブツブツと何かを喋っていた。
それは呪文のように繰り返され、ナイフは今でも私の胸を貫きそうだった。
脇には見知らぬ男が二人いた。二人は後ろ手を組み、静かに私を見つめている。
その目はまるで生気がなくて、この人達も母の仲間なんだなってすぐにわかった。母も同じ目をしていたから。
薄汚れた窓から外が見える。
夜だから、隣の自分の家の中しか見えないけれど、明かりのついた家を虚ろな瞳で見つめる。
裕福ではなかったけれど、私と母はまぁまぁ良い暮らしをしていた。
訳の分からないカルトにハマって母は変わった。いつからか私を納屋に閉じ込めて…その後は地獄だった。
そんな納屋での生活で一番印象的だったのが、知らない男の子と出会ったこと。
穴が開き、擦り切れて汚れた服を着ているのに、身なりにそぐわぬ良い生地のキレイな布がカバンからチラついているのが見えたから、その子が貧しい盗人だってすぐに分かった。
歳は同じくらいに見えて、恐らく薄紫色であろう髪色は汚れてくすんだ灰色で、ボサボサの頭をした男の子、彼の私を見て驚いた表情は、今でも覚えてる。
母と知らない大人以外には会えると思ってなかった私も驚いたけれど、怖がる私に近付いて、カバンの中に入っていたパンの欠片をくれた事にはもっと驚いた。
彼にとっては大事であろう食料を、見ず知らずの私にくれるなんて。
その後直ぐにどこかへ行ってしまったけれど、数日後に彼はまた来てくれた。
あの時と変わらぬ格好で、私にブランケットをくれた。
このブランケットには見覚えがある。母がおかしくなる以前、私が家で使っていた、ブランケットだ。
うちには盗みにきているんだってわかったけれど、この盗っ人さんはきっと悪い人じゃない、そう思った。
私の足から納屋の柱に繋がれた鎖を彼は引っ張って、外そうとしてくれたけど、鍵がない限りこれは外せない。
母が私の名前を呼びながら納屋に近付いてくる音を聞いて慌てて逃げ出す彼に私は「待って」と言い、一瞬振り向いた彼の顔は、どこか悲しげだった。
納屋に閉じ込められて、なんの娯楽も、ましてや普通の日常すらままならないこんな生活で、私は彼と会うことが嬉しかった。
たった二回しか彼の顔を見ていないし、名前も知らない彼と、数分間一緒に居るだけでも、私は安心することができた。
彼はもうここに来ることはなかった。
ベッドで縛られ動けない私は、足は繋がれて不自由だったけれど体が動かせていた今までの方が全くましだって思った。
この後自分はどこに行くんだろう?
魂の解放だとかなんとか母が言っていた。私は殺されるんだ。それはもう分かってる。
自然と目から涙が溢れ出してはこめかみを伝ってベッドを濡らした。
死にたくない。
そう思いながら、私は静かに目を閉じた。
目を閉じると、綺麗な川で水遊びをする自分が居る。
川の冷たい水をそばに居る知らない女性に向かって笑顔で浴びせ、その女性もまた、笑顔でこちらに水をかけてくる。
誰だかはわからないけれど、この女性が誰なのかは想像がつく。見たことも会ったことも無いけれど、きっとこの人は母親だ。私を産んで居なくなった人。
妄想の中での私はとても楽しそうで、笑い声が頭に響いて…楽しいと感じて、今この状況が怖いなんて事も、忘れられる。
目を開けると、薄暗い部屋にロウソクの明かりが揺れていて、ボロボロのベッドに縛り付けられている私の身体は小刻みに震えていた。
儀式の準備を進めて部屋に戻った女が再び私の元に来て、縛られている腕にナイフで何かを書き出した。
腕から真っ赤な血が流れ落ちる。
頭の両脇で縛られている為、何を書いているかは分からないけれど、とにかく痛かった。
痛みと恐怖で泣き叫ぶ。怖くて仕方がなかった。
私の声は壁の薄い納屋の外まで響いただろう。
ここは、山の外れの家だ。どんなに叫んでも、助けなんか来ない。
儀式当日、食べ物は一切貰えなかったし、今までの疲労や苦痛で頭が真っ白になって、私は意識が朦朧とし、泣き叫ぶ声も小さくなった。
脇にいた二人の男が何やら慌てた口調で母に何かを言っていたが、ぼんやりした映像でしか見えなくて。
男達が慌てた様子で納屋を飛び出し、母が窓から家を眺める姿がうっすら見えた。
自分の血の匂いと混ざって、焦げたような匂いがする。
私は料理されて食べられちゃうのかな?
