閉じた世界を眺める日。
前作短編、閉じた世界が壊れる日。の続編的なものです。
前作同様、少々鬱っぽいかもしれません。読むときは注意してください。
※誤字脱字などがありましたら教えてくださるとうれしいです。
―――私は知っている。
この世界は前世にプレイした乙女ゲームの世界だ。
ゲームは"切ない愛"をテーマに作られていて、キャラの設定の濃さと作り込まれた世界観に誰もが魅了された。そして前世の自分がまさに魅了された一人だった。
タイトルもルート分岐も制作会社も全て忘れてしまったけれど、ゲームの魅力であるストーリーとキャラ設定だけは確かに覚えている。
だから、主人公や攻略キャラのことを知っている。
ゲームに登場する高校生の彼らの過去を、私は知っているのだ。
彼らが隠したがっている、もしくは忘れている過去や秘密。
例えば、幼い頃から親の関心を得られなかった人。
例えば、愛に囚われ自分の心をだまし続けた人。
例えば、自己犠牲が当たり前なのだと思っている人。
例えば、周りが信じられずに苦しんでいる人。
例えば、空虚な心を持て余している人。
例えば、例えば、例えば。
他にもたくさんの例えばがある。このゲームでは登場しているキャラの殆どが、何かしらの過去や悩みを抱えている。
ゲームのエンドは三つ。HAPPY、NORMAL、BAD。
難易度はそう高くはないが、その分ストーリーが作り込まれているためにエンドに辿り着く為には時間がかかる。
だが前世の私は全てキャラの、三つのエンドを見た。
ルート分岐こそ覚えていないけれど、彼らの結末はきちんと覚えていた。
私は、彼らの全てを知っている。
―――彼らの人格も、秘密も、過去も、結末も。
×××××
舞台は現代の日本。そしてここは、タイトルは忘れてしまった乙女ゲームの世界だ。
乙女ゲームの情報、つまり前世の記憶を思い出したのは何も昔の事じゃない。
ほんのつい最近、というわけでもないが、およそ一年前の事だ。
前世の私の名前は覚えていたけれど、今はもういいだろう。『彼女』は乙女ゲームをこよなく愛する日本人の一人だった。この乙女ゲームの全てのエンドを見終わった彼女は、珍しく着飾って外へ出た。
ちょっとした自分へのご褒美というやつだ。このゲームをプレイしている間はお菓子を食べないと自分縛りをしたからだった。
けれど彼女はいざ街へ行こうと駅の改札を抜けホームに出たその矢先、混雑する駅のホームでバランスを崩してそのまま線路に落ちてしまう。そこに丁度、快速電車が走り込んできて―――。
そこで、彼女の記憶は途切れている。運が悪かったとしか言いようがない。彼女の両親は既に亡くなっており、恋人もいなかったからこれといって心残りもなく、そのまま死んでいった。
結果、輪廻転生をして『私』が生まれた。
前世の記憶は脳の片隅に放置され、あるとき、ふとした拍子に洪水のように記憶が溢れ出てきたのだ。
そしてここが乙女ゲームの世界と知り、当時中学三年生だった私は慌てて進路を変え、舞台となる高校へと入学を果たした。覚えていたキャラたちの顔も一通り見ることが出来たと思う。
そして私のクラスには、攻略キャラが一人いる。
彼の名前は『結崎奏』。
柔らかそうなハニーブラウンの髪は緩く弧を描き、透き通るような翠の瞳が特徴の少年だ。
彼は所謂"幼馴染キャラ"である。性格は穏やかで真面目。誰からも頼りにされる、クラスの人気者だった。
私の前の席に座る少年こそが、この結崎奏なのである。
結崎奏と主人公は幼馴染だけあって、一緒に下校している。
だがまだルートは分岐していないようだ。ゲームの序盤、攻略対象との出会いの段階なのだろう。
放課後、教室にいる生徒もまばらになったころ、教室の扉が開いた。残っていた生徒の視線が、自然とそちらへ向かう。
一人の女生徒が教室を見回し、その視線が、私の前の席に座る結崎奏に向けられた。結崎奏を見つけた途端、花開くようにこぼれた笑顔。まさに、主人公に相応しい可愛らしい笑みだった。
