一
男は右手で頭を抱えて自分が住んでいる中野区のマンションの部屋のリビングの片隅でうずくまり、左手で顔を覆っていた。床には男が飲み、少し潰れた缶ビールや発泡酒の缶があちこちに散らばっている。白い無地の長袖のシャツと黒いジャージという格好で、斎藤豊一は睡眠も取らずに数時間も長い時間走っていたように肩で息をしながら苦悶の表情を浮かべている。
外は既に朝日が昇り、雀が鳴いている。しかし、カーテンを完全に閉め切っている部屋には一差しの日も入って来ない。寝室にある時計は六時を告げるべくアラームを鳴らしているが、斎藤は相変わらず動かない。
今年、三十になる斎藤は順風満帆とはいかないまでもそれなりに幸せな人生を歩んできた。
斎藤は子供の頃、何かしらスポーツをやりたいと思っていたが、どの種目をやっても上手く行かなかった。
諦めて何か文化系のものをやろうかと思った小学五年の秋に父親がテレビでプロ野球の試合を見ていた時のことだった。不意に画面に目をやるとパ・リーグのオリオンズとバッファローズの試合で、オリオンズの監督が塁審の判定に激怒して抗議していた。
その時、スポーツ自体に興味を失っていた斎藤は抗議している監督よりもされている審判に興味を持った。
これならやれる。幼い斎藤は童心さから来る純粋な思いを抱いた。当時、テレビでやる大衆的なスポーツはごく限られていた。その為、野球の試合を見たのは必然だったのかもしれない。その時から斎藤は将来の夢を野球の審判に定めたのだ。
大学に入るまで貯めた小遣いで本を買ってルールを頭に叩き込み、入場料の安い高校野球の試合を観戦して実際の審判の動きを観察した。そして、高校に進むと思いを実行に移した。高校野球の審判は年齢制限の壁があったが、中学野球で審判を務め、経験を積んだ。
その後、大学に進むと斎藤は野球部のマネージャーを務める傍らで大学の公式戦の審判を務め、就職した後に高校野球の審判を始めた。
転機は斎藤本人の予想よりも早くやってきた。就職して二年目のこと。プロ野球機構からのスカウトを受けて正式なプロの審判員となった。そして、普通なら三年は掛かるとされている一軍の公式戦に僅か半年でデビューし、五年以上は掛かるとされている一軍の公式戦の主審を僅か二年目で果たした。
また、五年目には十年程度の経験を積まなければ出られないとされているオールスターや日本シリーズにも塁審と線審でだが抜擢され、将来のプロ野球審判部を背負って立つと期待されていた。
審判は決して選手のように目立つ舞台に立っている訳では無い。だが、人が望むものはその人のものでしかない。斎藤が自ら望んだ道を歩むことが出来たのだから幸せの人生と言って良かっただろう。
そして、日本シリーズ初出場を果たした翌年、東京ドームで行われるジャイアンツとイーグルスの日本シリーズ第七戦でのことだった。斎藤は体調を崩した先輩審判の代わりに主審を務めることになった。
互いに三勝三敗で迎えた第七戦は勝った方が日本一となる。その為、球場内は開始前から異様な雰囲気に包まれていた。審判控え室で軽食を食べながら外を見ていた斎藤は今にも心臓が張り裂けそうになっていた。大事な試合では判定の一つ一つが試合の流れを大きく左右する為、判定を託される審判にかかる重圧は他人には推し量れない。
「緊張してるのかい?」
「あまり肩を張るな。いつも通り、俺達に特別な試合は無いんだから」
規定による順番によって今日は主審をやらない先輩審判達はそう言って斎藤の背中を叩いたり、肩を揉んだりしてくれたが、緊張が解ける程、人の心は単純ではない。
どうか何も起きずに平穏無事に試合が終わるようにと斎藤は密かに両手を合わせた。
