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9/12

外から来た返事


登録した夜のあと、村の灯りは妙に静かだった。


消えない。

揺れない。

北も東も、昨夜までの不安定さが嘘みたいに整っている。


整いすぎている、とリリエルは思った。


ふだんの村の灯りには、もっと小さな癖があった。風でわずかに痩せるとか、魔石の気分みたいに一拍遅れるとか、そういう揺らぎがある。けれど今朝の灯りは違う。白く、均一で、きれいすぎる。誰かに背筋を伸ばさせられているみたいだった。


そのことを、村人たちも感じているらしかった。


朝、広場を横切ると、人の目が先に来た。


昨日までのような、ただ怯えている目ではない。

見て、測って、距離を決めようとしている目だ。


共同倉の前を通れば、保存箱を確かめていた女たちの声が一瞬だけ止まる。井戸のそばでは、水桶を持った男たちが、リリエルを見てから井戸を見る。昨日まで壊れていたものが戻ったからこそ、戻した人間の方が気になるのだ。


ミナだけが、いつも通りに近い顔で立っていた。


領民の娘らしく日に焼けた頬に、今朝は麦粉がついている。たぶん朝の手伝いの途中で抜けてきたのだろう。三つ編みの先が少しほつれていた。


「リリ」


小さく呼んで、すぐ近くまで来る。

でも、前みたいに腕を引っ張ったりはしない。周りの目を知ってしまった近づき方だった。


「保存箱、ちゃんと冷えてた」


「うん」


「お母さんがね、今朝の乳は捨てなくてよさそうだって」


少しだけ笑う。

嬉しいのに、昨日までの笑い方ではない。


リリエルも笑い返そうとしたが、うまくいかなかった。代わりに頷く。


ミナはそれを見て、急に真面目な顔になった。


「昨日の夜、みんな見てた」


「何を」


「リリのこと」


分かっていることを言われると、かえって胸の奥が冷える。


ミナは少しだけ黙ってから、続けた。


「でも、助かったのもほんとだから。だから……変なこと言う人がいても、全部そのまま信じないで」


それは八歳の子どもの言い方じゃない気がした。

けれど、置いていかれる側はそうやって早く大人になるのかもしれなかった。


リリエルが何か返す前に、広場の向こうで馬の音がした。


乾いた、よそから来た音だった。


村の馬ではない。歩き方が違う。荷を曳く馬ではなく、人を運ぶために手入れされた馬の音だ。


広場の空気が一瞬で変わる。


父が屋敷の前へ出る。

母も出る。

ギデオンはすでに門へ向かっていた。


馬は二頭。

先導の騎手が一人、その後ろに荷を最小限しか積んでいない栗毛。どちらも泥はついているのに、雑には見えなかった。街道を急いできたが、崩れないように急いできた馬だ。


先頭の騎手が下りる。


三十代の終わりか四十代のはじめくらいに見えた。痩せた男だった。背は高いのに、肉が薄い。黒に近い灰髪をきっちり後ろへ撫でつけ、旅装の外套の下に、装飾の少ない濃紺の上着を着ている。顔色は白く、鼻筋が細い。目の色は薄く、相手を見ているようで、先に何かを数えている目だった。手には余計な武器を持たず、代わりに革の細長い書類鞄を提げている。


村へ入る前から、ここで誰がどこに立つかを決めているような男だった。


父が言う。


「どちら様だ」


男は泥ひとつ払わず、短く礼をした。


「ギルド設備監査局、臨時検査役。ベルトラム・ゾーン」


名乗りは静かだった。

だが、その静かさのせいで、広場の人間が誰も喋れなくなる。


ベルトラムは続けた。


「管轄拠点レビュー照会に基づき、フォローアップ確認に参りました」


言葉の半分は、村人には意味が分からないだろう。

意味が分からないのに、よくないことだけは伝わる種類の声だった。


父が一歩前へ出る。


「何のことだ」


ベルトラムは父を見る。次に母を見る。最後に、ほんの一拍だけリリエルを見る。


その視線で、胸がひやりとした。


もう知っている。

少なくとも、誰を見に来たのかは知っている。


ベルトラムは鞄から細長い封板を出した。蝋封ではなく、薄い金属片に印章が打ってある。旅の途中で濡れても消えない種類の命令書だと、ギデオンの顔を見てリリエルにも分かった。


彼は封板を胸の高さに掲げる。


「遠き記録よ、遅れず届いたものだけをここに残せ。

地方維持系の乱れ、照会済みの痕跡、暫定登録に至る前段を偽るな。

ギルド設備監査局、臨時検査役ベルトラム・ゾーン。

本件の受理済み記録に基づき、現地照合の口上を開く。

伏せられた名は伏せられたまま、確定した地のみをここに示せ――照合」


封板の表面に、細い白い線が走った。


ベルトラムは読み上げる。


「三日前付で、地方維持系ノードより段階的な異常応答が上がっています」


その言葉で、母の目が細くなる。


「昨夜の暫定登録をもって、対象地がアストラ領であることが確定しました。識別名、アストラ領。暫定利用者タグ、リリエル。状態、仮登録。権限、限定保守」


広場の空気が、そこで止まった。


村人たちがざわめく。今の名が誰のものか、分からない者はいない。


父の顔が硬くなる。

母は表情を変えない。

ギデオンだけが、わずかに目を閉じた。最悪の形ではないが、秘匿の余地は消えた、という顔だった。


リリエルは、自分の名前が自分の口からではなく、外から読まれるのを初めて聞いた。


嫌だった。


昨日、板の前で通したときには、まだ村の内側の音だった。けれど今は違う。他人の声で読まれた瞬間、自分の名前が帳面に載ったものへ変わった感じがした。


ミナが息を呑む音が、近くで小さく聞こえた。


ベルトラムは、ざわめきが落ちるのを待たなかった。


「私は奇跡の確認に来たのではありません。保守系統への無届接触と、暫定利用者の適格性を確認しに来ました」


その言い方は冷たかった。

でも、嘘はついていない冷たさだった。


ドルフが不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「村が死にかけてるときに、届出だ適格性だ、よく言うぜ」


