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名を納める


保存箱の表面を伝う水は、触らなくても冷えていなかった。


父が「戻る」と言ったあと、村人たちは道を空けたが、誰も完全には散らなかった。

北の共同倉の前に、まだ人の輪が残っている。女たちは傷みかけた肉や乳のことを考え、男たちは夜までにどこまで持つかを計っている顔だった。


灯りが落ちるのとは別の形で、生活が削れ始めていた。


リリエルはその輪の端で、ミナと目が合った。


ミナは何も聞かなかった。

聞かないかわりに、強く言った。


「行って」


短いのに、押す声だった。


置いていかれる側の声だ、とリリエルは思った。

それでも、止める声ではなかった。


---


丘へ向かう道は、昨日までとは違って見えた。


祠へ続く坂道はただの土の道だ。

草が生え、石が出て、子どもが駆け上がればすぐ転ぶくらいの、どこにでもある坂だ。


でも今は、その下に線が通っていることを知っている。


灯り。

井戸。

保存箱。

東の風見灯。


村の下に、見えない順番がある。

その順番のどこかで、アストラ領は後ろへ押しやられ始めていた。


先頭はガレスだった。

雨色の外套の下に革の胸当てを着け、短槍の穂先を少し下げて歩く。短く刈った栗色の髪は昼の光の下だと年相応に若く見えるのに、左眉の傷だけは変わらず古かった。黙って歩くときの方が、この人は大きく見える。


その後ろを父、エドガル・アストラが歩く。

今日は領主の外套をきちんと着ていた。日に焼けた顔にも寝不足が残っているのに、背筋だけは伸びている。優しい声のときほど逆らいにくい人だと、リリエルは昔から知っていた。今は、その優しさの上に決めた人の固さが乗っている。


母は黒いノートを胸に抱えたまま、足元を一度も乱さない。

セレナ・アストラという名前で人前に立つときの母は、家の中の母より少し薄く冷える。感情をなくすのではなく、手順の後ろへ置く人の顔だ。


ドルフは工具箱を持っている。

白髭まじりの大きな男が黙って歩くと、道具箱まで黙っているみたいだった。口が悪い代わりに、今必要なものをすぐ持つ。そういう人だ。


ユノは古い綴じ冊子と札束を両方抱えて、少しだけ遅れてついてくる。

見習い神官の白い衣は、もう何度も土に汚れていた。細い喉と若い顔立ちにまだ少年の線が残っているのに、昨日までより目だけが少し大人びて見えた。


ギデオンだけは途中で一度、村を振り返った。

堅物の家令は、帳簿より人の方が嫌いそうな顔をしているくせに、結局いちばん人の暮らしの減り方をよく知っている。今日の保存箱の水を見たとき、誰より先に損の形を計算したのはたぶんこの人だ。


