習作・無題
一
高校二年の春、始業式から二週間ほど経った平日の朝。伽藍の学校・白い廊下を、閑静な態度で進む少女。名前を小泉涼子という。
農家の長女として生まれた彼女は、毎朝五時過ぎには目を覚まし、祖母を手伝って朝食の用意をするのが務めである。父と祖父の朝は早く、彼女が起きるころには既に家を出て差し向かいの畑で仕事をしている。そうして一段落ついて家に帰って来るのが六時過ぎで、このときにはじめて男二人は朝食を取る。だから父と祖父とが帰って来るまでに、弟妹を除く四人分の朝食の準備をしておく必要があるのだ。
朝六時、朝食を作り終えると、涼子は父と祖父を呼びに畑へ出る。畑は家のすぐ隣にある。春の明朝はまだまだ寒く日が出るのも遅い。朝日もようやくこの時間になって大地を照らしはじめたところである。
畑に出ると、一番遠くに見えるのは立山で、この時期はまだ雪帽子をかぶって少しかわいい。霊山の美麗な様は冬に際立ち、夏は雄気して荘厳。下自ずから敬をなす景観である。秋は豊穣、稲田に燃ゆる藁の香りは不思議と心易く、また刈り取られた田に遊ぶ子供たちの姿を見るとなんだかこちらも元気が湧いてくる。秋の哀愁は都会にのみあって、田舎にはないものである。しかし春の麗らかさは、むしろ田舎において一入で、日が昇り花のつぼみも開く頃には、風も喜び温かい祝福を授けてくれるものである。そこにある春の香りは、土とともに生きる者のみが知るのである。
立山の次に目に入るのは、庭先の畑に一つ・道路を隔てて林立する桑畑で、桑の木が長く連なって背に朝日を浴びている。桑の木は光りをさき、木漏れ日を作り、一帯は朝鳥の音のみ他になく静けわたって清澄である。そうして遠くに繁る桑畑の葉からは、あたかも朝露のしとしととこぼれる様が伝わってくるようだ。もうあと十日二十日もすれば、兄弟で桑の実を取りに行って、一緒に黒い小さな葡萄を甘味することも出来る。甘いものを食べない祖父も、懐かしい味のする桑の実ばかりは好んで食べる。
そうして次に広がるのが一面我が家の畑であるが、今はまだまだ土ばかりが目立つ。これが秋になれば、菜畑、大根畑の青みに加え、稲が広やかに黄金を実らせ、朝夕風の吹くたびに、稲が擦れてさやさやと鳴る様などはえも言われない。
秋といえばアケビを採る。涼子も小学生だった頃は、勝気でやんちゃな女の子であったから、学校の帰り道、家に帰ってからの後、男の子に混じって近くの雑木林へアケビを採りに行っては食べたものだ。その風習は今も変わらない。特に一緒についてくる弟は両手いっぱいに採って帰って来るものだから、ご近所さんにもお裾分けする。柿の木は庭に植えられていて、沢山に実らせるものだから、到底食べきれなくて鴉の餌になる。それはどこの家も同じであって、田舎の農家は皆が皆、柿を腐らせて鴉にくれてやる。柿はアケビよりよっぽど美味い。アケビより柿が美味であることは確かなのだが、かえって柿は美味しすぎて飽きてしまう。面倒で味も粗雑なアケビが、かえって歓迎されるのもまた不思議な話だが、祖父はこの素朴な味が良いという。なるほど、そんなものかも知れない。
左に奥まって立山があり、その裾野から顔を出す朝日。朝日は桑畑の背後より出でておもむろに顔を出している。繁る桑畑は玲瓏と佇んでいる。そこから庭先に広がる畑と稲田。春は土色、夏は青々、秋は金色、冬は純白。四季を通じる朝の絶景。だが一番は冬だろうか。弟妹が近所の友達と一緒に、犬などを連れて田に積もった雪で遊ぶ様などは格別だ。雪だるま・かまくら・そり遊び。どれも楽しげで嬉しい。
こんな田園の仕合せを、最近はめっきり自覚することが多くなって、ついつい日常の光景の中に思い起こしてしまう。
「お父さん、お爺ちゃん、ご飯だよ」
「おぉ、今行くちゃぁ」
簡単な返事をして二人は、「おう、それじゃぁ、あがらんまいけ。」「構わん、構わん。そこんでも置いて、飯にせんまいけ。」と言って朝の仕事に一段落をつける。ようやく浅い瑠璃色に明るくなった空の下で、殆ど黄金を透明にしたような朝日を帯びた男達が大またに歩いて帰って来るのを待つのは、涼子にとっても仕合せであるが、何よりも男達にとって仕合せである。
「おはよう、お父さん。お爺ちゃん」
