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 小鳥の鳴き声が聞こえた。

 窓から差し込む光が、目を突いた。

 ひんやりとした朝の冷え込みが肌を刺す。

 私はベッドから体を起こし、グーッと伸びをした。

 下半身を布団に包んだまま、しばらくボーっとしていた。

 ふと、昨日の事を思い出した。

「キズナのメンテナンス、しなきゃ♪」

 時計を見ると、まだ朝の6時前。

 時間はまだまだたくさんある。

 隅から隅まで、メンテナンスしてあげよう。

 それが今、私がキズナにしてあげられる最大の愛情表現だ。

 私は寝巻きを着替え、ウキウキしながらリビングの扉を開けた。


「……?」

 その光景を見て、呆然とした。

 意味が分からなかった。

 食器が、家具が、部屋中に散乱していた。

 グチャグチャに荒らされていた。

 まさか、キズナ……?

 ――いや、そんなハズはない。

 そうだ、キズナはどこ!?

 私はすぐにメンテナンス室に飛び込んだ。

「キズナ……!!」

 そこにキズナの姿は無かった。

 メンテナンス室は、荒らされていないようだ。

 なんで? どうして?

 昨日、戻ってきてくれたのに。

 出て行けなんて、言ってないのに。

 ずっと一緒にいてね、って言ったのに。

 私は呆然としつつも、リビングに戻って、状況を確認する事にした。


 盗られたモノが無いか、収納具の中までくまなくチェックした。

 結果的に、特に高価なものは――いや、高価なものに限らず、盗まれたものは何もないと分かった。

 キズナが泥棒を撃退した?

 逃亡した泥棒を追って外に出た?

 ありえない。

 侵入者を撃退しこそすれ、深追いして家を出るようにはプログラムされていない。

 そんな事があったらすぐに警備会社へ連絡をして、待機するはずだ。

 じゃあなぜ?

 わからない。

 いくら考えてもわからなかった。

 事態を、頭が理解できなかった。

 混乱して頭を抱えていたその時、突然窓ガラスが割れた。

 その出来事が、私の頭を冷静にさせた。

 なにやら、家の周囲が騒がしい。

 人だかりができているようだ。

 私は唐突に不安に駆られて、外へ飛び出した。


 外に出てみると、私の家を取り囲む様にたくさんの人が集まっていた。

 私が現れたのを見て、ざわめきがドッと増した。

 一体どうして、私の家にこんなにたくさんの人が集まっているのか。

 人々は、私を犯罪者でも見るようなしかめっ面を浮かべながら、こそこそと噂話をしている。

 ざわざわしすぎていて、何を言っているかまでは聞き取れない。

 私が戸惑っていると、初老の男性が前に出てきた。

「……エリル・ビアンカだね?」

 地味な服を着ていて、髪は白髪交じり。

 パッと見は老人にも見えるが、近寄って見ればまだ40代くらいに思えた。

 くたびれた印象が、年齢以上に老いを感じさせている。

 私はその男性に尋ねた。

「何なんですか?」

「リリーを返してほしい、お願いだ」

「はっ?」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 リリーを返してほしいとは、一体どういう事だ。

 私には何の心当たりも無い。

 そもそもこの人は、リリーの何なんだ。

 もしかして、父親……?

 混乱して聞き返す言葉が口から出てこない私に、男は続けた。

「わかっている、私の娘が君に酷いことをしたというのは聞いている」

 意味がわからない。

 一体、何を言っているんだこの人は。

「それについては、改めてきちんと謝罪しよう。だから、娘の居場所を教えてくれ」

「し、知らない」

 咄嗟に反論した。

 反論しないとまずいと思った。

 でも、慌てて口から出たその言葉と、動揺を隠せない私の態度は逆効果になった。

 ざわめきが拡大したのがわかった。

 なぜだろう、さっきは聞こえなかったヒソヒソ話まで聞こえてくる。

「ほら、絶対怪しいよあの反応」

「あちゃー、マジかよ……」

「ケンカしてカッとなっちゃって、って若い子ならあるわよね」

 勝手に私の事を決め付けないで。

 分かった様な事を言わないで。

 私は周囲をにらみつけた。

 人だかりが一瞬怯んだが、これも逆効果だった。

「見た? 今の目……怖っ」

 リリーの父親が、私の両肩に手を置いた。

 否定を重ねる私に対して、呆れているような表情を浮かべている。

「昨日の晩、君のところのロボットが、うちの娘を連れていたという証言があるんだ」

 うちのロボット――キズナの事だ。

 私の耳には、もうその事しか入っていなかった。

 リリーの父親に逆に掴みかかりながら、まくし立てた。

「キズナ!? キズナを見たの!? 一体どこで!!」

「お、落ち着きなさい!」

「早く! 早く教えて!!」

 周りが今の私をどんな目で見ようとかまわない。

 そんな事は関係ない。

 私は、この男の口を開かせたくて仕方が無かった。

「こっちが君に聞きたいんだよ! 一体うちの娘をどこにやった!」

「聞きたいのは私よ!!」

 男の口調も荒くなってきた。

 私を掴むその手にも力が入ってきている。

 負けじと、私も彼の服をがっちりと掴んだ。

 取っ組み合いのケンカにでも発展しそうだった。

 周りが更にざわついているのが分かる。

 だけど構わない。

 どんな事をしても、この男に吐かせなくちゃならない……!

「よせ!」

 突然の怒号。

 私の腕ががっしりと誰かにつかまれた。

 なんで止めるの?

