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 鳥の鳴き声が聞こえる……。

 閉じていた目をそっと開くと、眩しい陽の光が差し込んできた。

 思わず、目をぎゅっと瞑ってしまう。

 もう一度、ゆっくりと光に慣らしながら目を開けた。

 周囲を見渡して、ここが食卓である事を理解した。

 ……昨日、あのままここで眠ってしまったらしい。

 体を起こすと、一枚の布が床に落ちた。

 キズナがかけてくれたのだろう。

 私はハッとして、床を見た。

 床は綺麗に磨かれていた。

「最低だ、私……」

 机に頬を付けて、体から力を抜いてだらりとしたまま、台所を眺めた。

 私の散らかした食事の片づけをしてくれて、泣き疲れて眠る私に毛布をかけてくれた。

 キズナの優しさに、胸が痛んだ。

「……あとで、ちゃんと謝ろう」

 時計を見たら、もう授業が始まっている時間だった。

 今日は、もう休んでしまおう。

 私の実力なら、一週間――いや、ひと月くらい休んでも成績に問題は無い。

 資格の取得に必要な出席日数にも、ほぼ足りている。

 ……やはり私は最低だ。

 そんな考えだから、そんな考えを表に出してしまうから、敵を作るのだ。

 知らず知らずのうちに、憎しみを生み出す。

 クロンや、その子分たち、そしてリリー。

 全部私が招いた事に他ならない。

 分っている、分っているけれど……それでも私は、今日は学校に行く気にならなかった。


 それにしても、寝坊をしたのなんて久しぶりだ。

 いつもは時間になったらキズナが起こしてくれていた。

 朝ごはんの用意もできていない。

 ……もしかして、やっぱりキズナに何か異常が起きてしまったのだろうか?

 私は急に怖くなって、メンテナンス室に飛び込んだ。

 だけどそこには、キズナの姿は無かった。

 その後家中を探したけれど、見つからなかった。

 買い物にでも、行ってるのかな。

 夜までには、きっと帰ってくるはずだ……。


 私は、ダラダラと時間をつぶした。

 雑誌を読んだり、テレビを見たり、昼寝をしたり、参考書を読んだり、ゲームをしたり……。

 普段はやらない事をたくさんやった。

 でも、全然楽しくなかった。

 大きな穴が空いてしまった私の心は、何をしても満たされなかった。

 楽しい、ってどんな感覚だったのだろう。

 友達と一緒に他愛のない雑談をする事?

 キズナのメンテナンスをしてあげる事?

 世界一の機工技師を目指して、日々研究を進める事?

 ……考えても、わからない。

 “無気力”。

 この言葉ほど、今の私の状態を現せるものもないだろう。

 ソファーに横になって、どこともない場所を見ながら、数時間を過ごした。

 無駄な時間だという事は理解している。

 でも、何か有意義な事をしようとも思えなかった。

 気づいたら、もう夜になっていた。

 一日って、こんなに短かったっけ……?

 キズナが戻ってきていないか、私はリビングへ向かった。


 そこには、誰もいなかった。

 そもそも戻ってきていたら、あのこすれる金属音と重厚な足音で気付く。

「キズナ、どこ行っちゃったの……?」

 床に1枚の毛布が落ちていた。

 朝、私にかけられていた毛布だ。

 落としっぱなしだった事を、忘れていた。

 私は毛布を拾って埃を払い、それを椅子にかけた。

 何をしようかな……。

 そんな事を考えていると、私のお腹がぐうと鳴った。

 そういえば、朝から何も食べていなかった。

 自分の空腹にも気付かないなんて……。

 でも、食事を用意しようにも、私は料理ができない。

 材料も無い。

 食事はキズナに任せっきりだったから、ひとりじゃ作れないのだ。

 私は、台所に置いてある即席料理製造機を見た。

 使った事はないけれど、ついているボタンを見れば大体わかるはずだ。

 しばらく機械を見つめていると、案の定すぐに操作方法は分かった。

 食べたいメニューを入力してもよし、その日の気分でおまかせにするもよし。

 ボリュームは勿論、砂糖や塩など、調味料もお好みに調節できるようだ。

 折角初めて使うんだし、贅沢をしよう。

 私は、手ごね風A級牛肉ハンバーグをメニューから選んだ。

 ボリュームはたっぷりめ。

 つけあわせのお野菜と、コンソメスープ、ご飯も追加した。

 ちょっとだけ、わくわくしていた。

 また、お腹がなった。

 5分ほどした後、料理製造機の取り出し口に、豪華なメニューが並んだ。

 おいしそうな香り。

 思わず口内が潤う。

 溢れそうになる涎を抑えながら、私は料理を食卓へ運んだ。


「いただきます」

 両手を合わせて拝んだ後、食器を手に取る。

 ナイフとフォークがついていたが、使い方がよくわからないのでスプーンにした。

 スプーンでハンバーグを切り取って、口に運ぶ。

 たっぷりのデミグラスソースにつつまれたお肉から、肉汁がぶわっとあふれ出る。

 溢れた肉汁と、香ばしいソースの香りが口内を満たし、鼻腔にまで上がってくる。

 体の内部から香りをかがされたような、不思議な感覚だ。

 肉自体もとてもやわらかく、まるで口に入れた瞬間に溶けてなくなってしまうかの様だった。

 今までに食べた事のない極上の味と触感だった。

 この感覚が、口の中から消えてしまうのが惜しいと思うほどに。

「……すごい、おいしい」

 私の頬を、涙が伝って落ちた。

 私はそのひと口を最後にスプーンを置き、食卓を後にした。



 町は完全に夜の闇に包まれていた。

 それでも街灯が発達しているから、歩き回るには困らない。

 外に用事があった訳ではない。

 ただ、家でじっとしているのが辛かっただけ。

 じっとしていたら、色々思い出したく無い事を考えてしまうから。

 それに、キズナも見つけられるかもしれない。

 そう思って夜中の散歩に出かけたのだったけれど、それは逆効果だった。

 目的もなく歩いている方が、よっぽど考え事をしてしまう。

 学校で私が孤立しているのは、私の責任なのだろうか。

 だとしたら、もしかしたら違う態度をとっていれば、私はみんなの輪に入れていたのか。

 リリーと、本当の友達になる方法はなかったのか。

 どうして、イライラをキズナにぶつけてしまったのか。

 延々と、過ぎてしまったが故に答えの出ない問題を、自分自身に問いかけていた。

 ……リリーと本当の友達になる?