そんな想像をしながら窓の外を見ると、私が暮らした母の家が真っ赤に燃え盛る炎に包まれていた。
バチバチと音を立てて崩れていくお家。
これが夢なのか現実なのか、私には分からなかった。
異様な音を聞いた。水が溢れるようなゴポゴポした音に、喉から精一杯うがいをしようとする様な、音にならない音。
私の横で、どっさりと何かが倒れ落ちたような音もして、母とは違う人の気配も感じた。
腕や足に触れられる感触がして、朦朧としていた意識が再び覚醒する。
掠れた声をあげて抵抗しようとした時、動かなかったはずの手足が自由に動き、そこに居た誰かを突き飛ばした。
うわぁ!と声をあげて転んだ誰かは、ボロボロの服を着てボサボサの頭の、見覚えのある人だった。
ボソッと「なにすんだよ」と呟きながら立ち上がり、私に背を向け、乱暴に私を背中へおぶった。
その声と姿は私がずっと会いたかった存在で、私が唯一安心出来る存在で、ずっと待っていたその人で…
声を聞いた時にその人があの時の男の子だってすぐにわかったから、おぶられる時には抵抗せず、ゆっくりと彼の背中に顔を埋めた。
納屋を去る時に足元にチラッと見えた人は恐らく母であろう。
血溜まりに倒れ込み、身動きひとつしていない様子から、死んでいるということが伺えた。
こうなる以前は、普通に生活していたのに、母も優しい時はあったのに、全く悲しみを感じなかった。
ただ今は、ここから逃げ出したい。それだけだった。
息を切らしながら走る彼の背中で私は、朦朧としていて、何も考えることが出来なかった。
腕から流れる血が未だに止まらなくて、体が寒くて、彼の体温がとても温かかった。
待ち望んでいた彼と一緒だという事実に安堵し、全身の力が抜けた。
気がつくと、誰もいない空き家にいた。
床に横たわる私には、誰かの夫婦写真が横向きに見えて、それが印象的だった。
かつては夫婦が仲睦まじくここに暮らしていたんだろう。
私の横で、ボロボロの布切れを私の腕に巻く彼の姿があった。
彼の服が切れて、お腹が見えていることから、自分の服を切って私に使ってくれたことがわかる。
露になった彼の脇腹には無数の生傷や痣があり、背中にもそれはたくさんあり、彼の置かれている環境が過酷なものだと物語っていた。
この時代、我が子を痛め付ける親は珍しくないけれど、痛々しい彼の体を見て、私は涙を流した。
もう乾いていたけれど、彼の手は血塗れだった。
恐らく母の血だろう。まだ乾いていない新しい血は私のものだろうか、彼のものだろうか。
もしかしたら彼も怪我をしているかもしれない。
私は彼に、「ごめんね」と言って、泣きながら身体を起こした。
あちらこちらが痛くて、お腹も空いていたから、すぐにまた横になってしまったけれど。
そんな私の身体を優しく支えてくれながら「じっとしてろ」と言ってくれた彼。
そんな彼の名前を、私は知らない。
彼の名前を聞かなくちゃ。
そう思いながら私はまた、眠りについた。
目を開けると、向かいの小さな窓から太陽の光が私の目をさしてきて、思わず顔を歪めた。
辺りはすっかり明るくなって、昨日の夜の出来事なんてまるでなかったかのように、青い空だった。
動き出そうとすると、体は痛むし、目眩もあった。あの夜の出来事は、嘘じゃない。思い出したら手が震えた。
あの時、ボロきれを着た盗っ人さんが来てくれなかったら、私はきっと死んでいただろう。
そんなことを考えながら私を救ってくれた盗っ人さんを探すと、彼は私の足元で壁によりかかり、座ったまま眠っていた。
夜の間、私を背負ってずっと森を逃げてきたから、疲れて当然だ。
彼の優しさや苦労を考えたら目が潤んだ。
泣いてばかりじゃだめだ。
私は痛む体をゆっくりと動かし、静かに眠る彼に近づいた。
彼の隣に座り、眠る姿をしばらく眺めていた。小さな寝息が聞こえて、さっき起きたばかりなのに私も少し眠くなってしまった。
眠る彼の横顔をまじまじと見て、気付く。
汚れているけれど、綺麗な顔をしている。
綺麗なものには触れたくなるのか、私はいつの間にか彼の頬に手を伸ばしていた。
彼の左頬に指先が触れる。
そのままなぞるように彼の頬を包み込む。
柔らかい感触と、右手に伝わる温かさ。
彼は本当に存在しているんだ。夢なんかじゃない。
突然、バッと彼に右手を掴まれて私は思わず声をあげてしまった。
母に切り刻まれた手首の傷が傷んだ。