 私は、こいつから聞きださなきゃいけない事が――

「やめろ、エリル」

 聞き覚えのある声だった。

 その声にハッと我に返り、腕を掴んだ男の方を見上げた。

 アグナスが、そこにいた。

 私はそこで始めて、自分の手がリリーの父親の首にかけられている事にきづいた。

 怖くなって、パッとその手を離した。

 無意識のうちに、私はなんて事をしていたんだろう。

「な、なんだお前は」

 襟元を正しながらアグナスに詰め寄るリリーの父親。

 アグナスはそんな彼を睨みつける。

「証拠も無いのにこんなに騒ぎ立てて、ひとりの女の子を追い詰めて楽しいのか?」

 父親はその威圧にたじろぎ、後ずさりした。

 周囲のヤジ馬連中にも、そのセリフは効いた様で、徐々に散会していく姿が見て取れた。

「くっ、いずれ警察が調べれば分かることなんだ、今はせいぜいシラを切っていろ!」

 リリーの父親も、悪態をつきながらその場を立ち去っていった。

 私は訳が分からなくなって、その場に崩れ落ちてしまった。

 その私の体を、アグナスが咄嗟に支える。

「おい、しっかりしろ」

 めまいがする。

 立とうとしても、うまく足に力が入らない……。

 見かねたアグナスが、私を抱きかかえて持ち上げた。

「わっ」

「家ん中、入るぞ」

「……うん」

 私には、恥ずかしさを感じる余裕も無かった。

 ただ弱々しい返事をして、されるがままにしていた。


 今分かっている事を、全てアグナスに話した。

 と言っても、大した情報は無い。

 私にも、現状が良くわかっていないのだ。

 朝起きたら、部屋が荒らされ、キズナが消えていた。

 そしてリリーが失踪し、私が――私のキズナが関与していると疑われている。


 混乱に混乱を重ねた現状をより冷静に見つめる為だと言って、

 アグナスは荒らされた部屋の片付けを提案してきた。

 それに従い、リビングを片付けていたときだった。

 私はある物を床に見つけた。

「ねえ、アグナス、これ!」

 窓からの光でキラリと輝くそれを手に取り、見つめる。

 それは、1枚のコインだった。

 コイン転がしに通常使われるものより、一回り小さい。

「ん? ただのコインじゃないのか」

 そう、ただのコインだ。

 だけど私には見覚えがあった。

「おい、もしかしてそれ、昨日のあの男の……」

 その“ただのコイン”を真剣に見つめる私の姿で、アグナスも感づいた様だ。

 私は黙ってうなずいた。

 昨日すれ違ったあの男――義顔をかぶった、赤髪の白衣の男のものだ。

 確証はない。

 でも、なぜだか私には、それがあの男のもので間違いないと思えていた。

 コインを握り締めて、何故あの男が私の部屋を荒らす必要があったのか、考えた。

 だが、私の中にあの男の情報がほとんど無かった為、考える意味は無いに等しい。

 何者かは分からない。

 どこから来たのか分からない。

 何が目的なのか分からない。

 そんな謎の男と自分との関係など、分かるはずが無い。


 ――いや、違う。

 ひとつだけ、あの男の目的を思い出した。

『国立第一機工学園の場所が知りたい。お前、そこの生徒だろう』。

 あの男は、学園を探している様子だった。

 そして、昨晩のうちに失踪したリリー。

 そこに、細い細い線が繋がった。

「まさか、リリーはあいつに!!」

 恐ろしくなって頭を抱える。

「私のせいだ、私があの男に学校の場所を教えたから……!」

 きっとあの男がリリーを誘拐したんだ。

 そして、キズナも。

 私が、あんなやつに道を教えてしまったから、だからリリーは――

「おい、落ち着けエリル」

 アグナスに肩を揺さぶられ窘められるが、私の気持ちは治まらない。

 言い知れぬ恐怖が、心の底から湧き上がってくる。

 湧き上がった恐怖が、私の胸を、喉を、締め付ける。

 呼吸がうまく出来ない。

 苦しい。

 リリーが無事な訳が無い。

 きっと今頃、酷い目に合わされているに違いない。

 私が感じている苦しみよりも、もっとリリーは苦しんでいるはずだ。

 いや、もしかしたらもうリリーは……。

「私せいで……!!」

 次の瞬間、私の体は何かに強く締め付けられた。

「え……?」

「いいから、一度落ち着け」

 アグナスが、震える私の体を抱きしめてくれていた。

 驚いたという事もあったが、私の震えは自然と納まっていた。

 耳元で彼がささやく声が聞こえる。

「お前が答えなくても、あの男は学園にたどり着いてた。お前のせいじゃない」

 彼の声を聴いて、私は徐々に冷静さを取り戻した。

 そうか、今私が自分を攻めても、何の意味も無い。

「ありがとう、もう大丈夫」

 アグナスはきちんと返事を返した私を見て、体を放して微笑んでくれた。


 今私がすべき事。

 それは、自分を攻めて、ここで嘆く事じゃない。

 変わらなきゃいけないと、昨日あんなにも自分に誓ったじゃないか。

 そうだ、私がしなきゃいけないのは――。

 私は結ってあった髪を解き、カバンに結んであった古ぼけた赤いリボンで髪を結びなおした。

 そして深呼吸をして、アグナスを見据えて決意の言葉を発する。

「探そう、リリーと、キズナを!」



「お願いします! どんな小さな情報でも良いので、教えてください!」

 民家の玄関で深々と頭を下げて叫ぶ私の頭上に、ポロポロと何かが落ちてきている。

 見れば、地面にゴミが散乱していた。

「さっさと消えて、あんたみたいなのと係わり合いになりたくないのよ!」

 バタンと、勢いよくドアが閉じられる。

 断られたのは10件目。

 ゴミ箱の中身をぶちまけられたのは、これで4件目。

 朝の騒動が町中に広まっていて、私は悪い意味で有名人になっていたようだ。

 誰も話を聞いてくれない。

 誰も私に情報を与えてくれない。

 私は、酷い臭いのする生ゴミを振り払うと、足早にその家の前から立ち去った。


 次に聞き込みに行った家では、バケツの水を引っ掛けられた。

 水滴が体全体を伝い、足元の水溜りにポタポタと落ちていくのに合わせて、体温が下がっていくのを感じた。

 ずぶ濡れになった服が体に纏わりついて、気持ちが悪い。

 一度、家に帰って着替えよう。

 このままでは、風邪を引いてしまう。

 私はびしょ濡れのまま、トボトボと帰路についた。

 通行人が、私の姿を見て嘲りの笑いを浮かべている声が聞こえる。

 一方、同情や憐れみの眼差しで見つめる者もいる。

 共通しているのは、その誰もが私に関わる気など無いという点だ。

 だけど、辛いなんて思わない。

 こんな程度で、挫けてなんていられない。

 これは、私自身が招いた事の報いだ。

 甘んじて受け入れる。

 だけど――

「神様お願い……リリーとキズナの行方を、教えてよ……!」

 弱気を口に出したが最後だった。

 いつのまにかたどり着いていた我が家の前で、私は足の力が抜けてペタンと座り込んでしまった。

 涙が自然と溢れてくる。

 ひとりになると、考えたくない負の感情ばかりが湧き上がって来る。

 もう、私には何も出来ないのだろうか。

 心を入れ替えて世界の歯車に加わる決意をしても、最早遅かったのか。

 そんな私の背中に、誰かが声をかけてきた。

「おい、優等生」

 振り向こうとしたその時、私の視界を柔らかい布が遮った。

「え? な、何……!?」

 布をバッと手でどけて振り返ると、そこには数人の男の子が並んでいた。

 私の前に立ちはだかる、クロン、ジョン、そしてその子分たち。

 思わず、怪訝な顔で問いかけた。

「何しに、来たの……」

 私を笑いに来たのだろうか。

 学校の外でまで、私の平穏を乱すつもりなのだろうか。

 だけど、何か様子がおかしい。

 話し辛そうに視線を避けるクロンに痺れを切らして、ジョンが前に出てきた。

「あの、エリル……」

「いいよ、俺から言う」

 そんなジョンを更に遮って、クロンが身を乗り出す。

 一体何が始まるのだろうか。

「優等生……いや、エリル」

 始めて、クロンに名前で呼ばれた気がした。

「今まで、その、悪かった」

「え……?」

 予想だにしない言葉が彼から発せられて、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 クロンが、私に謝っている……?

 それに、クロン含め、周囲の子分たちも一緒に、深々と頭を下げていた。

 この私に?

 戸惑う私をよそに、クロンは頭を下げたまま続ける。

「リリーの一件以来、俺たちもちょっと思うところがあってよ。

 アイツを酷いやつだってあの時は思ったけど……俺たちだって、お前に同じ様なことをしてたんだよな」

 呆然とクロンを見つめる。

 言葉が出てこなかった。

 クロンが頭を上げて、私を見つめてくる。

 その視線が少し痛くて、私はつい目を逸らした。

「こんなことで罪滅ぼしになるなんて思わねえけど、

 ポンコツ――じゃなくて、あのロボットの捜索、協力させてくれ!」

「街中で聞き込みを続けるエリルの姿、見ていられなかったんだ。

 僕たちに出来ることなら、なんでもする」

 本当に、彼らを信じても良いんだろうか。

 一瞬迷いが生じた私の心に、自分自身に誓った言葉が思い出される。


 過去はもう変えられない。

 でも、未来へ続く道はいくらでも選びなおせる。

 同じ失敗を繰り返しちゃいけない。

 だから私は、変わらなくちゃいけない。

 彼らを疑って、蔑み、蔑まれてきた過去から、変わるんだ!