 あんなに酷い事をされたのに、私は何を考えているんだろう。

 我ながら未練がましくて、思わず自嘲してしまった。


 考え事をしながらトボトボ歩いていると、突然視界が遮られた。

「きゃっ!」

「うおっと!?」

 何かに――いや、誰かにぶつかって、尻もちをついてしまった。

 余所見をし過ぎていたようだ。

 相手も、私と同じように尻もちをついて倒れている。

「ご、ごめんなさい……」

「いや、俺の方こそ悪かった。余所見しててな」

 相手は、20代くらいの男の人だった。

 ゆったり目のシャツにジャケットをまとい、下はジーンズというちょっとワイルドな姿。

 だけど、全体的に清潔感を感じる。

 背は、結構高い。

 髪は短く、顔は優しそうな感じもありつつ、どこか男らしい。

「怪我、ないか?」

 その男の人は、すぐに立ち上がって私に手を差し伸べてきた。

「は、はい、大丈夫、です……」

 ちょっと恥ずかしくてためらったが、私はその手を握る為に右手を差し出す。

 だが、彼の手がふと消えてなくなった。

「うお、いってぇ!!」

 ドカンという激突音。

 彼は、すぐ横の街灯の下にあったゴミ箱に突っ込んでいた。

 ゴミ箱の中身が散乱している。

 私がキョトンとしてその光景を見ていると、彼は体を起こした。

 胡坐をかいて右足の靴を脱ぎ、足首をぐるぐる回している。

「畜生、右足イカレやがったな……」

 機工義足だ。

 見た目は普通の足にしか見えないが、すぐに分かった。

 ロボットの体の一部を、人用の義肢としてチューニングした最新型の道具だ。

 神経に直接つなぐ為、施術に伴う痛みは常軌を逸したものだという。

 だが、慣れれば生身の手足と同じように動かせるという優れ物だ。

 私は、彼に近寄って行った。

 それに気付いた彼は、私に心配をかけまいとするためか、平静を装った。

「ああ、心配すんな。こっちの問題だから。行っていいよ」

 彼はそう言ったが、目の前で、自分のせいで異常を起こした機工を放っておくわけにはいかない。

 私は袈裟懸けにしたカバンから小さな携帯工具箱を取り出した。

 工具を握りながら、そのカバンを身につけてきた記憶が無い事に気が付いた。

 無意識だった。

 いつも外出時には確かに持ち歩いていたが、こんな時にも、私はこれだけは忘れずに持ち歩いていたのかと、驚いた。

 習慣とは、恐ろしいものだ。

「な、なにを始めるつもりだよ」

 戸惑い気味の男の人の声で我に返った私は、彼に申し出た。

「あの、その足……私に診させてもらえませんか?」


 最初は半信半疑だったその男の人も、すぐに私の技術力の高さに気付いた。

 そして同時に、私の様な子どもがそんな技術を持っている事に驚いている様子だった。

「お嬢ちゃん、何者だよ」

「通りすがりの機工技師……の卵です」

 技師の卵。

 私には珍しい謙遜だったが、その言葉が彼をより混乱させたようだ。

 自分で言うのもなんだが、技術力に関しては並みの技師のレベルじゃない。

 正式な資格を持っていないだけで、その辺の技師よりは遥かに優れた技術があると自負している。

 彼の足の異常の原因もすぐに突き止め、修復して見せた。

 とても良い性能の機工義足で、ぶつかった程度で壊れるとは思えなかったが、

 どうやら衝撃によってたまたま神経配線のコネクタが外れてしまっていたみたいだ。


「……はい、これで大丈夫なはずです。立てますか?」

 男は私に促されるままにスッと立ち上がり、数回右足だけでジャンプした。

 どうやら、問題なさそうだ。

「おう、大丈夫みたいだ。ありがとな」

 笑顔でお礼を言われた。

 でも、今の私にはそのお礼を喜べるだけの心の余裕はない。

 嬉しくともなんともなかった。

 義足をいじっている間は夢中だったが、それが終わった途端、自分の置かれた状況を思い出してしまう。

 用は済んだ。

 一刻も早くここを立ち去ろう。

「あの、じゃあ、私はこれで」

「あ、ちょっと待てよ」

 サッと工具セットを片付け、去ろうとする私を彼が呼びとめた。

「女の子がこんな時間に、ひとりで何やってんだ?」

「……なんでも、ないです」

 思い出したくない。

 だから、聞かれるのが辛かった。

「なんでもないって、そんな顔しててなんでもない訳ないだろ」

 そう言われて、カバンから手鏡を取り出して自分の顔を見た。

 目は充血していて、くまができていた。

 頬には涙の通った跡がついている。

 なるほど、確かに“なんでもない顔”ではない。

 鏡で自分のその酷い顔を見ていると、何故か私の中で悲しみがぶり返してきた。

 そして、また涙が出てきてしまった。

 人前である事を思い出し、すぐに涙を袖で拭う。

 だけど、この男には気付かれたようだ。

「……訳は聞かないけど、ひとりじゃ危ないだろ。家まで送るよ」

「結構です……」

 ひとりでいたかった。

 だから私はその男の申し出を断った。

 だけど、男は引き下がらない。

「そう言うなって。

 明日の朝に、技師の女の子が行方不明に……なんてニュースになったら寝付きが悪い。

 この足のお礼だと思ってさ、遠慮すんなよ」

 いくら断っても、聞き入れてはくれなさそうだ。

 私は諦めて、それなら……と首を縦に振った。

 男に家の詳細な住所を教えるのは嫌だったので、私は四番街の三番地区である事だけを伝えた。

 すると、男は心底驚いた顔をしていた。

「四番街三番地区っておまえ、そんな遠くから来たのかよ」

 遠く?

 そう言われて、私は今ここがどこなのか全くわからない事に気が付いた。

「あの、ここってどこなんですか?」

「ここは三番街の外れ。住所で言うと三番街一番地区五楼の九号通りだ」

 私はそれを聞いて目を丸くした。

 ここから徒歩で私の家に帰るには、2時間はかかる。

 そんなに歩いた記憶はないのに。

 ……それだけ、無意識にフラフラとしていたという事か。

「今から行くにはちょっときついな」

 確かに、きつい。

 私も、ここから2時間もかけて家に帰るだけの体力は残っていない。

「…………」

 男は何かを考えるように、手を口に当てながら私の方を見ている。

 なんだか、物色されている様で気分が悪い。

 そして、しばらくしてその口が開かれた。

「……俺の家ここから近いんだけど、泊ってくか?」

「え……?」

 思わず声を出して聞き返してしまった。

 まさか、そう来るとは思わなかった。

 男の声はやや上擦っているように感じた。

 家に誘うという事はつまり、“そういう事”だ。

 断ろうとして、私は思いとどまった。

 この人についていけば、今のこの辛い気持ちを忘れる事ができるかもしれない。

 たった一時でも良い。

 この気持を忘れたい。

 心に空いた穴を埋めてくれるのなら、もうなんでもいい。

 快楽に身を委ねて、全てをなされるがままにして、忘れてしまいたい。

 だから私は、その申し出に応えた。

「……わかりました」

 男はにっこりと笑って、自らの家へと私を案内しはじめた。

 本心を隠す為の優しい化けの皮は、叔父よりも上手だった。

 手を引かれながら、そんな事を考えていた。



 私は、シャワーから降り注ぐ水滴をただボーっとしながら浴びていた。

 あの男の名前は、アグナス。

 この近くの人型機工製作所で働く、機工技師補佐らしい。

 技師補佐とは、“技師”という名前がついているものの、その技術力は技師には程遠い。

 機工技師に許されたあらゆる権利もなければ、責任もない。

 医者と、看護師のような関係性といえば分かりやすいだろうか。

 家は質素で狭かった。

 いわゆる集合住宅というやつだ。

 お世辞にも、お金に余裕があるようには見えなかった。

 町工場で働く、低級な民間人の一人、というところだ。

 私は彼に、どんな事をされるんだろうか。

 確か、初めては相当痛いと聞いた。

 でも今まで特別関心も無く、経験もない私には、あまり良くわからない。

 彼は慣れていそうだったから、任せれば良いか。

 優しくしてくれれば、良いのだけれど。

 とりあえず、いつもより念入りに、隅々まで体を洗った。


 風呂の扉を開けると、脱ぎ捨てた私の服が散乱していた。

 全く、しつけがなっていないにも程があるものだ。

 脱ぐ時にどれだけなげやりな気持ちだったのか、もうすでに思い出せない。

 私は自分を嘲り、服を気にせずに脱衣所に上がった。

 踏みつけた服が、私の体から滴る水で濡れた。

 どうせ今日はもう着ない、だから問題ない。

 さっと体を拭き、髪から軽く水気をとると、タオルを投げ捨ててそのまま脱衣所を出た。

 長い髪を乾かす手間が面倒だった。

 髪から滴り背中を伝う水が体温を奪ったが、不思議と気にならなかった。


 裸のまま、彼の待つ寝室へと歩いて行った。

 何故だろうか、不思議と恥ずかしさは無かった。

 半ば諦めていたから?

