三
三
その日の夜。斎藤は宇佐美の計らいで同じホテルに泊まることになった。さすがに部屋は別々に安いものを取ったが、宇佐美はせっかくだと現地の記者が紹介してくれたというバイキング形式のレストランに斎藤を誘った。様々な人から追われている斎藤はその誘いを一回断ったが、意外に押しの強い宇佐美に部屋から半ば強引に引っ張り出された。
「はー食った食った……」
部屋に戻った宇佐美はソファーにもたれかかって派手なゲップを出す。斎藤はその様子を見て、呆れたと溜め息を吐く。外を見ると空はすっかり闇色に染まり、地上を見るとビル街の明かりが眩しく光っている。
昼食も取らずに宇佐美は作業を続け、最終的に金沢城内を全て見終わるのに夕方までかかった。興味が無いにもかかわらず、律儀に宇佐美から離れずに付き添っていた斎藤も当然のように腹が減っていた。しかし、宇佐美のように二合飯、ピザ一枚、ハンバーグ二枚を平らげるようなことはしない。大食いで運動嫌いでも普通の体型を維持出来ている宇佐美を斎藤は少し羨ましく思った。
「いやーごめんね。部屋まで付き合わせちゃってー」
斎藤は気にするなと軽く手を挙げる。宇佐美は食うと共によく飲んだ。結果的に斎藤の肩を借りて部屋に戻る羽目になった。普通、焼酎とワインを五杯ずつ飲めば確実に気持ち悪くなるはずだ。しかし、今の宇佐美は心地よさそうな顔をしている。さらに飲み足りないと近くのコンビニで酎ハイを三本買って、既に一本空けてしまっている。
「はぁ、やれやれ……って、写真確認するの忘れてた!」
宇佐美は一気に酔いが醒めたようだ。宇佐美は体を起こしてカメラのデータをノートパソコンに送り、写真を確認し始める。先程まで耳まで赤くなる程、酔っていたはずの宇佐美の表情はかなり真剣になっている。何度も写真を見直しては次に進むということを繰り返し、宇佐美が最後の写真まで隈なく確認し終わるまで小一時間かかった。
「ん~我ながら良い出来だ!」
宇佐美はソファーを軋ませる程、勢い良くもたれかかる。宇佐美は二本目の酎ハイを開けて一気に喉へ流し込む。よく急性アルコール中毒にならないものだと斎藤は感心してしまった。
「やっぱ金沢城は塀も櫓も良いけど石川門だよねー斎藤君きょろきょろしててほとんど見てなかったけど」
斎藤は兼六園と繋がり、人の往来が多い金沢城の正門とも言える石川門にずっといるのは嫌だっただけだ。そのようなこと言えるはずもなく、斎藤は黙って宇佐美の話に耳を傾ける。
「ま、斎藤君が城に圧倒されたのは分かるけどね。あれじゃ、何かに追われてるみたいだよ」
斎藤は図星を指され、眉間にしわを寄せる。一方、宇佐美は酒を呷り、派手に「ぶは~」と息を吐く。上機嫌そうに足をばたばた動かして下手な鼻歌を歌い出した。
斎藤は少し安心した。宇佐美は二人になったこの状況でも何も言ってこない。本当に何も知らないようだ。
斎藤は落ち着くようにと宇佐美を諫める。宇佐美は不満そうに口を尖らせたが、斎藤が宇佐美の足を押さえて動かないように固定する。宇佐美は目を丸くしたが、すぐに目を細めて小さく笑った。宇佐美の動きは今までと違い、年相応の艶美さを醸し出した。斎藤は突然のことに心臓が高鳴った。宇佐美も斎藤同様に三十になった。性格をよく知っているからこそ実年齢よりも感じられるのだろうか。斎藤がそのようなことを考えていると宇佐美は外に視線を移した。
「本当に斎藤君は変わらないね……羨ましい……」
宇佐美は浮かべていた笑みを自嘲気味な笑みに変えた。それよりも自分のどのようなところが変わっていないのか斎藤は気になった。
「今、何でって思ったでしょ?」
