それは過去ではなく、前世の記憶
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エルフの里───ル パラディの西、迷いの森のほぼ中央に智の王シュヴァリエはいる。ドワーフ達が長い年月をかけて完成させた凝った作りの彼の住まいは巨大な樫の木の内部にあるが、他者との付き合いを苦手とする彼のその住まいについて詳しく知る者は多くない。
彼を慕うドワーフ達は彼に最高の作品を贈った。木の側面につけた丸窓にはステンドグラス、派手な柄の茸のランプ、好き勝手に伸びるよう転々バラバラに植えた植物は蔓を伸ばし、幹に沿って咲いた花は決まった時間に歌い出し度々、孤独の王を慰めた。
訪れる人のいない住処で一人、魔道具と古文書や魔法書で埋め尽くされた狭い部屋で大人の頭よりも大きな水晶を長いこと熱心に覗いていたシュヴァリエは薄い唇に弧を描くと、ゆったりと広い袖口を捲り上げ透けるように白い手で己の左手首をそっと撫でた。
数種類の宝石で飾られた金の腕輪がきらりと輝く。
「ああ、私の愛しい子。そんな所にいたのですね」
水晶に浮かんだ顔にうっとりと頬擦りをし目を閉じる。籠に閉じ込めていた小鳥には、自由の身にならないよう強力な魔力制御の術をかけていた。自身の力では籠から一歩たりとも出られるはずはなかったのに、なんの手落ちがあったのか留守にしている間に飛び立たれてしまった。
人間に懸想することを咎めていた十二老長の仕業だと知った時には行方を捜せなくなっていた。
煩わしく、腹立たしく、忌々しい老害共めと罵りたいのを我慢して十五年暮らした人界から戻って二年、とても待ち遠しかった。彼女がこの所やたらと魔力の放出をしてくれたおかげで、どこにいるのかがエルフの里からでも辿れた。
ふつふつとわき上がる喜びにらしくもなく興奮気味に水晶を抱き締めると、小さなノックの音がした。
「シュヴァリエ様。入りますよ。シュ……どうなさいました、何事ですか?」
返事をする前にドアを開けたのはシュヴァリエの弟子の一人であるローレンだった。今日もエルフ族の年若い男子が好んで着る緑色のシャツと茶のベスト、黒のパンツを履いている。智の王の弟子になったのだから自分と同じ丈の長い衣装にしろと何度言っても、ローレンは言うことを聞かない。
そもそも里の中でも珍しい目が覚めるような空色の髪をしているローレンは、幼い顔立ちに反して頑固で面倒な性質だ。美しい空色なのだから伸ばせばいいと言っても肩で真っ直ぐに切り揃えてしまい、一度として伸ばそうとはしない。師と仰ぎながらもこちらの頼みを一切聞き入れない弟子の登場に、幸福に浸っていたシュヴァリエは不満そうに顔を上げた。冷静沈着で感情を表に出さない師の不可解な行動に、驚きに目を見張るローレンをちらりと一瞥して指を弾く。彼の愛し子の姿が消えた丸い玉はただの水晶に戻った。
「ローレン、私は人界に戻ります」
膝よりも長く伸ばしたうねりのない薄紫色の髪を、後ろで一本に縛りながら言う。
「は、い? 人界に何用があるのです、あんな汚れた世界に……」
「探し物が見つかりました」
「もしや、あの子供のことですか? いけません、長達はお認めになりません」
着々と旅の仕度をする師の腕を掴む。シュヴァリエはやんわりとその手を外すと腰紐を結び直し、フードのついた模様のない黒いマントを羽織った。好きな時に旅に出られるよう、常日頃から準備はしていた。部屋の隅に置いてあった布袋を肩にかけ、芸術的な細工を施した鞘に収めた長剣を背負う。
「貴方もご存知のことでしょう、あの子はわたしの子です。私の運命、私の命。私の……哀れで美しい愛しい子。あの子の為にとしたことで随分と怯えさせてしまったようで、可哀想なことをしてしまいました。これ以上余計なことを思い出す前に取り戻さなくてはいけません」