この一言を聞くだけで、男二人は疲れや眠気なんてものは全く吹き飛んでしまう。
「おぉ、おはよう、涼子」
「おはよう。毎日ありがとなぁ」
そう簡単に答える心底に、どれほどの愛情があるものだろうか。ほんの数分ではあるのだが、家族一緒になって歩く、この道程が何よりも愉快だ。
そうして男達は家に帰ると、先ずは上着を脱いで軽くタオルで汗を拭う。まだこの時分、暑くはないが、風邪を引かぬが何よりも肝要である。そうして手洗いうがいをして、顔を洗って居間へ行く。ご飯・味噌汁・卵焼き・お新香・菜の花のおひたしと食事は簡素で充実しているのが農家の常である。それでいて米を沢山に食べるから、農家の力はお米の力だ。大きなご飯茶碗に更に盛って、それを二杯か三杯食べるから全くの健胃である。
小学六年と五年になる弟妹のチビたちはまだまだ眠たい年頃であるから、大人たちは強いて起こしたりはしない。毎日十時には眠らせて、寝ろよ育てよと愛情を寄せる。長男の太一などは全くよく運動をするものだから、一日十時間でも寝たりないくらいである。次女の夏美は床しく静かな女の子だから、日中疲れないと見えて、十時にはなかなか眠ってくれない。相部屋の太一がすぐに寝てしまうので、こっそりと部屋を出て涼子のところへやって来る。そうして涼子が勉強する間、ベッドの中で本を読んで、気がついたら眠ってしまうから、仕方なく涼子は夏美と一緒に眠ってやる。そんなこともしばしばある。
母親のいない小泉家において、二人のチビの世話をするのは、母親代わりである涼子の仕事だ。最も、既に小学校の高学年となった二人は、さして手数がかかるわけではない。身の回りのことは当然に本人達がするように躾がされている。だから朝食の準備をして、宿題を見てやり、後は成長を見守ってやるのが母親代わりの仕事ということになる。
チビたちを起こすのは朝の六時半、大人たちの食事が終わってからだ。祖母は食後の茶を飲むと、食器の後片付けをはじめる。そうして涼子は、チビたちの御膳をお世話する。同時に男たちの御膳を下げる。弟妹の分のお茶を入れる。新聞を持ってくる。男達にお茶のお代わりを入れる。小泉家では食事中にはテレビをつけないのが慣わしであるから、男の話し相手をするのも、女房子供の大事な仕事である。
こうして朝の雑多な時間が終わると、片付けは祖母に任せて、朝の七時には家を出るのだから、必然七時三十分には学校へと着いてしまう。弟と妹の時間に合わせて、はじめのうちは涼子も時間いっぱいまで家にいたが、進学校の優等生として、学問にも精を出したいのである。愚直に誠実な田舎の民は、涼子の志しを嬉しく思う。父は優しく激励し、祖母は涼子の丹精を褒める。祖父は家族が真面目で一丸に生きてくれることが何よりも嬉しい。弟も妹も、姉の優しい微笑と凛として健気な姿を見て、長者への尊敬を厚くする。そんな工まぬ教育が、自然二人の人格を直くして、性根の優しい素直な子供へと成長させるのである。
涼子は部活の朝練組を除けば一番に学校へ到着する。そうして早くに教室へ行き、朝のホームルームまで勉強や読書をするのが日課となっている。窓際の最前列に席を持つ彼女は、一夜を経てすっかり空気の静かに重たくなった教室に、窓を開け放って風を巡らす。そうして彼女は席に着き、中庭に咲く桜を眺める。桜は大変な大樹であって、古い校舎と時を同じくしている。幹に刻まれた人の名ですらも、また麗しい歴史である。
大樹は葉を窓辺にかざす。優しく差し出された一枝を、涼子は毎日傍らにしている。伽藍の教室に一人・自分だけの大きな教室で、静かに大樹と向かい合うとき、涼子の心はすっかり清清とする。そんな朝の嬉しい一時である。
春風の微笑とは事実である。
さっさつと吹く温かき風が、桜を撫でて涼子に薫らす。花のざわめきは穏やかで、優しく涼子を労い励ます。その慈しみを受けて涼子は、国語の予習帳を取り出し、単語の読み書き字義を確かめ、朝一番の授業へと備える。古典の予習で、花精妙の枕詞が出て来たことは、何だか絶妙で可笑しかった。美しい言葉の響きと字義に、予習帳の隅の白欄に、三度ばかし花精妙の漢字を書いて微笑む様を、見れば誰でも嬉しくなるだろう。
