20
この日、騎士団本部は早朝からそわそわとした空気に包まれていた。
理由は明白で、新任の騎士団長の就任式が午後に予定されていたからだ。
まあ、殆どバイトと変わらないミーアには、あまり関係のない話ではあるが、
「とうとう騎士団長の娘じゃなくなっちゃったな、私」
と、感慨深げに呟くミズリスにとっては、色々と大きな転換期となるのだろう。
それがより良いものであればいいと他人事のように思いながら、ミーアは訓練場の床にお尻をつけてストレッチを始めた彼女の背中を強く押した。
「い、痛いです! ミーアさん!」
「それはよかった。柔軟は痛くなければ意味ありませんからね。貴方、まだまだ硬いですし」
「そ、そうかもしれないけど、出来ればもう少し優しくしても――いだだっ!」
ミズリスは大袈裟に喚くが、もちろん手を緩める理由はない。
身体を痛めないラインでやっているし、最悪筋をやったとしても治癒してしまえばいいだけだからだ。
訓練に関してミーアはかなりスパルタだった。
だから、正直訓練を始めた初日にすぐ折れると思っていたし、事実カークはその日のうちに折れて、二段階ほど程度を落としたメニューをこなすようになったのだが、ミズリスの方は今日まで何とか堪えている。
いや、むしろ、大会が終わってからより一層やる気を増したというか……ひぃひぃと弱音は吐くけど最後まで手を抜かずにやり抜く姿勢は、無理しすぎないで頑張っている感じがして、好感が持てるものでもあった。
その所為で、というのも表現としてはおかしいのかもしれないが、教官役を辞める機会がない。もともと期日を設けていなかった事もあり、このままズルズルと早朝の練習に付き合う事になりそうだ。
(出勤時間が増えるのはあまり望ましくないですが……まあ、いいか)
早起きは別に嫌いじゃないし、それに自分はもう少しちゃんと色々な人と交流するべきなんだろう。そうやって人として欠如している部分を改善しなければ、いつかまた後悔する気がする。
今回の件で言うと、罰金を求めてきた男の気遣いをまるで想像出来なかった点なんかがそうだ。悪夢のように高いお店で遠慮の欠片もなく他人のお金を食いつぶしてくれたリッセに教えて貰うまで、ミーアはそれが何を差していたのか、何一つ判らなかった。レニは一瞬で全てを把握していたというのに、である。
男は請求の場面を気遣ったのだ。故に、本来なら大会が終わってすぐに行うべき事を、こちらが人気の少ない場所に行くまで待ってくれた。
もちろん、そこにあったのはただの善意というわけではなく、参加者自体が招待されている側で、それなりに強力な背景を持っている可能性が高い事を考慮しての打算によるところが大きいのだろうが、それでもそういった配慮がなければ、大金を支払った(最悪賭け事に人生をかけていた)多くの者の前で、大会の結果に悪影響を与えた事を晒される羽目になっていたわけだ。
或いは、レニが自分を早く連れ出してくれなかったら、その配慮だってなかったのかもしれない。
「どうか、した? ……なんだか暗い顔、してるけど」
不意に、声が届けられた。
自身の不甲斐なさに浸っていた所為か、寝坊していた様子のカークが訓練所にやって来ていた事にも気づかなかったらしい。まあ、敵意や殺意の類がない知っている相手の気配なんて、普段から意識しているわけではないので、これを不注意にはカウントしないが。
「カーク遅い! なにしてたの?」
「……寝坊。……昨日、就任準備で忙しかったから」
「それは私もそう! 言い訳にはなりません!」
「ごめん」
「許さないし、罰として強めの柔軟しちゃうんだから」
そう言って、ミズリスはカークを座らせて、先程ミーアがやったように彼の背中を強く前に押し「……痛い」という気の抜けた声を引き出していた。
相変わらず仲の良い二人。自分も、レニとそんな気安さで接してみたいものである。
まあ、それはそうと、せっかく話題に出たので就任式について訊いてみるのも悪くはないだろう。関係ないとはいえ、興味がないわけでもなし。
「そういえば、結局増援はそれほど送られてこないようですね」
「あ、うん、なにか向こうの方で色々あったみたいで、大きな異動とかはなくなったみたい。お父様も副団長に一つ落ちるだけで済んだみたいだし……まあ、その副団長が三人にはなるみたいですけど」
「三人?」
「うん、増援の数自体は少ないけど、ルーゼでも指折りの高位騎士が二人ほど来るみたいで、その人たちが指揮をとって三分割するとかなんとか」
「それは、妙な話ですね」
それほど大きな組織というわけでもなし、指揮系統は一つの方が色々と都合がいいだろうに。
「曰くつきの人みたいだから、権力とかを、分けておきたいんじゃないかな」
ぽつりと、カークがそう零した。
なるほど、たしかにそれは一理ありそうだ。
といっても、実際どの程度危険な人物なのかは会ってみない事には判らない。噂話など、得てして事実と異なるものだからだ。
「どんな人なのかな? 一体……」
訓練用の剣を軽く振りながら、ミズリスが呟く。
「今日の午後には……嫌でも、会えるよ」
ため息交じりにカークがそう返した。
と、そこで、訓練場の扉が開かれて、二人の女性が顔をだす。
真っ白な髪に真っ白な肌、そのうえ純白の衣装を身に纏ったどこまでも白い女と、地味な感じの眼鏡をかけたくすんだ金髪の女。
どちらも初めて見る顔だ。
「熱心な騎士もいるものだな、感心な事だ」
白い女がどこか小馬鹿にするように言う。
それに対し、地味な女は「そうですね、喜ばしい事です」と涼しげな微笑で同意した。
「ふん、だが乏しいよ。未来がない。既に底が見えている。どいつもこいつも傑作だ。まったく、私を腐らせるには良い環境だな」
「拗ねないでください。困ってしまいますわ」
「私は慰めろと言っているんだ。煩わしい。……まあ、それはそうと、全員殺してしまったら奴等はどうするかな?」
「試してみれば良いのでは? どうせ私には止められませんし」
「そうだな。では、そうしようか」
悪戯っぽく、白い女は眼を細めて笑う。
その銀色の昏い瞳には、確かな狂気が滲んでいるようで――
「あぁ、貴様たちは幸運だぞ。今はまだその時ではないからな。死にたくなければ、午後は欠席しておく事だ」
こちらに向けてそう言って、白い女とその副官らしき女は訓練場のドアを閉めた。
「……もしかして、あの人がディアネット。…………と、というか、今のって、冗談だよね?」
何ともいえない数秒の静寂ののち、躊躇いがちにミズリスが口を開く。
だが、それに同意するものは、この中には誰も居なかった。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