「あり、がとう……」

 その5文字の言葉を、擦れる様な小さな声で、俯きながら発した。

 決意はしても、怖いのに変わりはない。

 か細いその言葉は届いただろうか。

 顔をあげるのが怖い。

 彼らの、私のこの言葉への反応を見るのが怖い。

「エリル」

 名前を呼ばれてハッとして、顔を咄嗟に上げてしまった。

 するとそこには、照れ臭そうな笑みを浮かべている男の子たちと、

 座り込む私に手を差し伸べてくれているジョンの姿があった。

 その手を取りながら、私はもう一度彼らに、心からの感謝を……今度はハッキリと、告げた。

「ありがとう、みんな!」

 そしてもう一つ、彼らに言わなくてはならない言葉を、私はゆっくりとつむぐ。

「それに、私の方こそ、ごめんなさい……」

 キズナに向かって言えた様に、彼らにも言えた。

 私が頭を下げる姿に、彼ら自身も驚いている様だ。

「ま、一時休戦ってだけだ。

 またお前が調子乗りやがったら、水ぶっかけてやるからな」

「ちょ、ちょっと兄さん……」

 それがクロンの照れ隠しの一言だと理解でき、笑い飛ばせるのは、私の心に彼らへの“信頼”が生まれたからだろう。

 もう私は、彼らを見下したりなんてしない。

 だって、同じ学園に通うクラスメートとして、機工技師を目指す夢を持った対等な仲間なんだから。

「よし、んじゃお前ら! 手分けして優等生のロボットを探すぞ!」

「あっ、待ってクロン!」

 キズナを探してくれようと勇む彼らに、私はもう一つ頼まなければいけない事があった。

「……その、リリーのことも探して欲しいの」

 私の言葉に、クロンは目を見開いていた。

 無理も無いだろう。

 先日のあれほどの一件を、彼らは目の前で見ていたのだから。

 ざわめくクロンたちに、私は改めて言う。

「お願い、力を貸して」

 真剣な眼差しで懇願する私に、クロンたちも目を見合わせて頷きあっている。

 ただ、ジョンだけは少し俯いているようにみえた。

「エリルは、本当にそれでいいの?」

 ジョンが、顔を上げて私に問いかけてきた。

 もう迷わない。

 私の答えは、とうに決まっている。

「うん。だってリリーは、私の友達だから」

 エリルがそういうなら……と、ジョンも笑顔を見せてくれた。



 やがて日が暮れ、得た情報を統合する為、一度私の家に集まる事になった。

「みんな、彼がさっき話したアグナスって人」

「また大所帯になったもんだな……よろしく、少年たち」

 家の前で落ち合ったクロンたちに、アグナスを紹介した。

 緊張しているのか、みんなは軽く会釈をしたくらいだったけれど、

 ジョンだけはしっかりと頭を下げて挨拶を返していた。

 さすがは名門レクシール家の次男。

 兄のクロンにも、見習わせたい所だ。

 次に私は、アグナスにみんなを紹介する。

「アグナス、例の……私の、クラスメート」

 その歯切れの悪い言い方で、アグナスはあの夜話したいじめの主犯格が彼らなのだと気付いてくれた。

 彼は驚いたような表情をしたが、打ち解けた私たちの様子を見てすぐに状況を察してくれた様だ。

「良かったな、エリル」

 そう小さく耳打ちしてくれるアグナスに、笑顔で頷いて返した。

「じゃあみんな、始めよ!」

 こんなにもたくさんの人を家に呼ぶのは、始めてかもしれない。

 不謹慎ながら、その時の私は少し嬉しい気持ちになっていた。


 各々が集めた情報を、机の上にバッと広げる。

 クロンたちのグループには、1番街の聞き込みを担当してもらった。

 彼らの家がある場所であり、顔が利くために情報収集がしやすいと踏んでの事だ。

 提案したのは、クロン自身だった。

 もっとも、白衣の男を見かけたのも、リリーの住まいがあるのも4番街だった為、

 あまり有力な情報を得られるとは思っていなかったけれど……。

「1番街は、他の街よりも街灯が多く設置してあるから、夜でも明るい。

 だから出歩く人間もそう少ないわけじゃないんだよ」

 クロンはグループの子らから集めたホログラムシートの切れ端を机に並べた。

 そこには、手書きの1番街の簡易地図が描かれていて、×や△の記号が添えられていた。

 地図を千切って、各々がその千切った地図内にある家に聞き込みをして、その情報の有無を記したもののようだ。

「×は話を聞かせてもらえなかった家。

 △は話は聞けたけど目ぼしい情報が無かった家。

 ○は、有力な情報を得られた家だけど……悪い、1件も無かった」

 シートから浮かび上がる地図の映像には、×や△ばかりがついていて、落胆せざるを得ない。

 だけど、これだけたくさんの家に聞き込みをしてくれたその事実には、頭が上がらなかった。

 そしてもうひとつ。

 有力な情報を得られなかったという事は、つまり逆説の証明にも繋がるのだ。

 すなわち、1番街に白衣の男は現れなかったという事実。

 ただ、それがなんだと言われれば、それまでなのだけれど。


 さて、次は私の番だ。

 私は、4番街で聞き込みを行った。

 だけどそれは逆効果で、この騒ぎを知っている近所の人間はこぞって私を邪魔者扱いした。

 その為、聞き込みで有力な情報を得るどころか、話を聞いてもらえた家すら一件も無かったのだ。

 それでも、私は諦めなかった。

 ただ闇雲に民家に声をかけるのをやめて、人通りの多い場所での雑談に耳を傾ける事にした。

 思いつきにしては、良い手だった。

 そうして私は、いくつかの情報を得る事ができた。

「街中や、ガーベラ公園で、ある共通の単語を聞くことができたの」

 私はその単語を、机の上に映されたキーボードを叩き、エアリアルモニターに打ち出した。

 “零番街”。

 皆、その言葉に首をかしげていた。

 当然だろう。

 この街には、1番街から4番街までしか存在しない。

 私自身も、零番街なんていう言葉は、今日この日まで聞いた事がなかったのだから。

「この言葉を、街の人たちが口々に呟いていたの」

「聞いたことねえけど、なんなんだそりゃ」

 クロンが肩をすくめる。

「私も最初は、今回の事件とは何も関係が無いと思ってた。

 でも、この単語と一緒に、あの男の情報がくっついてきてた」

「!?」

 その場がざわめいた。

 急に街の人たちが呟き始めた零番街という言葉。

 とある通行人の会話から、その出所が判明した。

 雑談をしながら歩いていた2人の男性が、こんな会話をしていたのだ。

『あの汚ねえ白衣野郎、お前んとこにも来たの?』

『ああ、“ゼロガンバイ”?がどうとか訳わかんねえこと言ってるから、シカトしてやったよ』

 そう、あの白衣の男が街の人間に聞きまわっていたという事だ。

 だから、急にこんな聞き覚えの無い単語が街に溢れたのだ。

 ふとアグナスを見ると、口元に手を当てて眉をひそめていた。

「どうしたの?」

 アグナスは私に声をかけられてハッと驚く。

「あ、ああ、ゴメン、あの男についてちょっと考えててな」

「何か分かった?」

 私の問いに、彼は首を横に振った。

 ひとまず私が得た情報はここまでだ。

 “零番街”だなんて、聞いた事もない場所をあの男が探している。

 それが分かったのは良いけれど、それ以外の事は全くわからなかった。


 次は、アグナスの番。

 彼は、机の中央に小さな円柱型の装置を置いた。

 スイッチを入れると、空中にここ機工都市パラマ・シンの立体映像が映し出される。

 中央に建つ国立第一機工学園の大きな塔。

 そして、そこから放射線状に広がる町並み。

 街は、大きな壁で4つに分断されている。

 あの屋上から見た風景を、そのままミニチュアにしたようなものだ。

「まず、俺が聞き込みをしたのはココ……3番街周辺だ」

 3番街地区は、様々な工場が立ち並ぶ工業地区で、住居もあるがあまり空気が良くない。

 その為、住み込みで働く人間以外は、基本的に4番街に住まいを持つ。

 アグナスは立体地図をくるりと回転させ、自分の正面に3番街が来る位置で止めた。

 発光するペンで立体地図の映像をつつくと、3番街地区が赤い円で囲まれる。

「工場の仕事仲間に聞いてみたら、有力な情報が得られた。

 ちょうどその日、残業で帰るのが遅くなったヤツがいたんだよ」

 その言葉に、思わず私は身を乗り出した。

 すると彼は、立体地図上に5つの赤い点を打ち込む。

「今、印をつけた場所で、白衣の男の目撃情報があった」

「本当!?」

「ああ、確かな情報だ」

 1番街でも、4番街でも全く情報が無かったところに、ここへ来て5つもの目撃情報。

 期待に胸を躍らせる私を見て、アグナスは更にしたり顔を浮かべる。

「しかも、その男と一緒に巨大なロボットが歩いていたって証言もある」

 間違いない、キズナだ。

 キズナを誘拐したのは、あの白衣の男で間違いない。

 だが一体どうやって、セキュリティのかかったこの家に忍び込んだのだろうか。

 キズナだって、不審者が現れれば追い出す対応をしてくれるはずなのに。

 悩む私をよそに、アグナスは話を続けた。

 彼が言うには、工業地区である3番街では、巨大な作業用ロボットを連れ立って歩く人間は珍しくない。

 だから、工場の従業員たちからしてみれば何ら不審な光景ではないのだ。

 しかし何にせよ、ついにあの男の情報が少し掴めて来た。

 そして、もっと得られる情報は無いかと地図を睨みつけていると、私はある事実に気がついた。

 それは、5つの点の位置に関係するもの。

「アグナス、ちょっとペン貸して!」

 了承を得る前にアグナスからペンをぶんどると、私は立体地図に書き込みを始めた。

 5つの点を、1つずつ線で結んでいく。

 みんなが、その光景を固唾を呑んでじっと見守っている。

 1つ目の点は、3番街と4番街を繋ぐゲートの近く。

 続いて2番目、3番目、4番目の点が、3番街の中央を横切って、町外れへと伸びる道を繋ぐ。

 最後の5番目の点は、町外れの廃工場の集合地帯にあった。

 そして、今まで結んできた線から推察した、5番目の点が“次”に目指したと思われる方向。

 私はその方向にペンを走らせ、赤い矢印を書き込んだ。

「……第七番・人型機工製作所跡」

 矢印の先にあった建物の名を、アグナスが呟いた。

 3番街からゲートを通って4番街に移動したその点は、まっすぐその場所を目指していたのだ。

 一見、そこはただの廃棄された工場のひとつに思える。

 だが、その場にいた全員が知っていた名だった。

 その廃工場の名は、あまりにも有名だったのだ。

「天才機工技師ノア――私のお父さんが、昔働いていた場所」

 胸騒ぎがした。

 何故ここにきて、お父さんに関係のある場所が……?

 ただの、偶然なのか。

 キズナが誘拐された事も、何か関係があるのだろうか。

 いや、今はそんな事どうでもいい。

 あの白衣の男が潜んでいるかもしれない有力な場所を見つけたのだ。

 やるべき事は、ひとつしかない。

「みんな、明日の夜、もう一度ここに集まってくれる?

 何が待ち受けてるか分からない。万全の準備をしてから調べに行きたいの」

「わかった、僕はそれに賛成だよ」

「ああ、俺もそれでいい。お前らも良いな?」

 私の提案にクロンとジョンがまず返事をしてくれて、クロンの呼びかけに子分たちが口々に了承の意を示していた。

 続いてアグナスに視線を移すと、彼は無言で頷いてくれた。

 これが、今の私にできる最善の手だ。

 その後、明日の為の軽い打ち合わせをしたあと、私たちは解散した。



 淡い街灯の光と、空高く輝く月だけが、暗黒の街を照らしている。

 街の喧騒は、来る朝日との邂逅を待ちわびながら、深淵の眠りに堕ちる。

 夜風が、少し肌寒い。

 まるで私を攻めるかの様に、冷気が肌に突き刺さっていた。

 家の戸にそっと手の平をつけると、私の指紋を読み取り、扉がロックされた。

 その体勢のまま、唇を噛み締めた。

 後ろめたさと、決意の心。

 相反する感情が私の中で入り混じり、ごちゃ混ぜになっていた。

 私は、嘘をついた。

 空を見上げ、月を見つめる。

 でも、目を逸らさずにはいられなかった。

 なぜだか、月に全てを見透かされている……そんな気がした。


「こんな夜中にどうしたんだい、お嬢ちゃん」

 少し呆れたトーンで話しかけてきた声に振り向くと、そこにはアグナスがいた。

 どうして彼がこんな所に?

 あまりに突然の事だったから、そんな疑問すら声に出す事ができなかった。

「ひとりで行くつもりだったんだな」

 的確な指摘。

 図星だった。

 私は答えず、ただ俯いた。

 どうして、バレてしまったのだろうか。

 うまくみんなを騙せたと思ったのに。

 口を開かない私に呆れた彼は、徐々に詰め寄ってきた。

 いくつもの言い訳が頭に浮かんだ。

 だけど、全て見破られてしまうだろうと悟り、諦めた。

「みんなを、巻き込みたくなかったの」

 あの廃工場で白衣の男に会ったら、何か良くない事が起きる。

 何故だか、そんな胸騒ぎがしていた。

 理由も、根拠も、何一つ無い。

 そもそも、そこにあの男が本当にいる保証すらない。

 だけど私は、あそこに皆を連れて行きたくなかった。

「巻き込むつったってなあ……。

 あいつらだって、お前を助けたかったんだよ。その気持ちを――」

「だって!!」

 アグナスの言葉を、声を大にして遮った。

 わかってる。

 私がどんなに愚かだろうと、それくらいはわかる。

 クロンや、ジョンたち、みんなの気持ち。

 すごく嬉しい。

 でも、だけど、だからこそ、危ない事に巻き込みたくなんかない。

「だって皆は、せっかくできた、友だちなんだもん!!」

「不器用だよなあ、お前らホントさ……」

 涙声で叫ぶ私に、アグナスは苦笑いしながら言った。

 でも、その言葉に違和感を覚えた。

 お前“ら”とは、どういう事だろう。

 その疑問は、すぐに判明する。

 アグナスが声をかけたのは、私ではなかった。

 私の、後ろに居た者達だった。

 背後から聞こえる足音に振り向く。

 見知った顔が、そこにあった。

「クロン、ジョン……!?」

 身支度をバッチリと整えたクロンとジョン。

 どうして2人まで。

 まさか、アグナスが?