穏やかなとき、人は日常の簡単な変化にも機微を覚えて感動する。改まって言葉にすると、凄んで見える人間の真理も、箸が転んでも可笑しい女学生にとっては、言うまでもない当たり前のことではあるが、そんな豊かな感受性を持てる心にさせてくれる、優しい温もりが春風の微笑なのである。
二
元々予習は自宅で済ませてある涼子だから、簡単な単語の確認だけで、必要な勉強はお終いにできる。時計を見ると七時五十分。彼女の経験から、他の生徒が来るのは八時五分以降である。これは大体、この時間にバスが一本近くを通るからである。その前、七時五十五分に、電車が近くを通るのではあるが、部活の朝練習にしては遅く、通学には早すぎるため、滅多に生徒が乗車することはなく、むしろ専ら先生が利用するのである。最も、八時五分のバスに乗ってくる生徒も殆どいない。少なくとも、涼子のクラスには一人もいない。一度だけ始業式の日に、クラスの男子、城野雄樹がこのバスに乗って来たことがあったが、しかしそれも一度だけの例外である。だからもう少し涼子は一人を楽しむことが出来る。この時間を利用して、日記を描くのが彼女の日課である。普通一般に日記は夜に描かれるが、彼女は朝のこの時間、一番心の穏やかなときに、前日を振り返って描くのを常としているのである。
涼子の日記帳は原稿罫のタテ十行で、二千七百円の確かなものだ。これが殆ど唯一の、純然涼子の娯楽に用いられる金と思って差し支えない。このような奥床しい優等生は、田舎に行けばどこの学校にも一人くらいはいるものであるが、ただ彼女の場合は母親代わりもせねばならぬ点で、人並みならざる苦労がある。
しかしこの苦労は彼女にとって必ずしも不幸ではない。若いうちの苦労であるから、将来立派な財産になる。涼子は背丈が低い。華奢で小柄な女子だ。顔はやや端整で美人。長い黒髪と肌理の細か白い肌が魅力的だが、年に比べて妙に大人びて優美なのは彼女の容姿のためではない。洗練された女性の美しさは、そのしぐさと雰囲気、感受性に表れるのである。大人の女性の優美さは、それはそれは大変すてきなことで、同姓からは慕われ、また異性からは親しまれ、年長者からは可愛がられ、年少者からは愛される。家族は彼女の存在に安堵させられ、心安く思うとともに、若い娘の将来にまで期待を持たざるを得なくなる。そのことがどれほど大人たちを仕合せにさせることだろうか。家に大人ばかりの昼下がりに、まぁまぁここいらで一服とビールを飲んで、気の早いことにしばしば涼子の嫁入りを語り、話に花を咲かせたことも一度や二度ではないのである。
最も、あたかも涼子が端から従順で道理を弁え、母親代わりに家事をして、節制の徳を知っていたかのように思うのは間違いである。子が自由を求め、親に要求することは田舎も都会も変わりない。が、田舎の者は筋を尊ぶ。特に農家の者はそうである。
中学三年の秋、涼子はガンで母を失った。高校受験を前に控え、父も祖父母も大事を控えた涼子を案じ、受験に全力を尽くせるように支えてやった。が、それは言うまでも無く大事の前の特別であって、受験が終われば一般に習い、長女としての務めを果たすのは当然のことである。
しかしその道理を若い涼子は受け入れられなかった。勉強を頑張ってよい高校に入ったのであるから、少しくらいは我侭を許してくれてもよいじゃないか、また勉強に集中出来るようしてくれてもよいではないかと言うのが涼子の言い分である。
なるほど、涼子の話にも理がないわけではない。しかし言うまでも無く、涼子の言い分は甘えである。
先ず第一に、涼子は長女である。母が存命であれば別だが、既に無い以上は長女が母親代わりをするのは当然の義務である。もし涼子が長男であり、母ではなく父を失ったとすれば、高校は当然農業高校へ行き、休日は父の代わりに畑仕事をすることが義務となるのと同様である。
第二に、涼子の家は農家である。農家は元来、家族が力を一にして農作業に勤しむからこそ糧を得られるのであり、また仕事も楽しくなるのであり、毎日が愉快になるのである。逆に一人でも我侭を言って家族の調和を崩すものがあれば、途端に一家の不幸となる。
