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08

 ヴァネッサさんの案内は、その後トラブルもなく平穏に進んだ。

 ゼルマインドの領域では誰もが彼女に頭を垂れて、誰もが彼女に道を譲り、彼女の関係者である俺たちの顔を忘れないようにと真剣な顔つきで凝視してきた。

 おかげで少し居心地は悪かったけれど、今後彼等が慎重に接してくれる可能性が高い事を考えれば、非常に安い手数料と言えるだろう。彼女の支配力の強さを感じた一場面でもある。

 そして、その支配を象徴するゼルマインドのエンブレムは壁ではなく地面に描かれていて、それは夜の中でもくっきりと浮かび上がる黒色のダイヤモンドのようなカタチをした大変目立つものであり、中地区の一部でも見たことのあるものだった。

「この印がある場所で守るべき事は一つ。我々の許可なく金銭のやり取りをしない事だけだ。ただ過ぎ去るだけならば問題が起きる事はない。起こす者は我々とは無関係ななにかだ。殺しても構わない。もっとも、それがヘキサフレアスの面子であった場合は、話が変わって来るがね」

 そんな言葉で締めくくって、ヴァネッサさんは次にヘキサフレアスの領域に足を踏み入れた。

 ここは俺も安心して利用できる場所なのでそれなりに把握している部分も多いが、エンブレムの件は彼女に言われるまで知らなかった。

 ヘキサフレアスの印は、建物のかなり上層に刻まれていたからだ。

 それは、リッセを象徴する朱色で描かれた、どこまでも鮮やかで美しい花の形をしていた。元々ヘキサフレアスとは花の名前なので、この上なく適切な印ともいえるだろう。

 ちなみにどんな花かと言えば、生物の体内(主に脳)に寄生する針状の種を飛ばし、宿主をある程度コントロールしながら栄養を蓄えて、発芽すると同時に周囲に致死性の高い猛毒をばら撒き死体を量産し、その死体を養分に一気に開花まで成長するという、別名『死狂いの花』と呼ばれているようなもので、『貴族飼い』の異称をもつリッセとはそこそこに近い共通点があったりした。

「そういえば、リッセはあの花の実用化を、どの段階まで進めているのだろうね。シュノフで大きな実験までしたのだから、もうそろそろなのだろうけれど……もし、あれを完全に掌握する事が出来れば、貴族たちの恐怖は今までの比ではなくなりそうだが。君は、なにか聞いているかな?」

「……私は彼女の友人ですけど、仲間ではないですから」

「そうだろうね。彼女は身内を除いた仲間をけして外には漏らさない。よほどの信頼がない限りは、ね」

 確信をもったような微笑で、ヴァネッサさんは言う。

「だとしたら残念な話ですね。私が教えてもらっているのは、ここの規律だけですから」

 苦さと寂しさを少し含ませながら、俺はそう言葉を返した。

 実際は数人ほど彼女から紹介してもらう機会があったわけだけど、もちろんこんな真実を話す理由はどこにもない。話したら最後、リッセが敵になるだけなのだから当然だ。

 仮に、それで代わりにゼルマインドの庇護が得られる事になったとしても、俺が選ぶ相手は変わらないだろう。

「ここで守る事は二つ。余所で起きた問題や都合を持ち込まない事と、クスリ絡みの商売をしない事、だったかな」

「それと、下地区の女性に怪我をさせない事だよ。言い忘れていたが、私や連盟のところでもそうだ。娼婦は我々にとって非常に重要な存在でね。自衛以外で殺す事は認められていない」

 話の流れでした俺の説明に、ヴァネッサさんがそう捕捉を入れてくる。

 これもまた初耳の情報だった。情報提供者としての価値を娼婦という職業が有しているからだと推測する事は出来るけれど、神経質に感じられる項目にはそれ以外の要素も窺える。……が、まあ、このあたりは気にしても仕方がないだろうし、そもそも気にする必要もあまりない。わざわざ注意なんてしなくても、そんな醜悪な行為をする道理がこちらには存在しないからだ。