 この状況を受け入れていたから?

 望んだ状況だから?

 考えてもわからない。

 ……そもそも、考える意味も無い。

 私がここにいる理由はひとつ。

 辛い現実から、一時でも目を背ける為。

 そして私は、初めて親以外の人間に生まれたままの姿を晒した。

「おまたせ、しました……」

 ベッドの上にいる、寝転びながら雑誌を読んでいたアグナスに声をかける。

 彼は私の声に気付き、こちらを見た。

 少しも欲情した表情を浮かべず、真剣な眼差しでこちらを見ていた。

 慣れてても、こんな若い体には眼を奪われるでしょ?

 そんな馬鹿みたいなセリフを、無表情で直立不動のまま思い浮かべていた。

 本当に、馬鹿みたいだ。

 体を伝って滴る水が、私の足元に小さな水溜りを作っていた。

 すると彼は、上着を脱ぎながらベッドから立ち上がり、近づいてきた。

 きゅっと体が収縮する。

 やっぱり、ちょっと怖い。

 彼がもう目前まで迫った時、私は目を堅く瞑った。

 次の瞬間、私の肩に彼が覆いかぶさる。

 ……?

 体に感じる妙な感触に、私は違和感を覚えた。

 覆いかぶさったのは、彼ではなく彼の上着だった。

「馬鹿、もっと自分を大事にしろ」

 予想外の言葉を聞いて、私は面喰らった。

 目を開けると、少し困った顔で頬を赤らめたアグナスの姿があった。

「あ、あの……」

 訪ねたかったが、困惑していて言葉が出なかった。

 それにようやく気付いてくれたアグナスは、私に背を向けた。

「ああ、悪い……俺の誘い方もまずかったよな。

 本当に、心配だったから泊らせてやろうと思っただけだよ」

 ……私は、大きな勘違いをしていたようだ。

 とてつもなく、失礼な勘違いを。

 それに気付いた瞬間、私は急に裸に上着一枚のこの状況が恥ずかしくなってきた。

「ご、ごめんなさい……!」

 すぐ脱衣所に駆け入り、座り込んだ。

 膝を抱えたまま、床を見つめた。

 顔が、燃えるように熱い。

 脱いだ服に手を伸ばすが、それはびしょ濡れだった。

 そのまま着る訳にもいかない。

 濡れた髪から滴る水が、背筋を伝って私の体温を奪っていく。

 体がブルッと震えた。

 風邪、ひいちゃうよね……なんて、呑気に考えながらしばらくじっとしていた。

 すると、脱衣所の扉が少しだけ開いて、そこから男物の寝巻が投げ入れられた。

 ドアの向こうから、彼の声が聞こえる。

「そんなのしかないけど、何もないよりマシ……だよな」

「あ、ありがとう、ございます」

 私のお礼を聞くと、彼は寝室へ戻って行った。

 私は、脱衣所に放ったタオルを拾って再度体を念入りに拭いた。

 せっかく貸してもらった服を、濡らしてしまっては失礼だ。

 私の家だったら、濡れた髪も一瞬で乾く瞬間乾燥機が置いてあるのだけれど……。

 ここには、そんなものは無い。

 お風呂上りに手でごしごししたのは、何年ぶりだろうか。

 長い髪を傷めないように、タオルでつつんでポンポンとぬぐう。

 やがて水気取りに満足がいった私は、彼の与えてくれた寝巻を着た。

 背の高い彼の上着は、私にとってはちょっとミニのワンピースみたいなタケだった。

 袖もぶかぶか。

 4分の1くらいが、私の手の先でぶらりと垂れている。

 男女の差はあるとは言え、同じ人間なのにこんなに背って違うものなんだ。

 私はなんだかおかしくなって、笑ってしまった。

 ああ、そうだ。

 笑顔って、こういう顔だ。

 脱衣所の鏡に映る自分の顔を見て、そう思い出した。

 私は寝巻の上だけを着たその格好で、さっきかけてもらった上着を綺麗に畳んで寝室へ向かった。


 寝室では、彼がベッドのシーツを新しい物に取り換えていた。

「君はこっちで寝ろよ。俺はソファでいいからさ」

 そこまでしてくれなくても、よかったのに。

 そう思ったが、折角の彼の好意を無碍にするのも無粋だろう。

「ありがとう……」

 無意識だったけれど、敬語が無くなっていた。

 少しだけ、彼を――アグナスを信用し初めていたのかもしれない。

 彼はベッドの整理を終えると、私と入れ替わりでお風呂へ向かった。

 それを見送った後、私はベッドに腰掛けた。

 家は質素だし、便利な機械も何もないけど、ベッドだけはふかふかだった。

 体重の軽い私でも、そのベッドは沈み込んだ。

 もしかしたら、私の家のよりも高級かも。

 そんな事を考えながら、私は横にパタンと倒れた。

 彼の部屋を、ボーっと眺める。

 壁には、2人の男の人が映った写真がかかっている。

 片方は恐らく、若い頃のアグナスだ。

 もう片方……見覚えがある様な気がしたけど、彼の友人知人を私が知っているとは思えない。

 多分気のせいだ。

 視線を横にずらすと、おっきなグラビアのポスターが貼ってある。

 背が高く、スタイルの良い女の人の水着姿。

 あんな水着を実際に見に着けた人なんて、見た事無い。

 真っ赤なビキニから、今にもこぼれそうな豊満な胸。

 スタイルに自信はあったが、あれとは比べ物にならない。

 第一歳も私より大人だし、子供の私とは比べるに値しない。

 アグナスは、ああいう人が好みなのだろうか。

 何考えてるんだろ、と私はゴロンとあおむけになった。

 天井には、星や月の形をした、大小様々なシールの様なものが貼りつけられていた。

 色は壁とほぼ同じ色で、同化していたからパッと見ではほとんど気付かない。

 なんだろう、あれ。

 いくら見つめても分らなかったから、私はまた別の場所に視線を移した。

 部屋の隅の小さな本棚には、機工技師の雑誌がたくさん入っていた。

 雑誌だけでなく、学術書や参考書も混じっている。

 私のよく読む本もいくつかあった。

 勉強熱心、なのかな。

 それを見ていて思い出されたのは、幼い頃の自分の姿だった。

 私は小さい頃、お父さんの書斎にあった機工技術の参考書を勝手に持ち出して読んでいた。

 もちろん、子どもの私に意味なんかわからない。

 ただ、大好きなお父さんと同じ本を読むという、共有感を得たかっただけ。

 お父さんは、人の物を無断で持ち出すなって怒ってた。

 でもその後、私の事を勉強熱心だなと、頭をなでて褒めてくれた。

 “きっとお前は、私よりも賢い子になる”と、そう言ってくれた。

 それが嬉しくて、私はたくさん勉強するようになった。

 もっともっと、お父さんに褒めてもらいたくて。

 もっともっと、お父さんと同じ世界を共有したくて。

 あの時の想いは、今も変わっていない。

 お父さんがいなくなった後も、私はずっとお父さんに認めてほしくて、勉強を続けている。


 ……本当にそうだろうか。


 私の心が、奥底にあった疑念を吐露した。

 失踪からもう6年も経つ。

 どうして連絡を入れてくれないのか。

 何度も、何度も、お父さんのIDに宛てて手紙を出しているのに、返事が返ってきた事はない。

 キズナと一緒に元気にやっているという事、リリーという友達が出来た事。

 先日手紙を書いている時に、涙ぐんでしまっていた自分の姿を思い出した。

 あの時の私は、何故泣いていたの?

