146 エピローグ
「有紗おばあちゃーん、来たよー」
階下のオートロックを開けてからいくらもしないうちに、玄関のドアが開いて、ドタドタと軽い子供の足音が響く。
最近、この家の玄関のセキュリティを一人で開けられるようにしたので、遠慮なしに入ってくる。
有紗は、紅茶を淹れる手を止めて、リビングのドアを開けた。
「まったく騒々しいわね。未来、あなた今年で十二でしょ」
「いいの。スクールの男の子なんて、まだみんな子供なんだから!」
そう言って、有紗の孫の未来は、洗面台で手を洗ってからリビングのソファに座った。
有紗譲りの明るい栗色の髪がふわふわ揺れて、思わず有紗は孫の髪を撫でた。
その後すぐに、ポーンと玄関のセキュリティシステムが鳴ったので端末でロックを外すと、「こんにちは!」と礼儀正しく、八歳の男の子が入ってきた。未来の弟の太陽だ。
姉に置いていかれても動じない肝の据わった子だ。
こちらは姉と違って、有紗の夫譲りの金髪に近い栗色をしている。
「いらっしゃい、太陽。少し背が伸びたかしら」
「うん。1.2㎝伸びたんだ」
2ミリが誇らしいらしく、子供らしい細かい数値の報告に、有紗は相好を崩した。
今日は、有紗の娘夫妻が旅行で出かけたので、孫たちを預かる日だった。
孫たちは、いつまで経っても若々しいこの祖母が大好きだ。
何故なら、祖母はある秘密を持っていたから。
「ねえ、おばあちゃん。あのお話して! 異世界のお話!」
未来がソファから身を乗り出してねだる。大人しくはしているが、太陽も同じようにワクワクとした気持ちが顔いっぱいに溢れている。
「そうねぇ。前はどこまで話したっけ?」
「竜騎士のお話!」「サンちゃんがクラーケンに飲み込まれたお話!」
二人ともそれぞれに印象に残った話が違うようで、思わず有紗は苦笑する。
「それじゃあ、黒い竜退治のお話にしようかしら」
そう言って有紗は、遠くを見つめるように目を眇めた。
今でも有紗には、あの世界がすぐ目の前にあるように感じられるくらい、鮮明な記憶だった。
有紗と綾人は、日本へ帰ってきた。
二人は、波瑠が奇跡を起こしてオーレリアンの命を取り戻した後、五年エルセに留まった。
瘴気は減ったとはいえ、エルセは地球よりも広大な地で、その脅威を拭い去るのには時間を要したからだ。
それでも、千年を超える戦いを思えば、瞬くほどの時間だった。
そして、その全てに決着がついたとき、二人は元の世界に帰ることを願ったのだ。
エルセにも大切なものがたくさん出来たが、波瑠とオーレリアンがここで育んだものを見て、二人は日本に置いてきたものの大切さを思い出したからだ。
綾人の一度目の帰還もそうだったが、オーレリアンが再現した道を地球へ辿るのは容易だった。
今度は自分の命を削るまでもなく、召喚陣を逆流させた陣で帰らせることができた。それには女神の力添えもあったのは確かだろう。
二人は帰還後、それぞれ別の人生を歩んだ。
有紗は外資系の商社に入り、世界中を駆け回っていて、もう一つの母国のイギリスで知り合った男性と結婚して二女を設けたが、夫は早くに病で他界してしまった。
綾人は官庁に入庁後退職し、コンサルタント会社を立ち上げて、メディア取材を受けるような有名人だったが、同業の女性と結婚して、子供のないまま四年目に離婚したものの、今ではビジネスパートナーで相手とはいい関係を築いていた。
歩む道は違ったけれど、二人は同じ記憶を共有し、もう四十年に渡る付き合いは途切れることはなかった。
綾人は会社を後進に託して以来この十年、頻繁にこの家を訪れては長い時間居座るので、広い一人暮らしのこの家に綾人の部屋を作った。
パートナーでもないし、恋人でもない。月の半分をただ一緒にいる同居人のような生活だ。
「ただいま~。って、チビたち、来てたか」
「あ、綾人さんだ。おかえりなさい」
ちょうど折よく綾人が帰ってきた。
六十を過ぎても変わらぬ容姿で、年齢に応じた落ち着きを身に付けた綾人は、今も異性から多くの誘いを受けている。
孫たちも綾人によく懐いていて、もしかすると有紗よりも一緒に出掛ける機会が多いかもしれない。
綾人は、駆け寄った太陽を抱き上げながらソファに来ると、有紗にもう一度「ただいま」と言って、太陽を抱えたまま有紗の隣に腰を下ろした。そこが綾人の定位置だ。
恋人と言うには親愛が強く、家族と言うにはどこか一線がある戦友のようなこの関係を、多分自分たちは、どちらかがこの世を去るまで続けるのだろうと有紗は思う。
「みんなで何を話してたんだ?」
「「エルセのお話!」」
