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07

「……ガルドアンクさん」

 どうして此処に、と喉元まで出かかった言葉を、俺は唾を呑むと共に引っ込めた。

 それは場違いな問いだったからだ。彼女は下地区を仕切る二つの組織の一つであるゼルマインドのボスなのだから、この区画にいる事に何ら不自然さはない。

「ヴァネッサでいい。君は最初、私をそう呼んでいた筈だろう?」

 心なし愉しげに、彼女はわらう。

 内容さえ無視すれば、それは実に魅力的な笑顔だったが……どれだけ記憶を辿っても、この人の名前を声に出して呼んだことは一度もなかった。

 日常的に会っている人物ではないのだ。まして気軽な相手でもない。忘れているなどという事はありえないだろう。

 認識がかみ合っていないというのは、気味の悪い話だ。

「心配しなくても、今のは君の思考の中の話だ。君が私の苗字を知ったのは、名前よりもあとの筈だからね。だから、今も君は私の事を頭の中ではヴァネッサと呼んでいるのではないかと思っただけ。ただの暇潰しだよ。正解なら今日の私は冴えていると、自覚できる程度のね」

「……そんな確認をしなくても、貴女は常に冴えているように見えますけど」

 苦笑気味に、俺はそう返す。

 もちろん、内心は嫌な感じで一杯だ。胸の内側を的確に覗かれたようで、気分が悪い。

「気を悪くさせてしまったのなら謝ろう。退屈な仕事の帰りでね。微笑ましい反応が見たかったんだ。……ところで、そちらの二人は? 見ない顔だが、紹介を求めても構わないかな?」

 またも装った表情の奥を見透かすような事を言いながら、ヴァネッサさんは俺の左側に視線を流した。

 こちらも促されるように二人を見る。二人とも、判りやすいくらいに強張った様子だった。

 強い魔力を放たなくても、高圧的な態度をとらなくても、本当的に危険だと抱かせる雰囲気が彼女にはあるという事だろう。

「ユミル・ミミトミアとガフ・ザーナンテ。二人ともレフレリから来たばかり冒険者です」

 本来なら当人たちが自己紹介するべきなんだろうが、ミミトミアあたりが変なガッツを見せて反抗的な言動を取らないとも限らなかったので、俺が代わりに紹介を済ませる事にする。

「なるほど、だから下地区の事を教えようというわけか。それは良い心がけだ。無知な者は、この街では長生きが出来ないからね」

 と、そこで、ヴァネッサさんは微かに眉を顰めた。

「だが、君では説明役として些か不十分。私が担当するのが妥当だと思うのだが、どうだろう?」

「……ヴァネッサさんが、よろしいのであれば」

 そう答えると、彼女は艶やかに微笑んで、

「では案内がてらに説明していこうか。その方が理解も早いだろうしね」

 と言い、ゆったりとした速度で歩き出した。

 かちゃ、かちゃ、という金属音が彼女の左足から聞こえてくる。義足の音だ。ある意味で彼女を最も象徴する音。

 この世界において、半永久的な手足の欠損という事態は極めて珍しい。治癒魔法の存在によって大抵の傷はたちどころに治せてしまうからだ。そのおかげもあって、即死しない、または治癒に必要な当事者の血液さえ足りていれば大抵は完治するというのがこの世界の常識なのだが、その常識を覆すほどに強力な魔力を帯びた損傷を負った場合、修復の参考となる存在の設計図というべきものが歪んでしまい、治す事が出来なくなる。

 つまりそれだけ強力な、神にも匹敵するなにかと、彼女は過去に遭遇した事があるという事だ。この身体のオリジナルであるレニ・ソルクラウと同じように。

「君も、下地区の一部しか把握はしていないだろうし、この機会に色々と知っておくといい」

 十字路に差し掛かったところでそう言って、ヴァネッサさんは左手に舵を切った。

 一度も足を運んだことのない方面だ。リッセの縄張り外である事だけは確かだけど、他に知っている情報はない。彼女の言う通り、俺も下地区の事をそれほど知っているわけではないのだ。

