自白第一の時代
江戸時代。犯罪の最大の証拠は、被疑者の自白だった。人権という言葉そのものが存在しなかった時代、自白をとるためにありとあらゆる拷問が尽くされ、根負けして冤罪が生まれることも少なくなかったという…。
風が吹き荒れる海辺に、死罪となった罪人を処刑する、仕置場はあった。大波がぶつかり合い、激しい飛沫が巻き起こっている海と違い、浜辺は静かだった。
波打際の浜辺。海以外の三方を竹矢来が囲み、その中央に十字に組まれた木の柱が建っていた。その柱には、鼠色の衣を纏った女が腕を水平に広げて、胴と手首、揃えられた足首を縛り付けられていた。
「二親殺しの大罪人め、言い残すことはあるか」
与力の原見源三郎は、これから磔の刑にされる女に向かって言い放つ。対して、女は与力を睨み付けながら叫んだ。
「わたしは誰も殺しておりませぬっ!…地獄から怨み続けてやるっ!!」
「フン。悔しいか?わしを憎いか?…やれぃっ、お前たち」
与力は女を鼻で笑うと、槍を持った二人の下男に刑の執行を命じた。
「あーりゃありゃあっ!!」
下男の二人は掛け声を上げながら、槍の穂先を女の目の前で交差させる。鈍い光を放つ槍に、女は顔を引き攣らせた。
(苦しいのは最初だけだ。すぐあの世に送ってやっからな)
槍を持ちながら、下男の一人・健蔵は心の中で女につぶやいた。そんな時だ。女と目が合った。
自分はやっていない。もう無駄だろうけど…
女はそう訴えていた。
怒りと諦め、そして死への恐怖…
女の目から訴えられるものに、健蔵はたじろいでいた。
「あーあーりぃやぁっ!!」
グシュッ!!
それを打ち破ったのは、反対側の下男・辰吉の咆哮と、辰吉の槍が女の身体を貫く音だった。右の脇腹から突き刺さった槍は、女の左の肩口から刃を出した。真っ赤な鮮血が噴水のように勢いよく噴き出し、「ぎゃああぁっ」という女の叫び声が響く。我に返った健蔵は、辰吉が槍を女から引き抜いたのを見計らい、自分も槍を突き出す。右の肩口からも思いっきり血が噴き出す。
「ぐ、ああぁっ…」
女は目を見開きながら悶える。もう一度、辰吉が槍を突き刺す。それを引き抜いたとき、女は赤黒い血を口からドボッと吐き出した。目も虚ろで、多分魂はあの世に逝きかけている。健蔵は迷いを振り払って女を突き刺した。
「ウ…ァア……」
そう最期に漏らして、女はガックリと頭を垂れて、事切れた。半開きの目が、健蔵をにらみつけていた…ように思えた。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
刑を執り終えた健蔵は、肩から力が抜けて槍を落とした。顔からは冷や汗が噴き出し、呼吸も荒かった。
「俺を睨んだって、知ったこっちゃねえよ…。死罪になっちまったんなら…諦めちまえよ…なんで俺を…」
呼吸を整えながら、健蔵は再び女を見る。ガックリと頭を垂らし、血まみれの長い髪を風に揺らしていた。
「健蔵、いい加減びびってんじゃねえぞ。もう一月もここに居んだ。いちいち罪人に情けかけてりゃ、てめえの気がもたねえぜ」
刑を終えた健蔵と辰吉は、下男が暮らす浜辺の小屋に戻り、そこの井戸端で身体にこびりついた返り血を洗い流していた。
「なあ…辰吉。さっきの女なんだけどよ…」
「んん?ああ、おはつ…ったっけなあ。殺すにゃなかなか勿体ねえ別嬪だったなあ」
「俺、あいつに睨まれたんだけどよ…。もしかして…」
「また、『あいつはやってないんじゃないか』か?」
自分の言いたいことを先に言われ、健蔵は口を紡ぐ。辰吉は、にらみつけながら低い声で健蔵を諭す。