「夜までは持たせたいですね」


誰にともなくギデオンが言う。


ドルフが鼻を鳴らす。


「持つ持たねえじゃなく、もう持たせるしかねえだろ」


父は何も言わなかった。


---


祠は、昼の顔をしていた。


編み縄があり、鈴があり、小さな供え皿がある。

昨日までなら、それで全部だった。


リリエルが正面の石板に触れる。

今は、どこを押せばいいか体が先に知っている。


乾いた音がして、祠の正面が左右へずれた。


昨日と同じはずなのに、今日は誰も息を呑まなかった。

もう一度、同じ現実を受け入れるしかない顔だった。


地下へ降りる。

狭い石段。乾いた空気。

最後の段を下りると、あの部屋が待っていた。


中央の板は、昨日より早く起きた。


白い線が走り、表面に文字が浮かぶ。


> `LOCAL MAINTENANCE ROOM ONLINE`

> `PRIORITY REDUCTION IN PROGRESS`

> `ENTER LOCAL IDENTIFIER`


昨日と同じ二行が、今日はいっそうはっきりして見えた。

その下に、新しい線図が出ている。


村の見取り図に似ている。

北と東が黄色く脈を打ち、保存箱の列が薄い赤に沈んでいた。井戸の印も、昨日より色が鈍い。


もう待ってくれない。


「……やっぱりこれですか」


ギデオンの声が乾く。


父が板を見たまま聞く。


「“識別名”とは何のことだ」


ユノが冊子をめくった。

何頁も探して、ようやく一か所を指で押さえる。


「ここです。昨夜お話しした文の続きがあります」


読み上げる声はまだ少し緊張していたが、昨日みたいな揺れ方ではなかった。


「“守灯の任、絶えしときは、土地の名を納め、これを継ぐ者を立てよ。人の名は後に添えてよい”」


部屋が静まる。


土地の名。


リリエルが板を見る。

個人名を求めているわけではないのかもしれない。


母がすぐに拾う。


「なら、先に必要なのは個人ではなく“どこの管理か”ね」


「アストラ家、でいいのか」


父が言う。


ギデオンがすぐ首を振った。


「家名では狭すぎます。灯りは村全体へ走っている」


ドルフが壁の棚を顎でしゃくった。


「しかも井戸も保存箱も一緒だ。屋敷だけの名じゃ噛み合わねえだろうな」


父は黙る。


母がノートへ何かを書きつけてから言った。


「家ではなく領地。最低でも村のまとまりを指す名が要る」


「アストラ領」


ユノが小さく復唱した。


板の上の文字は変わらない。

待っている。


リリエルは喉が渇くのを感じた。

土地の名なら、重さが少し違う。


自分の名前を入れるのではない。

村を載せる。


でも、その入口として通るのは、たぶん自分だ。


「次がある」


リリエルは板の下の細い文字を見て言った。


> `OPTIONAL: USER TAG`


人の名は後に添えてよい。

その一文と、ちょうど重なる。


父も見たのだろう。

顔がさらに硬くなる。


「土地の名だけでは駄目か」


リリエルは首を振りきれなかった。


「分からない。でも……通す人の印も、たぶん要る」


母が父を見る。

父はリリエルを見る。

その視線の重さだけで、何を言いたいのか分かった。


父の名を使いたいのだ。

領主として。父として。


でも、板に触れているのは自分しかいない。


その沈黙を破ったのは、ドルフだった。


「旦那様の名を入れて、お嬢ちゃんが通すか」


乱暴だが、まっすぐな言い方だった。


ギデオンが顔をしかめる。


「その形で“通る”保証がありません」


「保証があるもんなんざ、ここには最初からねえだろ」


「だからこそ慎重に——」


板の上の赤が一段深くなった。


> `COLD-STORAGE PRIORITY FALLING`


リリエルの背中が冷える。


「時間ない」


それだけ言うと、全員が黙った。


保存箱の肉が傷む。

乳が駄目になる。

村の夕食が減る。


その速さで、決めなければならない。


父がゆっくり息を吸った。


「土地の名は、アストラ領でいく」


母は反対しなかった。

ギデオンも、今回は口を挟まない。


父は続けた。


「人の名は——」


そこで止まる。


リリエルは自分の手を見た。

小さい。八歳の手だ。

でも、昨日からずっとこの手しか通っていない。


怖い。

けれど今いちばん嫌なのは、保存箱のぬるい匂いの方だった。


「わたし」


自分で言ってから、少し遅れて意味が落ちる。


父が顔を上げる。


「リリエル」


「わたしが通す」


喉がひりついた。

でも、そこで止めるとたぶん二度と言えない。


「土地はアストラ領。通すのは、わたし」


父の目が揺れる。

止めたいのだと分かる。

でも保存箱は待ってくれない。