「俺が呼んだ訳じゃないからな」

 私の考えを読んでいるかの様に、アグナスはそう言って肩をすくめてみせた。

 じゃあ、2人は……。

「嘘が下手すぎんだよ、優等生」

「ごめんねエリル、君が僕たちを巻き込みたくなくて嘘をついたのはわかってた。

 でも、じっとしていられなかったんだ」

 2人の優しい言葉に、目が潤む。

 私の目は、もう何度涙を流せば収まるのだろうか。

 声を出そうとすると、抑えていた想いが一気に決壊し、泣き叫んでしまいそうだった。

 気持ちとは裏腹に、彼らに感謝の言葉を伝えられない。

 アグナスがそっと近寄ってきて、私の肩に手を置いた。

 少しだけ私のたかぶった感情が落ち着いた気がした。

 彼が傍にいてくれると、私の心は安堵に包まれる。

 アグナスはそのまま顔を私の横まで下げ、語りかける。

「エリル。お前が友だちを巻き込みたくないって思うように、

 あいつらも、あいつらの友だち――お前だけを危険に晒したくないんだよ」

 そうか、私はまた身勝手な事をしていたのか。

 自分ひとりで何もかもできると勘違いして、周りを遠ざけた。

 変わろうと決意した前の自分と、同じ過ちを繰り返している事に気付いた。

 みんな、“私のため”ではなく、“自分が後悔しないため”に行動しているのだ。

 また私は失敗を――

 いや、でも卑屈になる必要なんてない。

 気付いたら、そこから直していけば良いんだ。

 決して、彼らを危険に巻き込む事を良しとする訳ではない。

 できる事なら、危険な目にはあわせたく無い。

 その気持ちは変わらない。

 変えるつもりもない。

 だけど……彼らが、彼ら自身が選んだ道なのであれば、私に止める権利は無い。

 深く息を吸って、呼吸を整える。

 溢れ出しそうだった感情も、今や無風の水面の様に落ち着いている。

「謝るのは、私の方。自分勝手で、ごめんなさい」

 変わると決意をしたけれど、人間そう簡単に変われる訳がない。

 だから、私には必要なんだ。

 変わる私を支えてくれる、仲間が。

「クロン、ジョン、アグナス」

 頼もしい3人の仲間の名を呼ぶ。

 それは、私自身の心をも鼓舞する力となる。

「お願い、私に力を貸して」

 まっすぐと彼らを見据えて、そう言った。

 もう、私の言葉への反応を恐れる必要は無かった。

 私が彼らを大事に想う気持ちと同じように、彼らも私を想ってくれているのだと、気付けたから。

「そのために来たんだっての」

「精一杯、協力するよ」

 照れ臭そうなクロンと、笑顔のジョン。

 2人に向かって、私は力強く頷いた。

「よし、じゃあ行こうか。エリルと愉快な仲間たち」

 アグナスの号令を皮切りに、私たちは第七番・人型機工製作所跡へと歩みだした。



 深夜の3番街は、昼間とは違った顔を見せる。

 住人が少なく、稼動する工場もほとんど無い為、静まり返っているのだ。

 街灯の数も、民家の明かりも少なく、とても暗い。

 ゴーストタウンだと言われれば、そう信じてしまいそうなほどに人の気配が無かった。

 私の家から1時間ほどの道のり。

 誰一人として、浮かれた表情をする者はいなかった。


 やがて私たちの目の前に、暗闇の天へ貫かんとする程に聳え立つ廃墟の工場が現れた。

 工場は、有刺鉄線の金網で囲まれている。

 その姿はまるで鉄格子に守られた、牢獄の様だった。

 私が入り口の門へ向かおうとしていると、アグナスに体をグイと押された。

「ちょ、ちょっと」

「静かにしろ。警備のロボットがいる」

「!?」

 彼に言われて工場の入り口に目を凝らしてみると、確かにそこに2体の警備ロボットがいた。

 円盤型のボディに1つの目、4つの足を持つ、一般的に普及している形状だ。

 ボディの下には1本のアームがついていて、それを伸ばして不審者を捕まえたりする。

「不審がられたら厄介だ。一旦は通りすがりとしてやり過ごす」

 私たちはアグナスに導かれるまま、近くの建物の影に身を隠して様子を伺う事にした。


 ここ第七番・人型機工製作所は、放棄されて6年ほどになる。

 今も尚、その形を残している事に何か大きな理由がある訳ではない。

 単純に、廃棄にかかる費用が大きいから、放置されているだけだ。

 錆びて朽ちた鉄骨は、今にも軋みながら崩れ落ちそうで、まともな頭を持った人間は近づかないだろう。

 だけど、その工場にはおかしな点があった。

 この暗闇と静寂の中、気付かない者などいない。

 下から窓の数を数えて、ちょうど3つめ。

 3階の窓の1つから、明かりが漏れていた。

 6年も前に放棄され、使われていないはずの廃工場だというのに。

「隠す気が微塵も無いのか、タダの馬鹿なのか……」

 アグナスが呆れたように呟く。

「でも、これでここにあの男がいることは、ほぼ決まりましたね」

 ジョンの言葉に、私は頷いた。

 間違いないだろう。

 あの場所に、白衣の男がいる。

 そして、キズナと、リリーも恐らくは。

「で、どうすんだよ。警備に気付かれちまったら面倒だぜ」

 確かに、警備会社に連絡をされてしまっては、厄介だ。

 私たちが不当に侵入しようとした罪に問われるばかりか、騒ぎになれば白衣の男を逃しかねない。

 どうすればいいんだろう。

 気付かれないように侵入する?

 いや、無理だ。

 警備ロボットの目は、円盤ボディをぐるりと回り360度を見渡せる。

 何かに注目でもさせない限りは見つかってしまう。

 物音を立てるか?

 いや、その程度で注意を引けるほどあのロボットはポンコツではない。

 一般に普及しているという事は、安さもそうだが、性能面でも一定の基準を超えているという事を表している。

 陳腐な作戦が通用するのであれば、警備の役になど立たない。

「僕に考えがあるんだ」

 ジョンに視線が集まる。

 一体、どんな作戦なのだろう。

 期待の眼差しを送ると、ジョンは咳払いをして一息ついてから、語りだした。

「物音や小石程度じゃ、あいつらの気は引けない。

 だったら、警備ロボットたちが“注視せざるをえないもの”を囮に使うんだ」

 その言葉に、胸がキュッと痛んだ。

 なぜなら私には、その“注視せざるをえないもの”が何か分かったからだ。

 警備ロボットは、何のために配置されるのか。

 答えはひとつしかない。

 彼らの仕事は、害を成す“人間”から、何かを守る事なのだ。



 レクシール兄弟と私の3人は、ある“仕込み”をしに出たアグナスを待っていた。

 私の心は、憂鬱な気持ちでいっぱいだ。

 物陰から警備ロボットの様子を伺うクロンとジョンの背中を、黙って見つめる。

 警備ロボットは人を拘束こそすれ、傷つける様な武装を持ってはいない。

 というよりも、持つ事を禁じられている。

 大きな危険は無い。

 だから、自分たちが囮になる。

 自ら危険な役回りを買って出たジョンとクロンに、私は代案を提示できなかった。

 ひとりで機工の仕組みを考えている時は、あれほど脳が回転して様々なアイデアが浮かんでくるのに。

 なぜこうも肝心な時に、私は役立たずなんだろう。

 唇を噛み締め、拳を握る。

 その痛みが、私の愚かさへの罰だ。

 するとそこへ、アグナスが忍び足で戻ってきた。

「準備はできた」

 彼は、ジョンが持ってきていた工具を使って、ここから離れた場所の金網に穴を開けてきたのだ。

 ふたりが警備ロボットの注意をひきつけているうちに、私とアグナスが金網をくぐり廃工場へと潜入する。

 そういう手筈だ。

 ジョンたちを、止めたかった。

 私の口は、今にもその言葉を発してしまいそうだった。

 もうやめよう、と。

 目を瞑り、両手で胸の中心をギュッと抑え付けてその想いを堪える。

 ふたりを、信じなきゃ。

 ふたりなら、必ず、きっと、うまくいく。

 それよりも私は、彼らが作ってくれる隙を無駄にしない事を一番に考えるべきだ。

 私の気が逸れてこの作戦が失敗したら、そこで全ては終わる。

 気持ちが、徐々に治まってきた。

 瞳を開けると、すぐ横にアグナスが居た。

 彼は私の決意を読み取ったかの様に、優しく微笑んでいた。

 見られていたのだとしたら、恥ずかしい……。

 見てない振りでもして欲しいものだ。

 本当に、無神経なんだから。

「アグナスさん、お願いがあります」

 ジョンが、振り向かないまま彼の名を呼ぶ。

「僕たちでは、力不足です。

 だから、だから……エリルを、お願いします」

「ああ、任せとけ」

 ジョンの背中は、震えている様にも見えた。

 武者震いか、恐怖か、それとも別の要因か。

 その表情を伺い知る事ができない私には、わからなかった。

 クロンがそんなジョンの背中をバシンと叩いた。

「オラ、シャキっとしろ」

 その瞬間、彼の震えは止まっていた。

「ありがとう、兄さん」

 軽く頷いたジョンの声は、落ち着きを取り戻している。

 弟の様子を見て、無言で笑いかけるクロン。

 彼も、ちゃんとお兄さんしてるんだ。

 当たり前の事かもしれないけれど、ふたりの日常を覗けたようで、少し嬉しかった。

「おし、心の準備は良いか? お前ら」

 アグナスが、全員に最終確認をする。

 その問いに、皆思い思い了解の意を示した。



 私とアグナスは、ジョンたちと別れたあとすぐに金網の穴へと向かった。

 アグナスは、切った金網に上着をかぶせて、私が通りやすいようにしてくれる。

 こういう気遣いを無意識にサッとできる彼は、やはり女性の扱いに慣れているのだろうか。

 いや、何を考えて居るんだ。

 私みたいな子供を女性扱いしている訳が無い。

 どこかおせっかいな、どこかお人好しなその性格から、私の保護者の様な気持ちでいてくれているだけだ。

 馬鹿な考えはもうやめよう。

 今は、やるべき事があるんだ。

 金網を通り抜けると、その場所から廃工場の壁まではおよそ15メートルほどの距離があった。

 ここから、警備ロボットがいた区画までは100メートルほど離れている。

「なるべく壁伝いに歩いて、目立たないようにしよう」

 小声で促すアグナスに、私は無言で頷いた。

 周囲を警戒しながら慎重に壁まで歩き、そこからなるべく足音を立てないようにゆっくりと進んだ。


 しばらく歩くと、真上に先ほど見た明かりのついた窓が見えた。

 あそこに、キズナとリリーがいる。

 改めて決意の灯火を胸に、私たちは歩き出す。

 このあたりから中に入れればいいのだが、生憎入り口はあの警備ロボットが居た位置しかないらしい。

 1階の窓も全て鉄格子がはまっていて、入り口以外からの侵入は難しそうだ。

 そうこうしているうちに、警備ロボットが居た付近へとたどり着いた。

 先ほどロボットが居た場所には、その姿は無い。

 視線をずらすと、金網の門のところにそれはいた。

 クロンとジョンが、うまく引きつけてくれている。

 ふたりは、こちらに一切の視線を送る事は無い。

 警備ロボットは、今ふたりの一挙一動に注目をしているのだ。

 もし一瞬でも目線を送れば、360度を見渡す事のできるその目は、すぐに私たちの存在に気付くだろう。

 アグナスに肩を叩かれた。

 振り向くと、彼は私に向けて人差し指を口に当てて小さく頷いた。

 こちらも、声を上げてはいけない。

 15メートル離れたあちらに、呼吸すらも気付かれるのではないかと思い、必死に我慢した。

 しかしよく考えれば、我慢をすればするほど、その後の呼吸は大きくなるものだ。

 それに気付いた私は、袖の布部分を口に当てて極力音を立てないように息を吐いた。

 大丈夫、まだ気付かれていない。

 扉はもう目前だ。

 左右にスライドするタイプの、とても巨大な鉄の扉。

 鍵がかかっていない事は、開いている隙間を見れば一目瞭然だった。

 だが、開こうとすれば軋む音が響き、さすがに警備ロボットも気付くだろう。

 私はそこに手をかける前に、頭の中で行動のイメージを行った。

 錆びた扉に手をかけて、人ひとりが通れる隙間を無理やりこじ開けるのに3秒。

 私とアグナスがそこへ体をねじ込むのに4秒。

 そして、扉を閉じて中からロックをかけるのに6秒。

 およそ13秒の猶予。

 あの場所にいる警備ロボットが音に気付いて振り向き、突撃してきたら間に合わない。

 だけど、ジョンたちがきっと足止めをしてくれる。

 最後にふたりに視線を送った時、私の視界に“それ”が写った。

 ジョンたちが注意を引き付けている2体のロボットのうち1体。

 そのロボットのボディの下から生えた1本のアームに、小さな筒状のパーツが備え付けられていた。

 見た事の無い部品。

 だけど、私はそれの正体をすぐに理解した。

 “それ”は、ふたりからは死角になって見えない位置で構えられている。

 ロボットたちの背後にいる私だからこそ気づけたのだ。


 考えるよりも先に、体が動いた。

「逃げて!!」

 その声に、ふたりと2体のロボットがまとめてこちらを向いた。

 叫んでも私の意図は、伝わらない。

 今すぐ逃げて、お願い!

