猫の皮をかぶった恋人……前章『クリスマスイブまでの出来事』
「父さん‼母さん‼じいちゃん、ばあちゃん、兄貴たち‼」
閑静な住宅街。
その中でも広大な敷地と日本庭園、その上、茶室に離れのある家は早々ない。
代々和楽器を演奏し、弟子を育て、廃れていく楽器を復活させる梶谷家である。
梶谷家の末っ子の琴音は、他の兄弟とは年の離れている。
一番上の兄、琵琶とは15歳、その2歳下の龍、年子の信乃。
つまり、一番下の兄ですら干支を一巡する年の差だった。
ちなみに、兄たちの名前も和楽器から名前を取られている。
龍は龍笛、信乃は篠笛である。
龍と信乃はまだましだが、長兄は名前に苦労したらしい……琴音と同じく。
しかし、ネーミングセンスの怪しい祖父や父は、特に長兄の名前にもめた。
「篳篥‼」
「そんな漢字、名前用の漢字に入ってませんよ‼月琴はどうです‼」
「アホか‼それなら琵琶じゃ‼」
と、梶谷琵琶と言う名前になった……不憫である。
そして、次男、三男ももめにもめ、手頃に無難に落ち着いたのだが、長男が高校受験を控え、次男は中学一年生、三男が小学校の時に、母の高齢出産と早産で生まれたのが琴音である。
夫と息子のネーミングセンスの酷さにほとほと呆れていた祖母と、元々弟子として通ってきていて見初められて嫁になった母が、師匠である義母と会話をしていて、
「ねぇ?沙羅ちゃん?『琴』なんてどうかしら?」
「まぁ、お母様素敵ですわ。私も『琴』か『真琴』なんてどうかしらと思っていたのですわ。お母様に教わったのは琴で、その縁がありますもの……」
ちんまりと、保育器で眠る赤ん坊は、一応大事をとって数日この中で暮らすのだと言う。
検査をしても健康なのは間違いないが、2000グラムをきっていたのだ。
「あ、でも、真琴さんは時々聞く名前ね……でも、琴と言う名前をつけてあげたいわ」
「……じゃぁ、お母様。琴音は如何ですか?素敵な響きですわ」
「まぁ‼素敵‼じゃぁそうしましょう‼」
母と祖母が決めた名前に、兄弟はあっけにとられたものの、
「琵琶兄ちゃんよりましだよな」
「うん、可愛い名前でもな」
「おい、龍、信乃、聞こえてるぞ?」
と琵琶は弟たちを睨んだが、自分の名前の微妙さを理解していた為、話を濁したのだった。
そして、琴音の兄たちは父親にそっくりだったが、琴音は母親に似てまつげが長く、二重まぶたの大きな瞳の愛らしい子供だった。
年の近い兄たち3人は、喧嘩はするし反抗期の時期でもあり、家族は手を焼いていたのだが、てててっ‼と近づいた琴音が、
「にーたん、おこったらめっ‼」
「だがな?琴音」
「……にーたん……ことちゃん、にーたんだいしゅきだから、けんか、めっ‼」
うるうると瞳を潤ませ訴える幼い末っ子に、ほだされた兄たち。
成長し結婚して兄たちは家を出て生活を始め、仕事や練習の為に実家に戻るようになり、末っ子の琴音は一人っ子に近くなっていた。
中学校に入学し、出会ったのが吉水奏。
2歳上の先輩である。
自分が可愛い顔をしていると言うのは、同級生にからかわれる(後で絞める)ので知っているが、奏はホッソリとしていて華奢な色白の清麗な雰囲気の少女だった。
先輩風は吹かすが、それは嫌みではなく、
「ちゃんと部活のレッスンをこなしなさい‼コンクールまでに日がないんだよ?」
といった感じで、叱りつけると言うよりも真面目に黙々とこなす姿を見せているようで、尊敬できたし、今までの女の子よりもさばさばしている上に、時折はにかむように微笑む顔がとても可愛かった。
「ありがとうね。梶谷くん」
その一言を聞くたびに舞い上がってしまう琴音がいた。
2歳上と言うことは、琴音が進級するのと同時に高校に進学する奏……。
奏が推薦入試を受けた先を聞き、自分も進学を決意する。
そして、学校が違う二年間、会えないのが辛かったので、奏に自分の実家のことを伝え、興味を誘い連れていき、両親や祖父母に紹介したのである。