「てめえの優しいとこは嫌いじゃねえが、あんまり滅多な事口にすんじゃねえ。与力が決めちまった以上、あの女は二親殺しの罪人。それ以外のなんでもねえよ」
「…」
かつて盗賊集団の下っ端で、島流しから帰ってきた辰吉と違い、健蔵はもともと小さな問屋の奉公人だった。両親は早くに亡くし、流れ着いた奉公先も今で言う番頭の横領によって取り潰しとなり、食いぶちを得るために刑場の下男となった。そのために、残酷な処刑で罪人を罰する在り方にどこかなじめないでいた。
そして彼にとって忘れられない処刑があった。
下男となって十日ほど。段取りを覚えたばかりのところに、打ち首の仕置きに立ち会った。罪人の名はおみの。信州の山村から江戸で指折りの材木問屋・磯部屋に奉公に出ていた娘で、店の金に手を付けた罪、今で言う横領で死罪となった。その額十両(現在の貨幣価値に換算するとおよそ50万円ほど)。刑は牢屋敷の死罪場で執り行われたのだが…
「嫌あっ、嫌だぁっ、助けてぇ!斬らないでぇっ!」
牢屋から連れてくる段階でとにかく暴れ、叫んだ。健蔵は他の下男とともにおみのを引き出してきたのだが、女と思えない馬力と耳をつんざく金切り声に手を焼いた。
「死にたくないっ!あたしは何にも知らないっ!蔵に入ったこともないのにぃっ!!」
無実を訴えるおみのを、二人掛かりで土壇場に座らせ、面紙を顔に巻いた。
「おっ父おぉっ!おっ母あぁっ!!」
首打ち同心が大上段に構えた白刃が、鈍い光を放ったかと思った刹那、おみのは首をはねられた。さっきまで暴れていた身体から拍子抜けするほど力が抜け、叫んでいた頭は掘られた穴の中に転がって、首から噴き出す生暖かい鮮血を浴びていた。
下男が穴から取り出したおみのの生首は、唇がパクパクと痙攣し、目は半開きの状態からどんどん瞳孔が開いていった。無念しか感じない表情が、健蔵の脳裏にはっきりと今も焼き付いている。
ある日の夜・・・。
なけなしの銭で買った粗悪な酒を仲間とともに酌み交わし、眠りこけていた健蔵は、眠っているうちに尿意に駆られ目が覚めた。
「ったくかんべんしてくれよ・・・。月が出てねえ夜に限ってションベンしたくなりやがる・・・」
下男が住むような小屋に、雪隠なんて気の利いたものはない。恐る恐る外に出て草陰に向かう。静かな夜はさざ波が聞こえるだけで星の光しかない不気味な世界。ましてや刑場の近くである。いくら肝が据わっていたとしても、こんな夜には外に出たくない。
「はあ・・・さっさと全部出てくれよ。早いとこ小屋に戻りてえよ・・・」
健蔵がぼやきながら用を足しているとき、ふと何かの気配を感じた。
「ん・・・。なんだ・・・」
違和感を感じたとき、体にたまっていた尿は全部出た。普段ならこの薄気味悪い気配を感じたら、一目散に小屋に戻っていた。だが、今回だけは、なんとなく気配のした方向に行きたくなった。
「誰だ・・・。何なんだ・・・」
健蔵には気配に加えて声が聞こえてきた。その声はずっと健蔵の耳元でささやくのだ。
キテ・・・コッチニ・・キテ・・・
一瞬、健蔵はためらった。この先を行けば海辺の街道に出る。そこに何があるかを知っていた。だが、自分を呼ぶ声とは別の声が、小屋へ引き返すことを許さなかった。
モドルナ・・・・コエノ、スルホウヘ・・・・キナサイ・・・
「ちくしょう。なんだってんだよ・・・」