「だから貴方が直接行くと? 相手はたかだか人間です。何故そこまで思い入れを───」
「時間がありません。話し合いは戻ってから」
片手でそう制すると、シュヴァリエは魔法陣の中央に立ち呪文を唱えた。
「シュヴァリエ様!」
長達に断りもなく里から出ることは禁じられている。次代の長と目され、智の王と呼ばれているシュヴァリエであっても掟は守らなければならない。自分の師は人界に長くいたせいで、時々とんでもないことを仕出かす。また人の世の時を乱す気なのかと恐ろしくなったローレンは彼をなんとしてでも人界になど行かせるわけにはいかなかった。
だが、一言の挨拶をする時間さえ惜しいと気を急かせたシュヴァリエを止めようと伸ばした手は空しく宙を掴むだけだった。
* * * * *
今ならわかる。姉が主人公の世界で生きていた『リシュリー・アビドボル』は、十八になる年には破滅への階段を上っていた。
日が昇り、沈む度に記憶が一つ甦る。
姉の部屋にあるものよりもっと豪華なシャンデリアが欲しいと言えば願いは叶えられた。姉よりも豪奢なドレス、高価な宝石、腕のいい画家、調教のすんだ完璧な馬。どれもこれも与えられた。貴族の義務である結婚も無理強いされなかった。
欲しいと願って手に入らないものは諦めるしかなのだと悟ったのは、いくつの時だったか。十だったかもしれないし、十五になってすぐだったかもしれない。社交界にデビューした姉があの美しい唇で流行に敏感で令嬢達の憧れの的になっている妹を夜会の席で自慢げに話していると知った時だったか。
心が漆黒に染まり切る前に終わらせようとした時には、きっと遅かった。
十七歳の『リシュリー・アビドボル』には姉と慕った人がいた。淡い栗毛に黄色みがかったつるりとした肌、細い首に花の形の首飾りを下げた甘い顔立ちのマリアンヌ・ブノワは男爵家の令嬢で、アウローラの幼馴染で親友だった。
話をするようになったのは屋敷での茶会の席で彼女が歌を披露したのがきっかけだった。透明感のある彼女の声は聴く人々を虜にし夢中にさせた。どんなことでも人の上を軽々といくアウローラが歌では唯一勝てなかった、遠く及ばなかった人がマリアンヌだ。姉の友人と名乗る令嬢達は誰もが意地悪でおこぼれに預かろうとする浅ましさがあったが、マリアンヌは子供の頃から裏表のない清らかな人でリシュリーにも当然のように優しかった。
一人でいると声をかけてくれ、落ち込んでいると察すると薔薇の咲く庭で自分の為だけに歌ってくれた。いつしか彼女が開く姉抜きの二人だけの小さな茶会はリシュリーの数少ない楽しみになった。誘われれば街で人気の菓子を手土産に必ず彼女の屋敷を訪れた。
姉よりも近しく、姉よりも姉らしく愛してくれた人。
だから淡い色の唇から発せられた言葉にリシュリーは強いショックを受け絶句した。
「どうしたの?」
不思議そうに愛らしく小首を傾げるマリアンヌに恐怖を感じ、リシュリーは彼女自慢の真っ白な東屋から中庭をぐるりと見回した。八角形の東屋の周囲は人払いがされ使用人の姿さえない。
少し浮かせた腰を元の位置に戻し、声を潜めて訊く。
「な、んと……おっしゃったの? ごめんなさい。わたくし、なんだか聞き間違いを」
「聞き間違いではないわ。ローリエローズから抽出した毒薬と言ったのよ。これをアウローラ様の飲み物に混ぜて飲ませれば……ね?」
手の甲に触れられ、体がびくりと跳ねる。彼女が手にしている色鮮やかな青色の小瓶は一見すると香水瓶と同じだ。
毒? 毒を……お姉様に盛れ、ですって? わたくしに姉殺しをしろとおっしゃっているの? あのマリアンヌ様が……わたくしの、もう一人のお姉様が何故どうして。
「やめて。わたくしはお姉様を殺したいわけではないわ!」
身を引いて毒から離れるとマリアンヌは嘲笑を浮かべた顔をリシュリーに近づけた。見開いた目は狂気に光っている。
「いいえ、貴女様にはこれが必要なのよ」