主人公の名前は『天川茉莉愛』。
ふわふわの茶色の髪、ぱっちりした二重に、長い睫が瞳に陰を落とす。深窓の令嬢のような美しさだった。
柔らかい微笑みは見る者を魅了する。女子も、男子も、等しく彼女の事を好いている。人気者の少女。
辛い過去を乗り越え、最愛の人と結ばれることが約束された、ヒロインだ。
「茉莉愛」
愛おしそうに、宝物を扱うように優しく、彼は名前を紡いだ。
物語は、既に始まっている。
×××××
私が『そのこと』に気が付いたのは、入学式の約一週間後ぐらいだった。
そろそろ誰を攻略するかを決める頃合いのはずなのに、未だに決まらないことに首を傾げたのがきっかけだったか。
今日も天川茉莉愛は結崎奏の元に来た。彼を攻略することに決めたのだろうか。
でもそれにしたって態度はいつもと変わらない。一体どうなっているのだろう。
うとうとと微睡みながら思考する。
「…っ!」
突如、結崎奏が愛してると天川茉莉愛に言った。
唐突の出来事に、伏せていた顔を上げそうになったが、必死にこらえる。ここで顔を上げてしまったら彼の告白が台無しになる、そう思って。
ゲームのスタートは入学式から。開始一週間でいきなり告白とは、意味が分からない。
天川茉莉愛の返事を静かに待つ。盗み聞きと言われれば聞こえが悪いが、そもそも私の席のすぐ近くで告白するのが悪い。ここで席を立って離れる方が目立つだろうし。
「………ぇ?」
結崎奏の愛してる、の言葉に、天川茉莉愛は予想外の返事を返した。
『好き』と。
結崎奏と同じ言葉を返さなかったのだ。こんなシーン、果たしてあったか?
そもそもこのストレートに愛を囁くイベントこそが無い。ゲームとは全く違う展開。
どうやらエンディングを迎えたわけではないようだ。
天川茉莉愛は、告白には必ず『愛してる』を使うから。
どうやら、私の認識は間違っていたようだった。
確かに乙女ゲームの世界だが、ここは画面越しのではなく、今の私にとって、この世界で生ける者全てにとって、この世界は紛れもなく『現実の世界』。
都合良く紡がれていた物語は消え失せて、それら全てを取り払った真実が、私の前に広がっていく。
×××××
この世界は、私の知る物語から形を変えていた。
物語の大まかな道筋は確かにあっているが、所々が違う。
歪。
一言で表すなら、それ以外に無いだろう。
歪んでいる。
認識が、人格が、想いが。
本来なら有り得ないはずの歪みが所々で目に留まる。
私の親友も、そうだ。
物語は歪んでしまっていた。
涙を誘う切ないストーリーはその姿を変え、どこか歪なものへと。
「綾女」
親友の名前を呟いた。大切な、私の親友。中学生の頃からずっと一緒。
私が前世を思い出したのは中学三年生の時。
親友―――三宮綾女と共に、物語の舞台となるこの高校へ見学しに来た時の事だった。
三宮綾女は私の知る乙女ゲームには一切名前が上がらない。
けれど彼女は確かにゲームの関係者である。だって同じなのだ。
主人公、天川茉莉愛と攻略対象の恋路を妨害する悪役、『三宮百合華』。
苗字が同じなのである。
前世の攻略ガイドに記載された三宮百合華の家族構成のところには、不明としか書かれていない。
偶然だと思った。
けれど、私は彼女の口から聞いたのだ。姉がいること、姉の名前が、百合華であること。
彼女の存在はあくまでも、百合華の"予備"だということ。
百合華の病気が発症したのは、綾女が生まれる前。
だから綾女が百合華の予備であるということ。それはつまり彼女は予備として『造られた』。
初めから、個を否定された少女。
何が何だか、私にはもうわからない。
ただ、私にわかるのは―――製作者によって描かれた大団円のハッピーエンドは消えたという事実。
私が知っているのは、ゲームの設定だけである。
物語はとっくの昔に捻じ曲がり、誰がどんなエンドを迎えるのかは、最早。
「予測、不可能……」
×××××
恋をするなら、どんな人が良い?