綾人が尋ねると、元気のいい子供たちの答えが返ってきた。それに苦笑しながら、有紗と綾人は互いに顔を見合わせた。
「そうだ! 綾人さん、写真見せて。エルセの写真!」
太陽がワクワクしながらお願いする。
有紗はなかなか見せてくれないが、綾人は結構気軽に見せてくれるからだ。
有紗と綾人の間に子供二人を座らせ、四人で写真を見た。
有紗と綾人の端末のフォルダには、自分たちが撮ったものや波瑠がエルセから送ってくる写真がたくさん入っている。
赤い竜の眷属の飛竜を飼いならして騎獣とした、エルセ最初の竜騎士になったユーシスの写真。
これは未来のお気に入りの写真で、ユーシスの本性を知っている有紗と綾人ですら騙されそうになるくらい凛々しく美麗な写真だ。
その次は、白虎に乗って若い竜騎士たちに羨望の眼差しを向けられているレアリスの写真。
レアリスもユーシスに次いで竜騎士の資格を得たが、本人は隠密のスキルを使う方が性に合っていると言って、その部隊に入ることを断っている。何ともレアリスらしい話だ。
次は、淡々とした表情で自分たちの結婚式を挙げるイリアスとリウィアの写真。
そういえば、この二人は結局くっついたんだっけ、とぼんやり有紗は思い出す。幼馴染二人は、何だかんだで身分も性格も合っていたようで、仲は良かったと思う。
でも、祝福を受ける側の顔じゃないと、何度見ても笑える写真だった。
次々とフォルダが移っていって、波瑠とオーレリアンの写真が出てきた。
二人は、この世界を救った功績で、自由な身分を願った。
オーレリアンは王子としてではなく魔術師として国に仕えるようになり、領地を手放して平民となった。
そうは言っても、エルセの英雄と言ってもいい功績で、二人には名誉職の身分が与えられた。
各国どこにへ行っても、等しく入国が許され、身分が保証されるものだ。
でないと、レジェンドたちが二人を引っ張り回して、いちいち入国審査など受けていられないからというのが裏事情だ。
それに伴い変わったのが、波瑠のオーレリアンの呼び方だ。
波瑠はいつもオーレリアンを名前で呼ぶけど、もう王子ではないのに、癖なのかたまに「王子」と呼んでしまう。
でも、二人きりの時は「リアン」と呼んでいるのを有紗は知っていた。
写真を送っているうちに、こちらも結婚式の写真が出てきたが、イリアスたちと違って幸せいっぱいの笑顔のハルと、苦笑するようにだが、ハルを愛おしそうに見つめるオーレリアンが写っている。
もうオーレリアンは王族の身分ではないので、親しい人間だけを集めた式のはずなのに、各国からお祝いと言ってたくさんの人が贈り物を送ってきて、波瑠が困っていたな、と思い起こした。
その次の写真は、その結婚式にレジェンドたちが乱入してきたものだ。
式は人間のために開いたものだったのに、自分たちも混ぜろと言って、その場はもういつもの宴会のようになってしまったのを覚えている。
結婚式の後、しばらくは瘴気の残滓の討伐で、有紗や綾人たちも一緒にあちこちを飛び回っていたが、波瑠とオーレリアンは離れることはなかった。
そして二人は、討伐の合間にある自由な時間に、フェンリルに乗って世界中を旅していた。
その時に送ってくれた写真もたくさん残っている。
星に届きそうなほど高い頂の山や、エメラルドグリーンの火口湖に、滅多に会えないという島のように大きな魔獣、樹氷が織りなす絵画のような白銀の世界。この世界の美しい場所を巡っていた。
自分たちが守った世界を、目に焼き付けるかのように。
世界を救った日から三度目の冬が巡る頃、波瑠が子を宿したことを告げた。
それはもう、周囲が大騒ぎして波瑠は絶対安静にさせられ、特にオーレリアンとフェンリルが監視するがごとくあれこれ口出しをして、あまりの過保護さに波瑠が「いい加減にして!」と盛大に怒りを爆発させた。
波瑠は、女子会のメンバーに見守られながら、ベースキャンプで出産準備をすることにした。やはりそこが、一番落ち着く場所のようだった。
そこで撮った写真には、臨月で大きくなった波瑠のお腹を、愛おし気に撫でるオーレリアンとの二人の姿があった。綾人がこっそり隠し撮りしたものだ。
そして、波瑠の誕生日からひと月後、波瑠は男女の双子を出産した。
オーレリアン譲りの銀髪に、波瑠譲りの茶色の目をしていた。二人は、瞳にこそ女神の色を宿してなかったが、二人の掌には、三つのヤドリギが合わさるような意匠の痣があった。
波瑠の元を訪れたウルズが、それは過去、現在、未来を示す女神の祝福だと教えてくれた。
双子の名前は、名都と愛生になった。
波瑠そっくりの兄の名都、オーレリアンそっくりの妹の愛生。波瑠から巡る季節の名を付けたのはオーレリアンだ。
