人よ、万物の霊長たれ
その日、特別なことは何もなかった。
いつまでも続く穏やかで緩やかな日々。
何一つ不自由はなく、欠片の自由も存在しないそんな生活に突然嫌気がさしたのか。
またはかねてより考えてはいたが言語化できなかったそれにふと思い至ったのか。
兎にも角にも思い立ったが吉日という性質の少年は立ち上がり、向かいで静かに本を読んでいた少女にこう告げた。
「すまない。俺、死のうと思うんだけど、いいかな?」
「────」
突然の宣言に少女は不意を突かれたように瞬きをした。
『今日の晩御飯はカレーでいいかな?』
……みたいな軽い口調でとんでもなく重い言葉を吐き出してくれやがった少年は、ニコニコしながら動かない。
静かに返事を待っている。
「…………」
その姿に少し戸惑って、幾ばくか思案して、少女はこくんと控えめにうなずいた。
「そうか、ありがとう。マーサ」
優しく微笑む少年。そこに悲壮感を感じ取ることはできなかった。
唯一あるのは、少女への心からの感謝だけだった。
対して一貫して無表情を貫こうとしている少女は感情の希薄な瞳で少年を見つめているがどこか、そうどこか今にも泣きだしそうな顔をしていたのはおそらく、勘違いではない。
少年もそれに気づいていたのだろう、
「そうだ。今日の晩御飯はカレーにしようと思っているんだけど──」
どうかな? と、ついでとばかりにそんなことを聞いた。
あからさまな話題の転換とご機嫌取り。カレーは少女の好物で、少年の得意料理だった。
少女は一瞬かすかに眉を寄せる。
けれどそれも一瞬で、すぐに元の無表情に戻る。
不器用な少年の精一杯の気遣いを、受け取ることにしたのだ。
「カレーじゃないと、や……」
「わかった。今日のカレーは期待してくれ、今までで一番美味しいのを作るから」
「…………」
少女を頷きだけで応えた。
少年はとことこと厨房へと消えていく。
「────」
何かを言おうとして、止めて。
その背中を少女はいつまでも見つめ続けた。
……そして少年の姿が視界から消えた後に、読んでいた本で顔を隠しうつむく。
肩が、震えていた。
少年が晩御飯の完成を呼び掛けるまで、それは止まらなかった。
夕食の後、少年は毒を呷って自殺した。
一滴でこの世全ての生物を殺すに足る猛毒だった。
想像を絶する苦痛、それでも彼はいつもの笑みを崩さない。
毒が完全に体を支配するまでの三十秒、少年は何かを少女に耳打ちしていた。
その内容は誰も知らない、少女だけの秘密。
少年が息絶えてから、少女は泣いた。赤子のように大きな声を上げて、泣いた。
少年が何を思ってそんなことをあんなことを言ったのか。
少女が何を考えてそれを了承したのか。
今となってはもうわからない。
推測することはできるけれど、この世界がその答えに辿り着くことは未来永劫ありえない。
その訃報に世界が悲しみに暮れた。
比喩ではない、紛うこと無き現実として世界中が泣いたのだ。
『ああ、我々は二度と人間を食べることはできないのか』
なんて、そんなことを言いながら。
……飼育係としての管理責任を問われた私は終身刑を言い渡され、永劫の時をこの真っ暗な牢で過ごすことになるだろう。
だがそれも悪くない。
思索の時間は好きだった。
辿り着けぬとしても、せめて限界まで近づきたい。
あの時、少年は何を思っていたのか。
私が彼に毒を渡さなければどうなっていたのか。
少女は今も、泣いているのだろうか。
それとも、私たちを嘲笑っているのだろうか。
ざまあみろと、叫んでいるのだろうか。
我々が彼らに手を出すのはどんなに早くても千年後だった。
諦めれば、安寧も、安穏も約束されていたのに。
生物の本能にだけ従っていれば、幸福な未来だってあったのに。
「ああマーサ、君はなぜ、彼を止めなかったのですか──」
この地上に残された唯一の人間。
この大地でもっとも孤独な生き物。
……誇り高き魂よ。