 私は内心、気づいてしまっているんじゃないのか。

 お父さんからの返事など、来るはずがないのだと。

 お父さんがもうこの街に、私の元に、帰ってくるはずがないのだと。

 じゃあ私は、一体何のために頑張っているのだろうか。

 私の脳裏に、“彼”の姿が浮かんだ。

 “彼”はいつも私の傍にいて、私を支えて、護ってくれた。

 悲しい時は、慰めてくれた。

 嬉しい時は、喜んでくれた。

 怒った時は、宥めてくれた。

 私の、一番大切な存在。

 私が頑張っているのは、他でもない――キズナの為だ。

 私にはキズナが全て。

 キズナに毎朝メンテナンスをして、おいしくない朝ご飯を食べて、

 いってきますのあいさつをして、ただいまのあいさつをして、またおいしくない晩御飯をたべて……。

 そんな日常が戻ってきてほしい。

 目が潤んできた。

 つくづく涙もろい、と自嘲した。

 するとそこへ、お風呂上がりのアグナスがやってきた。

 上半身裸で、下はスウェット姿。

 細身に見えていたが、意外と筋肉質だ。

「あーさっぱりした、と。ん? どうした?」

 彼は私の異変に気づいたらしく、タオルでがさがさと髪を拭っていた手を止めた。

 私は横になっていた体をスッと起こし、溢れそうな涙を我慢して、なんでもないと応えた。

 だけどその声は、涙声だった。

 アグナスは溜息を洩らすと、上着を羽織りながらベッドまでやってきて私の横に座った。

 私はまた、体がきゅっと収縮した。

「話して楽になるなら、聞くよ」

 しばらく考えて、私は決心した。

 この人になら話しても良い、と。


 全てを話した。

 学校でのいじめの事、リリーからされた事、キズナがいなくなった事。

 それだけじゃない。

 私は、自分の生い立ちや夢――全てをアグナスに話していた。

 彼は私が話す間、適度に相槌を打ちながら静かに耳を傾けてくれていた。

 客観的に見れば、私が間違っている出来事もたくさんあっただろう。

 思い返せば、私自身ですらそう思う部分がある。

 でも彼は、決して否定はしなかった。

 肯定もしなかった。

 ただただ、聞いてくれていた。

 私には、それが何よりもうれしかった。

 話が終わり、しばらくの沈黙。

 その沈黙を破って、彼が私を抱き寄せてきた。

 私の頭を優しく包み込む彼の腕と胸。

「……今夜は、全部忘れてゆっくり休め」

 初めはびっくりして戸惑った。

 でも、次第にそれが心地よくなった。

 久々に感じた、人肌のぬくもり。

 彼の厚い胸板から伝わる鼓動。

 なぜだか、安心できた。

 そして、甘えたくなった。

「……この……るまで……ほしい」

 恥ずかしくて、声になっていなかった。

「ん?」

 聞き返して私の顔を覗き込む彼の顔を直視できなくて、目をそらす。

 勇気を出して、もう一度……。

「……このまま、私が寝るまでギュってしててほしい」

 彼は私の要求に、目を丸くしていた。

 言った後、私はまた恥ずかしくなって彼の胸に顔をうずめた。

 後で考えれば、胸に顔をうずめているその行為も、十二分に恥ずかしい事だったはずなのだが、

 頭の沸騰した私にはそんな事よりも真っ赤な顔を隠す方が重要だった。

 しばらくして、彼が私の事をさっきよりも強く……でも優しく、抱きしめてくれた。

「お前がそうしてほしいなら」

 アグナスはベッド脇のテーブルに手を伸ばし、小さなリモコンを取った。

 部屋の電気が落ちた。

 彼がベッドに寝転び、私がその右半身にしがみつく格好になった。

 彼の二の腕に頭を預ける。

 真っ暗だと思っていたが、天井がうっすらと光っていた。

 見上げれば、そこは星空だった。

「きれい……」

 思わず口からこぼれていた。

 大小様々な星や月が、淡い蛍光色に輝いている。

 そうだ、さっき天井に張ってあったのはこれだったんだ。

「意外と、ロマンチック、なんだね」

「前に付き合ってた女がこういうの好きでさ。なんだかんだそのままにしてあるだけだよ」

 素っ気無く答えた彼の言葉に、胸がキュンとした。

 別に、彼に昔恋人がいたっておかしくないし、私には関係ない。

 きっと彼は、私みたいな子どもに興味はない。

 だけど、何故だろう。

 少しだけ、ほんの少しだけ、胸が痛んだ。

 その痛みを紛らわす為、私はアグナスの服をギュッとつかんだ。

 私の気持ちを知ってか知らずか、彼は私の頭をなでてくれた。

 なんだかとても、なつかしい感じがする。

 彼の腕の中は、まるでキズナやお父さんと一緒にいた時の様に、とても安心できた。

 私は目を瞑り、彼の腕の中でつかの間の幸せを噛みしめた。

 そして、そのまま深い深い眠りへと堕ちていった。




 翌朝、目を覚ました私の傍にアグナスの姿はなかった。

 体を起こし部屋を見渡すと、ソファの上で彼が寝た跡があった。

 恐らく、私が眠りについた後であちらに移ったのだろう。

 ホントに、律儀な人だ。

「っんー!」

 両手を天高く掲げて、大きく伸びをした。

 こんなにぐっすり眠れたのは、いつ以来だろうか。

 鏡を見なくても、今の自分が微笑んでいるのがわかった。

「お? 起きたのか」

 そうしていると、アグナスが部屋に入ってきた。

「おはよう、アグナス」

「おはようさん」

 彼は私に挨拶を返しながら、両手に持った目玉焼きの皿を一枚ずつテーブルに置いた。

 朝ごはん、彼が作ってくれたみたいだ。

「ちょっと待ってな、今トーストもってくっから」

「あ、ミルクもお願いします」

「おまえ、ちょっと馴染みすぎだろ……」

 彼はそう言って笑うと、部屋を出てキッチンへ向かっていった。

 久々に人と食べる朝ごはんに、私はなんだかワクワクしていた。

 だって、こんなのお父さんがいなくなって以来だ。

 あれからはいつも、キズナと一緒にご飯をたべていた。

 別にキズナと一緒のご飯が嫌だって訳じゃない。

 断じて違う。

 だけど、こういう新鮮な感覚もいいものだなあと、私は思った。

 私は布団から出て、テーブルの前に座り、彼を待った。


 朝ごはんは、普通の味だった。

 だけど、アグナスと話しながら食べるのはとても楽しかった。

 他愛の無い彼の日常の話をたくさん聞いた。

 憧れの高級住宅が立ち並ぶ1番街を覗きに行って、警備機工に見つかり追い回された事。

 お昼ごはんを買ったらお箸がついてなくて、泣く泣く職場にあった工具を洗って使った事。

 同僚と廃工場へ肝試しに行ったら、ドッキリで自分だけ置いていかれた事。

 先月、職場で成功を収めたおかげでお給料が上がった事。