 ただ、踏み入れてはいけない場所だけを把握している。ミミトミアたちにはそれだけしっかり教えればいいと思っていたんだけど、果たしてそれ以上を知ってしまう事はメリットとなるのかデメリットとなるのか……。

「あの落書きが見えるかな?」

 一番低い位置に掛けられている梯子の脇を、ヴァネッサさんが指さした。

 そこには、首を吊った男の姿が描かれている。

「あれはズフェアと呼ばれる脳無し共が仕切っているという印だ。壁にはそこを縄張りと主張している者達の絵が刻まれている。この下地区においての習わしのようなものだね。まあ、この辺りではさして意味のない模様でしかないが。……他にも、印が見えるだろう?」

 彼女の言葉通り、心臓にナイフを突き立てているものや、鳥型の魔物を菱形の枠で囲ったもの、グラスに大量の硬貨が注がれているものなど、複数のエンブレムが壁には描かれていた。

 それ以外にも消し損ねたと思われるものも多くあって、この場所が明確に誰かの支配下となっているわけではない事を物語っている。

「此処は愚物通りと呼ばれている一帯で、夢を見てやってきた余所者たちの巣窟となっている。トルフィネは他の下層と違って、大成しやすいと思われているからね」

「どうして、そんな風に思われてるわけ?」

 と、躊躇いがちにミミトミアが訪ねた。

 すると彼女は、くすりと笑い声をもらして、

「余所から来た人らしい疑問だね。簡単な話だよ。それは此処に上地区と同等以上の価値があるから。つまり、此処で名を成すという事は、貴族と並ぶに等しいという事でもあるわけだ。それだけの付加価値が成功に含まれている。余所の都市の野蛮な場所では、まずない事だろう」

「でも、それって、それだけデタラメな奴がこの下地区を仕切ってるって事よね。トルフィネの人間なら誰もが知って納得するような、普通じゃあり得ない事が許されてるくらいの力を持った奴が。……もしかしてそれが、あんたがさっき口にしてた無法の王って奴なわけ?」

「残念ながら関係はない。あれはただの災厄のようなものだよ。なんの益もなく全てを壊す、愚者の権化だ。その癖に此処を根城にはしていない捻くれ者でもある」

 冷たい言葉とは相反した優しげな微笑みを持って、ヴァネッサさんは言う。

 そして、少しだけ歩調を速めた。

「下地区で大きな力をもっているのは、ゼルマインド、ヘキサフレアス、ミルフシャ連盟の三つの勢力とされている。愚物通りの有象無象は連盟が飼っているようなものだから、ここは彼等の管轄とも言えるね。小さな席を巡って内輪で殺し合いしかしていない、平和な場所だよ」

 平和という言葉には甚だ疑問しかないが、それよりもミルフシャ連盟という存在が気になった。

 先の二つと違って、その存在だけは知らなかったからだ。

「その連盟というのはどういう組織なんですか?」

 と、俺は訪ねた。

「そうだね、ひとことで言ってしまえば便利屋集団だ。金銭で支配した使い捨ての駒が多い事を武器に、私やリッセの事業の邪魔にならない分野で色々と励んでいる。時々噛みつく素振りを見せてきたりもするけれどね。小粒同士が集結して、大きく見せる事に躍起になって、なかなかに可愛げのある者達だよ。もし絡まれるような事があったら手足をもいでやるといい。それですぐに大人しくなる。一時的ではあるけれどね」

「……何度かやった事があるって物言いよね、それ。ってことは、あんたはゼルマインドかヘキサフレアスのどっちかの有力者ってわけだ。で、実質はその二つの勢力がここを仕切ってるって事よね?」

 やや引き攣った表情を浮かべながら、ミミトミアが推理を披露する。

「あぁ、そうだね。ゼルマインドは私が所有している組織だ。末端の掌握は別の者に任せているので、全てとは言えないけれどね」

「へ、へぇ、そうなんだ……」

 まさか頭領だとまでは思っていなかったのか、ミミトミアの表情がより一層に強張った。

「そう固くなる事もない。君たちはリッセの友人である彼女の友人なのだから、普通に冒険者をやっている限り、すり潰すような事態にはならないだろう。ヘキサフレアスとは現在休戦中だし、これからも仲良くしていきたいと思っているしね。……それに、私個人には恐れられるだけの力もない。なにせ、義足なしでは満足に歩くことも出来ない身だ。調子が悪い日は、杖がないと困るほどの有様でね」