異様な雰囲気の中、始まった試合は投手戦となり、ヒットが二本ずつ、両チーム無得点のまま九回表まで来た。このまま延長戦かと誰もが思ったが、運命はこのような大一番の幕を波乱無く下ろしてしまう程、甘くはなかった。
巨人の攻撃、ツーアウトでランナーセカンドの場面で、バッターの打球がセンター前に抜け、ランナーはアウトを覚悟でホームに突っ込んで来る。センターからバックホームされたボールは少しファースト側に逸れた。しかし、ランナーはまだホームに達するにはかなりの距離があった。キャッチャーは突っ込んで来たランナーを完全にブロックし、ランナーはブロックに負けてホームベースとは全く違う方向に吹っ飛ばされた。
球場、テレビ視聴者全員がアウトだと誰もが思った。
しかし、一瞬だけランナーの足がホームベースに触れたように見えた斎藤は躊躇わずに両腕を大きく開いた。その判定に激怒した楽天のキャッチャーが斎藤へ詰め寄った。
「明らかにブロックした! 間違いなくランナーはホームを踏んでない!」
しかし、斎藤は抗議を受け付けないと首を横に振る。当然ながら審判は一度、決した判定を簡単に覆すようなことなどしてはならない。ましてや抗議権の無い選手からの抗議など受け付けられる訳が無い。斎藤はもう一度大きく両腕を開いてセーフだと示し、そっぽを向いた。そして、楽天の監督がベンチから出てきて、抗議を始めた。
観客席からは楽天ファンからのブーイングと巨人ファンからの歓声が狂想曲のように入り乱れている。
審判は一度下した判定を翻してはならない。メジャーのようにビデオ判定を取り入れていない為、審判は絶対である。身振り手振りを入れて斎藤は詰め寄ってきた楽天の監督に説明する。斎藤が何度も足が入っていて、それからキャッチャーはタッチしたと言っても監督は承服しない。抗議は長引いてとうとうプロ野球機構で規定されている制限時間が来た。しかし、楽天の監督は引き下がらない。斎藤が最後通牒を言っても監督はベンチに下がらなかった。
「楽天の監督を遅延行為により退場と致します」
責任審判である先輩審判がそうアナウンスした途端、怒りに任せてキャッチャーがとうとう斎藤を殴った。すかさず斎藤は右手の人差し指を立ててキャッチャーを指差してから三塁側のスタンドへと動かした。
審判への暴力行為で退場。レフトスタンドの楽天ファンから斎藤へ大ブーイングが起きた。また、三塁側のスタンドからも野次が飛んできて、一触即発状態になった。その中で斎藤は動じずに立ったままだった。審判は出した判定に対して毅然とその正当性を示さなければならない。斎藤はブーイングによって重石のようにのしかかる圧力から逃れる為、心に蓋をして試合を続行させた。
試合は監督とキャッチャーを失った楽天がその後も失点を重ね、日本一を逃した。楽天ファンは試合終了後も斎藤への野次を浴びせ続けた。
翌日、新聞の一面を踊ったのは案の定、斎藤の判定だった。様々な角度から撮った写真で確認した結果、ランナーの足はホームベースに達していなかった。
さらに斎藤自身が記者団に試合後、取り囲まれてその判定のことを問われ続けて「そう見えた」とぶっきらぼうに言った為、そのコメントに対しても色々と叩かれた。
ネットではスローリプレイ動画配信され、『ジャンパイア決定』『あれはいくら何でもひどい』『さっさとクビになって死ね』などとコメント欄には斎藤に対する様々な誹謗中傷が飛び交った。
さらにその翌日の新聞にはかつて同じような判定を巡って話題になった元審判を取材し、斎藤の判定を皮肉るコラムが掲載された。
事態がますます大きくなるのを憂いたプロ野球機構は日本シリーズの三日後に斎藤を呼び出し、罰金と春のキャンプまでの休養が言い渡して収束を図った。