 そして先日、大失敗をやらかしてお給料が元に戻ってしまった事。

 私の知らない世界の話ばかりで、とても興味を惹かれた。


 やがて朝食を食べ終えると、彼は脱衣所から服を一式持ってきた。

 昨日、私が着ていたものだ。

 全部洗濯して、乾燥させてくれたらしい。

 下着も洗われたのがちょっと恥ずかしかったけれど、わざわざ言いはすまい。

 彼だって、邪な気持ちでやった訳ではないのだから。

 私は彼から借りた寝巻を着たまま、下着をはいて服を着替えた。

 スカートのポケットに、何かゴツゴツしたものが入っている。

 一瞬何だろうと戸惑うが、手を入れ触れてみると、その正体はすぐに判明した。

 ブースターだ。

 それを取り出して、見つめる。

「心配すんな、一緒に洗っちゃいねえよ」

 私が、“洗濯によってこれが壊れてしまっているのでは?”と考えているとでも思ったのだろう。

 彼の気遣いは、無用なものだ。

 だってこれは……すでに使い物になるような代物じゃない。

 改めて、フタをあけてみた。

 配線がグチャグチャになっていて、熱で溶けているところもある。

 これをつけた事で、キズナのリアクターは暴走してしまったのだと改めて認識した。

 やがて私の脳裏に、リリーの冷徹な笑い顔が思い出された。

 悔しい想いがぶり返しそうになったが、必死に抑えた。

 いつまでもクヨクヨしていたって仕方がない。

 あの想いとはもう、決別しなければならない。

 過去に縛られて前に進まないなんて、私らしくない。

 私は、辛い時も、悲しい時も、いつだって無理矢理にでも前に進んできた。

 そう、今私がすべき一番の事――それはキズナを探す事。

 キズナのためにも、もう立ち止まったりしない。

「よし、それじゃ行くか」

 私がそんな決心を心に浮かべていたら、アグナスがそう言って立ち上がった。

 何の事かわからずに、私は戸惑いの表情で彼を見上げた。

「ど、どこに?」

「どこにって……お前の大事なトモダチ、探すんだろ」

 私は驚いていた。

 驚いて、ぽかんとしたまま彼を見つめていた。

 何故そこまでしてくれるのか。

 私には、何の見返りも返せないというのに。

 思わず、尋ねていた。

「どうして、そこまでしてくれるの?」

「なんか放っとけないっていうか……なあ。

 あんな泣き顔見せられて、そのまま家に帰すってのも後味悪いっていうか……」

 頭を掻いて目線を逸らしながら、彼は応えた。

 なんだか煮え切らない返事だけど、一つだけ分った事があった。

 彼は、悪い人じゃない。

 昨日からなんとなくわかっていた事だけど、改めて心の中でそう復唱する事で安心感が増した。

「何笑ってんだよ」

 無意識のうちに、微笑んでいたようだ。

 私は、バツが悪そうにする彼を見て言った。

「……お人よしだなあ、って」

「今さらかよ。昨日のうちに気付けよ」

「ふふ、そだね」

 彼の苦笑いに、私は満面の笑みで応えた。



 私はアグナスと一緒に、町を回った。

 まずは私の住んでいた四番街。

 住宅が多く、私の家の近くという事もあり情報が手に入ると踏んだからだ。

 彼は、私の代わりに民家に声をかけ、キズナの事を聞きこんでくれた。

 その間、私は彼の後ろでうつむきながら立っているだけだった。

 私が知らない人間に話しかけるのが苦手だと悟ってくれての気遣いだろうが、それがうれしくもあり、同時に恥ずかしくもあった。


 それから、数十件の家を回った。

 だけど、有力な情報は何も得られなかった。

 疲労感だけがたまっていった。

 ……私は、後ろをついていっているだけなのだけれど。

 でも、情報が得られないのも無理はないのかもしれない。

 私が帰宅したのは夕方遅く。

 キズナがいなくなったのは、そこから朝方までの間だ。

 ここ四番街は、深夜は静まり返って人通りもほとんどなくなる。

 深夜に居なくなったであろうキズナを見た人なんて、いる訳がないのかもしれない。

 捜索を続けていると、やがてお昼過ぎになっていた。

 私とアグナスは、ある集合住宅の屋上へやってきた。

 丁度ここの住人全員への聞き込みが終わり、屋上で休憩でもしようという話になったのだ。

 15階建の屋上。

 風が少し強く感じた。

「おいエリル、こっち来いよ。良い眺めだぜ」

 アグナスが、柵から町を見渡しながら私を呼んだ。

 見知った町並みを、ただ少し上から見るだけ。

 良い眺めもなにもない。

 そう思っていた。

 その考えは、一瞬で間違いだとわかった。

「わあ……」

 思わず声がもれた。

 太陽に照らされた、機工都市パラマ・シンの町並み。

 陽の光で黄金色に輝く鋼鉄の色は、まるで本物の金で出来ているようだった。

 町の中心に立つ大きな塔から、放射状に広がる黄金の町。

 あの塔は、私の通う学園だ。

 塔から伸びる巨大な壁が、町を4つに分断している。

 右手にはお金持ちの住む一番街。

 左手には工場が建ち並ぶ三番街。

 塔の向こう側には、商業の盛んな二番街がある。

 大小様々な建物が描く影と光のトーンは、すばらしく美しい。

 その景色は、私の想像を超えていた。

 私の住んでいた街が、これほどまでに素敵な町だったなんて知らなかった。

 目を離す事ができなかった。

 心を奪われていた。

 絵にも描けない、文字にも表せない、言葉にもできない……そんな美しさ。

「良い眺めだろ? 特にここから見る夕焼け、最高なんだぜ」

「私、何も知らなかったんだ……」

 私の無意識のつぶやきに、アグナスはこちらを向いた。

 彼は私の頭にそっと手を置いて、優しく語りかけてきてくれた。

「これから知っていけばいいさ。お前には、まだまだ未来があるんだから」

「私の、未来……?」

 私はいつも、心のどこかでこの世界を拒絶していた。

 この世界は、私の事なんて受け入れてはくれないのだと、そう思い込んでいた。

 だから決して、私自身から世界を見ようとはしなかった。

 一人閉じこもった殻の中で、生きてきた。

 だけどそれは、大きな間違いだったのかもしれない。

 世界は私を拒絶なんてしていない。

 ちっぽけな私の存在を、気にも留めていなかっただけだ。

 この広い世界の歯車は、いつも変わらず回っている。

 その歯車に私自身が加わるかどうかなんて、私にしか決められない。

 世界が私を拒絶していたんじゃない。

 私が、世界を拒絶していただけだったんだ。

 ただの綺麗な街並みを見ただけで、そんな事を考えていた。

 私はゆっくりと目を瞑った。

 そして考えた。

 今、私にできる事、すべき事。