 新たな侵入者を見つけた警備ロボットは、こちらへ標的を切り替えていた。

 暗闇に赤く輝く機工の瞳と視線が交わる。

 あいつらがこっちに気を取られれば、ジョンたちが逃げる猶予が稼げる!

 だけど、そんな私の想いとは裏腹に、クロンとジョンはロボットに飛び掛った。

 私を捕縛せんと動いたロボットを、止めるために。

 そして次の瞬間、静寂の夜空を切り裂く絶叫が周囲に響き渡った。

 警備ロボットのアームから立ち上る硝煙。

 ロボットにしがみついていた手を離し、うずくまるジョンの体。

 何が、起きた……?

 頭が、この現状を理解するのを拒んでいる。

 違う、そんなはずはない。

 おかしい。

 ありえない。

 嘘だ。

 ……嘘だ!!

「下がれ、エリル!」

 アグナスが、咄嗟に私の前方に飛び出した。

 視界を突然遮られた私は、ハッとして我に返る。

「ジョン!! ジョン!!!」

 制止するアグナスの腕にしがみつきながら、ジョンの名を呼んだ。

 返事をして、お願い。

 呼びかける私の声に、ジョンの体がピクリと動いた。

 良かった、意識がある……!

 アグナスの腕をくぐり抜けて、ジョンの方へ向かう。

「何してる!! さっさと中へ入れエリル!!」

 喜び駆け寄ろうとした私に、すくみ上がるほどの怒声を浴びせかけるジョン。

 腹の底から無理矢理搾り出した様な、そんな声だった。

 そして、見た事も無い形相を浮かべて、こちらを睨んでいた。

 その姿に、思わず後ずさる。

 私の背中は何かにぶつかり、行く手を阻まれた。

 それは、廃工場の中へと続く分厚い扉だった。



 ――静寂の中、荒い呼吸だけが私の耳に届いていた。

 誰の声だろう。

 私のでは、無いみたいだ。

 頭がボーッとする。

 周囲は、とても暗い。

 やがて目が慣れてきて、私の目の前で誰かが息を切らしている光景が目に入った。

 アグナスだ。

「はぁっ、はぁっ……」

 額に汗を浮かべて、肩を大きく上下させながら呼吸を整えようとしている。

 一体何があったのか。

「大丈夫か、エリル……」

 息も絶え絶えながら、私の事を気にかけてくれるアグナス。

 本当にお人好しなんだから。

 というか、何が大丈夫なんだろう。

 状況を把握するため、周囲を見渡す。

 見た事のある大きな機材がたくさんおいてある。

 鋼鉄を潰して加工するプレス機。

 鉄板から自由自在な形を切り出すレーザーカッター。

 表面加工を行う為の研磨機。

 だけど、そのどれもが長年放置されていたかの様に朽ち果てていた。

 その機材を眺めるうち、徐々に意識がはっきりとしてきた。

 そうだ、ここは第七番・人型機工製作所の中だ。

 アグナスたちと一緒に、白衣の男を探しにやってきた。

 ハッとして周囲を見渡す。

 だけどここには、どうやら私とアグナスしかいない様だった。

「アグナス、ジョンは!? クロンはどこ!?」

 跳ねるかのように立ち上がり、アグナスに詰め寄った。

 気持ちが昂ぶっていたせいだろうか。

 私には、ジョンに怒鳴られた直後からの記憶が無い。

 息が切れて答えるのが辛かったのか、アグナスは黙って私の後方を指差した。

 その方向へ目を向けて、私はギョッとした。

 工場の内と外を分け隔てる扉は、外側から大きな衝撃を受けたかのように酷く歪んでいる。

 そして、わずかに開いた2枚の扉の隙間から、警備ロボットのアームが1本だけ飛び出していたのだ。

 扉は、もうとても開きそうには見えない。

 この状況を見て、記憶の無いひと時に起こった事を理解した。

 おそらく、戸惑う私を抱えて、アグナスが工場の扉をこじ開けて中へと逃げ込んだのだ。

 そして、クロンたちを振り切ってこちらに突撃してきた警備ロボットは、ギリギリのところでアグナスが閉じた扉に阻まれた。

 その時の衝撃で扉はこうも歪んでしまっているのだろう。

 恐るべき力。

 もしアグナスが扉を閉め切れて居なかったらと考えると、ゾッとする。

 ――いや、安心するのは早い。

 ロボットは2体いたはずだ。

 それに、クロンとジョンの安否は……?

 またパニックになりそうなほど慌てたが、ふと扉の隙間を見ると、倒れこむ警備ロボットの向こう側にクロンの姿が見えた。

「クロン!!」

「そっちも無事みてえだな、優等生」

 隙間からわずかに見えるその姿は、痛々しいくらいにボロボロだった。

 服は土汚れにまみれて、所々が破れている。

「あなたは大丈夫なの!? それに、ジョンは!?」

「もう1体のロボットも、急にショートしたみたいに動かなくなっちまったよ。

 もしかしたらコイツら2体は連動してて、片方が壊れたからもう一方も逝っちまったのかもな」

 慌てる私に、苦笑いを浮かべるクロン。

 笑いごとなんかじゃない!