「……さて、ヘキサフレアスの領域はここまでだ」

 朱い花が建物の上方から消えて、壁の質もまたがらりと汚れたものに変わった一帯が視界に入ってきたところで、ヴァネッサさんが足を止めた。

「この先にあるのは印のない無法地点。三つの勢力の隙間に点在する言葉通りの場所だね。徒党を組み最低限の秩序を織りなすことすら出来ない、魔物以下の生態系だ」

 柔らかな声色との落差に眩暈がしそうなくらい辛辣な言葉と共に、彼女はそこから背を向けた。

「こういった支配する価値すらない場所さえ歩かなければ、下地区はそれほど危険ではない。私の案内は以上だ。今日は、なかなかに愉しい夜歩きだったよ。ありがとう」

 どうやら、彼女にとってこの時間帯の散歩は日課のようなものだったようだ。

 本当に偶然、俺たちと接触したのかどうかは判らないけれど、なんにしても悪い感触じゃなかったのなら幸いである。

「いえ、こちらこそ、色々と知らない事を教えていただいて、以前より気楽にこの下地区を歩くことが出来そうです」

「そう、それは良かった」

 最後にふっと微笑んで、彼女は変わらぬ足取りで立ち去って行った。

 その後ろ姿が完全に消えて、それから更に二十秒ほど間を置いたところで、

「……はぁ、疲れたわね、マジで」

 と、ミミトミアが盛大なため息を零した。

 だな、とザーナンテさんも同意して、

「あれだけ立派な美人が傍にいると、やっぱ緊張するよなぁ」

「いやいや、そうじゃないでしょ? 怖かったでしょ? 背伸びするのも躊躇うくらいにヤバい相手だったじゃん!」

「まあ、確かに怖かったが、それはそれ、これはこれだろう」

「……あんたって、時々大物よね」

 感心するような呆れるような何とも言えない表情でそう呟いてから、ミミトミアはこちらに視線を向けて、

「なんにしても、喉渇いたわ。ねぇレニ、あんたの家でなんか飲ませてよ」

「いいよ。八十リラ(2400円くらい)ね」

 にこやかな笑顔を用意して、俺は言った。

「それはぼったくり過ぎだろ! ……八リラなら、払うけど!」

 唇を尖らせながら、意外に殊勝なことをミミトミアは吐き捨てる。

「もちろん冗談だよ。案内するのも結構楽しかったね。秘蔵の甘味水を、無償で提供してもいいかなってくらいには」

 苦笑気味にそう返して、俺は最後にこれといって面白味もない自宅に二人を招待する事にした。


       §


 自宅に戻った俺は、お気に入りの甘味水を一緒にちびちびと呑みながら益体のない話をしたり、広場で買ったボードゲームのルールを説明したりして三十分ほど過ごしたのち、ミミトミアたちと別れた。

 思えばこの家に他人が遊びに来たのは初めての事だったので、なんだか不思議な時間だった。

 その感慨に少し耽りつつ、そういえば今何時だろうと懐中時計を確認すると、思いのほか夜も深まっていた事に気付く。

 ミーアはまだ帰ってきていない。遅くなるとは聞いていたけれど、さすがに遅すぎる気がする。

 もしかして、なにかあったんだろうか?

 いや、さすがにそれは考え過ぎか。そもそもミーアはか弱い女の子ではないのだ。トラブルを処理する能力は俺よりも高いだろうし、心配する必要はない…………ない、筈なのだけど、一度気になりだすと流す事は出来なくて、落ち着かない気持ちが体内で燻りだす。

 おかしな話だ。今までだって彼女の帰りが遅かった事はあった。でも、それに対して何か行動を起こそうと思った事なんてなかったのだ。

 なのにどうして、こんなにも余分な干渉を望む自分がいるのか……。

 じっとしているのが苦痛に感じるほどだなんて、どうかしている。その理由に心当たりがある所為で、余計に嫌な気持ちになる。

 コントロール出来ない感情なんて、迷惑以外の何物でもない。

 ここは何とかして、以前と同じスタンスを維持するべき……そう、強く思うのに。

「……そういえば、調味料切らせてたな」

 なんて事が急に思い出されて、外に出る口実を滑稽なほど強引にひねり出した自分に、なんともいえない嫌らしさを覚えつつ、それでもその理由に飛びつくように、俺はソファーに降ろしていた腰を持ち上げて、買い出しのついでに彼女を迎えに行く事を決めた。


次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。

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