第三に、そもそも高校にしても、大学にしても、行くのは親の金であって涼子の金でない。義務教育ならばまだしも、高等教育は義務の範疇を越えており、我子といえども人様の金で学校へ行く事実に違いはないのである。とりわけ、大学短大への進学を基本とする普通科の高校へ行っている立場としては、将来に渡って親に負担を強いるわけであるから、本来自覚は人一倍でなくてはならない。その立場にあって、頭を下げて粛然と請うならばまだしも、声高に主張したのでは到底通る道理は無い。実際、父の雷が一言に下って、涼子の過ちは即座に正された。
その後しばらく、どうしても涼子は釈然とせず、不承不承に父の言葉に従う毎日であったが、長女の涼子と父親との間が冷然としていれば、自然、一家の団欒も寂莫たる有様になる。祖母などはどうにか賑やかにしようと世間話を居間に持ち込むが、子供達にはまるでつまらぬ。それどころかわざとらしいのが、不機嫌な父親の神経に触った。祖父はもともと親子の関係には立ち入らぬ主義である。弟妹は苦しさにつっかえて声が出ない。遂に反響は何処からも無くなり、祖母の配慮はかえって寂寞を広めてしまった。
すっかり食事の時間は静かになった。ここはテレビでもつけてと誤魔化すことも出来ない。空気が重く沈んで、閉塞してしまって、田舎の夜更け同然に静かである。涼子はすっかり沈鬱なことに屈託して、一日中勉強も手付かずで内省する。父もまた言葉が激しすぎやしなかったかと自問するが、元来学のないだけに深く考えても結論が出ない。いや、結論などはとうに出ていて、自問するまでもないのである。どうせ馬鹿なおらっちゃであるから、賢くて器用な生き方などは出来るわけがないのだ。田舎の百姓なりに、筋を通して一生懸命に生きる。口を動かすより身体を動かす。それ以外に何が出来ると言うのだろうか。そう思っても、しかし、しかしと煩悶するから、泰然とした態の中にも、自ずからぎこちないところが出てきてしまうのであった。
そんな毎日が一週間も続けば、心根の優しい涼子であるから、弟と妹が肩身狭く居場所のないようにする姿を、また祖父母の言葉少なく辛そうにする姿を見るに堪えられない。また聡い少女であるから、父の心中も自ずと察せられた。そうして自問を繰り返し、虚心坦懐に顧みれば、自ずから若い過ちに気がつくのであった。
己の過ちを認めるや否や、恥じて改めることは実に素直なもので、純朴な若者らしく気持ちが良い。そうしてまた家の者も田舎の百姓然として、孫娘の聡しく気立ての良いことを心の底から喜んで、ふとした拍子に褒めてやる。そうして父には内緒で小遣いをやったりもする。許されてもいない小遣いを貰っては、むしろ涼子が困るくらいであるが、まぁまぁ良いからと無理にでも渡す。実のところ、涼子は確かに我侭を言って家族を困らせることはしたのだが、別段理由があってのことではなかったのだ。元来欲が無く、金の使い道もこれといってなかったものだから、とりあえず箪笥に貯金して、専ら友人との交際費に使うことにした。
姉の変化に一番喜んだのは妹と弟で、ただただ純粋に家族が元通り仲睦まじくあることが嬉しいのである。その姿を見たときに、涼子は自分の改心が正しかったと安堵した。家庭の絆が綻びて、何よりも辛いのは小学生の下の子二人である。そうしてまた、母恋しいのは何よりもこの二人である。思えば父の厳しい言葉も、田舎育ちの知恵として、二人の幼子を思う遠望があったのかも知れない。小学四年生の妹などは、よほど寂しいと見えて、夜涼子の部屋に来て、一緒に眠って欲しいとねだることも度々あった。そうなると弟は一人きりだが、かえって一人で気楽だと言うあたりは流石に男の子で逞しくって微笑ましい。
こんな涼子の自覚を見て、父は一人墓前に屈み、亡き妻に涼子の健気なことと、下の子供達の健やかなことを報告し、密かに娘に感謝した。そうして報告が終わり帰ろうと踵を返し細道を進むこと暫し、佇立瞑目、潸然として涙下った。決して家族には涙を見せまいとする、田舎の男の意地である。
果たして男親の愛娘を思う気持ちはどれほどであろうか。特に田舎の百姓育ちなど、学の無い苦労が身に染みているため、出来ることなら我子には、可能な限りの学問をさせてやりたいと思うものである。