宇佐美はバッグの中から一枚のハンカチを取り出す。柄が入っていない、ただの水色のハンカチだ。しかし、斎藤はそのハンカチに見覚えがあった。今朝のマクドナルドでの出来事だ。斎藤はぶつかった女性の落としたハンカチを偶然、視界に入れていた。そして、目の前のハンカチと斎藤の記憶の中のハンカチが一致した。大きく目を見開く斎藤を見て、宇佐美は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
「私、運動神経無いから中学の頃、よく馬鹿にされてね。どうせ何も出来ない、使えない奴だ。みたいなこと言われ続けて、今思うと子供みたいなことを受けてたの」
唐突に過去のことを宇佐美は先程と同じ自嘲気味な笑みを浮かべて話し始めた。そのことは斎藤も知っていた。宇佐美の筆箱の中身が抜き取られていたり、机の上に砂がまかれたりと陰湿なものだった。さらに歴史好きな宇佐美のことをからかって机の中に『切腹して死ね!』と書かれた紙が入っていたこともあった。もっとも、斎藤も目指すものが変わっていた為、小中学時代は変人扱いされることが多かった。斎藤の場合、人付き合いが良かった為、特に何かされたということは無かった。
「あの時は今思うと酷いことされてきたよねー今じゃ歴史はブームにもなったりしてるのに。生まれてきたのが早かったかしら?」
斎藤は宇佐美が答えを求めているのか分からなかった。それよりも斎藤はどうして宇佐美が今になってすぐにでも頭の中から焼却したくなるような過去の記憶を自分で蘇らせるのか分からなかった。斎藤も見てきた為、理解できるが、特に中学でのいじめというのは心身に響いてくる。
「でも、人って変わるものでしょう? 私もそうだけど、人って何かを捨てれば何かを得られる」
宇佐美の表情が突然、授業をしている学校の先生のように真面目な表情になった。
「私も職場が職場だけに興味なくても知ることが多くてさ……」
そう言いながら宇佐美が懐から取り出したものを見て、斎藤は顔を真っ青にした。
「友情を捨てれば、金が貰えるんだよねー……じゃあ、早速教えてくれない? どうしてあの時、斎藤君はセーフと言ったの?」
ピッという音と共にボイスレコーダーが起動する。ボイスレコーダーが机に置かれたおと共に斎藤は現実を突き付けられた。
夢であると願いたかった。今までの逃避行も、宇佐美と共に金沢城を見物し、久々に旧交を暖める時間も。さらには日本シリーズの誤審さえも斎藤は夢だと思いたかった。
「早く話した方がいいよー今なら変な誹謗中傷を抑えるように書いてあげられるよー」
宇佐美は諭すような優しい口調で言ってくる。だが、斎藤は宇佐美の背後にはっきりと毒牙を剝き出しにした蛇を見た。斎藤は両手で顔を覆った。何故、あの日に限って先輩の審判は体調を崩したのか。どうして他の先輩が主審をやらなかったのか。どうして自分の目はランナーの足が入っているように見えたのか。
「ねぇ、どうしてなのかな?」
宇佐美は斎藤の心中などお構いなく、笑っている。誤審よりも何故だか友人である宇佐美に裏切られた時の方が遥かに強く苦しみを抱いた。所詮、自分は審判になるという信念とプロの審判であるという誇りしか持っていないのだ。斎藤はそう悟った。宇佐美が今、友情を捨てたように斎藤も審判としての技量を高める為、人との繋がりをいつしか捨てていたのかもしれない。審判としての資格を剥奪されれば、斎藤はただその日をしのぐ為に迷う野犬のような存在である。斎藤にとってそれを受け入れるのは完全な社会的地位の失墜という普通の人には受け入れがたいものである。生き地獄行きのレールに斎藤は完全に乗ってしまった。
斎藤は強く目をつむった。瞼同士が重なり合い、深いしわが出来る。時が戻って欲しいと生まれて初めて思った。しかし、時計の秒針は静かに音を立てて動き続けている。
斎藤は頭を抱えた。強く、脳髄を押し潰すように指に力を込めて。