「アグナス」

 私は、彼の名前を呼んだ。

 彼がそれに応え、こちらを向いた。

 目を開けて、彼をまっすぐに見据える。

「2人で手分けしたら、もっとたくさん聞き込み……できる、かな」

 彼は私の発言に一瞬驚いた様な顔をしたが、すぐに優しい表情に変わった。

「ああ、勿論だ」

 人見知りだとか、声をかけるのが苦手だとか、そんな事言ってられない。

 キズナは私の“家族”だ。

 いなくなったのは、私の責任。

 だったら、私が自ら動くのが筋というものだ。

「じゃあ、日が暮れちゃう前に行こう。私はまずはこの向かいの家から行くね」

「休憩は、もう良いのか?」

「休憩なんて、してられないよ!」

 私は、微笑む彼を通り越して先を歩き、その場所を後にした。


 それから、私たちは手分けをして聞き込みを進めた。

 初めのうちは、知らない人の家にいきなり声をかけるのは怖かった。

 でも勇気を振り絞って何度か声をかけていった末、感じていた恐怖は無用だったと気付かされた。

 多くの人が、必死にキズナを探す私に協力をしてくれた。

 そして恐らく、次の日には私の事なんて忘れて普通の日常に戻るのだ。

 人は、自分が気にしているほど自分の事を気にとめてはいない。

 そう思うと、心はとても楽になった。

 でも、私がいくら心を変えようとも、得られる情報が良くなるわけではない。

 一向にキズナの情報は得られないまま、時間は過ぎていった。

 私はアグナスと一旦合流し、情報を共有する事にした。

 共有と言っても、私から伝えられる情報はゼロなのだけれど……。

「そっちは何か成果あったか?」

「……ううん、なんにも」

 私は、肩を落として溜息をついた。

 数時間の聞き込みで、何一つ情報が得られないというのはさすがに辛かった。

 そして、アグナスにも申し訳なかった。

 その時アグナスが鼻で笑った。

 聞き間違いかと思い、顔を上げると……彼は笑顔だった。

 不思議そうに見つめる私に、彼はこう告げた。

「こっちは、一つだけ情報得られたぜ」

「え! ほ、ホントに!?」

 あまりの衝撃に、私は彼につかみかかっていた。

「おいおい、落ち着けって」

「あ、ご、ごめん……」

 嘘みたいだ。

 でも、彼はこんな嘘を言う人ではない。

「昨日酔っぱらって夜遅くに帰宅したヤツがいたんだ。そいつが、西に向かう大男を見た、って言ってた」

 大男。

 夜中に酔った状態でキズナに遭遇すれば、確かにそんな風に見えるだろうか。

 でも、それだけではキズナだとは言いきれない。

 手放しで喜んでいない私に気付いたのか、アグナスは続けた。

「安心しろ、確認はとっといた。その大男は、ガシャガシャと金属音を立てながらノロノロ歩いてたんだってよ」

 それを聞いて私は思わず笑ってしまった。

 確かにそんな条件が当てはまるのは、この町広しといえどキズナくらいだろう。

 あのポンコツスペックが、こんな手掛かりになるなんて皮肉なものだ。

「西って言うと、ガーベラ公園の方角だね」

「ガーベラ公園か。ここから歩いて10分もしないな。行ってみるか」

「うん!」

 たかだか不明瞭な目撃情報一つだったけれど、これは大きな一歩だ。

 私は、意気揚々と歩き始めた。


「きゃっ!」

 浮かれていた私は、通りの角から現れた男にぶつかってしまった。

 派手に尻もちをついてしまう。

 男の方は、少しよろめいたくらいだった様だ。

「ご、ごめんなさい!」

「構わん、気にするな……」

 男はその言葉とは裏腹に、私を見下すような目で見ていた。

 燃える様な赤い色の髪は、手入れをしていないのかボサボサしている。

 油汚れの目立つ白衣を着ている所を見ると、彼も機工技師だろうか。

 右手の指の間で、コインが1枚踊るようにくるくる移動していた。

 コイン転がしは私も自信があったが、彼はそれ以上の速さだ。

 それに、私とぶつかってバランスを崩したはずなのに気にも留めずに続けている。

 コイン自体も通常のものより一回り小さく、難しいものだ。

 それだけで判断はできないが、タダ者では無いと感じられた。

 外見は若く見えたが、目じりや口元のシワから、若くて30代後半から40代と言ったところか。

 目の下のクマや無精ひげが、ずぼらな印象を感じさせた。

 私が男を眺めていると、アグナスが詰め寄った。

「おい、あんた――」

「いいのアグナス、私は大丈夫だから」

 私はそれを止めるように、さっと立ちあがって服についた汚れを払った。

 今はこんな場所で小さないざこざを起こしている場合ではない。

 私も軽く転んだだけで、怪我もしていない。

「あの、すいませんでした」

 頭を下げて謝罪し、アグナスの手を引いてその場を去る。

 だが、白衣の男がそれを引き止めた。

「待て小娘」

 初対面の人を呼び止めるには随分な言葉遣いだ。

 あまり関わり合いになりたくない。

 そんな第一印象の男だったから、私は少し不審げに振り返った。

「……何ですか?」

「国立第一機工学園の場所が知りたい。お前、そこの生徒だろう」

 もしかして、新たな講師だろうか。

 確かに技術力は高そうだが、教わりたい風貌ではない。

 そんな事を考えていたが、思えば私はいつも講師の話を聞き流しているんだった。

 どの道、私には関係ない。

「あの塔が見えますか?」

 私は男が分るように建物の隙間から学園の塔が見える位置にずれて、それを指差した。

「あれがそうだったのか。助かった、礼を言おう」

「いえ、どういたしまして」

 男は私に笑いかけたが、どうにも不気味な笑いだった。

 私が軽く会釈して返すと、男はそのまま学園の方角へと歩いて行った。

 私は、男の姿が路地に消えるまで、その背中を見送っていた。

「何だったんだろう、あの人……」

「……義顔、だったな」

「ぎ、義顔!?」

 アグナスの言葉に驚き、思わず聞き返さずにはいられなかった。

 義顔とは、義足や義肢と同じ様なもの。

 簡単に言えば、高度な技術を用いて作られた仮面だ。

 主に顔面に大きな傷を負った人間に用いられる道具で、

 技術の進歩した近代では、おいそれと義顔だとわからないような物も多い。

 表情の変化や、顔のパーツの位置、微妙な筋肉のつきかたも本物そっくり。

 一時期、別人になりきれるツールとして民間でも人気を博していたが、

 なりすましなどの犯罪に使われるケースも多く、すぐに政府から認証の無い儀顔の使用禁止令が出された。

 それが4年ほど前の話。

 今では、医療許可証と、義顔使用前の顔データが入ったIDカードを持つ事が義務付けられている。