 クロンに詰め寄ろうとするが、私たちを隔てる分厚い鉄板はピクリとも動かない。

「ジョンも大丈夫だ、ここにいる。急所は外れてるから、大事ない」

 クロンは、すぐ横に目配せをした。

 こちらからは確認できないが、おそらくそこにジョンがいるのだろう。

 だけど、姿が見えない事が余計に私の不安を駆り立てる。

 鋭い棘を持つ茨が、私の小さな心を締め付けてこう言うのだ。

 きっとこれは、クロンの嘘だ。

 ジョンが無事な訳がない、と。

「大丈夫、だよ……。僕たちは自分で助けを呼ぶ、だからエリルは、先に進んで」

 ジョンの声だった。

 かすれる様な、弱々しい声で、彼はそう言った。

 無事ではないにせよ、話ができるという事実に、私の心は大きな安堵を覚えた。

 茨はいまだ私の心に絡みついたままだったが、その棘は鋭さを失った。

 胸をなでおろす私の元に、ようやく呼吸の整ったアグナスが近寄ってきた。

「エリル、この扉はもう簡単には開かない。俺たちは、あの明かりのついていた部屋を目指そう」

「うん……」

 悔しいけれど、彼の言うとおりだ。

 開こうと必死に力を込めても、扉は全く動かなかった。

 辛うじて開いている隙間も、とても人が通れる様な大きさには見えない。

 先ほど外で壁伝いに歩いている時にもわかった様に、1階の窓には鉄格子がはまっている。

 今すぐそう簡単に、外には出られない。

 手負いのクロンとジョンを置いていくのは辛い。

 でも、ここで待っていてもどうにもならないのも事実なのだ。

 むしろ、せっかくの彼らの努力を無駄にする事になる。

 私は目を瞑り、胸に手を当てた。

 こうすると、心が落ち着き、頭が冴える。

 何度と無く頭の中で復唱する。

 今、私がすべき事を。

「リリーとキズナを、必ず連れて帰る」

 声に出して、自分を鼓舞した。

 私の心の茨は、決意の声によって粉々に砕け散った。

「ありがとう、ふたりとも」

 私は扉に背を向けると、その向こう側にいるふたりにそう告げた。

 振り返らない。

 前を見据えて、歩いていくんだ。

 私の決意を見届けたアグナスが、右手を差し出していた。

 私はその手に自分の左手を重ねる。

 触れ合う手から感じる温もり。

 手の平の小さな毛細血管に伝う僅かな拍動さえも、感じられそうなほどだった。

 以前の私なら、ここで彼に手を引かれて工場の奥へと進んだだろう。

 だけど、今は違う。

 私はアグナスの手をぐいと引き、真横に並んで歩きだした。

 直接見ずとも、彼が少し驚いた顔をしているであろう事がわかった。

 私だって、泣いたり嘆いたり混乱してばかりじゃいられない。

 歩むんだ、自分の道を、自分の足で――


 私たちふたりの足音は深夜の廃工場を彩る効果音になっていた。

 アグナスが照らす懐中電灯だけが、暗闇の中で私たちの進むべき道を示している。

 長い月日を放棄された工場の床は、ところどころから緑の息吹を芽生えさせていて、時の流れを感じさせる。

 ここが稼動をしていた時期は、さぞ大きな利益を生み出していた場所だったのだろう。

 綺麗に整列された、数え切れないほどの機工機材が、かつての繁栄を映し出す鏡となっている。

 まるで、当時ここで働いていた人たちの声や、機材の駆動する音が聞こえてくるかの様だ。

 そういえば、ここは何故放棄される事になってしまったのだろうか。

 これだけたくさんの機材が揃っていて、施設としては問題なく動かせていたはずだ。

 機材はどれも、安価な旧型には見えない。

 6年経った今でも、もし仮にこれらが日々整備されていて動く状態なのであれば、十二分に通用するだろう。

「アグナス、この工場のこと、何か知ってる?」

 3番街に住み、近くの機工製作所に勤める彼ならば、何か知っているのではないかと想った。

 別段、この事について強い興味を持っていた訳ではない。

 正直なところ、分からなくてもなんとも思わない。

 ただ私は、懐中電灯の明かりと響く足音だけの世界が少し怖くて、話題が欲しかったのだ。

 そう、ただただ軽い気持ちで、聞いてみただけだった。

「本当に聞きたいか?」

 並んで歩いていた彼が、突然立ち止まった、

 彼の顔は、少し悲しそうな、少し苦しそうな、そんな表情を浮かべている。

 面食らった。

 歩みを止め、そんな表情を浮かべる様な話だとは思わなかったからだ。

 私は、その悲哀の奥に潜む真実に興味が湧いた。

 彼に対して、首を縦に振り肯定の意を示していた。


 上層へと続く階段を上りながら、彼が口を開く。

「6年前、この工場である事故が起こった」

 事故。

 そう聞いて、私は首をかしげた。

 工場が1つ操業停止になるほどの大きな事故の報道など、ここ最近で聞いた事がなかったからだ。

 こういう言い方をしてはアレだが、小さな事故はどこの工場でも日々発生している。

 そう珍しい事ではない。

 だけど、ここまで大きくて施設も整った工場を、機材もそのままに放棄する理由にはならない。

 私は、アグナスの次の言葉を待った。

「その事故で、7人が死んだ」

「うそ……」

 思わず私の口から言葉が漏れ、手で塞いだ。

 そんな大きな事故、聞いた事が無い。

 7人もの死者を出したら、工場が停止するのも当然だ。

 だけど、一体何故そんな――

「元々この工場では、人型機工を作り出すと同時に、その効率化を進める研究がされていた」

 戸惑う私をよそに、アグナスは続けた。

「そして、ある機工技師が苦心の末に生み出したんだ。

 機工の能力限界値を解除する、アンリミテッドプログラムを」

「アンリミテッド……プログラム……」

 復唱してみても、私の頭の中にその言葉は見つからなかった。

 初耳だ。

 今まで見てきたどの技術書にも、そんな単語は無かった。

 それに、限界値とは本来、機工そのものに過剰な負荷がかからない様に設けられた値なのだ。

 限界を突破した能力を発揮させてしまっては、故障が早まるだけだ……。

 ――いや、そうとも限らないのかもしれない。

 私はポケットに手を突っ込んで、その中の“あるもの”を取り出した。

 私が作った、リアクターの出力を飛躍的に上昇させる事のできる新装置ブースターだ。

 あの一件以来、これをひとつの戒めとして、持ち歩く様にしている。

 独自の理論で組み上げた、まだ世界に存在しない機工部品。

 結果として、中身をグチャグチャにされてしまったせいで、リアクターに過剰な負荷がかかり暴走させる事になってしまった。

 だけど、もし私の組み上げた機構がそのままだったとしたら……負荷を増やしすぎず、出力を上げられる物になっていたはずだ。

 そう、今この世界に存在しないからといって、不可能ではないのだ。

 もしかしたらアンリミテッドプログラムを開発した機工技師も、そう考えていたのかもしれない。

 私がアプローチしたのは、出力を司るリアクター。

 その技師はもっと内部の制御システムに狙いを定めたという事だ。

 そして、それを作り上げた。

 素晴らしい事だ。

 今ある技術の応用や、小手先の器用さを追及する技師を低く見る訳ではない。

 けれど、“新しい物”をこの世に生み出せる人間はそう多くない。

 技師として、尊敬する。

 でも、事故の話と一緒に語るくらいだ。

 きっとそれが、一因になってしまったのだろう。

「工場は、すぐにアンリミテッドプログラムを全ての資材に導入した」

 次の展開が、容易に想像できた。

 私の口は、アグナスが話すよりも先にその続きを紡いだ。

「けど、そこで問題が起きた……?」

「ああ、そうだ」

 それが結果的に、7人もの犠牲者を出してしまったという事か。

 その技師は、どれだけ悔やんだだろうか。

 私には想像もつかない。

 己の愚かさが、痛ましい事故を起こし、そして多くの命を奪った。

 私の場合は、キズナが壊れる寸前で助ける事ができた。

 そんな私ですら、あれほど自暴自棄になり、心が折れかかっていたというのに。

 私なんかに、想像できるわけが無かった。

 いや、その気持ちを理解しようとする行為すら、もはやおこがましいのかもしれない。

 結局、その技師はどうなったのか、私は無性に気になった。

 アグナスに、それを問う。

「それで、そのプログラムを開発した技師の人はどうなったの?」

「静かに」

 私の問いを制止して、アグナスが突然立ち止まった。

 見れば、すぐそこで階段が終わっていた。

 そう、3階にたどり着いていたのだ。

 廊下の奥の奥の方……1つだけ開きっぱなしになった扉から、明かりが漏れている。

 あそこだ、間違いない。

 私の心に、恐れが浮かぶ。

 アグナスの手をギュッと握り、反対側の手を胸の中心に当てる。

 呼吸を整え、緊張を和らげていく。

「大丈夫、俺がお前を守ってやる」

 優しく囁くアグナスの声に勇気を貰うと、その扉へ向けてゆっくりと歩いた。

 扉の手前で立ち止まる。

 中からは、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。

 それ以外の音は聞こえない。

 私はアグナスと視線を合わせた。

 互いに頷き、その部屋へと突入した。


 部屋の奥の机に、コンピューターが置かれている。

 その机の椅子に座る、赤い髪の白衣の男の背中が見えた。

 ついに、見つけた。

「遅かったな、待ちくたびれたぞ」

 白衣の男はキーを叩く手を止めると、振り向きもせずにそう告げた。

 どうやら、私たちに気付いていたようだ。

 椅子をくるりと回して、男はこちらに正面を向けた。

 見覚えのある容姿。

 燃える様な赤色を放つ、ボサボサの髪。

 目の下のクマと、手入れをしていない無精ひげの、先日すれ違ったあの男だ。

 憎しみの感情が私の中で渦巻いていく。

 憎悪の渦は、やがて怒りの牙へと姿を変え、私の全身を強張らせる。

 口元と、手が痛む。

 私は無意識のうちに拳を握り締め、強く歯軋りをしていた様だ。

「キズナと、リリーはどこ!!」

 そう怒鳴りかけると、男は鼻で笑った。

 目障りなにやけ顔で、私を嘲る。

「ははっ、貴様のその目……良く整備しておくことをオススメする」

 何がおかしいのだ。

 私の中の怒りはさらに膨れ上がり、足を前に出させた。

 男に詰め寄って、全てを吐かせる。

「待て、エリル」

 アグナスが私を止めた。

 何故止めるの?

 もう、目の前に真実があるのに!

 彼の顔を睨むと、目配せをされた。

 その視線の先――白衣の男のすぐ横に目を移すと、

 そこには小さな椅子に縛られた黒髪おさげの少女と、巨大な体躯を持つロボットがいた。

「リリー!! キズナ!!」

 白衣の男に夢中で、目に入っていなかった。

 リリーは薄手のワンピースだけを身につけた姿で、両腕を肘掛に、両脚を椅子の足にくくり付けられている。

 頭をぐったりと垂らしていて、気を失っている様子だ。

 キズナは、見たところ表面上では変わりない。

「キズナ! 私、エリルだよ! こっちを見て!!」

 だが、キズナは私の呼びかけにも微動だにしなかった。

 あの男が、何かしたに違いない。

 キズナを、私のキズナを……。

「ふたりを解放して!!」

「ふたり? おかしなことを言うな、私が誘拐したのはひとりだ」

「リリーと、キズナよ!」

 男は肩をすくめて、明後日の方向を向いた。

 腹の立つ表情を浮かべている。

「理解に苦しむな。機工と人を同列に扱うなど阿呆のすることだ。

 人型機工に人権があるか? 人型機工を壊して殺人の罪に問われるのか?

 貴様のその貧相な脳みそに、“機工はモノだ”と、アップデートしておくんだな」

「こいつっ……!」

 キズナは、モノなんかじゃない……!

 人と同列でもない。

 私にとっては、もっともっと、大切な――大切な家族なんだ!!

「挑発に乗るな、冷静になれ」

 アグナスが再び私を制止する。

 そうだ、冷静にならなくちゃいけない。

 あんな男の口車に乗せられて、隙を作ってはいけない。

 二度もアグナスに止められた。

 頼ってばかりじゃ、だめだ。

 落ち着け、私。

 目を瞑り、深呼吸をする。

 やがて、気持ちが落ち着いてきた。

 目を開けると、白衣の男がにやけながらこちらを見ていた。

 腹は立つが、もう取り乱したりなんてするもんか。

 私が落ち着いたのを見はからって、アグナスが男に問いかける。

「お前さっき、俺たちのことを“待っていた”と言ったな。どういう意味だ……」

 確かに、あの発言は私も引っかかった。

 白衣の男は、大げさに勢いをつけて椅子から立ち上がる。

 そして、こめかみを人差し指で突くような仕草をした。

「言葉は正しく記憶しろ? “待っていた”ではない。“待ちくたびれた”だ。

 ガッカリしたよ。あれだけ情報をバラまいてやったというのに、今頃たどり着くとはなあ」

 男はわざとらしく右手で顔を覆いながら、残念そうな表情を浮かべる。

 意味が分からなかった。

 情報をバラまいてやった?

 じゃあ、私たちが必死になって探していた手がかりは、

 初めからあの男が、自分を見つけさせる為に広めたものだったとでも言うのか?

「あなた、一体何が目的なの……?」

 私の問いに、男は不機嫌そうな表情を浮かべてため息をついた。

「出来損ないにも程があるな。脳を取り替えろ、いや、私が作ってやろうか。

 その不出来な脳を使って、少しは自分で考えてみろ、小娘」

 こんな気が狂った様な男の目的なんて、わかる訳が無い!

 そう言いかけた時、私の頭にある単語がよぎった。

 そうだ、この男の目的で私たちが知っている事が一つだけある。

「零……番街」

「正解だぁ! エリル・ビアンカッ!!」

 私がつぶやいたその単語に、満面の笑みを浮かべて跳びあがる白衣の男。

 いちいち声と動きの大げさなその男に怒りを覚える前に、自分の名を知られている事に驚いた。

 何故こんな男が、私の名前を……?

 混乱する私をよそに、白衣の男は嬉しそうに語り始める。

「そうだ、私はお前を待っていたんだ、エリル・ビアンカ!」

 どういう事だ。

 私と零番街と、何の関連があるというのか。

 今まで生きてきて、そんな単語は聞いた事が無かったというのに。

 男は、まるでプレゼントを心待ちにする子供の様に、部屋の中をでうろうろと歩き始める。

 そして、ミュージカルの役者のように、両手で感情を表現しながらどこへとも無く語りかける。

「全く苦労させられたさ、ああそうさ、私は大いに苦労した!

 ノアのヤツが作った最初の人型機工を探し当て、この小娘をさらうのは、それはそれはもう……」

 男の言葉の中に紛れた父の名に、私は反応した。

「あなた、お父さんを知ってるの?」

「お前、ノアを知ってるのか!?」

 私の声とアグナスの声が重なる。

 天才機工技師として名を馳せた父の名を知らない者はほとんど居ない。

 だが、その男は“ただ有名だから知っていた”という訳ではなさそうだった。

 何かが違う。

 別のつながりがある気がしてならなかった。

 おそらくアグナスも、同じ違和感を覚えたのだろう。

 同時に問いかけられて、石化したかの様に動きを止めて目線だけをこちらに移す白衣の男。

 そして私たちの方へ向き直ると、口角を上げて、気味の悪い笑顔を浮かべながら答えた。

「ああ、知ってるとも……私とヤツは、唯一無二の盟友だったからなあ」

 そんな馬鹿な。

 お父さんが、あの優しいお父さんが、こんな男と知り合いだったと言うのか?

