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見つけたのは、こちらだけじゃない


丘を下りるあいだ、リリエルは一度も後ろを振り返らなかった。


振り返れば、あの二行がまだ見える気がした。


> `ENTER LOCAL IDENTIFIER`

> `REGISTER FALLBACK USER`


地下室の板は、村の灯りや井戸や保存箱と同じ並びで、それを出した。

つまり、あれは特別な謎ではない。生活の続きとして出てきたものだ。


だから余計に重かった。


名前を書けば、ただの不具合では済まなくなる。

書かなければ、北も東も、たぶんまた崩れる。


そのどちらも嫌だった。


昼の丘は夜よりましなはずなのに、足取りは昨日より重かった。

先を歩くガレスの槍の石突が、たまに石を打つ。乾いた音だった。

ドルフは工具箱を無駄に鳴らさないように持ち直しながら歩いている。

ユノは紐綴じの古記録を抱えたまま、口を引き結んでいた。

ギデオンは紙束を胸に抱えていて、地下室の中よりむしろ今の方が顔色が悪い。


屋敷が見えたところで、ガレスが足を止めた。


「広場に人がいます」


言われる前から、リリエルにも分かっていた。


村人たちは、昼間なのに広場へ集まっていた。

農具を持ったままの男。洗濯籠を下ろした女。子どもは少ない。母親たちに家へ戻されたのだろう。みんなが丘から下りてくるこちらを見ていた。


昨夜までの目ではない。


怖がっている。

でも、それだけじゃない。


待っている。


何か言ってくれ、何か決めてくれ、という目だった。


父は広場の中央に立っていた。

上着の前を閉める暇もなかったのか、胸元の留め具がひとつずれている。地味な人だとリリエルは昔から思っていた。よく見ないと強く見えないし、よく見ないと怒っていることにも気づきにくい。けれど今日は、そういう父でも分かるくらい顔が硬かった。


「戻ったか」


その一言で、広場の空気がぴんと張る。


母は足を止めずに言った。


「北と東は今のところ保っています」


今のところ。


その言葉が、村人たちの顔をさらにこわばらせた。

大丈夫、ではない。今のところ、だ。


ギデオンが一歩前へ出た。


「皆さん、道を空けてください。詳しいことは男爵家で整理してからお伝えします」


家令の声はよく通る。

きつい言い方ではないのに、従わない余地を残さない声だった。


人垣が少し割れる。


その隙間の向こうに、ミナがいた。


領民の娘らしい日に焼けた頬に、今日は土がついている。髪も片方だけほどけていた。昨夜、ガレスに送られてから、じっとしていられなかったのだろう。知りたいのを隠せない顔で、でも今は大声で呼ばないだけの分別は残して、リリエルだけを見ていた。