「違う! 貴女は……貴女は、お姉様の親友なのにどうしてこんなものを……」
「全てはリシュリー様の為ですわ。リシュリー様はアウローラ様を困らせたいわけではない、本当はあの輝く命を奪うことを願ってる。実のご両親にさえ愛されない、お可哀想なリシュリー様の為にわたくしが直々に作らせましたのよ。わたしくにはわかるの、貴女様はご自分が目障りだと思うものを滅したいと望んでいらっしゃる」
楽しそうににんまりと笑う。アウローラのような輝く美しさはないが愛らしい容貌が醜く歪むのを目にして、リシェリーは悲鳴を上げそうになった。努めて冷静さを装うと無理矢理握らされた小瓶をマリアンヌにつき返す。
「いらないわ、こんなもの……いらない。確かにわたくしはお姉様に嫉妬して、妬んではいるけれど……自分が愛されないのは、わたくしに問題があるからだってこともわかっています。お二人だけではなく皆がお姉様を愛し賞賛するのは、あの方が素晴らしいからであってわたくしが劣っているからではないわ」
「そうやって本音から逃げ続けるのね。貴女って本当に哀れな人」
「……わたくしのことをずっと哀れんでらしたの?」
「ええ、もちろん。これが哀れまずにいられまして? 貴女は何もない、何も持ってらっしゃらない。全部アウローラ様の手の中。疎ましいのでしょう? 妬ましいのでしょう? 大丈夫、わたくしにだけはわかっていてよ。だってねぇ……あの方は皆持って行ってしまわれるのだもの。どれだけ大切にしていても、微笑み一つで……幼い頃から育んでいた愛を、偽りだったと口にさせてしまう魔力をお持ちだわ。結婚はするけれど愛しているのはアウローラ様で、わたくしではないなんて……相応しい妻になろうとどれほど努力をしていたと思って? ね、そうでしょう? 貴女にはこの気持ちがわかるわよね? あんな方がいたのでは、わたくし達の様な日陰が似合いの娘は泣かされるばかり。とっても目障りだわ」
椅子から立ち上がったリシュリーは平静を保とうと必死になりながら、まじまじと姉と慕った人を見つめる。優しく大人しい人だった。淑女の鏡と盲目的に憧れた。姉よりもずっと近しく、傍にいてくれた人だった。だが、と心が震え全身が彼女を否定している。
これは誰?
この女は本当にあのマリアンヌ様なの?
「あ、なたは……マリアンヌ様は、わたくしを利用してお姉様を苦しめたいのですね。上手くいけばお姉様が亡くなって、あの光から抜け出せると思ってる。失われた愛を……取り戻せると夢見てる。冗談じゃない、絶対嫌よ。わたくしは貴女の復讐に協力なんてしない」
色濃い影で息を潜めていることに耐え切れなくなっているのはお前だと指摘すると、マリアンヌは細い弓なりの眉をひそめた。花柄の扇子をぴしゃりと閉じてテーブルを叩く。衝撃に小瓶が揺れた。
「貴女って本当に愚かで救いようのない人。わたくしの話に乗らなかったことを、後悔しますわよ」
「するかもしれないし、しないかもしれない。どちらになるかなんて知りたくもない。わたくしは貴女のように心を歪めて姉の死を望んだりはしません……だって長く泣き喚き過ぎて、疲れてしまったのだもの」
憎々しげに睨み続けるマリアンヌに一礼し、リシュリーは男爵邸を後にした。毒薬のことは誰にも言わなかった。いいや、言えなかった。
マリアンヌの憎悪を放置しておいたことを後悔したのは、小瓶の存在を知ってから半年経った頃だ。
嵐が過ぎるように姉への感情が少しずつ凪ぎ始めた、秋空の美しい日。屋敷から出て騎士団の寄宿舎に住まいを移していた兄アルベリックが知らせもなく急に帰宅した。両親と姉はおらず、屋敷にはリシュリーしかいなかった。執事達が声をかけるのを躊躇われるほど恐ろしい形相でリシュリーの部屋を訪れたアルベリックはつい先刻耳にしたことを話すと青い小瓶を片手に妹に激しく詰め寄った。
貴女の妹はわたくしの親友を亡き者にしようとしています───これが彼女から取り上げた毒薬です。
