二
早朝、斎藤はホテルのチェックアウトを済ませると朝一番の金沢行きの新幹線に乗り込んだ。時間が早いこともあって乗客達は皆、寝静まっていた。旅行シーズンではないことも幸いして窓際の席が取れた斎藤は顔を隠す為、マスクをして窓の方に顔を向けて眠りについた。
再び斎藤が目を開けると新幹線は上越妙高駅に止まっていた。審判として全国を回っている斎藤は自ずと地理に詳しくなった。確か有名な上杉謙信の本拠地に行く為にはここで乗り換えるのだと思いながら寒そうにホームへと降りる人々を眺める。すると、一瞬だけホームを歩いていた人と目があった。その瞬間、斎藤は頭で消えかかっていた自らの目的を思い出し、ホームから目を背け、着ていた上着の襟を正すようにしてそっと上げる。
今、自分は逃げている。にもかかわらず、ホームも向いて顔を見られるとは何と愚かなことであろう。斎藤が取り返しのつかないことをやってしまった過去を変えることは出来ない。情けない気持ちが目を潤ませてくるのを斎藤は必死に堪えることしか出来ない。
斎藤も逃亡初日で袋叩きに遭うのはごめんだ。斎藤はそれ以降、寝る訳でもなく下を向いてずっと目を瞑っていた。
終点の金沢に着いた斎藤はすぐに近くにあるホテルを調べる。観光シーズンではないことも幸いしてかなりの数のホテルが空いていて、当日でも宿泊客を受け付けているホテルがいくつかあった。とりあえず、金沢駅から比較的遠めで歩ける距離の場所にあるホテルを予約すると斎藤はチェックインの時間を潰す為にどこか回ってみることにした。
プロ野球の公式戦を最近よくやるようになった金沢だが、斎藤は去年来ただけで、観光をする暇も無く、すぐに別の公式戦開催地に向かった為、よく知らない。
普通であれば金沢の兼六園に行くところだが、あそこは年がら年中混んでいるイメージがある為、駄目だと斎藤は心の中でバツを付ける。ならば、どこにしようかとチラシをじっと眺める。どこかネットカフェで時間を潰すことも考えたが、調べると会員登録の為に身分証明書が必要なところがほとんどで、フロントであっさりばれるということも有り得る。こんな平日の朝っぱらからそんな所に入り浸っているのは馬鹿馬鹿しいと斎藤のプライドが働いた。
ぬるくなったコーヒーを口にしながら斎藤はパンフレットのページを適当にぺらぺらとめくるが、なかなか条件に見合う所が見つからない。どうしようもない気持ちになった斎藤は片肘を付いてこめかみ辺りを強くかくと体を後ろに逸らす。首を回しながら何となく目に入った所で良いかと適当にチラシを見る。すぐに目に入ったのは金沢城だった。斎藤は決心したと一つ頷くと店を出ようと立ち上がる。
「きゃっ」
いきなり立ち上がったせいか丁度、通り過ぎようとしていた女性と接触しそうになった。女性はトイレから戻ってきたのか、ハンカチが手から落ちただけだった。斎藤は女性に首だけ下げるとすぐに店を出て、金沢城へ向かう為の交通路を調べ、電車に乗り込んだ。
斎藤が乗った中尾線は内陸に向かって走る。調べると金沢城に行く為に降りるべき駅の名前は兼六園前と分かった途端、斎藤の顔を引きつらせた。人が溢れんばかりにいるのは目に見えている。斎藤は心が麻縄で締め付けられるような気分になった。
斎藤が慌てて乗り込んだタクシーは人だらけの兼六園付近を無視してから数分後に金沢城へと着いた。さっさと料金を払うと運転手の「ありがとうございましたー」に答えず、逃げるように金沢城の方に向かう。しかし、無計画に金沢城へと来た為、どこから回れば良いのか分からない。金沢城など高校時代、日本史の先生が気紛れでどうでもよい知識という前置きを入れてやった程度のものだ。城マニアでもない斎藤が見ても教科書に乗っていたぐらいの感想しか出ない。
城内に入ろうとしたが、入場料を取られると知り、止めた。こんなところで金を使うのも馬鹿馬鹿しい。しばらく歩いて時間がきたらどこかにチェックインしよう。そう思っていた斎藤だが、城周辺を歩けば歩く程、多くなる人に顔を歩数と比例するように徐々に青くしていった。やっぱりホテルに早く入ろうと踵を返す。