しかし、それでも甘い。解雇が妥当ではないかとネットや新聞、テレビは事を問題視し続けた。波紋は斎藤のみならず、プロ野球機構にも及び、審判団の体質を問うような者も現れた。
さすがに斎藤も誤審を認めなければならず、引責辞任を考えたが、いざ辞表を書こうと思っても今後の生活を考えると指が動かなかった。はたして世間で大々的な誤審を犯した自分を受け入れるところがあろうか。一方、このままプロ野球機構にいても先輩達に何か嫌がらせを受けるのも必至である。
そして、日本シリーズが終わってから二週間経った今も膝を抱えたまま書こうか書くまいか、斎藤はずっと考えている。それがいけなかったのかもしれない。ますます、ネットでは斎藤を批判する声が強くなり、あることないことを書き出す週刊誌も後を絶えなくなっていた。
家から出るに出られなくなった斎藤は家で何もせず、判定の瞬間や誹謗中傷を面と向かって言われるような夢を見て、なかなか寝付けない日々を送っていた。斎藤は大きく溜め息を吐き、とりあえずトイレに向かおうとした途端だった。
インターホンが鳴り、今まで辞表のことで頭が一杯だった斎藤は慌てて腰を上げる。しばらく黙って様子をうかがっているともう一度インターホンの音が部屋中に響いた。斎藤はそっと玄関の覗き穴から外を見る。
斎藤は目を見開いた。知らない男が三人立っている。三人とも楽天の帽子、もしくはユニフォームを着用している。
慌てて斎藤は玄関から足音を立てずに離れ、先程までいた場所に戻って膝を抱える。とうとう住所まで暴かれたかという絶望が斎藤の心を何度も突き刺し、ずるずると壁伝いに崩れ落ちた。
外の連中はインターホンを三回鳴らした後、二回、強くノックしてきた。幸い、取り立てのようなさらなる強い追及をされることはなく、連中は諦めていなくなった。
住所を知られては辞表を提出したとしても再就職など出来ないだろう。また、今後も色々と付きまとわれるだろう。やはり、解雇してくれなかった機構の厚意に甘んじるしかない。何とも言えない悔しさが涙となった。
斎藤には審判員全員が参加するプロ野球の春季キャンプまで数ヶ月という長い時間がある。その間だけでも公に姿を見られてはならない。人は忘れる生き物だが、今はネットという忘れた頃に再び思い返すことが出来るものがある。半永久的に自身も世間の人々も忘れることはないだろう。
今までのようにこのまま引きこもって時間が経つのを待っていることも斎藤は考えていたが、住所を知られた以上、明日や明後日もさっきのような連中がやってくるかもしれない。
一般の人でさえ住所を知っているのだからマスコミが知らないはずもない。もしかしたら、外で見張っていて、出てきた途端に取り囲まれるのではないか。怯んだ斎藤の足は全く動いてくれない。一方で、人も待ってくれない。先程も斎藤が考えたようにいつまでも引きこもっていてもいずれは向こうからやってくる。社会問題にまで発展しそうになっているのだから当分は身を隠しておいた方が良いだろうと斎藤は考え、その手段を考える。
動くなら早い方が良い。いざとなれば今日が一番良いだろう。これからますます家を訪ねてくる人が多くなるかもしれない。次にどこへ向かうべきか。斎藤の住んでいる東京の中野以外に彼が頼れる場所は実家がある埼玉の熊谷ぐらいだ。しかし、熊谷にも人が行っているだろう。なるべく遠くでマスコミもまさかと思える所に身を潜めなければならない。
斎藤は立ち上がって所持金を確認する。斎藤の独り身で、金をあまり使わない主義のおかげで三、四ヶ月は宿泊費を引いても節約すれば過ごせる金額がある。さらに預金通帳に金も残っている。