13才の琴音が初めて彼女を連れてきたと大騒ぎになったが、それよりも琴音の家族の演奏に感動し、習いに来れたら……と呟いたことに家族は一気に気に入り、いつでもいらっしゃい‼となっていった。
高校だけでなく大学も追いかけた琴音だったが、本命の奏は声楽の道に邁進し、半分以上気もそぞろ……その上、昔は女の子みたいに可愛いとからかわれていたものの、身長も伸び、美形と言われるようになり不本意ながらモテ期に突入。
今年何度目かの告白と、
「吉水奏先輩とどう言った関係ですか?」
と言う台詞にうんざりする自分がいた。
先輩と自分は全く前進しない。
先輩後輩であり、それが自分でも不満であり不安だった。
今は自分は1年生で、奏は3年生……今までは約6年の付き合いがあっても、学校で一緒の時は2年間……今年はようやく半年いられたが、来年度を終えると奏は卒業してしまう。
「奏先輩と私、どちらが大事ですか?」
一応仮のお付き合いから始めてくださいとごり押ししてきた、付き合い始めてたった三日の同級生に言われた言葉に、ついイラッとした。
「は?何で、そんなことを聞くの?」
「琴音くん、黙ったままだし……時々、奏先輩と一緒の時の顔と違うから……」
「……じゃぁ聞くけど、君は付き合い始めてまだ何も知らない相手に、自分の好きなところを言えって強要する訳?俺と奏先輩は中学校からの付き合いで、声楽以外も習いたいって俺の家に習いに来てる、祖母のお弟子さんの一人で、6年以上の縁があるんです。って聞きたい訳?祖母が瑟琴の名手で、祖母の弟子の一人で、俺も習っている……兄弟弟子でもある先輩のことは色々話せても、付き合って数日の君のこと知らないし、大事とか聞かないでくれる?」
「ご、ごめんなさい‼」
「ごめんと言うよりも、まだ正式にお付き合いもしてないのに、人の交遊関係に口を挟まないで貰えないかな?それに、先輩と比較とかウザッ!俺を悪く言うのは良いけど、奏先輩のことを悪く言うと……潰すから。じゃぁね」
琴音は目を合わせることもせず、彼女から離れた。
帰り道……いつもハムスターのようにちょこまかしている奏は、今日は居酒屋でのアルバイトである。
奏のバイト先は実は琴音が兄達に頼み、悪い噂のない時給はそこそこかもしれないが賄いがついていたり、料理が余ると持って帰って良いと、冷凍保存できるパックにいれたり、その日に食べられる惣菜を袋にいれて渡してくれると言うお店だったりする。
でも夜も働くと言うのは女の子である奏が心配だし……最近はまた痩せてきた。
何かあったのだろうか?
と、大学の門を出ようとすると、
「またあのネズミのせいで、レッスン室使えなかったのよ⁉教官も教官だわ‼遅刻したってたったの10分よ?冗談じゃない‼」
「本当よね」
話しているのはネイルや服装だけでなく化粧もケバい、大学生と言うよりも夜のお仕事をしています。と言いたげな格好の女子たち。
申し訳ないが、しゃがむと下着が見えるような格好をする……しかも12月だと言うのに寒そうな、胸の開いた格好をする神経が解らない。
それに、レッスン室は借りられるのは45分。
そのうち10分も遅刻されたら、教授や准教授、レッスン室を管理している人間や予約できなかった奏のような練習熱心な学生にしてみれば、腹もたつだろう。
「吉水奏のせいで、レッスンはできないわ、遅刻が多いって因縁つけられて単位を取れなくなりそうよ‼全部あのネズミのせいよ‼」
「あ、そう言えば、さっき、あのネズミの後輩の梶谷くんと付き合ってた子が、また振られたんだって」
「疫病神だわ‼」
聞いていてムカムカがイライラになり、つかつかと出ていく。
「あのさぁ?特定の個人のこと、ないことないこと噂するのやめない?」
「な、梶谷くん‼」
「それにさぁ?10分も遅刻したのが悪いんじゃない訳?先輩が君の遅刻を手伝った訳?ついでに教官もさ?遅刻ばかりでレッスンしない生徒って、印象悪いと思うよ。やる気がない、約束を破る、信用できなくなると思わないの?大学生なんだしさ?そこらへんの常識持ってなよ?しかも、自分の非常識さをひけらかしてこんな場所でしゃべっても、皆、君のこと間違ってるよとしか言えないと思うんだけど?」
