プロローグ
高い塀で囲まれた敷地の中に建てられた屋敷が世界の全てだった。大きな屋敷と手をかけられた左右対称の美しい庭、楕円形の池と中央に一角獣の像が立つ噴水。
同じ衣装を身に纏った数十人の使用人に傅かれる生活は生まれたその日からずっと続いていた。屋敷の中央ホールに飾られた肖像画の中で幸せそうに微笑む両親と兄姉に会ったことは一度もない。いつだったか乳母の一人に家族のことを訊くと、困り顔で悲しげに目を伏せられた。
母と慕う乳母を困らせた後悔から二度と同じ質問は口にしなかったが、使用人達の話を繋ぎ合わせると自分は「虚弱」故に空気の澄んだ領地の一角で「療養」しているとわかった。
虚弱で療養?
大病を患ったことのない健康体であるこの身のどこがと疑問を抱いたものの、左手首に護符としてつけられた腕輪の効果かもしれないと半ば強引に自分を納得させた。
愛情を注いでくれる三人の乳母達は、両親は自分を呼び戻せる日を心待ちにしていると言う。ご両親は貴女のことをとても愛しているのだと繰り返し聞かされ信じた。欠くことのない誕生日の贈り物と両手に溢れんばかりの花が愛情の証拠だと。
ならば愛するに値する淑女になろうと努力を続けた。
叫びたくなるような嵐の夜も、複写をさせた肖像画を胸に抱いて涙を堪えた。家族は傍におらず孤独ではあったが、恵まれた生活を送らせてもらっていた。
豪華な屋敷と高価な衣装を与えられる子供はそうはいない、自分は幸福な子供だと信じて疑いもしなかった。
網膜に焼き付けた家族の姿と自分の姿とを重ね合わせて、同じ屋敷で暮らすことを夢想していたこの頃が思えば一番幸せだったのかもしれない。
今年こそ来年こそはと時を刻むが十になっても、十四になっても家族からは一通の手紙も届かなかった。
十五の誕生日の目前───父が執事宛てに送った手紙を偶然目にして世界が一変した。堅く閉じていた扉が開き、知らないはずの過去が脳に一気に流れ込む。
気持ち悪さに立っていられず大理石の床に両手を着くと、額に滲んだ汗が粒となって音を立てずに落ちた。
足元が崩れて奈落の底が見える。逸らし続けていた目を向ければ、真っ暗な闇に包まれた真実がすぐ近くにあった。
十五年間ただの一度も会うこともなく、いない者として扱われたのには理由があった。
「ああ、そうだったのね……」
呟いた言葉をどこか他人事のように聞く。
寂しさに押し潰されそうになりながらも、徹底的に遠ざける理由を問う気にもなれなかった。乳母達にたった一言尋ねただけで諦めたのは何故だったのか。この世界は筋書きある、出来上がっている世界だと無意識のうちにわかっていたのだ。
呼吸を乱すほど泣きながら豪奢な部屋をぐるりと見回す。ここは彼等が愛する者を守る為に用意をした美しい檻、完璧な監獄。始まりの場所には本来、家族全員が揃っているはずだった。
伯爵家に生まれた二人の娘。女神のごとき美貌を誇る姉アウローラが愛され、彼女を妬み歪んでいく妹リシェリーが滅びる物語の世界。
わたしの名前はリシュリー・アビトボル。
愛してくれる人のいない世界に、わたしは生まれた。