―――盲目なまでに、一途な人が良い。
古典の授業を子守歌として微睡みながら、そう自問自答する。
私の中に、確固としてその意識は存在する。好きな人のタイプは?と訊かれたらやはり答えは『一途な人』なのである。どうしてなのかは自分でもよくわからないが、でもやはり、そんな人が良い。
例えば、そう―――結崎奏のような。
私はずっと眺めていた。
馬鹿らしいお遊戯。
せっせと愛を捧げる人形と、空っぽの好意を与えるお姫様。
その二人の、恋物語に似た悲喜劇を。
愛してる、って囁く君が不意に見せる濁った瞳。
とっても深くて、暗くて、綺麗で。
やっぱり思う。
恋をするなら、結崎奏みたいに、自分を騙し続けても一途な人が良い。
ねぇ、知ってるよ。
もういい加減疲れたんでしょう。
私も、疲れた。
好きだよ。君が。ねぇ…こっち、向いて。
「…出席番号三十五番、結崎奏くん。落し物ですよ」
いつの日だったか、彼が落したそれを差し出す。
不思議そうな顔をしながらも礼を言って彼は受け取った。
シャーペンのキャップ。それをしっかりはめて、こちらへ見せてくるから頷いておいた。
日常的にこみあげてくる眠気に思わず欠伸を漏らす。
あ、しまった。
これでも一応女子なのに、好きな相手に大口を開けた姿を見られるとは。
なんとかポーカーフェイスを保ったまま、口から出た一言は。
「………眠い」
ただそれだけだった。
「…みたいだね」
と苦笑混じりに返す結崎奏は、珍しく無垢な瞳をしていた。
閉じた世界に籠る君を、ずっと外から眺めていた。でもさ、もういいんじゃないの。
ここは乙女ゲームの世界。
でももうとっくに物語は形を変えていて、形通りのエンドなんか存在するはずもなくて、だから君が、天川茉莉愛に囚われ続ける理由もなくて。
誰か、いないのかな。
私じゃ駄目。私には無理。
私よりももっと関係の深い、でも、茉莉愛ではない誰か。
その誰かが、結崎奏の閉じた世界を、壊してはくれないだろうか。
「……そろそろ降るかな」
ふと、雨の気配がした。
窓の外に視線を向けながらぽつりと零したその声を、彼は聞いていたようで。
「…降る?」
その問いに、私はゆっくりと返す。
君の閉じられた世界を、ずっと眺めてきたよ。でもきっと、そろそろ壊れる。
雨が、そんな予感を私に告げる。
「相当激しい、雨」
―――嗚呼、眠いなぁ。
×××××
あの後、やはり雨は降り始めた。随分と激しい豪雨だ。
雨が降る前に病院に着いた私は、そこで偶然綾女に会った。
どこか陰りを帯びた瞳が、濡れていたのに驚き、ハンカチを差し出すがやんわりと断られる。
「なんでもないよ」
そのまま綾女はふらりと踵を返して何処かへ行ってしまった。
あの様子はなんでもなかったように見えなかったけれど、深く踏み込んでいいようにも見えない。
だから放っておくことにした。
冷たいと言われるかもしれないけれど、私はなるべく綾女の意思を尊重したいのだ。
なんでもないよ、は言外の拒絶。だから私は、これ以上踏み込まないことに決めたのだ。
「あぁ、もう来てたのね」
背後から聞こえた女性の声に振り返る。
「もう部屋は空いているから、来る?」
「…はい、お願いします」
そう答えた時、男と女の慟哭が耳に届いた。
残念ね、と小さく呟く目の前の女性。どうやら誰かが死んだらしい。
ふと思い浮かんだのは、結崎奏の顔と、綾女の顔。
そして何故か、天川茉莉愛の顔だった。
それから数十分後。女性と別れ、私は綾女を探して院内を歩き回っていた。
会って話そうというわけではなく、ただ様子を見るだけのつもりで探していたのだが、その姿は見当たらない。
諦めて帰ろうとしたその時、見覚えのある色が視界の隅をよぎった。
柔らかそうな、ハニーブラウンが。
「…結崎、奏?」
慌ててその色を追いかける。足音は立てないように、静かに。
それでも足早にそこへ向かうけれど、もうあの色はどこにも無い。
もしあれが、本当に結崎奏だとしたら。
この病院にいる理由は?
天川茉莉愛がいるから。…彼女に呼ばれたから。
何故?