 自身の左膝に手をさすりながら、ヴァネッサさんは微かに憂いを帯びた笑みを見せる。

 それを失った日の事でも思い返したのか――なんて関心に囚われる前に、肌を刺すような魔力が頭上から降り注いできた。

 同時に何かが鋭く風を切る音。おそらくはナイフか短剣だろう。

 距離は二十メートルほど。かなり近い距離からの投擲だ。そこまで感知できなかった事から見ても、相当に上手く身を潜めていたようだ。

 視線を頭上に向けると、一人の襲撃者と三本のナイフがヴァネッサさんに飛来してきている様が見て取れた。なかなかの速度。だが、対処できないほどじゃない。

 俺は義手を盾代わりに、先に脅威として迫ってきたナイフを叩き落とす。

「――っ!?」

 その音に合わせるように、近くの建物の複数のドアが一斉に開き、得物をもった五人ほどが四方から襲い掛かってきた。

 彼等の気配は最初から感知出来ていたが、そこの住人だという認識でいたために一瞬反応に遅れる。

 でも一瞬だけだ。その遅れを取り戻す速度で上空からの襲撃者を撃退し、それから残りの五人の対処に当たればなんの問題もない。

 そう自身に言い聞かせながら心を落ち着かせて、俺は右手に殺傷力に乏しい細身の棒を具現化し――何の役目を果たす間もなくそれを消し去る結果を、驚愕と共に目の当たりにする事となった。

 先程の動揺よりもずっと速い、瞬き一つの殺人。

 地上から仕掛けてきた五人の男はヴァネッサさんに五メートルほど接近したところで、ほぼ同時に、彼女が僅かに濡れていた足元から走らせた水の刃によって、その首から上を分断されたのだ。

 そして彼等の鮮血が意志を持った生物のように、空から仕掛けてきた男の四肢と鳩尾あたりを射抜き、男はヴァネッサさんの真横に為す術なく墜落した。

「その所為か、こうして護衛がいないと襲われる始末だ。まったく、か弱いというのは不便なものだね。余計な魔力まで消費させられて、酷く損をした気分だ。……まあ、それでも無駄死にをした彼等よりはマシなのだろうけれど」

 そう言って、ヴァネッサさんは一人生かされた男に視線を落とした。

「首謀者は誰だ、などというつまらない質問はしない。余所者というのは大半が無知なものだからね。連盟がどの程度絡んでいるのかを気にする者はいるだろうが、それもさしたる意味はない。どちらにしても彼等の重役は明日三名ほど行方不明になる。ひとまずでそれで十分だろう。だから、私が問うのは一つだけだ。――君は、溺れるという経験をした事があるかな?」

 瞬間、五つの死体の血液が男の鼻と口に殺到した。

 大量の血液は、咄嗟に閉じた口をこじ開けて、ゴボゴボという音を男にあげさせながら、その喉を膨らませ、腹を膨らませ、肺と胃と腸を埋め尽くしていく。

「五種類の血が君のお粗末な陽動の所為で価値を失った。その罪を、身をもって償うといい。それでは、私は失礼させてもらうよ」

 淡い微笑を最後に残して、ヴァネッサさんは何事もなかったかのように、ゆったりと歩みだした。

「さて、案内の続きだ。また余計な邪魔が入らないように、次はゼルマインドの管轄に向かうとしようか」

 角を曲がり視界から完全に血の色が消えたところで、風船が弾けるような音が届く。

 うっ、とミミトミアとザーナンテさんが口元を抑えて、顔を顰めた。

 どうやら襲撃を仕掛けた男は、仲間の血液による溺死ではなく、膨張による破裂によって絶命したようだった。


次回は三日~四日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。

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