次にどこに逃げるべきか。斎藤は地図を脇に置いてネットで調べる。スキーシーズン前のこの時期は沖縄などの暖かい土地の方がよく混んでいる為、メディアもそちらに集中しやすい。
ならば、東北、北海道方面かと言えば、それも難しい。問題の判定をして敗れた楽天の本拠地は仙台にある。また、北海道には楽天と同じくパ・リーグに所属する日本ハムファイターズという球団の本拠地がある。巨人のようなセ・リーグの球団に日本一も持って行かれたのは面白くないだろう。ましてや、巨人は周りのプロ野球ファンから色々な理由で嫌われている為、斎藤の正体がばれた時に生きて帰れるか分からない。生来、慎重な性格の斎藤にあえて危険な方面にわざわざ入り込むような度胸は無い。西日本に向かうとしてもこれから各球団は秋季に入る。その為、九州、四国は論外だ。関西も巨人のライバル球団である阪神タイガースのファンが多い為、無理ある。
調べれば調べる程、斎藤は改めて八方塞がりの状況にあることを実感させられた。小さく溜め息をつくと斎藤は仕方ないと北信越のあたりに赤ペンで適当な丸を書く。北信越ならプロ野球チームの本拠地も無く、見つかる可能性も低いだろうと斎藤は考えたからだ。
ペンを置いた途端、斎藤は一試合裁き終えたような疲れがどっと襲ってきた。そのまま後ろに倒れ込み、意識も手放しそうになったが、斎藤はぐっとこらえて勢い良く上半身を起こす。
自らの頬を叩くと斎藤は立ち上がっていつも遠征する時に使っているボストンバックをタンスから引っ張り出して必要なものを適当に押し込む。
犯罪を犯した訳でもないのに情けないと思いながらも斎藤は手を止めることが出来ない。今まで自らが下してきた判定において意見されてきたことが無かった為、誤審をしたとき、どうすれば良いのか分からない。だから、逃げることしか斎藤は出来ないのだ。
深夜になってから斎藤はボストンバックを片手にマンションの裏口から飛び出した。最寄りの駅までは早く自宅から離れたい。走りたいという思いを抑えて斎藤はゆっくりと歩く。何度か後ろを確認したが、自転車が二、三台通り過ぎただけで特に尾行がある訳でもなかった。
最寄りの中野駅に着いた斎藤はその日の最終電車に乗り込んで東京駅まで向かった。乗り込んだ車両には斎藤しかいなかった。隣の車両を覗き込んでみるといちゃついているアベックと座席に横たわっている酔っ払いしかいない。ほっと一息ついた斎藤は膝の上にあるボストンバックに頭を置いた。斎藤は自分が思っていた以上に頭を使っていたのだろう。少しの安堵で疲労感が一気に襲いかかってきた。そのまま斎藤は東京駅について車掌から起こされるまでずっと寝ていた。
斎藤は東京駅から近い適当なビジネスホテルに泊まった。めったに顔を出さない仕事とマスクをしていたおかげか誰にも声をかけられることはなかった。すぐにでも固そうなベッドの上に倒れ込みたくなったが、明日のことを全く考えていないのに寝る訳にはいかない。
目的地までどうやって行くのか。その為に乗る電車の時刻も知らないまま明日を迎える訳にはいかない。時計を見ると既に零時を回って午前一時に差し掛かろうとしていた。ナイター後の帰宅時間とほとんど変わらない。いつもと違う行動が疲労を蓄積させたのだろう。まぶたが徐々に開かなくなってきた為、斎藤は缶コーヒーを口にする。息を吐くと斎藤はベッドに横たわったままスマホを起動させて明日の予定を調べ始めた。長い夜はまだ終わらない。今後、春季キャンプが始まるまで無事でいる為、確実に予定を立てなければならない。持ってきたメモ帳に明日の予定を記しては書き直しを何度か繰り返した斎藤が全て立て終え、眠りにつけたのは約三十分後のことだった。
あらかじめ申し上げておくと三話で終わりますのでよろしくお願いします。