「天川茉莉愛には、妹がいた」
そのことを唐突に思い出す。確か名前は、杏菜。彼女が原因で、天川茉莉愛は辛い幼少期を送ることになる。その杏菜は、本当なら物語が始まる前に死んでしまうけれど、物語はもう原型を為していない。
だから彼女の死が先送りになり、死ぬタイミングが変わっても何ら不思議ではない。
彼女の死は確か、こんな、豪雨の日だった。
幼馴染の結崎奏と共に、天川茉莉愛は杏菜の死を見守るのだ。
「杏菜は、今日、死んだ…?」
茉莉愛が愛を与えられずに過ごした幼少期。そのままこの年になってもそれが続いていたのなら。
―――天川茉莉愛は壊れているだろう。
彼女が結崎奏に決して愛を与えない理由は。彼女が結崎奏から愛を無償で貰い続けた理由は。
「彼女が欲しかったのは、両親からの愛だったから…」
アンナばかり構う両親は、こちらを見向きもしない。それでも彼女はなんとしてでも愛されたかった。そして見つけたのが、結崎奏。
彼は自分を愛してくれる人だと認識した彼女は、彼からの愛を求めた。
でもそれは所詮代替の愛。
親から貰えない間だけ、代わりに貰う愛。
「嗚呼、何それ。主人公がこんなにも壊れているんじゃ、もうおしまいだ」
物語が元通りに完結する術はもう無い。
込み上がる笑いを、感情のままに唇を動かして表現する。
呆れた。
天川茉莉愛はもう、壊れてる。結崎奏も、壊れてる。三宮綾女も、壊れてる。
みんなみんな、壊れてる。
勿論、
「―――――私も、ね」
×××××
閉じた世界を、眺めていた。
君の、結崎奏の、閉じた世界を。
茉莉愛と君だけしかいない、世界。
それ以外を全部拒絶した、狭く寂しい世界。
外側から眺めてた。ずっと。盲目なまでの愛が。
―――慣れとは恐ろしいものだ。
私はいつも通りの結崎奏を後ろの席から眺めながらそう思った。
恐らく、というか、ほぼ確実に、茉莉愛は結崎奏を捨てただろう。だって彼女はずっとずっと欲しかったものを手に入れた。だからもう、要らない。用済みの人形を、ゴミ箱に捨てた。
しかもこれが無意識なのだから尚更タチが悪い。
今日、登校してきた結崎奏の顔に張り付いていた、いつも通りの笑顔。
どんなに辛いことがあったとしても、その様子を一片も見せない。
やはり慣れとは恐ろしい。
彼はきっと、辛さを隠し、自分を押し殺すことに慣れている。
だってそうでもしなきゃ、
「茉莉愛に捨てられてしまうかもしれないから」
まぁもう、捨てられてしまったけどね。
彼が茉莉愛に執着した理由。
幼い頃の初恋。その初恋は、初めは確かに純粋で清らかで綺麗なものだったけど。
恋した相手は歪んだ少女。徐々に、その恋心は歪んでいく。
そうして、愛を捧げる義務を負った人形と、その愛を貰うために空っぽの好意を与えるお姫様という関係が出来上がった。
彼は囚われてしまった。幼い頃の自分が交わした約束と仄かな恋心に。
知ってるよ。
いくら物語が歪んだって、根本的な設定は確かに生きている。
ご都合主義が取り払われただけの事。だから、私は君を知っている。
君は私の事を、知りたいと思ってくれるだろうか。
「結崎奏くん。もしよければ、私とお話しませんか?」
放課後の、もう殆どの生徒が帰った教室で。
ぼんやりと窓の外を眺める彼に、小さく笑いながら声をかけた。
振り返った彼の顔は、無。けれども一瞬でいつも通りの結崎奏くんの顔になる。
「…いいけど、何を話すの?」
「……色々」
「色々?」
「うん」
「そっか」
彼は笑みを浮かべ、そうだなぁと考え始める。
「うーんと…あ、そうだ。この前のテスト、結果はどうだった?」
「ぼちぼち、かな」
「頭良いのに寝てばっかりでもったいないって先生言ってたけど、順位はどれくらい?」
「一応、総合で一桁。あーでもギリギリだったな」
「じゃあ八位とか九位?すごいね。この学校、二百人いるのに」
「それを言うなら君だって。私よりも順位良かったんでしょ?流石だよね」