「違うわ、違う! わたしくじゃない!」
「ではマリアンヌ嬢が偽りを口にしているとでも?」
「そうよっ」
「マリアンヌ嬢がお前が錬金術師からその小瓶を受け取るのを見たとおっしゃっている。念の為錬金術師に確認をしたら、自分に金を渡したのは間違いなくお前だと証言した。マリアンヌ嬢がお前が過ちを犯さないようにと忠告して下さらなければ、アウローラはお前に……!」
「わたくしじゃない、それはマリアンヌ様が作らせたのよっ。お姉様に使うようにおっしゃったけれど、毒薬のような恐ろしいものはいらないと断ったわ!」
「嘘をつくなっ。男爵家のご令嬢であり親友のマリアンヌ嬢が何故そのような愚かなことをするのだ! お前という女は自分がしでかしたことを人の……それも姉の親友になすりつけようとは見下げたものだ」
「本当のことよ、神に誓ってわたくしじゃないっ。お願いです、お兄様。お願いだからわたくしを信じて!」
リシュリーの哀訴をアルベリックは聞き入れるつもりはなかった。振り上げた右手が強く頬を打ち、華奢な体が真横に吹き飛ぶ。痛みと驚きに顔を上げると、両親と良く似た端正な顔には嫌悪と憤怒の両方の色が広がっていた。
リシュリーの愛らしい唇の端から血が滲んでいるのを見てもアルベリックの表情は変わらなかった。
「お前が神を口にするな、私を兄と呼ぶな! 今更なにを信じろと? お前は昔からそうだ。我が儘で自分勝手でどうしようもない。我が家の恥さらしだ。アウローラがお前をかばわなければ、今頃は───……」
のろのろと顔を上げる。視界に入ったのは怒りに震える右手が腰から下げた剣の柄を握る緩慢な動き。兄は昔から自分を嫌っていたがそれは殺したいくらいだったのだと知ってリシュリーは唸るように反芻した。
「今頃、なんだとおっしゃるの」
「───謹慎を命じる。許可するまで部屋から出ることは許さん」
「お兄様!」
「黙れ、顔も見たくない」
兄の背中が扉の向こうに消える。冷たい大理石の床に両手をついたリシュリーは甲高い声で絶叫した。
「─────……っ!」
蝋燭のか細い明かりが照らす室内の寝台から飛び起きたシルヴィは込み上げる気持ち悪さに両手で口を押さえると、隣接した洗面所に飛び込んだ。胃の中のものを一気に吐き出すが状態はまったく変わらない。水差しに直接口をつけて水を飲み、さらに吐く。静寂の広がる室内にはぁはぁあと響く呼吸音。いくら息を吸い込んでも乱れた呼吸は整わず、肩が上下に揺れている。
全身から噴出した汗で夜着がびっしょりと濡れて肌に張り付いていた。テーブルに置いた蜀台に這うように近づき、室内を見回す。狭いがすっかりと使い慣れた自室にあの頃の豪華さはない。
「ゆ、め───……ただの、夢…? ただの夢なのだから、お、落ち着くのよ。あれはわたしじゃない、わたしは……わたしはシルヴィ。『リシュリー・アビドボル』なんて知らない。兄も、姉も……知らない。血が繋がっているだけで会った事もない他人。だから大丈夫。わたしはあの『リシュリー・アビドボル』と同じにはならない。わたしはシルヴィ、わたしは……シルヴィ……」
同じ言葉を繰り返し呟く。大丈夫、大丈夫、大丈夫だと。
あれは自分の過去にあったことではない。あれは自分ではない、あれは『リシュリー・アビドボル』の身に起こったこと。わたしは両親を知らない、兄も姉も知らない。姉のことを憎んでも羨んでもいない。自分が人よりも格段に劣っているとしても比較対象を知らないのだから、妬む気にもならない。伯爵家に戻らなければ、きっとこれからも彼女達のことを知らないでいられる。
大丈夫大丈夫と呟きながら震える手で自らの体を抱き締め、足を胸に引き寄せる。震えが大き過ぎて奥歯が鳴っている。床に落ちた枕を抱き締めながら、シルヴィはただひらすら朝が来るのを待った。
止めどもなく流れる涙はいつまでも止まらなかった。