「な、何ですって‼」
「ギャンギャンわめくなら、遅刻しないようにする、年上の先輩に呼び捨てやネズミって何?常識知らずに、失礼すぎない?」
告げると、ニッコリと微笑む。
「それにね?さっき別れた子とは、『お試し』で付き合ってくださいって向こうから言われたの。性格の不一致で別れることになっただけで、先輩とは関係ないんだよ?……失礼なことを言うと……君の担当教官に君の言ったあれこれ伝えても良いよ?ちなみに、君の教官……俺の長兄だよね?」
ざっと青ざめる。
しかも彼女は結婚して愛妻と子供のいる長兄を追い回している厄介な生徒として、学校と梶谷家のブラックリストに載っている。
「君が言っていたこと、梶谷教官に伝えておくから。じゃぁね?」
そういい捨てたのだった。
そして、家に帰ってから、最初の言葉になったのである。
今日は、年末に行われる演奏会の最終練習の為、兄弟も戻ってきていた。
「琴ちゃん?騒々しいわよ?」
姉弟子でもある母にたしなめられた琴音は、正座をして頭を下げる。
普段は『じいちゃん』『ばあちゃん』でも、楽器の世界では『師匠』。
昔から厳しくその点は育てられた琴音は、丁寧に言葉を選び話し始める。
「申し訳ございません。お師匠がた、兄さんたち。あの、練習の前に、ご相談したいことがございます。聞いていただけませんでしょうか?」
「おや、珍しいのう」
龍笛など吹奏楽器を教える祖父と琵琶などの弦楽器の父の前で、もう一度頭を下げる。
「あの、親の脛をかじっていると言うことは重々承知しておりますが、結婚したいのです。認めていただけませんでしょうか」
「結婚?誰と?」
「奏先輩です。実は琵琶兄さんの教え子で問題のある例の人が、大学の入り口で大声でわめいていました。奏先輩のことをネズミだとか、自分が予約しているレッスン室を勝手に使っているだとか……たった10分遅刻しただけなのに、学校や教官は奏先輩ばかりひいきしているとか……」
次第に、祖父母、両親や兄たちに長兄の嫁も、嫌悪感丸出しのすさまじい形相に変わっていく。
「それに、最近奏先輩、また痩せたみたいで……心配なんです。多分食費削って勉強したり、レッスン室のことで気にしていたりしたら……と思って。奏先輩、いつも我慢するし……。年下の俺じゃ頼りないかもしれないけど、まだ最低でもあと3年、卒業してもまだまだ未熟で兄さんたちのように独立もできませんが……どうしても一緒にいたいんです」
「どうするんだ?」
「ちゃんとプロポーズして籍を入れたら、この家を出て一緒に住もうかと」
「何言ってるの‼そんなことは許しませんよ‼沙羅ちゃんも、結花ちゃんもそう思うでしょう?」
祖母は鼻息荒く言い放つ。
「勉強にバイトに、レッスンにと忙しい奏ちゃんに、負担がかかります‼結婚するならバイトは辞めて貰って、二人でここに住むのが条件です‼」
「そうですよ。琴ちゃん。学校のレッスン室でそんな嫌がらせを受けたのだから、ここの防音室を使えるように住みなさい。家はお兄ちゃんたちは外にお家があるからお部屋はあるし、学生二人で住むなんて、特に料理も洗濯も出来ない貴方がいたら、また奏ちゃんに負担になるのよ?」
「そうよ。琴音くん。お師匠様たちも、それに私たちも、奏ちゃんが家族になってくれたらどんなにうれしいだろうって言っていたのよ?遠慮せずに奏ちゃんを迎えてあげて」
「ありがとうございます‼あの、じゃ、じゃぁ、奏先輩に頑張ってプロポーズして、今年中にここに来てもらいます‼えっと、婚姻届……に、部屋……」
琴音の一言に、家族は、
「部屋は改装の時間はないが、奏ちゃんが来ても大丈夫なようにある程度揃えておこう」
「ありがとうございます‼」
と言うわけで、外堀を完全に埋められていた奏が、婚姻届に署名捺印することになったのだった。