しかしそれは親一人の気持ちにしか過ぎない。家長としての務めから、どうしても涼子には辛い役目を負ってもらわねば困るのだ。僅かな乱れが、後々大きな家庭の不和をもたらすことを、田舎の長男は知っているのだ。特に涼子は長女であって、涼子と父との関係を、下の二人はじっと見ている。ここで父親が家長の威厳を損なうわけにはいかぬのである。
その苦渋の苦しみを、涼子が全て理解しているわけではないが、涼子はしっかりと報いてくれた。決して涼子の言葉に道理の無いわけではなかったのだが、駄々をこねずに素直に引いてくれた。そうして家に尽くしてくれる。その上学問も疎かにせず、一年の一学期の成績は、学年でも上位二割に入った。
謙虚の田舎の百姓男も、この愛娘が心底可愛いと見えて、鳶が鷹を生むとはこれだと酒の席では常に語る。それが全く厭味にならぬほど、健気で器量持ちな娘であることは、他人の目にも明らかであるから、こればかしは親馬鹿とも言えぬのであるが、それがいっそうこの父には満足であると見えて、どうにも酒の量が増える。それをかえって涼子に窘められるに至っては、父も赤面して面目を失い、家内はどっと笑いに溢れた。
三
高校一年の夏休みから、涼子は日記を書き始めた。そのきっかけは弟が、夏休みの宿題の絵日記を、面倒くさがって書こうとせず、「じゃ、姉ちゃんと一緒に書こ。」と提案したことによる。
そうして書き始めた日記であったが、毎日強い自覚を持って生活しているためであろう。簡単に一日を振り返った雑記には違いないが、自然と零れる心情の吐露は滔々として尽き難く、また清澄な表白は彼女を自然穏やかにした。
七月二十五日
今日、太一と夏美を連れて北銀プールへ行く。真夏日。晴れ渡った空に青く澄んだプールの水、白いビーチサイド。楽しげに笑って、私を呼ぶ二人。すっかりと日に焼けて黒い。私も、今年はもう随分日焼けしてしまった。
去年一昨年と、お母さんの入院、私の受験とで、二人の世話はおじいちゃんとおばあちゃんに任せきりだった。プールにも川にも海にも山にも、何処にも連れて行ってあげれなかったのはかわいそう。今年は、今までの分、私が一緒に遊んであげようと思う。
太一の元気さには驚く。毎朝五時に家を出てサッカー。起きるのは四時半。お父さんたちと一緒に起きる。そうして帰って来ると、簡単に二度目の朝ごはんを食べてプールに行く。毎日がこの繰り返し。ある日は友達と、ある日は私達と。週末はサッカーの試合。休みなんて一日も無い。
夏美はあまり外に出ない。友達と遊びに行くのは三日に一度くらい。内気で甘えん坊なためだろうか。それとも、太一が活発すぎるだけ? 私も、毎日遊びに出ていた気がする。
帰りの途中、カキ氷を買って食べる。夏美に、もうすぐ誕生日だね、何か欲しいものある? と尋ねる。う~ん、う~ん、と考えて答えは出なかった。お姉ちゃんは欲しいものあるの? と聞かれる。私もう~ん、と唸って答えが出なかった。
八月二日
今日も太一、夏美と北銀プールへ。私と夏美は水泳の特訓。二十五メートルを泳ぎきる。息継ぎさえ巧く出来るようになれば、時間がかかっても、二十五メートルくらいであれば誰でも泳ぎきることが出来るようになる。これで平泳ぎに続きクロールも出来るようになった。背泳ぎは苦手で、鼻に水が入ると言って端からやろうとしない。無理強いをしてもよくないので、一緒にやろうと誘ってみることにしたが、ダメだった。
太一は途中から、友達を見つけて私達をそっちのけに遊んでいた。夏美も私を放っておいて、友達と遊び始めるくらいなら心強いのにと思う。でもそうなったら、私はどうしよう? 周りは中学生と小学生ばかり。高校生は多分殆どいない。保護者はちらほらいるけど、一人じゃ恥ずかしいかも知れない。
帰ってから夕食まで宿題をやる。
英語と数学を一時間、国語は小説を読む。芥川龍之介の文庫本を読み終わる。蜜柑は面白かった。けど、よく分からないのが多くて詰まらなかった。トロッコは厭味。河童は変。歯車は不気味。蜃気楼は意味不明。ただ、開花の殺人は難しい言葉が多く、読むのが大変だったけど、凄く面白かったと思う。でも、読書感想文は、蜜柑に決りかなぁ。
八月十日
夏美の誕生日。お寿司を取った。イクラと穴子が多いのは夏美のため。夏美が他に食べたお寿司は鉄火巻きとタマゴくらい?