 それでも、闇の市場では今も無認可の義顔が扱われている事もあるらしい。

 さっきの男は、どうやって義顔になったのだろうか。

 確かに雰囲気は怪しいが、犯罪をするような人間にまでは見えなかった。

「学園の場所、教えちゃって大丈夫だったかな……」

 今更ながら、不安になった。

 だけど、学園で何かやらかすつもりなら、場所も知らないというのはおかしいし、

 道端の人間に所在を尋ねて、顔を覚えられる様な事だってしないはずだ。

「気にしても仕方ない。今はガーベラ公園へ行こうぜ」

「う、うん、そだね」

 私たちは不安を残しつつも、今やるべき事を優先した。



 ガーベラ公園についた頃、徐々に日が暮れてきていた。

 夕焼けの真っ赤な空が広がっている。

 私はアグナスと目を見合わせて頷き合うと、二手に散った。

 まだ公園に残っている人たちに、聞き込みを行うのだ。


 私はまず、公園のベンチに座って談話していたカップルのもとへ向かった。

 人のよさそうな男女で、とても仲が良いのが傍目からもよく分かる。

 どちらも肩からバッグを下げていて、どうやらどこかへ行った帰りにここで休んでいた様だ。

「あの、すいません……」

 私が声をかけると、カップルは話を止めてこちらを向いた。

 女性のほうが、優しい声と笑顔で語りかけてくる。

「なあに? お嬢さん」

「え、えっと、その、このあたりで、すごくおっきいロボット、見ませんでしたか?」

「おっきいロボットかぁ。ねえ、あなた見た?」

「いやぁ、僕は見た覚えは……」

 女性が声をかけると、男性は空を見上げながらしばらく考えた。

 あまり情報は得られなさそうだ。

 と、思った時だった。

「あ! そういえば、1時間ほど前に広場を横切ってたデカイのがいた気がする」

「ほ、本当ですか!? どこに向かってたかとか、わかります!?」

 掴み掛からんばかりの私の勢いに、男性はたじろいでいた。

 良かった、本当にここにいるんだ。

 目を輝かせて次の言葉を待つ私に、男性は目線を逸らしながらこう言った。

「い、いや、でもホント視線の端にチラっと見えただけだったからさ。そこまではわからないや、ゴメン」

 決定的な情報ではないが、つい先ほどここにキズナがいたというのはとても有力な情報だ。

 こうなれば、公園を隅から隅までくまなく探そう。

「ありがとうございました! お邪魔してすみません」

 カップルに深く頭を下げて、すぐにその場を走り去った。

 振り向くと女性は私に向けて、笑顔で小さく手を振っていた。


 ガーベラ公園は、敷地400坪ほどの大きな公園だ。

 昔ながらの遊具が並ぶ区域や、最新式の噴水機工が設置されたメイン広場、

 まれにインディーズバンドがライブをしたり、イベントごとで使われる小さな舞台もある。

 木々や植え込み、芝生で緑豊かな公園なので、

 機工に囲まれた街の中の数少ない癒しの空間として、人々の憩いの場になっているのだ。

 ここから見る夕日は格別で、夕方になってもまだ人がちらほらと歩いているのが見える。


 私は、公園中を駆け回った。

 朝から聞き込みで街を回り続けいていたから、体力は限界に近かった。

 むしろ、机にかじりついてばかりのガリ勉がここまで動けたのだから、たいした者だと自分を褒めたい程だ。

 だけど、まだ足りない。

 この程度で、足を止める訳にはいかない。

 ――走り続けて30分ほど経った。

 だいたい、半分ほどは見回れただろうか。

 立ち止まると、ひざが笑った。

 汗もびっしょりで服がベタついていたが、必死だったからだろうか、不思議と気持ち悪さは感じなかった。

 私は芝生の上に腰をおろして、少しだけ休憩する事にした。

 荒い息が、なかなか収まらなかった。

 額から、汗がたらりと伝う。

 それを拭う為にポケットに手を突っ込み、ハンカチを取り出す。

「あ!」

 ハンカチと同時に、巻き込まれてブースターが飛び出してしまった。

 コロコロと転がるブースターを追いかけようと体を起こしたが、あまりの疲労に足が立たず転んでしまった。

「痛ッ……」

 思わず声が出たが、芝生の上だったから、特に痛くはなかった。

 このブースターは、キズナだけじゃなくて私にまで不幸を呼ぶつもりなのか。

 うつぶせに転んだ体勢のままため息をつき、顔の前にあるブースターを見つめていた。

 息が少し、整ってきた。

 体を起こそうとして、気が付いた。

 ブースターの奥に茂みがあり、そこで布切れがヒラヒラと揺れていた。

 くすんだ赤い色の布。

 見覚えのある赤だった。

 見間違えるはずがない。

「キズナ!!」

 私は思わず叫んでいた。

 その声に反応して、茂みの奥からギシギシと軋む金属音が聞こえてきた。

 音の主は、木の陰からのっそりと姿を現し、私を見つめた。

 金属パーツがむき出しになった、図体の大きなガラクタが、夕日を遮って私の前に立っていた。


 やっと、やっと見つけた。

「キ、キズ、ナ゛……!!」

 喉が震えて、鼻が詰まって、声がうまく出なかった。

 視界が涙でいっぱいになって、ぼやけた。

 ぼやけた視界の中でも、私の瞳ははっきりと彼の姿を捉えている。

 その姿が茂みを越え、徐々に大きくなってきた。

 立ち上がろうと思ったが、足がうまく動かなかった。

 私は夢中で、手で地面を掻く様に、足で地面をける様に、うつぶせのまま這い進んだ。

 無様な姿だったに違いない。

 だけどそんな事は関係なくて、ただキズナに近寄りたくて必死だった。

 彼が伸ばしてくれた手を掴み、なんとか起き上がる。

 私は、彼にしがみつきながらその体を拳で何度も叩いた。

 キズナは、無骨な体に似合わない柔らかな手で私をそっと抱き返してくれた。

「キズナ、どこ行ってだの……バカ!!!」

 違う。

 “こんな事”じゃない。

 もっと、言わなきゃいけない事がある。

 でも、口を動かそうとしても動かなかった。


 キズナはロボットだ。

 優れた感情表現を可能にする最新型のエモートチップは搭載されていない。

 それを処理するオペレーションシステムのスペックも足りない。

 だから、私の言葉に腹を立ていてるなんて事はない。

 ただ「出て行って」と言った私の“命令”を聞いただけにすぎない。

 だから……その言葉を、言う必要は無い。

 そしてこのまま、いつもの日常に戻るのだ。


 ――それじゃダメだ!

 今までそうやって、嫌な事から目を背けて、何かが変わっただろうか?

 リリーの件だって、同じだ。

 彼女と心が通じ合っていたと思った?