ベルトラムはドルフを見る。見下しも怒りもない。ただ、そこに道具があるかどうかを確かめるような目だった。


「それでも順番は要ります。順番を失った系統は、最終的に人を殺します」


その返しに、ドルフはすぐには言い返せなかった。地下室の赤い目を見てしまった人間には、完全に間違いだと言えない言葉だった。


父が問う。


「何を確認する」


「三つです」


ベルトラムは指を折らない。言葉だけを机の上へ置くみたいに並べる。


「第一に、暫定利用者が実際に応答者であるか。第二に、保守が局所的な偶然ではなく、再現性を持つか。第三に、領地側がこれを秘匿ではなく管理対象として扱えるか」


母がそこで初めて口を開いた。


「記録があります」


ベルトラムの目が母へ向く。


「結界灯、屋敷灯、北の補助灯、東の風見灯、共同倉の保存箱。昨夜までの順番と時刻を全部残しています」


「見せていただけますか」


「ええ」


母は即答した。

その声音に迷いがないのを聞いて、リリエルは少しだけ息をした。怯えているのは自分だけではない。でも母は、怯えたままでも順番を崩さない。


ベルトラムはさらに言った。


「それと、丘の節点も見ます」


節点。


村人には意味が分からないその言葉を、ベルトラムはあっさり使った。祠ではないのだと、この男は最初から知っている。


父がわずかに眉を寄せる。


「祠を知っているのか」


「報告に出ています」


短い返事だった。


嘘ではないのだろう。

だが、その報告がどこまでを含んでいるのかは分からない。


広場の向こうで、誰かが小さく「祠」と繰り返した。その単語が人から人へ渡っていく気配がある。母もそれに気づいたらしい。帳面を抱く手がほんの少しだけ強くなる。


「ここで立ち話をする内容ではありません」


母が言った。


「書斎へどうぞ」


ベルトラムは一度だけ広場を見た。村人たちの顔、北の灯り、共同倉の方角、そしてリリエルの立ち位置。何を見ているのか分からない。だが、全部を一度で測っている目だった。


「そうしましょう」


---


書斎へ向かうあいだ、リリエルは父と母のあいだを歩いた。


守られている位置だった。

でも守られているだけではなく、連れて行かれている位置でもあった。


父は一度もこちらを見ない。

母も見ない。

二人とも、見たら別の感情が混じるのを分かっているみたいだった。


書斎に入ると、ベルトラムは案内される前に席を選ばなかった。立ったまま、母が帳面を開くのを待つ。


その待ち方が嫌だった。

急がせはしない。

でも、こちらが整えるまで見ている。

そういう種類の人だ。


母が一冊目を開く。

黒い表紙の帳面に、整った字が並ぶ。


「第一夜、外縁結界灯停止。応答回復」


ベルトラムの目が字を追う。

次の頁。

次の頁。


「屋敷灯の連動点灯、丘節点指示確認、北補助灯の段階的回復、東風見灯での問い合わせ経路閉鎖、共同倉の保存箱優先度低下、暫定登録後の回復――」


ベルトラムの手が、そこで初めて止まった。


「待ってください」


母が止める。


ベルトラムは頁の一行を指す。


「問い合わせ経路閉鎖。これは誰の表現ですか」


風見灯のことだ。

東の灯りから空へ向かって何かが開きかけたのを見て、母に話した。母はそれを「問い合わせ経路閉鎖」と書いた。


リリエルは喉の乾きを感じながら答えた。


「……見たのは、こっち」


男の薄い色の目が、まっすぐこちらへ向く。


「あなたが、そう見た」


「……うん」


「風見灯を通じて、空側へ反応が開いたように」


リリエルは頷く。

喉が乾いていた。


ベルトラムはそこで初めて、ほんの少しだけ表情を変えた。驚きではない。一致した、という顔だった。


「報告と合っています」


父の顔がさらに硬くなる。


「外側は空の反応まで把握しているのか」


「反応痕跡だけです。中身までは」


ベルトラムはそう答えてから、もう一度リリエルを見る。


「丘へ案内をお願いします」


それは依頼の形をしていたが、断られると思っていない声だった。


父が言う。


「休ませる必要がある」


「承知しています」


ベルトラムはすぐに返す。


「ですから今すぐとは言いません。ただし今日中に見ます。暫定利用者の本人確認も必要です」


本人確認。


また、帳面の言葉だ。


父は黙る。

母も黙る。


その沈黙の中で、ベルトラムは最後の一枚を鞄から出した。今度は命令書ではなく、薄い罫紙だった。


「確認後、こちらで仮登録報告を上げます」


机の上に置く。


そこにはもう、記入欄ができていた。


領地名。

利用者タグ。

保護者承認。

限定保守の範囲。


最初から、ここまで来るつもりで作られた紙だった。


リリエルはそれを見て、胸の底がゆっくり冷えていくのを感じた。


昨日、地下の板で通した名は、たしかに村を守った。

けれどその瞬間、もう外へ届いていたのだ。


逃げ場はない。


ベルトラム・ゾーンは椅子に座らないまま、静かに言った。


「リリエル・アストラ嬢」


自分の名に、肩がこわばる。


「昨夜の続きから始めましょう」


その一言で、村の不具合だったものが、完全に別のものへ変わった気がした。


灯りを直す話では、もう終わらない。


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