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揺れの後の朝


帰るまでにも、時間はかかった。


中央判断を置いたあと、すぐに空が変わるわけではなかった。

枝線の再同期。

地上側の確認。

世界樹内部の経路安定化。

王都神殿への一次報告。

王都技術部への条件更新写しの送付。

根元口の記録書き換え確認。


ひとつ通れば、次が来る。

終わったはずなのに、終わったあとの手順が山ほどあった。


それでも、今度の忙しさは前と違った。

壊れかけたものを追いかける忙しさではない。

残ったものが本当に残っているかを確かめる忙しさだった。


だから、誰も文句は言わなかった。


「帰還順、再確認」


とシオンが言う。


世界樹基部の帰還場は、出発の時より静かだった。

張り詰めた静けさではない。

大声を出す必要がなくなった静けさだ。


「先に記録箱」


とイリス。


「次に人」


「箱より人では」


とカイルが言う。


「箱の方が落とした時に面倒」


とイリス。


「人の方が面倒だと思います」


「両方落とさないで」


とリリエルが言った。


そのやり取りだけで、身体の力がひとつ抜けた。


根元口の外へ出ると、地上の風は世界樹の内側よりずっと粗かった。

乾いている。

土の匂いがある。

人の火の匂いがある。

どこかで煮ている湯の匂いまで混じっている。


戻ってきたのだと、そこでようやく身体が知る。


基部都市では、もう更新後の確認が始まっていた。

神殿側の記録官。

国家側の運用係。

技術部の測定担当。

みんな手を動かしている。

その中を、ラウレンティスがゆっくり歩いてきた。


大司教は前より少し痩せて見えた。

けれど、目ははっきりしている。


「地上側、第一次安定を確認した」


それだけ言う。


「ご苦労」


それだけで終わる。

祝福ではない。

ただ、認める言い方だった。


ユノは、その少し後ろにいた。

見習いの頃より背が伸びた。

声の出し方も落ち着いた。

けれど、目だけは昔のままだ。


「……帰ってきた」


とユノが言う。


「帰ってきたね」


とリリエル。


それだけで、ユノの顔が崩れた。

泣くわけではない。

ずっと張っていたものが、一段ゆるむ顔だった。


イリスは荷から古文書箱を下ろしながら言う。


「泣くなら手を止めないで」


「泣いてません」


「じゃあ運んで」


「はい」


その短いやり取りが、逆にありがたかった。


基部都市の外縁で、フェリクスが最後に来た。

いつものように紙を持っている。

終わったばかりの顔ではない。

終わった直後から、次に必要なものを数えている顔だ。


「王都へ戻る前に、一度領地へ寄るべきだ」


とフェリクス。


「分かってる」


とリリエル。


「報告もあるし」


「それもある」


フェリクスは薄板を一枚差し出した。


領地帰還許可。

護送枠。

更新後の現地確認権限。


「準備がいいね」


とリリエル。


「遅いと怒るだろう」


「怒る」


「だから先に用意した」


その返しが妙に自然で、笑いそうになる。


カイルが横で言う。


「王都へは?」


「三日後だ。俺は先に王都へ入る」


とフェリクス。


「その前に、領地の現地安定を見ろ。

お前が見るべき最初の場所は、王都ではなくあそこだ」


その言い方は、珍しくかなりまっすぐだった。


リリエルは頷いた。


「うん」


それで十分だった。


---


領地へ戻る道は、前より短く感じた。


本当に短くなった道もある。

中継灯が増えた。

補助札が増えた。

夜越えの保存箱や念話石の中継点も、前にはなかった数だけ並んでいる。


でも、それだけじゃない。


帰る先が、もう出発前の村ではないと分かっているからだ。


馬車の窓から見える夜道は、昔ほど暗くない。

道の節目に小さな補助灯が立っている。

以前なら、ただの石積みだった場所に、今は交換札のついた中継柱がある。


カイルが外を見ながら言った。


「ちゃんと残ってますね」


「うん」


「数値だけじゃなくて、見た方が早い」


「そういう日だから」


馬車の向かいでは、ノヴァ=12の記録板が布に包まれていた。

完全停止ではない。

地上では枝線が届かず、記録の保持だけが続いている。

いまは眠っているだけの箱みたいに静かだ。


シオンは外側の護衛馬に乗っていた。

痕の残る腕で手綱を取っている。

戻る路を見る人は、最後まで戻る路を見る。


夜半、短語が一件だけ入った。


《領内灯列、異常なし。帰還路安定》


ミナだった。


リリエルは思わず石を見直す。


「ミナ?」


とカイル。


「うん。字、前よりうまくなってる」


「そこですか」


「そこも大事」


返信を返す。


《明日着く》


少し間があいて、返る。


《なら朝、門で待つ》


その短い返事で、ようやく帰るが現実になった。