他愛のない会話。あまり話したことがないはずなのに、不思議と会話は途切れない。ぽんぽんと飛び交う言葉に、久しぶりに眠気が吹き飛んだ。
「そうだ。あのさ、結崎奏くん」
「なんでフルネーム?奏でいいよ」
張り付けた笑みではなく本物の笑み。くすくす笑う彼に、私も笑みを浮かべる。
「私、君の事が好きなんだ」
時が、一瞬止まったような感覚。静寂が場を支配した。
彼の顔に浮かんだのは驚愕に他ならないだろう。予想していなかったからこその珍しい表情に、胸が甘く締め付けられる。
この顔を知っているのは、きっと私だけ。
「わ、るいけど…俺、今はそういうのから、離れたくて」
うん。分かってるよ。寧ろ嬉々として食いつく姿が想像できない。
「だから、君の気持ちは嬉しいけど、」
「あのね」
「…?」
でも、私は君が好きなんだよ。
茉莉愛を神聖視しているんじゃないかってくらいに愛した君が。
一方通行と知っていながらも愚かに愛を捧げ続けた君が。
「一途で健気な君が、好きで好きで、愛おしくて、たまらないの。そんな君を愛したいし、そんな君に愛されたいの。だって自分を騙し続けてまで愛するとか、そんなの普通は出来ない。羨ましくて妬ましくて仕方なかったよ。君に愛されていた天川茉莉愛が」
立ち上がって、こちらを見つめたまま微動だにしない彼の頬に手を伸ばす。
「愛したいし、愛されたい。他の誰かじゃなくて、君が良い。君じゃなきゃダメなの。ねぇ、だから私を見捨てないで?君に拒絶されたら、私は君以上の人に出会うはずがないんだから、ずっと独りになっちゃう。重いかな?でもこれが私の愛」
そっと撫でる。抵抗は無い。だから髪に触れて、そっと指を通す。
それでも彼は拒絶するそぶりを見せず、こちらを見つめ続けるから、そのまま彼の顔に、自分の顔を近づける。
「気持ち悪いって、思う?」
触れる直前で、ぴたりと止まる。数センチ先の彼の瞳に眩暈を覚えた。
「でも、ごめんね。好きなんだ」
そのまま、唇を重ねる。
何故だか、時間がゆっくりと流れているような錯覚。
不意に離れて、自分の行いに自嘲する。
我儘にもほどがある。愛を勝手に押し付けて、そして愛を返せだなんて、自分はいつからこんなに愚かな人間になったのだろう。
「……ごめん、忘れて。大丈夫、もう話しかけたりしないよ。君に関わらない、」
「駄目だよ」
空耳だろうか?私の勝手な願望が幻聴を起こしているのか。
数回瞬きをして、いつの間にか下を向いている彼をじっと見つめる。
「関わらないなんて、駄目。絶対に駄目だッ」
瞬間、唇に感じた感触。ついさっきまで感じていたそれが、また私の唇に触れている。
彼は顔を放して、私の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「正直、まだ茉莉愛を忘れられない」
「―――いいよ、そのうち、忘れるだろうから」
「君の事を心から愛せるかわからない」
「―――それは、ちょっと困る。けどね、いいよ。待つから」
「さっき言ったことは本当?」
彼の眼差しが不安そうに揺れる。そんな彼が愛おしくて、私は自然と彼を抱きしめた。
「勿論。私は君を愛したいし、君に愛されたい。未来永劫、私の愛は君のモノ」
「そっか……はは、なんかもう、やばいなぁ。それ、すっごい殺し文句」
「本心だよ?」
「知ってる。っていうか、伝わった。すごいね」
「何が?」
「君は、俺の心をがらりと塗り替えたよ」
その言葉に、胸が震える。
ああ、そうか。伝わったのか。
こんな私でも、君は許容してくれるんだね。
「好きだよ、結崎奏くん。愛してる」
「ふふ、そうだね。俺も」
二人で微笑みあって、またキスを交わす。
「愛しているよ、吉川咲良さん」
嗚呼、今日は、なんだかよく眠れそうだ。
×××××
「insomnia」という言葉を知っているだろうか。
これはつまり、『不眠症』の事である。
多くの場合、不眠症は他の障害や、医薬品の副作用、心理的な問題との併存である。不眠症と診断された約半数は精神障害に関連しており、私もその一人だ。