私が「痛い…」と言うと、彼は「ごめん」と言いながら、力強く掴まれていた右手を離してくれた。
静かに眠っていた彼の睡眠を妨げてしまった。
申し訳ない気持ちで俯く。
視界に彼の腕が伸びてきて、再び私の手首を持ち上げた。
先程とは違って、今度は優しくゆっくりと。
巻いてくれた服の切れ端を外して、傷の状態を確かめる彼。
自分でみても気持ち悪いなと思うくらい、生々しい傷だった。
昨日はダラダラと血が流れていたのに、いつの間にか血は止まっていた。
彼は傷跡の状態を確認し、私に「動けるか?」と聞いてきた。
私は彼の目を見て頷いた。
明るい場所で見る彼の瞳は硝子玉のように綺麗な茶色だった。
時々、木かげや河原で休憩しながら私たちは歩いた。
どれくらい歩いたんだろう。
自分たちがどこにいるかも分からないまま、何時間も歩いた。
隣の彼は、行き先が分かってる様子だったけど、口数が少なくて、会話もあまり長くは続かなかった。
ふとまた思い出す。
未だに彼の名前を聞いていなかった。
私は彼の名前を聞く為、口を開いた。
「ねぇ、君の名前…」
「着いたぞ」
私の声に重なる様に彼が言った。
目の前には活気溢れる市場があった。
ずっと納屋に閉じ込められていたから、こんな風に人に溢れる場所を、久しぶりに見た。
彼はポカンと口を開けて立ち尽くす私の手を握り、私は連れられるように市場の中に入っていった。
市場を抜けると、民家が並ぶ場所に出た。
先程の市場と同様に、裕福な人らしき人は居なかったが、反対に、貧しい人も見かけなかった。
チラホラと人が歩いていたが、汚れてボロボロの私達を、道行く人たちは不思議そうに見ていた。
少し歩くと、彼は握っていた私の手を離し、木造の薄茶色の両開き扉を開けていた。
扉はキィーっと音を立てて開かれ、私たちをいざなうように柔らかい風が背中を押した。
歩いている時に見えていた大きな建物は、ここだったんだ。
白い木造の建物に、一際目立つ十字架が印象的な建物。
彼はここを知っていたみたいで、中に入ると真っ先にどこかの部屋に向かっていった。
彼がいない間に当たりを見渡すと、小さな子供達がはしゃぎ回り、私と同じくらいの歳の子も居て、中は賑やかだった。
元は教会だったのだろうか、教会にあるような祭壇や椅子が並んでいて、祈りを捧げる大人の姿も見えた。
レンガで縁取られた可愛らしい小窓から、太陽の優しい光が射し込んでいて、とても居心地が良かった。
奥の部屋から出てくる彼の姿が見えた。
後ろからもう一人歩いてくる人影もみえた。
その人はスラッと細長くて、真っ白な服を身にまとった、女の人だった。
近づいてきて顔がハッキリしてくると、女の人は心配そうな面持ちで、私の元に向かってきていた。
目の前まで来て、私の肩を優しく掴み、「安心してね、ここは安全よ」と言い、私の手を取り、先程彼が入っていった部屋へと歩いていく。
彼は長椅子に座って誰かに体の生傷や痣を見てもらっているみたいだったけど、彼の表情は明らかに嫌そうで、彼の声で「触るな」「やめろ」と時折聞こえてきて、その誰かも困った顔をしていた。
女の人と部屋に入り、そこにある小さなベッドに座らされる。
水の入った桶に手を入れられて、ビクッとしてしまったけれど、それは温かいお湯だった。
女の人は、小さなこの町のことをずっと喋りながら手当をしてくれていた。
私に何があったのか、聞いてはこなかった。
私は「男の子が助けてくれた」という事だけを何度も口にしていた。
会話の途中、女の人は自分の名前をソフィアだと教えてくれて、私も自己紹介をした。
自分はお医者さんで、ソフィと呼んでほしいなど、たくさん話してくれて、最初は緊張していたけれど、今はとても安心している。
開け放たれた窓から柔らかい風が入り、彼女の優しい薄黄緑色の綺麗な髪がサラサラと揺れている。
青い空と同じ青い瞳で私をじっと見つめて話をしてくれるソフィ、この人はとても良い人だと思った。
話によると、疫病で一度死んでしまったこの町をたてなおしたのはソフィであり、孤児院の院長でお医者さんで、彼女が美人ってだけじゃなくて凄い人だってことは充分にわかった。
その後はキレイな服を貰い、食べ物を貰って、ここに住んでもいいと言ってもらえて、私はこんなに幸せだと感じたのは初めてだった。
つい昨日までは絶望だったのに。
夕暮れになり、彼の傷を見ていた白髪の男性が私に本をたくさん貸してくれた。
この人はノアって人で、ソフィの傍によくいる人だ。