太一はエンガワとハマチが好きでよく食べる。マグロは嫌いらしい。鉄火巻きも食べない。血の味が苦手らしい。その割には、レバーが好きだからわからない。
私は昔から何でも食べる。特に好きなお寿司はないけれども、ホタルイカや甘エビ・白エビが好き。お父さんはブリ。お爺ちゃんとお婆ちゃんも特に好みは無いらしい。ただお婆ちゃんは、ウナギが苦手。
食後、家族で花火をする。太一はネズミ花火が好きで、一人で飛ばして遊んでいる。危なくて怖い。私は夏美とぱちぱち小さな花火で遊んだ。女の子らしく、夏美は大人しくって慎ましい。地面に置くきれいな花火も、遠くから眺めて楽しんでいるだけで、自分で火をつけようとはしない。小学生の頃、私は、どうしても自分で火をつけたくって、お父さんに一緒して貰ったことを思い出す。縁側でお母さんは、太一と夏美の相手をして、花火をしていた。それが今から五年前。何だか随分昔に思える。
夏美の誕生日プレゼントは、人形になった。
ダヤンの大きなぬいぐるみ。ふてぶてしい顔が可愛いウサギは、お値段なんと九千八百円! さっそく太一が悪戯をして、兎の大きな耳をつかむ。夏美が、やめてよ~っと、切なそうに訴えると、流石に太一も気が引けたらしい。その調子で大切にしてね!
四
「夏美、ちょっとかわいすぎるよ」
日記帳を開く。途端、書き始めたころを思い出して不意に私は微笑んだ。日記を書き始めてから、過去が明瞭に思い起こされる。思い出に微笑んだことも一度や二度ではない。日記帳を開けば、過去の光景がパッと頭に広がって映える。回想をして五分十分と時間が過ぎることもしばしば。日記を読み返して十分二十分と経っていることは毎日のようにある。そうしているうちに、もうそろそろ誰かが来る、そんな時間になってしまって、急ぎ足で日記を書くことだってよくある。時には人目が気になって、空白にしてしまうときもある。日記は毎日書かないとダメだぞっと思うのだけれども、どうしても抵抗しきれない。そもそも、最近は日記が雑だ。過去の日記を反芻して今日の日記が疎かになるのは本末転倒。まぁ、学校が始まって二週間、ちょっと忙しくなってしまって、どうしたって長休み中の記事の充実には及ばない。
そんなことを思って、春休みの日記を読み返す。
三月二十五日
太一、釣竿とルアーが欲しいと言う。去年の秋ごろから釣にはまっている。学校でブームらしい。三週間後の誕生日を前にしての策略。知恵を出してきた。かわいい。
釣竿やルアーを、なんだか玩具みたいに思っていたら大間違い。下手なプレゼントよりよっぽど高い。お父さんはゲームよりよっぽど良いと考えて、少しくらいは高いものを買っても良いかと考えているらしい。そこまで計算があったらかわいくない。偶然であって欲しい。
今日は太一について、近くの八千代沼に釣をしに行く。太一が是非私にもしようと誘ってのこと。これも計算? それとも、純粋に私と釣がしたかった? あるいは、家に釣仲間が欲しかったのかも知れない。
太一のルアーが随分たくさんあることに驚く。どれも精々五百円から千円だという。太一が使ってるそのルアー、お年玉で買った五千円のだって、私は知ってるんだけどな。
太一が私に渡してくれた釣竿とルアーは、素人でもわかるくらいに安物。太一、これじゃお姉ちゃんを見方につけれないぞ?