精神的なトラウマにより、眠れなくなってしまったのだ。
浅い眠りのまま、何度も覚醒してしまい、慢性的な睡眠不足に陥っている。
私が日中机に伏せているのはそれが原因で、その時も寝たり起きたりを繰り返している。
私がそのトラウマを抱えることになったのは、五年前の事である。
小学校五年生の時、私の両親は離婚した。お互いの浮気が原因だった。小学五年生ながらも私は両親たちの行為の意味はきちんと理解していたし、憤慨していた。
私は裁判の末に母親に引き取られることになった。母は父と離婚するが否や、浮気相手の男の家に移り住んだ。そしてそのまま結婚した。
トラウマというほどでもないが、この時既に私は、愛というものに不信感を抱いていた。
男の家は広く、一軒家だ。それなりに稼いでいるらしい。見るからに好青年という風貌なのに、彼は母をたぶらかして離婚させた。
多少なりとも罪悪感を抱いてもいいはずなのに、彼はそんなそぶりを見せなかった。この時点で私はこの男が大嫌いだった。
父も浮気をしていたが、母の性格は少々、というか相当苛烈だったのだ。浮気したくもなる。
けれども男はそんな母と浮気していた。
母の苛烈な性格が気にならないのだろうか?
その疑問を抱えたまま、私は新たな家庭で生活を始める。
表向きは穏やかに始まった生活ではあるが、私は男と母に心を閉ざしていたし、母は男しか目に入らないようだった。その時点で上手くいくはずがない。
男は何故か私にとても優しかった。いつでも笑みを浮かべ、私の事を甘やかす。正直鬱陶しかったけれど、放っておいた。
母はそんな男の様子を見て、次第に私を疎ましく思うようになっていった。
男がいない時の暴言や暴力は日常茶飯事だったし、私は既に母という存在にこれといった希望を見出すことは諦めていた。
そして、数か月後の事である。
とんでもない事実が発覚したのだ。
珍しく母が出かけ、男と二人きりになった夜。
男の態度が一変した。
今まではまるで父のように接していたのに、男は急に『見知らぬ男性』へと変わった。
男が浮かべる笑みに全身が震え、伸びて来る手が恐ろしくてたまらなかった。
男は私の事を、まるで『女』のように見ていた。
そのことに気が付いたとき、私は男を突き飛ばし、家から逃げ出した。
そのまま偶然近くにあった父方の祖父母の家へ駆け込み、つっかえながらも先程起きた出来事を全部話した。その後、私はふらりと倒れ、死んだように眠り続けたのである。
私のトラウマはこれだった。
毎夜毎夜、眠りの中でよぎる男の顔。次第に眠ることすら怖くなり、浅い眠りと覚醒を繰り返す日々。
ただでさえ、不信感を抱いた愛だ。
両親は不仲から離婚した。愛し合っていたはずの二人。だからこそ私は生まれているわけで、人の心は簡単に変わってしまうことを知った。
そして母が父と離婚してまで愛した男は、初めから母に興味など一切なく、私を手に入れる為だけに母と関係を持ったことも知った。
愛なんて、一時しか続かないのなら、そんなものは要らない。
ずっと、ずっと。未来永劫続く愛が良い。
お互いしか目に入らない、二人きりの閉じた世界で、愛をはぐくみたい。
一途で、健気で、盲目な、愛。私はそれが欲しかった。私はそんな愛しか、捧げることが出来なかった。
こんな私の愛を受け入れてくれる人なんて、そうそういない。
けれど私は思いだした。
この世界が乙女ゲームの世界であることを。
乙女ゲームの世界なのだ。主人公と攻略対象が結ばれたハッピーエンドの後も、お互いをずっと愛し続けるに決まっている。じゃないとおかしい。そうであるはずなのだ。
だから、私は物語を観察した。主人公の天川茉莉愛が攻略する人を見抜き、それ以外の攻略キャラに近付く為に。
そこで見つけたのが、結崎奏。
不純な動機で近づこうとして、私はいつの間にか、彼に心から惚れていた。
「愛してる、咲良」
「私も、愛してる……」
ようやく、私は彼を手に入れた。
二人きりの閉じた世界。
これが私の、ハッピーエンド。