母が先に口を開いた。


「任の形は、仮にしましょう」


全員が母を見る。


「恒久ではなく、限定。これが本登録ではないと分かる言い方にする」


ノートの上へ、母はもう書いていた。


アストラ領。

仮登録。

限定保守。


昨日まで地下の板の向こう側にあった言葉が、母の字でこちら側へ並ぶ。


父は長く黙ってから、ようやく頷いた。


「……それで行く」


その一言で、部屋の空気が決まる。


リリエルの足が勝手に板へ近づいた。


---


板の表面は冷たかった。

昨日よりも、今日はずっと静かに冷たい。


白い文字が待っている。


> `ENTER LOCAL IDENTIFIER`


リリエルは息を吸った。


「アストラ領」


板の上に、細い白線が走る。

何かを書き込むように、見えない場所へ沈んでいく。


次の表示。


> `OPTIONAL: USER TAG`


喉が詰まる。


ここだ。


父が低く言う。


「やめてもいい」


リリエルは振り返らなかった。

振り返ったら、そっちへ行ってしまう気がした。


「やめない」


短く答えて、続ける。


「リリエル。仮登録。限定保守」


言い終わった瞬間、板の光が一段強くなった。


部屋のどこかで、低い音が鳴る。

眠っていたものが目を開ける前の音に似ていた。


白い文字が、今までより長く流れる。


> `LOCAL IDENTIFIER ACCEPTED`

> `USER TAG ACCEPTED`

> `PROVISIONAL MAINTENANCE STATUS GRANTED`

> `REVIEW TRACE SCHEDULED`


最後の一行が目に刺さる。


トレース。

まただ。


でも、その前に変化が来た。


壁の棚の魔石が一斉に淡く光る。

北と東の線図が白へ戻る。

保存箱の赤が黄色へ、黄色が白へ変わる。


そして、板の中央に見たことのない大きな文字が出た。


> `LOCAL CLUSTER STABLE`


リリエルはそこで、ようやく息を吐いた。


保った。


今は。


ドルフがすぐに言う。


「共同倉を見に行くぞ」


ギデオンが続く。


「私も確認します」


父が頷く。

ガレスとギデオンが先に石段へ向かい、ドルフがそのあとを追う。


ユノはまだ板を見ていた。

若い神官の顔に、恐れと、少しだけ安堵と、どう名づけていいか分からないものが混じっている。


「……通ったんですね」


そう言う声は、祝福でも祈りでもなかった。

事実を前にした声だった。


母がノートを閉じる。


「通ったわね」


その言い方は、嬉しいとも怖いとも言わなかった。

どちらでもあるからだ。


父は最後まで動かなかった。


リリエルが振り返ると、父は板ではなく、自分を見ていた。


怒ってはいない。

安心もしていない。


守れなくなったものを見ている目だった。


「お父様」


呼ぶと、父は一度だけ目を閉じた。


「村は保つ」


短く言う。


「だが、今の一行は外へ出たんだな」


リリエルは頷いた。


レビュー。

トレース。

予定された追跡。


意味までは分からなくても、内側だけで終わっていないことは分かる。


母が、その場で言葉にした。


「見つかるわね」


静かな声だった。

でも、その言葉は地下室の冷たさより重かった。


祠の下の板が、もう一度だけ光る。


今度は短い。


> `FOLLOW-UP AUTHORITY PENDING`


権限者。

誰かが来る。


リリエルは板を見たまま、胸の底がゆっくり冷えていくのを感じた。


村を守るために名を入れた。

その結果、村の外へ線が伸びた。


灯りは戻る。

保存箱も持ち直す。

でもその代わり、こちらのことも届く。


もう、ただの村の不具合では済まない。


石段の上から、ドルフの怒鳴るような声が落ちてきた。


「おい! 共同倉、冷えが戻ってる!」


ギデオンの声も重なる。


「北の水桶も霜が戻りました!」


父の肩が、ほんのわずかに下がった。

それは安堵だった。


同時に、母のノートを抱く手は少しだけ強くなる。

それは次の準備の手だった。


リリエルだけが、そのどちらにもなりきれなかった。


地下室の板の上で、最後の白い文字が細く残る。


> `PROVISIONAL USER: ACTIVE`


自分のことだ。


村の灯りを戻したのは、たしかに嬉しい。

でも、それと同じ重さで、別のことも始まっている。


名前を入れる前には戻れない。

そう思っていた。


違った。


戻れなくなったのは、名前が通った今だ。


ここから先は、たぶんもう、村の内側だけでは終わらない。


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