背の高いソフィよりももっと背の高いノアがソフィと並ぶと、壁みたいで笑っちゃう。
二人は姉弟だってソフィから聞いたけれど、この人にとってはそれ以上な気がする。女の勘だ。
貸してもらった本を読まずに携えて、私は彼の姿を探した。
本なんかより、私は彼に会いたい。
半日、お話や治療で、最後に彼の姿を見たのは食事の時だった。
私と彼はお腹ペコペコだったから、二人して凄い勢いで出された食事にがっついてたけど、その後ソフィとお話をしていたらいつの間にか彼は居なくなっていた。
ソフィから貰った新しい靴で床をペタペタ鳴らしながら広間を抜け、今にも沈みそうな夕日の明かりで薄明るい廊下を歩く。
オレンジ色の教会、孤児院はまた一際違って見えて、美しい。
建物の中をいくら探しても彼の姿は見当たらなくて、気持ちが落ち着かなくなっていく。
ザワついた心で孤児院の外に出ると、夕日が沈み、辺りはもうすっかり暗くなってしまっていた。
一度孤児院に戻り、ソフィに彼を探してくると伝えると、彼女もまた彼を探していたので、一緒に探すことに。
ソフィは建物の中を、私は外を探した。
どこを探しても見つからないので、私は教会から少し離れた場所まで行ってみた。
暗くなると、家々の明かりが外に漏れだして、いつの間にかお月様の顔も空に浮かんでいた。
あんなに人で溢れかえっていた市場には人っ子一人見当たらなくて、もしかして彼はどこか遠くへ言ってしまったのでは?と、不安ばかりが募っていった。
市場の脇に小さな道があったので、そこを道なりに進んでみた。
歩いていると段々不思議な音がしてきて、少し怖くなった。
サァーー…サァーー…という音に怯えながらも好奇心で歩みをとめずにまっすぐ進む。
木の壁が草の壁に変わった頃から進む先が見えてきた。
月明かりでハッキリ見える、これは海だ。
海なんて、本や話で聞いたことがあっただけで、自分の目で見るのは初めてだった。
音の正体は波の音だった。
海に見惚れながら柔らかい砂浜を歩く。
足の感触が面白くて、少し走ってみた。
体の怠さや痛みなんかも忘れてしまうくらい、一人ではしゃいだ。
ふと我に返って本当の目的を思い出す。
彼を探さないと。
辺りを見渡すと、海辺に横たわる大きな木に座っている人影が見えた。
その人影を見て、私は小さく息を吐いた。
ようやく見つけた、彼だ。
慣れない砂浜をおぼつきながら走って行き、彼の元へと急いだ。
誰もいないはずの海で足音が聞こえてビックリしたのか、彼は警戒した様子で立ち上がりコチラを見た。
なぜだか彼の姿を見た瞬間、とても気持ちが高まって、安心感と、嬉しい気持ちでいっぱいになった。
私は彼が大好きだ。
彼の側まで来ると、考える暇もなく私は彼に抱きついた。
ん…!と声を出しビックリする彼。
「会いたかった」と言いながら私は彼を強く抱きしめた。
彼は嫌なのか、私を彼から剥がすように押し返され、何も言わずに横たわる木に再び腰を下ろした。
私は大事なことを彼に伝えた。
「ありがとう」と。
殺されそうだった私を助けてくれて、こんな素敵なところにまで連れてきてくれて、感謝の気持ちでいっぱいだと、彼に伝えた。
彼は私の顔を見ずに、手に持つ果物を食べていた。
先程通ってきた市場にあった果物だ!
私の話を聞いているのか聞いていないのか、黙々と果物を食べる彼。
「それ…ぬすんだの?」と彼に聞くと、彼はもうひとつ同じ果物をポケットから取り出し、私に差し出した。
私は黙ってそれを受け取り、一緒になって食べた。
二人で悪いことをしているみたいで、なんだか楽しかった。
月明かりで照らされた彼のキレイな顔は、なんとなく楽しそうな気がしたけれど、あんまり何も言わないから、本当はどうだか分からない。
(海を見渡せる場所からソフィアが二人を見て微笑みながら帰る様子を二人は知らない)
横たわる木についている方の彼の手に、自分の手を重ねた。
彼に触れている時間は、心強くて、温かくて、安心できる。
この時間が、永遠に続けばいいのになって…。
その日の夜中だろうか、朝方だろうか、まだ暗くて分からないけれど、教会の孤児院の木造のベッドがふたつある部屋に、私たちは眠っていた…はずだった。
白い木の床の軋む音でうっすらと目が覚めた私は、暗闇の中で動く彼の姿を見た。
部屋にある小物などを自分のカバンにつめている様子を見て、私は寝ぼけた頭で考えた。
彼は何をしているのだろう…?