三時間ほど太一と釣りをする。太一、三匹釣りあげる。ブルーギル一匹、ブラックバス二匹。私はボウズ。太一、一日かけてボウズの時もあるという。なるほど、それは、つまらなさそうだね。
三月二十九日
今日も太一に誘われて釣りに。正直全く期待をしてはいなかったのだけれども、お父さんが今日は一緒するというので、私もついて行く。夏美はお家で読書。ハリー・ポッターの新作、これで三周目。
太一に教わり、お父さん、ルアーフィッシングに初挑戦。はじめのほうは、なるほど、なるほどとお父さんも興味深そうだったんだけれども、誰も釣れないと短気になってルアーを疑い始める。「やっぱこんな玩具じゃあかんちゃ。」と疑うお父さんに、「んなことないちゃ。釣りっちゃこんなもんやちゃ。」と太一は言う。「そうけぇ。」と一度は納得したお父さんだけれども、三十分もしないうちに、「やっぱりあかんちゃ。」と言って、リールを巻き上げる。そうして、近くの岩をひっくり返して、ミミズを捕まえて針にさして釣りを再開する。鳥肌もの。流石にキモかった。
本日の釣果
太一:ボウズ
お父さん:七匹。沢山つれた。
私:お父さんに一匹釣らせてもらった。思ったより引きが強くて面白かった。
太一、まさかのミミズに唖然として一日複雑な表情。単純明快の太一があんなに微妙な表情をするのは初めてかもしれない。ちょっと面白いと思った。お父さんもニヤニヤしていた。お父さんは太一にことになると意地悪だ。
太一は田舎の腕白小僧らしく悪戯もするしきかん坊でもあるけれど、その分真っ直ぐで元気だからかわいい。多少単純なところがあるほうが、一緒にいて心安い。大人から好かれる得な性格。この調子で素直に育って欲しい。
昔、母が父をかわいいところがあると評していたことを思い出す。今はその考えが少しわかる気がする。案外、亭主関白も妻次第で、実はお母さんがお父さんの顔を立ててあげていたのかも知れない。
五
春風が吹いて桜がざわめくと、まだ六分ほどに咲いたばかりの花びらが一輪気ままにたゆたふ。中空で二度三度つむじをまいて流れ着くのは涼子の教室、ある男子の机の上。春の一陣を目で追い愛でていた涼子は、その行く末の君を想った。
初恋の話は桜が導く。
恋の若草は春の光を浴びて美しく芽ぐみ、今にも葉をさすばかりである。ほんの僅かな羽風にでさえほころびるほどの蕾があっても、その羽風を起こすことが、か弱い蝶々にはなかなか出来ぬ。このじれったさが初心な恋慕のあだでもあるが甘露でもある。初心な恋花が開いたとき、その薫の甘美な芳しさは例えようがない。こればかしは、稚い恋の蜜を吸ったことのある蝶にしか解せない。
小泉恭子は鈍い女子ではない。が、遥かに優しい性根を持っているものだから、彼女は淡い気持ちが懐かしい気持ちとどう異なるのかわからない。また、初心な少女であるから、どうしても恋心を尊敬している。ただ人懐かしく、一緒にいると嬉しい気持ちも、また恋愛の一つに違いないのだが、もっと劇的な胸の高鳴りや切なさを期待してしまうのである。
その日、何時もより十分早い、八時五分のバスを降りて、城野雄樹は学校へ行く。同じバスに乗車して、学校へ行く生徒は七人。同級生は僅かに二人で、それぞれが別のクラスであるから、決して彼の邪魔にはならない。
彼には密かに思う人がいる。小泉涼子、クラスの女子だ。彼女のことは、二学年になり、同じクラスになるまでは名前も知らなかった。
でも一目見るなり、彼は彼女のとりこになった。一目惚れだった。
始業式の日。城野雄樹は八時五分のバスを降りた。何時もはもう十分遅いバスに乗るのだが、ついつい遅刻が無いようにと早くに起きてしまって、無沙汰のあまりに出かけたのだ。
そうして伽藍の学校に着き、無人の廊下を渡って、ぼうっと片付いた顔をして、新しい教室へ入ってみると、彼はそこで春告精のささやきを聞いた。
窓辺の桜は陽光を浴びて影綾を成し、斜に木漏れ日を投げ掛けている。小泉涼子は閑静に佇んで本を読んでいた。春の日差しは硝子戸を透かして彼女にうっすら化粧を施す。その姿は、城野雄樹には天使に見えた。そうでなければ、春の精だ。あるいは春の鳥だ。春の鳥がさえずったのだと、城野雄樹には思えたのである。
それからはもう一途である。
授業中であろうと休み時間であろうと、とにかく彼女が気になって仕方が無い。友人との他愛のない談話から、彼女の断片を掴み取ろうと必死である。あるときなど、彼の横を涼子が通り過ぎたとき、悪戯な息吹がおこって、愛しい人の甘い香りに胸は高鳴り身震いはして、ドギマギのあまり思わず卒倒しそうになった。