「あれ? 斎藤君じゃない」
背後からかけられた女性の声に斎藤の心臓が飛び出そうになった。胸を押さえてゆっくりと声の聞こえた方を振り返る。目の前に斎藤よりも頭一つ分小さい背丈の女性が立っていた。
「やっぱり、斎藤君だ」
指を差してきた相手は斎藤の小学校以来の知り合いである宇佐美だった。斎藤は周りを確認する。幸い、人の視線は皆、金沢城に向かっていて、誰も斎藤達を見ていない。斎藤が胸を撫で下ろしている間に宇佐美は長い髪を揺らして近付いてきた。
「久しぶりだね。高校以来だから、十年ぐらいか……」
宇佐美は昔を思い出しているのか、リスのように丸い目を細める。斎藤は頷くとどうしてここにいるのか尋ねる。
「ちょっと取材だよ」
斎藤は一瞬、自分のことではと心臓が飛び出そうになった。だが、宇佐美が差し出してきた名刺を見て、安堵した。宇佐美が勤めているのは葉相社という関東で一、二を争う規模の雑誌社である。宇佐美はそこで文化的価値のある遺構を取材する部署にいるようだ。
「それにしても、本当に偶然だね。斎藤君は旅行?」
無邪気な声に斎藤はただの旅行ではないと言いたかったが、理由を尋ねられるのもまずいと思い、そうだと頷く。一方、斎藤は宇佐美に疑問を抱いた。本当に何も知らないのだろうか。斎藤が行った過ちは世論を支配している。いくらスポーツに興味を持っていない宇佐美でも少しは会社で話を聞いているはずだ。それとも審判としての斎藤の顔を知らないで別人だろうと思っているのだろうか。だが、有り得ないと斎藤は心中で首を横に振る。プロ野球機構の公式サイトには審判部の紹介が顔写真付きで載っている。一方で、目の前の宇佐美は邪な感情を持っているように見えない。もしかすると公式サイトを見ていないのではと斎藤が考えていると宇佐美は「どしたの?」と顔を覗き込んでくる。宇佐美の目は今日の空のように全く曇りがない。何でもないと斎藤は手をひらひらさせると同時に大丈夫だと確信した。
「金沢城はまだ?」
唐突な宇佐美の問いに嘘を付いた方が良いと直感的に思った斎藤は頷く。宇佐美は丁度良いと笑顔で手を合わせた。
「これから金沢城の中に入るんだけど、一緒に入らない?」
斎藤は躊躇った。宇佐美のような女性と一緒にいるところを知られるのは非常にまずい。
迷いに迷った斎藤だが、小首を傾げて答えを待つ宇佐美に断る為の理由を見つけられずに承諾した。宇佐美は心から嬉しそうな表情を浮かべた。
それから斎藤は宇佐美の仕事の詳細を尋ねる。宇佐美は人通りの少ない道の端に斎藤を招くと大きめのショルダーバックの中からカメラを取り出し、数枚の写真を見せてきた。
「順番に、白河小峰城、新発田城、松倉城、富山城だよ」
斎藤は名前を言われても富山城以外、場所は分からなかった。しかし、写真に写っている情景は素人の斎藤でも見事と思えた。それぞれ、城の天守閣が現存する場合、紅葉と共に撮られていて、現存しないものは散った紅葉と半々に撮影されている。天守閣があるものは紅葉と共に華やかに、無いものは散った葉と共に哀しげに撮られている。
「今、日本百名城の取材をしていてね。新潟や富山はやっぱり北陸だし、秋が丁度良いかなって。あ、このことは秘密ね。本当に斎藤君とは偶然出会ったから」
おそらく、出版までまだ時間がいるのだろうと思いながら斎藤はいつ頃、出版するのかと聞く。宇佐美は「んー……」と小首を傾げ、少し考える。斎藤は宇佐美が歴史好きで日本史では模試で全国一位の成績を収めたことを思い出した。歴史好きのおかげでこういった城に関する仕事に付けている宇佐美を少し羨ましくも思ったが、斎藤もまたそうなのだと思い返し、宇佐美に悟られないように一瞬、苦笑いを浮かべる。そして、斎藤が表情を戻すと同時に宇佐美は思い出したように手を叩き、来年の夏ぐらいと答えた。
「色々と大変でさー、歴史を語るものは好きなんだけど、仕事になるとね……」