健蔵が行かざるをえなかった場所。それは獄門の前だった。これは罪人の生首を晒す台。ここに置かれた晒し首はこの世に未練を残すような表情をしているが、血生臭い悪臭と屍肉につられて蝿や蛆がたかり、夏場になれば三日もしないうちに男女の判別がつかなくなる。今は誰もさらされていないが、幾多の晒し首血が染み込み赤黒く変色した台は微かに悪臭を立てている。
(結局こんなとこ来ちまったけど、今日は一段と気味悪いや)
「…声、聞こえなくなっちまったな。そういやこないだまでは、あの女が晒されてたんだな…」
あの女、すなわち磔になったおはつのことだ。通常、獄門に晒されるのは付加刑として行われ、だいたいは「打ち首獄門」「磔獄門」と言い渡されるのである。
…のんきなものね、下男って…
「ん!?」
健蔵はまたもはっきりと声を聞いた。しかも人気がないはずなのに、声のしたほうにはっきりとした人影が見えた。立っていた人影には見覚えがあった。
「ひっ!!お、おめえは…おはつか」
…覚えてたの。まあ、あれだけにらんで、忘れられたら…もうあんたは人殺しになれたってことよね…
「な、なんでまた俺に化けて出てくんだよ!親殺しといて逆恨みかよ」
…あたしは誰も殺してないわ。だって、あたしが家に帰ったら、おとっつぁんもおっかさんも死んでたのよ…
「え!?」
…なにがあったのか…あたしにはわからなかった。でも、足元に血まみれの包丁があったの。そこに役人が来て…
「お縄になったのか…。でも、違うんなら」
…言ったところで…どうにもなんないわ…
おはつと語る健蔵の背後から、また別の声がした。ふりむくと、女の生首が青白い光を帯びて浮いていた。見覚えがあった。
「うわっ!てめえは…みの」
…年季が明けて、やっと村に帰れるさ思ったのに…朝起きたら役人がいて、あたしの荷物あさったんだ。そしたら、小判の束がでてきて…あとは拷問三昧さ。
…背中を散々むち(竹を二つ割りにして麻で包んだ箒尻と呼ばれる)て打たれて、正座の上に石を抱かされて…あたしたちがそんなのに耐えれると思う?…
…あんたに言っても無駄だろうけど…あたしらだって殺されたんだよ…
健蔵は何も言えなかった。一度疑われたら、男も根をあげるような拷問にあい、自白してしまえば楽にはなるが死罪になる。かといって、はつの言う通り話を聞かされたところで、健蔵にはどうしようもなかった。
いつの間にか白々と夜が明けつつあった。同時に二人の幽霊も消えた。その去り際、みのは呟いた。
…でもあたしとおはつさんはもういいんだよ。恨みは張らせたんだからさ…
その言葉は、健蔵には理解できなかった。
それから数カ月、みのの言葉を忘れかけた頃、一組の男女の処刑が行われようとしていた。罪状は不義密通。行われるのは、最も残忍と言われる鋸引きの刑だった。二人とも顔から下を地面に埋められた状態で、顔面蒼白で時を待たされていた。
この二人を見て、健蔵は背筋が凍った。男ははつを捕らえた元同心。女はみのを訴えた問屋の女将だったから。恨みをはらす。二人の祈りが通じたのだ。鋸でじわじわと首を斬られるという、残忍な刑をさせて。
「健蔵。何ぼうっとしてんだ、いくぞ」
「あ、あぁ…」
辰吉に促され、健蔵は二人で鋸を抱えながら罪人の元へ向かう。そして女の前後に座り、鋸を首もとにすえた。女は二人を罵り、男は「わ、わしを助ければ、じ、十両、いや!二十両出すぞっ!」と命ごいをしていた。
健蔵はふと思った。
「こんなひでえ目に合うのに、なんで人は悪事を働いちまうんだ?…だから弱い奴に濡れ衣を着せるのか…まあ、もういいか。考えんのめんどくせえや」
そして健蔵は、辰吉の合図で鋸を引き始めた。