家に帰っても宿題などはしておられない。今日一日の彼女の顔が、走馬灯になって瞼の裏で次々に映り出される。国語の時間、玲瓏として響き渡る彼女のソプラノが何時までも耳から離れない。録音機などは野暮ったい。本当に好きな人の声ならば、一度聞いただけで無限に再生されるものだ。
そんな勉強に集中できない状態であるが、城野雄樹の偉いところはここにあって、何かというと、勉強を怠って成績を落とすようなことがあっては彼女に相応しくないぞ、彼女よりも成績優秀なくらいじゃないと男として恥ずかしいぞと己を奮い立たせて頑張るのである。健気なことはこの上にない。そうして気がつくと一日の全部を机の上で過ごすようになっているのだから、父母の覚えは頗る良いが、内実はなかなかどうして、頗るどころではなく大変面白いことになっているのだった。
城野雄樹の心の内が、どれほど大変なことになっているかはもう充分であろう。恋を知るものならば誰もが経験する、あの首っ丈な状態になっているのだ。
しかし、小泉涼子の心境はどうだろうか。城野雄樹に比べると、随分のんびりなものである。始業式の日、クラスに二番目に来た男の子で、童顔で小柄で可愛い・けれども目は凛として逞しい・体育は得意で足が速い・去年のクラス別対抗のバスケット大会で活躍していた・声は高く澄んでいて気持ちが良い・成績は私と同じくらい・真面目で誠実な男の子・始業式の日以降はもう一つ遅いバスでくるらしいけど、あの日は偶々早く来ただけだったのかなぁ・今度、もし早くに来ることがあったら、声をかけてみようかな……などなど、まぁ、普通の女の子であれば、もしかしたら私は城野君に気があるのかな? くらいに思うものだろうが、本人はクラスのお友達・特に男子のお友達がいたらいいなぁっと思うくらいの気持ちと区別がついていないのである。そもそも、友人を求めるくらいのあどけない気持ちであれば、遠慮などするわけが無い。今でこそ大人びて静かな涼子であるが、中学時代などは明朗快活で鳴らしたものである。きっと、躊躇うことなく話しかけているに違いないのだ。そのあたりの分析が中々出来ないところも、やはり初心な恋心特有のじれったさであると言えよう。
こんな二人に必要なのは、ただ少しばかりの勇気ときっかけである。
純情で奥手な城野雄樹は今日少しばかり早いバスに乗ってくることにした。
純真で優美な小泉涼子は、もし機会があれば城野雄樹に話しかけてみようと思った。
ただそれだけで、恋花は芽を開く。
小泉涼子は、過去の日記に目を通し、あ、いけない。今日の分を書かなくっちゃ。でも、何を書こうか。昨日は取り立てて何も無かったなぁっと上目遣いになって考えている。
城野雄樹は、教室に入って、小泉涼子と二人きりになることを今更に思って、胸がドキドキして仕方が無い。そうして臆病であればあるほど、時間は過ぎて、彼女と一緒の部屋にいる、そんな時間が失われてしまう。しかし身体は思うに動かない。えぇい、頑張れと勇気を出して、クラスの扉をガラガラと開ける。
ひらり、一片の花びらが舞う。
春風は桜を薫りをのせて優しくそよぎ、涼子の頬を撫で、花精妙となって告げる。
春風は 乙女の髪を梳り さくらの薫り 君に届けむ
穏やかに微笑を浮かべ、「おはよう、城野君。」と優しく挨拶をしてくれる人は、愛しい想い人、小泉涼子である。大人にはもう思い返すしかない、高く清らかな恋の気持ちは、胸の鼓動の高まりとなって、もう何も考えられないくらいにドギマギさせるのだ。
「お、おはよう……」
そう情け無く返事をした男の子は、耳に先まで真っ赤にして、可愛くて可愛くて仕方が無かった。
「今日は何時もより、早いんだね」
しどろもどろになりながら、何を返事したら良いのかさっぱりわからなかったが、ふと、どうして何時もより早くに来たことを知っているのかと思い至った。僅かそれだけを頼りに、勇気を出して、「うん。実は、ちょっと小泉さんと、お話がしたかったから。」と素直に言った。途端、もはや告白と変わりないことに気がついて、城野雄樹は無茶苦茶になる。
こうまでなってしまうと、逆に女の子は度胸がある。そうして優しい気持ちにもなる。
「私も、城野君とお話してみたかったんだ」
その一言で、もうすっかりと救われて、「それ、何かな?」と日記を指差す。「これ、日記。」と静かに答えて、「良かった。今日、何を書こうか悩んでたんだ。」と微笑み返す。
春告精は、まさに微笑んだ。
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