その言葉には斎藤も共感出来た。斎藤身、野球の審判をするのは好きだ。しかし、仕事で色々と地方に行ったりすると交通の便の悪さなど嫌になったりすることもある。機嫌の悪さを試合に持ち込もうとせずに努めても時には些細なことにあたることもあった。試合前の休憩時間に冷蔵庫に入っていた飲み物が冷えていなかったりなど、本当にどうでも良いことで舌打ちや机を強く叩いたりした。周りの先輩が同じようなことをしたことがあり、気持ちを理解してくれる人が多くなければ斎藤は他人から疎まれていただろう。斎藤は今まで忘れかけていた黒歴史を思い返していると宇佐美が声をかけてきた。
「私ね。どうも歴史以外のことになるとどうも駄目で……って、斎藤君は知ってるか」
斎藤は小さく頷く。宇佐美は歴史以外の成績は壊滅的で先生から気に入られていなければ大学に行けなかったかもしれない程だ。辛うじて宇佐美は推薦で大学に入れた。当然のようにスポーツの話題はからっきしで、振っても疑問符が頭上に浮かぶような表情を常にしていた。
「だからね。斎藤君みたいに運動が苦手でも野球に携われるって良いなって思っているんだ」
斎藤は一瞬、体が固まった。野球に携わっていることを宇佐美は知っている。しかし、宇佐美の言動を見ると斎藤の起こした大失態を知っているようには感じられない。背中に冷や汗が流れるのを自覚しながら斎藤は何も言うことが出来ずに宇佐美の次の言葉を待つ。しかし、斎藤の思いとは違い、宇佐美は屈託のない笑みを浮かべると金沢城へと体の向きを変えた。
「さぁ、早く中に行こ!」
そう言いつつ、宇佐美は城内に入った途端に忘れていたことがあると斎藤を置いて事務所の中に消えて行った。残された斎藤は金沢城を見てみる。積み上げられた石垣、白い壁と黒っぽい瓦の屋根は大河ドラマなどでよく見る光景だった。ぼんやり眺めていると突然、前に園児ぐらいの男の子が割り込むように立ってきた。
「おじさん、斎藤だろ?」
斎藤の心臓が飛び跳ね、体もそれに反応しかけた。子供特有の無邪気さからか、男の子は完全にそうだと決め付けている。子犬が見知らない犬を威嚇するように男の子は斎藤を睨み付けている。
「斎藤だろ絶対!」
周りの人は子供が騒いでいるとしか認識していないのか、子供を一瞥して歩き去っている。違うと言って斎藤はさっさと立ち去りたいが、男の子も騙されないぞという強い視線を斎藤に向けてくる。斎藤はこういう類の子供が嫌いだ。喚き、人を無駄に傷付けるようなことを言って、人のことなど一切聞かないからだ。
いっそ騒がれることを覚悟で違うと言って事務所内に入った宇佐美の後を追おうかと思ったが、男の子の後ろから鬼の形相でやってくる女性が斎藤の目に入った。
「こら! 何してるの!?」
「だってこいつ……!」
子供の言い訳を聞かずに女性は拳骨を振り下ろす。良い音がした。
「人様に向かって指を差して、こいつって言わないの!」
母親と思える女性は男の子の腕を引いて斎藤に「すみません」と頭を何度も下げながらやってきた方向に去って行った。
助かったと斎藤は胸を撫で下ろす。そして、あのような子供も侮れないと斎藤は思った。母親が子供のことを聞き入れていないか気になった斎藤は恐る恐る先程の親子の背中に視線を向ける。子供はまだ斎藤のことに関して母親にあれこれと言っているようで、母親がそれを宥めているようだ。言葉が聞こえないのが傷心の斎藤にとって救いだった。
「お待たせー……って、どうしたの? 苦しそうな目しているけど」
宇佐美は斎藤の顔を心配そうに覗き込んでくる。宇佐美の無邪気な声のおかげで斎藤は少しだけ気が楽になった。何でもないと斎藤は首を小さく横に振る。
「そっか……じゃ、アポ取っておいた人が先に城の方に行ってるらしいから行こうか」
一瞬、宇佐美が何か言おうとしたが、すぐに今まで通りの無邪気な声で斎藤の腕を引く。斎藤は何を言おうとしたのか少し気になったが、聞かずに宇佐美に付いて行く。金沢城の中心に向かうと人が多くいた。斎藤は極力顔を伏せ、誰とも目を合わせないようにする。意識が周辺に向いていた為、斎藤は宇佐美が金沢城名物の海鼠塀や菱櫓に感嘆の声を上げていることに気付かなかった。