 信じられなかった。

 私の口は、考えるよりも先にそれを否定する言葉を発していた。

「嘘よ! あんたみたいな犯罪者と、お父さんが知り合いな訳無い……!!」

 男の顔から笑みが消えた。

 私を睨みつけ、蔑むような目で見つめる。

「言葉を違えるな、“知り合い”ではない。“盟友”だ」

 ふざけるな。

 何が盟友だ。

 そんな嘘に、惑わされる訳には――

「……聞いたことがある」

「え……?」

 憤る私の横で、アグナスがぼそりと呟いた。

 何を、聞いた事があるのだろう。

 アグナスは、白衣の男を睨みながら続けた。

「天才機工技師ノアは、たった一人で様々な機工の元になる理論を世に排出してきたとされている。

 だけどその功績の影には、もうひとりの友の姿があったっていう噂だ」

 そんな話、始めて聞いた。

 いや、だけど、無理もない。

 父がしてきた事はあまりにも偉大で、あまりにも世界のあり方を変える結果となった。

 たった一人でそんな業績を挙げてきたなど、誰が信じられようか。

 だからこそ、父を支えた誰かがいたのだと、噂になるのもうなずける。

 だけど、その“父を支えた誰か”が、この男だというのか……?

 リリーをさらい、あんな姿にして、キズナを私から奪った、こんな下劣な男が……?

「ああ、そうさ。それが私だ。

 自己紹介がまだだったな。私の名はディアン。

 天才機工技師ノア・ビアンカを裏で支えた、世界の功績者ディアン様だ! ハッハッハ!!」

 ディアンは、そのまま後ろに倒れそうなほど仰け反りながら笑った。

 私は信じない。

 アグナスも身を乗り出して問い詰める。

「じゃあなんで、どうしてお前の名は世に広まってないんだ!」

「何を聞くかと思えば、愚かしい。

 ああ、なんて愚かしいのか。その愚かしさは罪だ。一度死ね。

 簡単なことさ、ヤツは光で私は影……身の程をわきまえた結果だよ」

 自ら進んで、父に全ての功績を譲ったと?

 なぜそんな事をする。

 欲が無いとでもいうのか?

 違う、欲の無い人間がこんな事を起こしたりする訳がない!

 ディアンの言葉を否定する為、私は質問を投げかける。

「盟友だって言うなら、お父さんの居場所を教えてよ!!」


「ヤツは――――」


 今、なんと言った……?

 答えられるはずがないと投げかけた私の質問。

 想像を裏切って、あまりにもあっさりと返されたその言葉を、私は聞き取れなかった。

 拍動が乱れる。

 心臓が、今にも私の肋骨を突き破りそうなほど、強く震える。

 肺が呼吸を拒むかのように強張る。

 息が、苦しい。

「何、だと……!?」

 アグナスの驚く声が聞こえる。

 彼には、あいつの言葉が聞き取れたのか?

 私にはわからなかった。

 ……本当に?

 心に、疑念が生まれ、再び茨が絡みついた。

 茨は疑念を餌にして成長し、その鋭い棘で私の心を次々と傷つけていく。

 私の脳内に記憶されていた、ディアンが言葉を発した際の口元が浮かび上がる。

『シ』。

 こんなの見たくない。

 今すぐ消えて!

 受け入れろ、事実を。

 違う、私は知らない、聞きたくない!

 薄々は感じていたはずだ。

 そんな事は無い、私は――

『ン』。

 嘘だ、私は今でも信じてる!

 自分の心を守るため?

 受け入れたら壊れてしまうから、だから否定しているの?

 だって、証拠が無い。

 あんな男の言葉、信じられる訳がない!

 心に嘘をつくな、本当はもう分かっているのだから。

 やめて、もうやめて……!!

 そうだ、自分を欺くのはもうやめろ。

 さぁ知れ、真実を。

 イヤ、絶対にイヤ……!!!

『ダ』。

 3つの単語が繋がり、理解を拒む私の脳にそれは突きつけられた。

『ヤツハシンダ』

 何だこれは。

 そんな言葉、私は知らない。

 心は自らを守ろうと、拒絶の壁を展開させる。

 だが、無常にもそれは茨の棘によって引き剥がされた。

 いい加減、受け入れろ。

 ああ、そうか……もう、これ以上は自分を欺けやしない。


『ヤツは、死んだ』


 その言葉は、磔にされた私を処刑するかの様に深々と突き刺さった。

 棘は心を貫き、そこに大きな穴を開けた。

 どこを見て良いかわからない。

 どうやって私は今立っているんだ。

 足から力が抜けて、その場に倒れこんでしまう。

「嘘……そんな……」

 私の口は、未だ否定の言葉を垂れ流している。

 だけど、心はもう理解していた。

 ディアンの発した、その言葉を、その意味を。

 何故私はこの言葉で、これほど打ちひしがれているのだろう。

 私はこの結末を、心のどこかで想像していたはずだ。

 アグナスの家に泊まったあの日の夜。

 私は自分で気づいていたじゃないか。

 お父さんが、もう戻ってこないのかもしれないと。

 私が頑張っているのは、キズナの為なんだと。

 ……簡単な事だ。

 それすらも、自らの心を偽っていただけに過ぎない。

 私は、心の底から父の生を否定していた訳ではないのだ。

 明日へ歩む為、自分を鼓舞する為、理解した“フリ”をしていただけだ。

 心の表面を欺瞞で満たしていた。

 そうしないと、前に進めなかったから。

 私が張り巡らせた自己欺瞞の殻は、内からの感情を抑えるのに精一杯だった。

 だから、外からの衝撃――ディアンの一言によって、こうも簡単に砕け散ってしまったのだ。

 立ち上がれない。

 手に、足に、力が入らない。

 もう何もかも、捨ててしまいたい。

 そう、思っていた事だろう。

 以前の私なら。

 今は、違う!

 クロン、ジョン、アグナス、クラスメートのみんな。

 私には、挫ける私を支えてくれる仲間がいる。

 例え自分が傷ついてでも、助け合って生きていきたい、そんな仲間がいる!

 拳を握り締め、歯を食いしばる。

 そして、差し伸べられたアグナスの手を握り、足にグッと力を入れて立ち上がった。

 茨が私の心にあけた穴からは、今も哀しみの濁流が溢れ続けている。

 それを塞ごうとは思わない。

 私は、この事実を受け入れなきゃいけないんだ!

 アグナスは、もう私の方を見ていなかった。

 それでいい。

 いつまでも私の事ばかり気にかけさせてはいられない。

 2人で並んで、目の前を見て進んでいくんだ。

「ほう、持ち直すか……。見かけによらず強い心を持っている」

 ディアンが、あごに手を当てながら関心した様にそう言った。

 違う、私は強い心なんて持っていない。

 私はディアンをまっすぐに見据えながら、言い放つ。

「みんなとの絆が――心の絆が、私を支えてくれているだけよ!」

「面白い、それこそ人が人たる所以だ……。

 機工人形の持ち得ない、真なる“心”だ」

 ニヤリと笑い、椅子にドカッと腰掛けるディアン。

「さて、そろそろ本題と行こうか」

 彼は椅子をクルリと回して、再び私たちに背を向けた。

 数度キーボードを叩くと、コンピューターから1枚のディスクが飛び出してきた。

 ディスクの中心に人差し指を突っ込むと、ディアンは椅子から立ち上がった。

「本題って、一体なんだ」

 アグナスがそう問いかけると、ディアンはまた不機嫌そうな顔を浮かべる。

「やはり脳の交換をオススメするよ。

 お前たちは一体何のためにここに来たんだ」

 私がここに来た目的。

 そうだ、私はリリーとキズナを取り戻しにきたんだ!

 あいつに気付かされたのは癪だが、そうも言ってられない。

 先ほどディアンは言っていた。

 私をここにおびき寄せる事こそが目的だったと。

 その為にキズナをさらい、リリーを誘拐し、町中に情報をバラまいたのだ。

 おそらく下の警備ロボットも、この男の仕業だろう。

 思えば1体のロボットが壊れ、連動してもう1体が壊れるなどおかしな話だ。

 それでは、2体置いている意味が無い。

 私が工場内に入ったのを見計らって、停止させたのだ。

 そこまでする程だ。

 よほど重要な事を、私に要求したいらしい。

「何が条件なの?」

 私の問いに、ディアンはうってかわって歓喜の声を上げた。

「察しが良くて助かる。やはりノアの娘だな、お前は……。

 ああ、ノア、お前の娘は本当に素晴らしいぞ、ハハハ!」

 感情の起伏が激しすぎる。

 ついていけない……。

 苛立ちを覚えた私は、怒鳴りつける。

「条件は何!?」

「そう逸るな」

 ディアンは一瞬で無表情に戻ると、ディスクを無造作にポケットに突っ込んでからキズナの方へ向かった。

 キズナの肩に結ばれたリボンに手をかけるディアン。

「それに触らないで!」

 思い出のリボン。

 キズナと私の、家族の証……!

 私の叫びも無視して、ディアンはリボンを解いてしまう。

 その瞬間、キズナが私のキズナでなくなってしまったような、恐怖に襲われた。

 私に返事を返してくれないキズナ。

 そんな状態でも、そのリボンだけがまだ私とキズナの心を繋ぎとめている唯一の楔だった。

 落ち着け、あんなの、ただのリボンだ。

 そう、ただの布切れだ。

 平静を保つため、思ってもいない事を心の中で無理矢理復唱する。

 あのリボンは、大切なものなのに。

 違う、今はキズナとリリーの事だけ考えろ!

「ほら、起きろ小娘」

 ディアンはうな垂れて動かないリリーの頬を平手で叩いた。

 それで目を覚ましたリリーは、虚ろな目をゆっくりと開けながら、頭を上げた。

 視界に私たちを見つけたのか、彼女は目を見開いて暴れだす。

「お願い、そこの人、助けて! 助けて、お願いだからあああ!!」

 暴れても、両腕両脚を椅子に固定されたままの彼女は身動きがとれない。

 恐らく彼女は、混乱とその弱い視力で私が私である事に気づいていないのだろう。

 よく見れば、頬は赤く晴れ、鼻には血のあと、目は充血し、体中に蚯蚓腫れがついている。

 痛々しいその姿に、思わず目を逸らしたくなる。

 彼女があの男にどれだけ酷い事をされてきたのか、想像に難くない。

「黙れ」

 なおも暴れるリリーにもう一度平手打ちをかますディアン。

「やめて、リリーに乱暴しないで!!」

「乱暴? 馬鹿なことを言う、こいつを見てみろ」

 リリーは、先ほどまで暴れていたのが嘘の様に黙り込んでいた。

 そして、何かをブツブツと呟いている。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 それは、謝罪の言葉だった。

 誘拐されてから今日まで、どんなに心細かっただろう。

 どんなに辛かっただろう。

 たったひとり孤独に犯罪者と過ごす時間が、どれほど恐ろしかった事だろう。

 その孤独と苦悩、ディアンが与えた苦痛と恐怖が、彼女を取り巻いて支配してしまっているのだ。

 許せない。

 リリーを、私の友達を、こんなになるまで痛めつけるなんて!

