06
下地区の建築物を最も象徴するのは高さだ。
上地区と異なり上にこれ以上ないくらいの余裕があるこの区画の建物は、その大半が日本の高層ビルにも引けを取らない階層を誇っており、空から見下ろせばきっと剣山のようにも見える事だろう。
逆に地上から見上げた光景は、さながらクモの巣だ。建物の窓と窓を繋ぐように、数多の梯子が掛けられており、それらは網目となって空を隠そうとしている。
「……なんていうか、これ以上ないくらい社会的弱者の居場所って感じね」きょろきょろと周囲を見渡しながら、ミミトミアがそんな感想を零した。「まあ、境界線がハッキリしてるのはいい事なのかもしれないけど、それにしても露骨よね。うちでも道路くらいは分け隔てないってのに」
「道路?」
空を見上げていたザーナンテさんの視線が、ミミトミアに向けられる。
「上ばっか見てないで足元見ろよ。あたしたちが借りてるところと全然違うでしょう?」
「おぉ、確かにそうだな。気付かなかったぞ」
「見てなくても歩いてれば判ると思うんだけどね、普通」
「オレは歩くの上手いからな」
「それ、どういう自慢よ。……まあ、いいけど」
脱力するようにため息をついてから、ミミトミアは左手の建物を爪先で軽くトントンと蹴った。
「ってか、建物の材質とかもヤバそうよね。上の方風で揺れてんじゃん。大丈夫なの? もしかしてそのための梯子? それで補強してんの? 怖いんだけど。これ、倒れてこないわよね……?」
「……」
「ちょっとレニ、黙んないでよ。不安になるでしょ?」
「ミミトミアたちが住んでいるところに倒れてくる可能性は低いと思うよ。ほら、建物の幅は狭いし」
そう言うと、ミミトミアはげんなりとした表情を浮かべて、
「倒れる可能性は否定しないのね」
「まあ、実際廃都市に行く前に倒壊しているからね。幸いそれで死人は出なかったみたいだけど」
余談だが、その時俺は熟睡していたので、それを知ったのは新聞でだった。現場がそこそこ近かった事に驚いたのを覚えている。
「…………ちなみだけど、原因は? やっぱ材質の所為なわけ?」
「ううん、抗争」
と、俺は端的に答えた。
そこで、まるでタイミングを見計らったように、
「――ぎゃぁあああああ!」
「嫌だ嫌だ嫌だっ! 死にたくな――ひぎゃあああ!」
「殺せ! 一匹も逃がすな!」
「今更命乞いなんてしてんじゃねぇぞ! ズフェアのゴミ共が! 大人しく死に腐れっ!」
という悲鳴と怒号が、響き渡る。
続けて刃物が肉と骨を裂く嫌な音。
ズフェアというのは聞いた事がないけれど、きっと最近出来た組織の名前とかだろう。音が聞こえてきた一帯では特に珍しくもない話である。
でも、此処をよく知らないミミトミアにとっては大事だったようで、
「ど、どうすんの? 助けに行くの?」
と、やや裏返った声でそんな事を訊いてきた。
ここが下地区じゃないのなら、その提案に俺も賛同したところだけど、残念ながら此処は下地区である。
「この場所で、事情も分からない事に首を突っ込むのは止めた方がいい。それに、ここでそういう事を気にしていたら身がもたなくなるしね」
「……そんなに頻繁なの?」
「三日、いや、二日に一度程度かな」
「いやいや、治安悪すぎでしょ……!」
「だな。オレも話には聞いてたけど、ここまでとは思わなかったぞ。騎士団はなにやってるんだ?」
ミミトミアと同じように若干引き攣った表情を浮かべながら、ザーナンテさんが疑問を口にする。
「なにも。基本的に彼等は中地区と上地区の治安しか守らないからね。だから下地区には法的な強制力が殆どないんだ」
「どうしてそんな事になったわけ?」
と、ミミトミアが怪訝そうに眉を顰めた。
「詳しくは知らない。ただ、二年ほど前に大きな事件があったみたいでね。騎士の多くが亡くなって、人手不足で手が回らなくなったって感じみたい」
「人手不足って、騎士団ってのはルーゼの管轄でしょ。普通、本国から増援とかが来るもんじゃないの? あいつらの役割は治安の維持以上に、余所の都市の監督ってのもあるわけだし、シュノフみたいにどうでもいい底辺都市ならいざ知らず、トルフィネはルーゼにとって一番注意しなきゃならない都市の筈なんだけどね。レフレリと並んでさ」
「それだけ貴族の影響力が強いって事なんじゃないかな。外交が上手いというか」
まあ、そのあたりはよくは知らないので、いい加減な想像でしかないが――
「――1番の原因は、無法の王にある」
不意に、背筋を冷やすほどに静かな声が届いた。
周囲への警戒に務めていたわけではないとはいえ、まったく気づけなかった事に驚きを覚えつつ振り返り、思わず息を呑む。
真っ先に情報として入ってきたのは、喪服の如き黒衣を彩る、等身大の頭蓋骨たちの刺繍。
次に意識を惹きつけるのは、墨で描かれたような腰まで届く黒髪と、それとは対照的な雪のように白い肌。そして、睫毛と目蓋の間で切りそろえられた前髪から覗く、どこまでも暗い蒼色の瞳。
「気紛れに散歩をするというのも、悪くはない。これは予期せぬ出会いだ。今だけは、失墜したこの地の神にでも感謝しておこうか」
まるで夜に寵愛されたかのように其処に美しく佇んでいたのは、ヴァネッサ・ガルドアンクという名の、恐ろしい女性だった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。