リリエルは小さく頷いた。

それだけで、ミナの肩の力が少しだけ落ちる。


父はそのやり取りを見ていたが、何も言わなかった。


「書斎へ」


短く告げて、先に歩く。

広場の視線がその背中にも集まっているのを、リリエルは初めて見た気がした。


---


書斎の扉が閉まると、村のざわめきはようやく遠くなった。


父は椅子に座らない。

机の前に立ったまま、地下室の板で見た二行を母に言わせ、ギデオンに紙へ写させた。


ギデオンは羽根ペンを持つ指先まで無駄がない。

だが書き終えたあと、その紙を机へ置く手だけがわずかに遅れた。


「登録、ですか」


家令の声は、さっき広場で人を下がらせた声より低かった。


「この“識別名”が、村の内側だけのものならまだいい。しかし、外へ通る類の記録なら……」


そこで言葉を切る。


父が引き継いだ。


「一度入れれば、消せる保証がない」


部屋が静かになる。


ドルフが壁に背を預けたまま言う。


「だが入れねえなら、また落ちるんだろ」


「その可能性が高いわね」


母はもうノートを開いていた。

昨日と今日の記録が、きれいな字で時刻ごとに整理されている。北の補助灯、東の風見灯、地下室の防衛機構、そしてさっき見た遅延項目の要約。


「北と東だけなら、まだ“灯りの不調”で済ませられる。でも井戸と保存箱が同列に出た以上、放置はできないわ」


ユノが低い声で言った。


「古記録にも、“守灯役の名を納める”という一文がありました」


全員がそちらを見る。


ユノは膝の上の古い綴じ冊子を開いた。

薄い紙の一頁を示す。


「祈りの文の中に、ここだけ乾いた言い方で入っています。夜守りの任を継ぐとき、名を納める、と」


「誰が納める」


父が問う。


ユノは少しだけためらった。


「……灯りを扱う者、です」


その瞬間、父の顔がはっきり変わった。


娘の方を見ないまま、机の端へ手をつく。


「なら私の名を入れる」


リリエルは反射で顔を上げた。

母もペンを止める。

ギデオンが息を呑む。

ドルフだけが、すぐに首を振った。


「無理だな」


父がドルフを見る。


「なぜ言い切れる」


「昨日も今日も、板に触って反応したのはお嬢ちゃんだけだ。旦那様が手ぇ入れて動くなら、とっくにそうしてる」


言い方は乱暴だったが、そこに遠慮はなかった。


父は机の上の紙ではなく、ようやくリリエルを見る。


その視線がつらい。

守りたいのに守れない人の目だった。


「……お前しか通らないのか」


聞かれたくない問いだった。

でも答えないわけにいかない。


「たぶん」


リリエルは言った。


「昨日も、今日も、そうだった」


「たぶん、じゃ困る」


強い声ではなかった。

強くなくて、疲れていた。


その言い方に、少しだけ腹が立つ。

困るのは自分だって同じだ。


「わたしだって困ってる」


言ってしまってから、部屋が静かになった。


父を睨むつもりはなかった。

でも喉が熱くて、止まらなかった。


「勝手に通るのも、勝手に読めるのも、困ってる。でも、出るの。灯りが落ちる前に。北も東も、放っておいたらもっと酷くなった」


父は何も言わない。


母が静かに線を引く声で言った。


「今は責め合うところじゃないでしょう」


それで空気が少しだけ戻る。


ギデオンが咳払いをした。


「確認したいことがあります」


家令らしい立て直し方だった。


「もし名を入れるとして、その名は何の名になるのか。個人名なのか、家名なのか、それとも役目の名なのか。そこが決まらなければ、登録の重さも測れません」


それは確かにそうだった。


リリエルは板に出た文を思い出す。


`ENTER LOCAL IDENTIFIER`


個人名とは書いていない。

識別名。

土地か、家か、役目か。


母がすぐに拾う。


「なら、次に確かめるべきはそこね」


父が眉を寄せる。


「次、か」


その言葉には、もう一度潜らせる苦さがそのまま入っていた。


だが、そのときだった。


書斎の扉が強く叩かれる。


「旦那様!」


マルタの声だった。

返事を待たずに開き、丸顔を真っ青にして飛び込んでくる。


「保存箱が、あったかいんです!」


部屋の空気が変わる。


リリエルの視界の奥に、昨日見た要約がそのまま浮かんだ。


> `Cold-storage cycle delayed`


遅延。

来た。


父が短く言う。


「どこのだ」


「北の共同倉です! さっきまで冷えてたのに、急に霜が溶けて……!」


ドルフがもう工具箱を掴んでいた。


「行くぞ」


父が続ける。


「リリエルも来い。だが触る前に言葉にしろ。勝手に板へ走るな」


今度は頷いた。


腹は立つ。

でも、手順が増えたのだと母は言った。そう思う方がましだった。


---


北の共同倉は、開けた瞬間に匂いで分かった。


冷えている箱の匂いじゃない。

解け始めた冷気と、湿った木箱と、肉の脂の匂いが混ざっている。


村人が何人も集まっていた。

その中にミナもいる。桶を抱えたまま、誰より前へ出かけて、母親に襟首を掴まれていた。


保存箱は、村でいちばん大きいものだった。

厚い木の外装に、内側へ魔石冷却を回す古い型。普段は表面に白く霜がつくのに、今日は水が伝っている。


ドルフが側板を外す。

中の魔石は死んでいない。

なのに冷えが回っていない。


「ほらな」


ドルフが吐き捨てる。


「物はまだ生きてる」


リリエルの視界に文字が出る。


> `COLD-STORAGE ROUTE DELAY`

> `PRIORITY LOWERED`

> `FALLBACK USER NOT REGISTERED`


最後の一行を見た瞬間、胸が冷えた。


優先度が落ちた。

登録がないから。


つまり、あの二行を先延ばしにしているあいだ、村の方が順番に後ろへ回される。


「……だめ」


リリエルは呟いた。


「何がだ」


父が聞く。


リリエルは保存箱ではなく、その向こうの村を見る。

北の灯り。井戸。家畜小屋。共同倉。

全部がつながっていて、全部が待っている。


「後回しにされてる」


「何に」


「わたしたちの村が」


そう言った瞬間、自分で意味を理解した。


北も東も守れた。

でも登録しないままだと、今度は別の線が遅れる。

壊れるのではなく、順番を下げられる。


それは修理の話じゃない。

扱いの話だ。


父の顔から迷いが消える。

代わりに、別の硬さが入った。


決めた人の顔だった。


「戻る」


保存箱の前でそう言う。


「丘へ戻る。今日のうちに、識別名の意味を確かめる」


ミナがその言葉に息を呑んだ。

村人たちのざわめきが広がる。


父は振り返らない。


「まだ名は入れん。だが、入れる前提で進める」


その一言で、もう引き返せないところまで来たのだと、リリエルにも分かった。


灯りを直しただけでは終わらない。

次は、誰が載るかを決める。


それは不具合の修理じゃない。

村の外へつながる帳簿に、自分たちの場所を作ることだ。


保存箱の表面を伝う水が、ぽたりと地面へ落ちる。

その小さな音が、ひどく大きく聞こえた。


戻れないのは、たぶん、丘へ二度潜ったときじゃない。

今だ。


父が「入れる前提で進める」と言った、この瞬間だ。


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