愛らしい子供を囲んだ二人が並んだ写真は、ただただ幸せが溢れていた。
そこからは、有紗と綾人のいないエルセから送られてきたものだ。
オーレリアンの身長ほどに大きく立派になったガルの背中に乗る姿や、マンドラゴラを鷲掴みにしているやんちゃな姿、成長して魅力的になっていく姿、その時々の双子の姿があった。
他にも、変わらないレジェンドたちや、ユーシスやレアリスの子供たち、年齢を重ねていくエルセで出会った人たちの姿。その一つ一つが眩しく映る。
かつて見た、綾人の姉の夕奈の記録も、こうした想いで撮られたのだと分かる。
その記録は、一年前で止まっている。
最後に、有紗と綾人の前には、二人が地球に帰る直前に撮った集合写真があった。
かけがえのない時を一緒に過ごした仲間。
いつかこの記録が、止まったままになるのが怖い。
自分たちは、変わらないはずの日常が、突然失われることを知っているから。
そこに指を馳せる有紗の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「ねえ、綾人。もし、私が召喚された時、波瑠の手を掴んでいなかったら、今の私たちはどうなっていたのかしら」
「……有紗」
有紗の胸に、過去の日が去来する。
自分が巻き込んだにも関わらず、他人が関与したとはいえ、一度波瑠を見捨てた。
でも波瑠は、そんな私を許してくれ、心の支えにもなってくれた。
そして、この出会いに感謝してくれたのだ。
私はまだ、波瑠に伝えきれていない。きっと余生を全て使っても、この気持ちを全部伝えられないかもしれない。
それだけあなたに感謝してるの、波瑠。
「過去はもうどうにも変えられないけど、きっとやり直すことがあっても、有紗はまた波瑠と出会えるよ。何度でもね」
そう言って綾人は、子供たち越しに有紗の髪を撫でて、「それに」と言った。
「あの世界の神様や魔獣たちのことだから、きっとなんか事件を起こして、今頃波瑠が『いい加減にしてー!』って怒鳴ってるんじゃないかな」
綾人のおどけた声に、有紗は思わず笑ってしまった。その光景は簡単に思い浮かべることができたから。
「有紗おばあちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
有紗の涙に気付いた子供たちが、気遣わし気に有紗の手を握った。
有紗は、過去だけじゃなく、ここにも宝物があることを思い出す。
「大丈夫よ。どうやったら大切なお友達に感謝を伝えられるか、考えていたのよ」
握られた小さな手を、またその上から握った。
「それなら簡単だよ。『ありがとう』って言えばいいんだ」
太陽が得意になって教えてくれた。その柔らかい子供の頬を包むように撫でた。
「そうね。そのとおりね」
何となく感じた明るい予感と子供たちへの愛おしさで、有紗は笑った。
不意に、有紗の端末が鳴った。ハッとなって画面を見ると、そこには『波瑠』という文字が浮かんでいる。
有紗は震える手で端末を操作する。
「……もしもし……」
『あ、有紗ちゃん! ごめん、ずっと連絡できなくて。お父さんがスマホ壊しちゃって、修理の材料を集めてメンテナンスするのに一年も掛かっちゃった。……え? 有紗ちゃん、もしかして泣いてる? 心配かけてごめん!』
変わらない波瑠の声に、有紗はとうとう嗚咽を我慢することができなくなった。
通話口で、波瑠がオロオロとするのが伝わって、ようやく有紗は涙を飲み下すことができた。
「大丈夫よ。ただ、あなたに伝えたいことがたくさんあったの」
まだ震える声だったが、『なあに?』と返されるいつもの柔らかい言葉に後押しされて、素直な気持ちが溢れ出した。
「大好きよ」
何回でも伝えよう。いつか本当に終わりが来る時まで、何度でも。
「波瑠。ありがとう」
終
この話を書き始めたのが、2022年2月でした。
その時は、書籍化も長編化することも全く想像していませんでしたが、2年3か月を掛けて、とうとう完結を迎えることができました。
長い長い話となりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
書籍化につきましては諸事情によりまだ完成を迎えておりませんが、続報が出次第活動記録や✕(旧Twitter)で発信していきたいと思います。
改めまして、これまで評価や感想で応援してくださった皆様に、心からの感謝をお伝えしたいと思います。
このお話は、ここで一度完結とさせていただきますが、また新たなお話が思い浮かびましたら掲載させていただきますので、その時はまた読んでね!