「そう睨むな。まだまだ序の口さ。

 楽しい余興は、これからだ。そう、まだ始まりにすぎない」

 ディアンはこちらに背を向けて、リリーに何か細工をしている様だ。

 今すぐあいつに突撃して、ぼこぼこにしてやりたい。

 だけど、もしリリーに危害を加えられてしまったら……。

 人質があちらの手の内にある。

 この1点だけで、これほど近い距離にいる無防備な相手に何も手出しできないなんて。

 アグナスも、飛び出しそうになる自分を必死で抑えている様子だった。

 ディアンがリリーへの細工を終えたようで、満足げな顔をして彼女の隣に立った。

 リリーは、私の赤いリボンで作った猿轡を噛まされていた。

 だけど、もう彼女は声を出す気力も勇気も無いといった感じに、ぐったりとしている。

 一体何のために、あんなものを……。

「さぁ〜、楽しい質問タイムの始まりだあ!

 私からの質問に答えられれば、人質は解放すると約束しよう。そうさ、私は約束は破らない」

 何をふざけた事を!

 両手を広げて天を仰ぐように見上げるディアンを見て、怒りが湧いた。

「回答者はお前だ、エリル・ビアンカ」

 ディアンが私を指差してそう告げた。

 一体、私に何を聞きたいというのか。

 キズナの構造についてだろうか?

 それなら全て知っている。

 お父さんが作ったキズナを、私は今までずっと毎日メンテナンスしてきた。

 私にキズナの知らない事なんて無い。

 だけど、こんなやつに教えるつもりも無い!

「零番街への扉を開くパスコードを教えろ」

「え……?」

 何を言っているんだ。

 零番街への扉?

 扉を開くパスコード?

 何だそれは。

 そんなもの、私が知る訳がない。

 戸惑う私の姿を見て、ディアンが何かの合図をする。

 すると、沈黙したままだったキズナのアクセスランプが光り、ゆっくりとその体を動かした。

 その動きは、まるで巨大な荷物を持ったまま動いて居るかの様に、酷く鈍重だった。

 きっと油をさしていないからだ。

 早く、連れて帰ってメンテナンスしてあげないと。

 そんな事を考えていると、キズナは肘掛に縛られたリリーの左手の指をそっと掴んだ。

 次の瞬間、何かを潰す様な、何かを砕く様な、鈍い音がした。

 私の頭がその音の正体を理解する前に、その場に悲鳴が轟いた。

「ああああああああああ!!!!」

 耳をつんざくような絶叫に、私は思わず目を瞑り身をすくめた。

 リリーの声だ。

 猿轡を容易に貫通するほどの悲痛な声。

「なんてことしやがる!!」

「私も時間に余裕がある訳ではない。そう、時間が無いんだ。

 だんまりを決め込んでもらっては困るんだよ」

 アグナスとディアンが言い争う声が聞こえる。

 なんだ、一体なにが起きた??

 恐る恐る目を開け、リリーの方を見る。

 その体はビクビクと痙攣していて、目からは大粒の涙がぼろぼろと落ちている。

 見たところ、目立った外傷は見当たらない。

 何をされたんだ。

 そう思った時、椅子の近くの床にボタボタと何かの液体が垂れた。

 キズナが巨体をどけると、リリーの小指から血が滴っているのが見える。

 嘘、そんな……まさか、指を!?

 キズナの大きな手にも、彼女のものと思われる血痕が付着している。

 そうだ、違いない。

 ディアンはキズナに命じて、リリーの指を潰させたのだ。

 あの優しい大きな手で、私を包んでくれるあの大きな手で、なんて恐ろしい事を……!

「もうやめて!!」

「お前が答えれば止めてやるさ、エリル・ビアンカ。

 さぁ、零番街のパスコードを教えろ」

「だから、知らないんだってば!!」

 必死に主張するも、ディアンは質問を止めない。

「止めろ! エリルも知らないって言ってるだろ!!」

 見兼ねたアグナスも、ディアンに詰め寄る。

 ベルトの背中に忍ばせたナイフに、こっそりと手をかけている。

 あんなものを、持ってきていたのか……。

 だが、ディアンには、それすらもお見通しだったようだ。

「おっと、気をつけろよ。もし私を殺しでもしてもみろ。

 街の至る所に仕掛けた爆弾が即ドカンだ」

「なん、だと……!?」

 最悪な脅し文句だ。

 街中に爆弾をしかけただと?

 そんなの、ハッタリとしか思えない。

 だけど、だけどもしそれが本当だったら……被害の大きさは計り知れない。

 嘘だろうと本当だろうと、その脅し文句は私たちを躊躇わせるには十分すぎる。

 その言葉は私たちを縛る鋼の鎖となってしまった。

 もう、手出しができない。

「さあ、答える気になったか? エリル・ビアンカ」

「だから、さっきから知らないって――」

 私が否定の言葉を投げかけるや否や、また鈍い音がした。

「ああああ!!! ああ、ああ……」

 再び響く、リリーの絶叫。

 その悲鳴はすぐに途切れ、彼女は意識を失ったかの様に項垂れてビクビクと痙攣している。

「やめて!! もうやめて!!!」

 ダメだ。

 どうすればいいんだ。

 答えなければ、リリーがどんどん傷つけられていく。

 でも、私はディアンの望む答えなんて持ってない!

 そうだ、適当にパスコードを伝えて、この場を凌げば……。

 いや、ダメだ。

 今までのやりとりを見てもわかる。

 あの男はあんな狂気じみた言動をしているように見えて、実に目ざとい。

 必ず見破られてしまう。

 もしそうなれば、リリーの無事は保証できない。

 どうすれば、私はどうすればいいんだ!

「さぁ、考えてみろ。あと8本分も時間をやっているんだ。

 例え忘れてしまっていたとしても、それだけあれば思い出せるだろう?」

 ディアンは、リリーの指全てを潰すつもりだ。

 やめて、お願いだから……。

 自分の無力さに、目から自然と涙が溢れ出す。

「いや……18本分の間違い、か」

 ディアンがリリーの足元を見る。

 そして、硬そうなブーツを履いた足を高く持ち上げる。

 何を……する気だ!

 やめて!!

 私が抗議の声を上げる間もなく、その足は床に思い切り叩きつけられた。

 リリーの足の小指がディアンの靴に隠れている。

 ディアンの靴の下から、血が広がってきていた。

「残り17本になったな」

 リリーはもはや悲鳴も上げられず、失禁しながら痙攣しているだけだった。

 これ以上は、彼女の体と心がもたない!!

「お願い、それ以外のことなら、私にできることなら何でもするから!!

 お金ならたくさんあるから、全部あげるから!!

 だからお願い、リリーにこれ以上酷いことしないで!!」

 お金なら、お父さんが残してくれた遺産がある。

 一般の人間が一生働いても稼げない量だ。

 そうだ、これならきっとディアンも……。

「零番街のコードを教えろ。私はそれ以外には興味は無い。

 ノアのやつが稼いだ金など、虫唾が走るというものだ」

 ダメだ、どうする事もできない。

 お父さんなら、どうしただろうか。

 暴走するかつての友を、どうやって止めただろう。

 お願い、誰か私を助けて……!!

 私の祈りもむなしく、ディアンは続けて4本目の指を潰すようキズナに命じた。

 だが、その時――

「14番ゲートだ」

 アグナスが、苦しそうな表情を浮かべ、拳を握り締めながらそう呟いていた。

 ディアンがキズナを制止する。

 なんだろう、アグナスは何を言っているんだ。

 14番ゲートは、3番街と4番街を繋ぐ壁を通り抜けるための門のひとつだ。

 その門が、一体……?

「ほう、お前が知っていたのか。

 ただのエリル・ビアンカの男かと思っていたが、ここに来させて正解だった様だな。

 ああ、私は運が良い、そうだろう、ノア……」

 ディアンの表情が、見る見るうちに笑顔に変貌していった。

 アグナスの言葉をひとつたりとも聞き逃さんと、視線を向けている。

 話が分からない。

 2人は、何の話をしている?

 アグナスは、眉間にしわを寄せた表情でディアンから目を逸らし、続けた。

「3番街側の14番ゲートから、壁伝いに北側へ進め。

 ゲートから数えて38個目の壁のボルトを5回押すんだ。そしてそこで、こう呟け」


 “我を導け、パラミア”


「そうか、パスコードではなく、そんなややこしい隠し方をしていたのか……。

 全く、貴様らしい姑息な手だ、私には思いつかんよ、ノア」

 ディアンが右手で顔を覆いながら、クスクスと笑っている。

「アグナス、どういう、こと……?」

 そう問いかけるが、彼は私から目を逸らした。

 話から察するに、今アグナスが言った方法が、零番街への入り方なのだろうか。

 だけど、どうしてアグナスがそれを知っているんだ。

 問いただす為に服を掴もうとする私を軽く手で押しのけて、アグナスは言う。

「さぁ、お前の要求は呑んだ! 早くその子を解放しろ!!」

 そうだ、今はアグナスに詰め寄るよりも、2人を優先しなくちゃいけない。

「リリーとキズナを、返して!!」

 アグナスの服の裾を握り締めたまま、ディアンを睨みつけてそう叫んだ。

 ディアンはこちらに向けて薄ら笑いを浮かべている。

「約束だからな、この小娘は解放してやろう。

 早く病院に連れていってやれ。酷く痛ましい怪我だ……」

 こいつ、よくもぬけぬけと!

「だが……」

 ディアンはキズナのボディを拳でコンコンと叩きながら、もう一方の手でゴーグルの様なものをかけ始めた。

「私は“人質”を解放する約束をしただけだ。こいつはまだ返す訳にはいかない」

「そんな! 約束が違う!!」

 私はディアンに向けて飛び掛ろうとする。

 だが、あいつは、次の瞬間地面に何かをたたきつけた。

 眩い閃光と爆音があたりを包み込む。

「きゃあっ!?」

「うおっ!!」

 閃光弾か……!!

 油断した。

 あいつがゴーグルをかけた時点で、気付けたはずなのに。

 目をやられた。

 何も見えない。

 耳も、キーンとしていて音が良く聞こえない……。

 リリーは?

 キズナは?

 アグナスは……!?

 真っ白に染まる視界を掻き分けるように手を払うが、何も無い。

 どのあたりだ、私はどこにいる!

 その時、私は背後から何者かに語りかけられた。

「だから言っただろう、アップデートしておけと」

 その声を聴いた瞬間、振り向く間もなく、私の後頭部に鈍い衝撃が走り、地面へと倒れた。

 鉄板の床が、冷たい。

 意識が、遠のいていく。

 違う、キズナは、モノなんかじゃ……ない。

 未だ白く染まる視界の中、私の意識は深淵へと堕ちていった。



 - つづく -


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