 違う。

 彼女の心を、勝手に分かった気になっていただけなんだ。

 彼女の立場に立って、彼女の目線でものを考えていたら、その気持ちも理解できたのかもしれない。

 確かめる術はもう無い。

 そうしていたとしても、同じ結末だったかもしれない。

 いや、もっと酷い結末だったかもしれない。

 それでも、何もかも世界のせいにして諦めていた時よりもずっといい。

 クロンやジョン、他のクラスメート、先生。

 みんなの気持ちをもっと考えていたら、違う未来があったのかもしれない。

 思えば、みんな初めて私に話しかけてくれた時は、普通に接してくれていたじゃないか。

 私が拒絶したのだ。

 こんな頭の悪い連中とつるむより、自分を高める為に時間を使うべきだと、自ら拒絶したのだ。

 だから、私はひとりぼっちになったのだ。

 手のひらを広げて、見つめる。

 そこには、火傷の痕がついている。

 炎上するブースターを引き剥がす時についた傷だ。

 自業自得。

 全部、私自身のせいだ。

 この手についた傷痕の様に、過去はもう変えられない。

 でも、未来へ続く道はいくらでも選びなおせる。

 同じ失敗を繰り返しちゃいけない。

 だから私は、変わらなくちゃいけない。

「キズ、ナ……」

 名前を呼んで、気持ちを落ち着かせる。

 目をぎゅっと瞑り、嗚咽で荒くなった呼吸が収まるのを待つ。

 胸に手を当てると、少しだけ楽になった。

 キズナは、黙って私の言葉を待ってくれた。

 まっすぐに、キズナを見据えた。

「ご……」

 声が続かない。

 たった6文字の言葉なのに、どうしてこんなに言いづらいのだろう。

 誰かとぶつかったり、咄嗟に軽く言うのなら簡単なのに。

 どうして、本当に心から言いたい相手には言えないのだろう。

 でも、言わなくちゃダメだ。

 目を瞑って、もう網一度呼吸をした。

 そして、キズナを見つめた。


「……ごめん、なさい」


 言えたと思った瞬間、決壊したダムの様に、私の瞳から涙がこぼれ出た。

 嗚咽を我慢して、口を無理やり堅く結んだ。

 唇がぶるぶると震えた。

 キズナは、何も言わずにそんな私をそっと抱き寄せてくれた。

 私はその柔らかい手と、ゴツゴツした金属の体に挟まれた。

 機械油の独特な匂い。

 ドクン、ドクンと響くリアクターの鼓動。

 たった数日離れていただけなのに、とても懐かしく感じた。

 目を瞑って、キズナの胸に耳を当てて、その懐かしい感覚を楽しんだ。

 涙も、震えも、自然と止まっていた。

 安心できた。

 ここが、私の居場所なんだと、そう思えた。

 ふと、アグナスの事を思い出した。

 きっと彼も、キズナを探してくれているはずだ。

 見つけた事を、早く教えてあげなくてはいけない。

「キズナ、ありがと。ちょっと離して?」

 そっと手をどかしてくれるキズナ。

 私は袖で目元を拭って、周囲を見渡した。

 すると、公園の出入り口にアグナスの姿が見えた。

 キズナとの再会を邪魔しない様に、遠くから見守ってくれていたのだろう。

 いつから見られていたんだろうか。

 あの這いつくばっている所からだったら……と考えて、少し顔が熱くなった。

 アグナスは、私が彼に気付いた事がわかると、笑顔を浮かべてそのまま帰って行こうとする。

「アグナス……!」

 私の呼びかけに、彼は背を向けたまま手を振って応えた。

 彼にも、言わなきゃいけない事がある。

「ありがとう! アグナス!!」

 お礼は、躊躇いなく言えた。

 私は彼の姿が見えなくなるまで、ずっとその方向を見ていた。

 そして、後日キズナと一緒に改めてお礼に行く事を誓った。

 思い立ったが吉日だ、早速明日にでも行こう。


 日は沈み、あたりが暗くなってきていた。

 黄金の街が、漆黒の街に変わる瞬間だ。

「じゃあキズナ、帰ろ?」

 キズナに手を差し伸べて、笑顔で言った。

 だけど、キズナは私の手をとってはくれなかった。

 戸惑っていると、彼の大きな手で突然抱え上げられた。

「え、ちょ、ちょっと、なになに!?」

 慌てて暴れだしそうな私をしっかりと掴んだキズナは、そのまま肩に座らせてくれた。

 そうか、きっとキズナは、私の足がクタクタで動かないのを察してくれたのだ。

 キズナの頭にしがみつくと、彼がゆっくりと歩き出した。

 昔からそうだった。

 キズナは、私の体の不調を見抜くのがとても得意だった。

 大げさなくらいに、私の体を心配してくれていた。

 子供の頃、ちょっと転んで怪我をしただけだったのに、彼は同じように私を肩に乗せてくれた。

 昔から、何にも変わっていない。

 変わらずに、私の傍に居続けてくれる大事な存在。


 夜の4番街を歩くキズナの足音は、少しだけ静かだった気がした。

 私が振動で酔わない様に、気を使ってくれているのかもしれない。

 数日間メンテナンスをしていなかったから、ちょっと動きが鈍い。

 明日の朝は、めいっぱいメンテナンスをしてあげようと心に決めた。


 家につくやいなや、キズナは晩御飯の準備を始めた。

 そういえば、アグナスの家での朝食以来なにも食べていなかった。

 食事の事を考えると、待ってましたと言わんばかりに私のお腹はぐうと鳴った。

 テーブルの上には、冷めて乾燥しきったハンバーグ定食が置きっ放しだ。

 私は、苦笑いしながらそれをささっと片付けた。

 もったいない事、しちゃった。

 やがてキズナの晩御飯の準備が終わり、食卓に豪華なメニューがずらりと並んだ。

 コトコト煮込んだコンソメスープ、キズナ特製タレ付きローストビーフ、野菜たっぷりのハヤシライス、シーザーサラダ。

 いつもより、なんだか私の好みの料理が多かった。

 キズナがご褒美をくれたみたいに感じて、なんだか嬉しくて、私は笑顔になった。

 きっとキズナの事だから単純に、たくさん動き回った私の体調を見破って、豪華なものを出してくれているだけだろうけど。

 またお腹が鳴って、口の中で唾液が湧き水みたいに溢れて来た。

 待ちきれなかった私はすぐにいただきますの挨拶をして、晩御飯に喰らい付いた。

 コンソメスープは水の分量が多すぎたのか、薄くて味がしなかった。

 これでは、うっすらと味のついた程度のお湯だ。

 塩分を取り過ぎないように、って事なのかな。

 ローストビーフは火を通しすぎていて、もはやただの焼肉状態。

 堅くて噛み切れないから、いつまでも口の中に残っている。

 タレがおいしければまだ良かったのだけれど、そんな訳も無かった。

 生に近い肉は食中りを起こす可能性が、って所だろうか。

 ハヤシライスにはゴロゴロと大きな野菜が入っていて、口の小さな私では食べづらかった。

 まぁ、あの大きな手じゃあ小さく切る事はできないよね。

 一応しっかりと火が通っていて、食べやすくはあった。

 味は及第点だし、これだけは許してあげよう。

 サラダには、私の嫌いな芯の部分もふんだんに盛り込んであった。

 キズナいわく、芯の方が栄養価が高いらしい。

 ドレッシングの味がしみこまないから、私は嫌いなんだけれど。

 そんな文句を浮かべていたら、いつのまにかお皿が空っぽになっていた。

 ご飯の時間がこんなにも名残惜しく感じたのは、始めてかもしれない。

 私は食器を重ねると、洗い場へ持って行った。

 一緒に洗うのを手伝った後、キズナの体を軽くチェックした。

 リアクター、異常なし――ちょっと焦げてるけど。

 指間接、感度良好。

 視界カメラ、曇り無し。

 アクセスランプ、グリーン。

 たまにしか見ない場所も、見ておかなくちゃ。

 私は、リアクターの近くにある鋼鉄の箱を開けた。

 そこには、赤緑青の三色の線が入った小さなプレートが刺さっている。

 記憶を司る、メモリボードだ。

 キズナが、私のキズナである事を覚えている場所。

 炎上したリアクターの近くにあったけれど、どうやら無事みたいだ。

 少しだけ積もっていたホコリをささっと払い、私はメモリボードの箱の蓋を閉めた。

 その他、緊急を要する箇所はなさそうだ。

 最後に、肩の赤いリボンを、ギュッと堅く結び直してあげた。

 緩く結んでいたリボンが、キズナの外出中にほどけてなくなってしまわなくて良かった。

 細かいメンテナンスは、明日の朝のお楽しみとしよう。

「キズナ、約束。ずっと一緒にいてね」

 私はキズナの大きな手をぐいと持ち上げ、私の腕ほどの太さもある小指に、自分の小さな小指を宛がった。

 これでもう、キズナが勝手に出て行ったりする事はない。


 ワクワクしながら、私は自分の部屋のベッドに飛び込んだ。

 アグナスの家のベッドよりも、少しだけ堅かった。

 電気を消して仰向けになって、天井を見つめる。

 私は、アグナスの家で見た蛍光する星飾りを思い出した。

 うん、今度雑貨屋さんで私も探してみよう。

 ……彼に会えて、良かった。

 偶然街角でぶつかった出会い。

 家に招かれた時の、私の失礼な勘違い――今思い出しても恥ずかしい。

 律儀で、まじめで、とんでもないお人よし。

 彼に会えたから、私はここまで変われたんだ。

 いや、まだ変わり切ったわけじゃない。

 変わり始められただけだ。

 私の人生は、これからだ。

『これから知っていけばいいさ。お前には、まだまだ未来があるんだから』。

 アグナスにかけられた言葉を思い出した。

 リリーやクラスメートとの関係は、もう元には戻せないのかもしれない。

 でも、せめて、これ以上嫌われないように、これ以上憎まれないように、頑張ってみよう。

 悔いが残らないように、動いてみよう。

 これから先の未来が、私にとって都合のいい物だとは限らない。

 だけど、なんだかワクワクして、ドキドキして、楽しみだった。

 体が疲れていたせいか、お腹いっぱいだったせいか、私はいつのまにか深い眠りについていた。



 - つづく -


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