今の私はとても眠たくて、そこまでしか考えることができなかった。
今にも閉じてしまいそうな瞼でゆっくり瞬きをする。
ひとつ、瞬きをすると、いつの間にか私の目の前に彼が立っていた。
咄嗟に私はもう一度目を閉じた。
起きていても何も問題は無いはずなのに、つい眠っているふりをした。
木の床が微かに音をならしたかと思うと、自分の髪に手が触れる感触がした。
背中の上までかかる焦げ茶色の髪は、ベッドに横になっているため、肩からだらんと落ちていた。
その髪に指が通る感覚が、何だか気持ちが良くて、そのまま眠ってしまいそうだった。
眠りにつく直前、優しく頬を両手で包まれた感触と、額に柔らかい感触があったのを、感じた。
孤児院の教会で、朝を迎える。
小鳥の声と、広場から聞こえるであろう子供達の声がした。
ベッドからゆっくり体を起こすと、昨日よりはかなりましにはなったけれど、まだ体は痛かった。
ベッドから足を出してしばらく座っていると、部屋の薄い木の扉を、コンコンと軽く叩く音がした。
「起きてる?」と言いながら微笑んだ顔で入ってきたのはソフィ。
その手には水の入ったグラスと、包み紙。
「お薬のお時間よ」と優しく言われ、私は小さな包みに入った丸い小さな白い粒を、水と一緒に流し込んだ。
ふと、彼が寝ていたはずのベッドに目を向ける。
彼の姿はなく、カバンも見当たらなかった。
夜か朝か分からないけれど、暗闇の中の彼の記憶が蘇る。
額に感じた柔らかい感触は、もしかして唇?
母が昔よく、眠る前にベッドでやってくれていたのと、同じ感触だった。
記憶は曖昧だけれど、それは彼の?彼が私に?
そんな風に考えていたら、胸がドキドキしてきた。
こんな気持ちは初めてで、私は心臓に手を当てた。
ドクドクと脈打つ鼓動が手に伝わる。
彼に会うのが楽しみで、緩んだ顔でソフィに聞いた。
「彼はどこ?」と。
微笑みを絶やさないソフィの顔つきが、ほんの少し悲しく歪んだ気がした。
眉を下げて、ソフィは申し訳なさそうに口を開いた。
「彼はね、もう帰っちゃったみたいなの」
「え…?」
その一言で、緩んだ私の顔は一瞬で真顔に変わった。
「家は?どこにあるの?」
立て続けに私はソフィに問いただす。
彼が居なきゃだめなの。
潤んだ瞳でソフィを見つめる。
ソフィは小さく首を振って、私をそっと抱きしめてくれた。
私がどんなに彼を想って、どんなに彼が大好きで、どんなに彼に会いたいか、ソフィは全てを知っているかのように、私をぎゅっと包んでくれた。
「ラルフよ」
ぽつんとソフィが呟く。
私の瞳から流れ落ちる雫が、彼女の肩を濡らす。
優しく頭をさすってくれながら、「彼の名前は、ラルフよ」と、言い、私の頬を伝う雫を指で優しく受け止めてくれた。
彼がよくこの孤児院に来ていたことも、家や家族の話もしてくれないことも、知っているのは名前と、彼が16歳だということも、教えてくれた。
その後、ソフィから聞いた、教会の色んなものが一晩で無くなっているという話に私は笑ってしまった。
いつもの事だそうで、彼、ラルフが来た次の日は必ず色んなものが無くなっているそうだ。
''ラルフ,,
謎だらけの彼。
ただ確かなのは、彼はとても勇敢で、善人だということ。
あれこれ盗んじゃうし、態度は悪いけれど、私の命を救ってくれた、私の英雄。
彼がどんな人なのか知りたい。
私は心に決めた。
彼を探し出す。
見つけて何をしたいってわけじゃないけれど、ただただ、彼に会いたい。
―――
私がラルフと初めて出会い、彼に恋をした、そんな私のお話。
この先に、どんな困難や苦痛が待ち受けているのかを、この時の私はまだ知らない…。