---


朝、領地の外門が見えた。


大きな城門ではない。

もともとそういう場所ではない。

低い石壁。

古い門。

朝露をかぶった道。

それでも、見た瞬間に分かる。


帰る場所だ。


門のところには、何人かもう出ていた。


最初に見えたのはミナだった。

昔の幼なじみの顔のまま、年だけがちゃんと積み重なっている。

明るい。

ただ明るいだけではない。

今は工房の外と内をつなぐ人の立ち方をしている。


「遅い!」


とミナが言った。


「世界を直してきた帰りに最初の言葉がそれ?」


とリリエル。


「帰ってくる日を三回聞き直したこっちの身にもなって」


その一言で、帰ってきたのだと本当に分かった。


ミナはそこまで言ってから、ようやく一歩止まり、泣きそうな顔になった。


「……おかえり」


「うん」


リリエルは馬車を降りた。


「ただいま」


ミナはそれ以上言わなかった。

代わりに、勢いよく抱きつこうとして、途中で止まった。


「いいの?」


とミナ。


「何が」


「いま、すごい人になってる感じするから」


「何それ」


「ちょっと神話の方に行ったでしょ」


「行ったけど戻ったよ」


それで、ようやくミナが笑って抱きつく。

ちゃんと戻ってきた人に触る抱きしめ方だった。


門の脇では、ドルフが腕を組んでいた。


昔より背中は丸い。

けれど、目つきはあまり変わらない。


「帰ってきやがったか」


が第一声だった。


「戻ったよ」


とリリエル。


「戻らんと困る」


「心配してた?」


「してねえ」


間が空く。


「……工房の棚の位置を勝手に変えたら殺すと思ってただけだ」


それは心配の言い換えだと、もう分かる。


ドルフはカイルを見た。


「お前も生きてるな」


「生きてます」


「ならいい」


そして、そこから先は何も言わない。

目だけはちゃんと見ていた。

この人なりの迎え方だった。


門の内側にはノアもいた。


無口な少年だった工房見習いは、もう少年ではなくなっていた。

背が伸びた。

手に無駄がない。

工具箱を持つ姿が、ちゃんと現場の人間になっている。


「おかえりなさい」


とノア。


「うん。ただいま」


「北棚道、今朝の時点で異常なしです」


最初の言葉がそれなのが、ノアらしい。


「先に言うんだ」


とリリエル。


「待ってる間に、何を最初に言うか考えたので」


「結果がそれ?」


「必要だと思ったので」


必要だった。

そして、かなり嬉しかった。


ノアはカイルにも一度頭を下げた。


「測定板、お預かりしていました」


「ありがとうございます」


その短い受け渡しが、工房の日常に戻る合図みたいだった。


工房が、自分がいなくても回る。

でも、自分が帰る場所としても残っている。


それは、ずっと欲しかった形だった。


門の少し奥にはギデオンもいた。

相変わらず堅い顔だ。

相変わらず紙を持っている。


「報告は三種に分けてください」


が第一声だった。


リリエルは思わず笑う。


「ただいまもないんだ」


「あります」


とギデオン。


それから、一拍置いて言った。


「……お帰りなさいませ、お嬢様」


やや遅い。

けれど、この人がそう言うなら、それで十分だった。


---


家へ戻るまでの道でも、人が何人も立ち止まった。


露店の女主人。

井戸端の老人。

パン屋。

荷運びの若い衆。


皆、一度こちらを見て、それから口々に言う。


「戻ったのか」

「本当に行ってたのね」

「灯り、昨日から揺れてないよ」

「保存箱、夜通し保った」

「うちの棚道も落ちなかった」


祝福だけではない。

報告が混じる。


この村らしかった。


リリエルは、その全部に頷いた。


「うん。見ていく」

「あとで工房寄って」

「札そのままにしないで」

「交換したやつ、後で確認する」


帰ってきたばかりなのに、もう仕事が始まっている。

でも、それがよかった。


家の前に着くと、母が戸口にいた。


セレナ・アストラは、泣いていない。

泣いていないが、目だけ少し赤い。


「遅いわ」


が第一声だった。


「みんなそれ言うね」


とリリエル。


「当たり前でしょ」


母はそこまで言ってから、ようやく近づき、顔をひとつ見る。

怪我。

疲れ。

立ち方。

全部を一瞬で見ている顔だった。


「……よく戻ったわ」


「うん」


それ以上は言わない。

それでも、十分だった。


父は後ろから荷台を押してくる。


「立ち話は中でしろ。荷がある」


「はいはい」


と母。


ミナが笑う。

ドルフは鼻を鳴らす。

ノアはもう工房の鍵を取りに走っていた。


その全部が、ちゃんと村だった。


---


それから三年は、飛ぶようでいて、飛ばなかった。


帰還直後は、むしろ前より忙しかった。

更新後の確認。

再同期。

保存箱の再配置。

補助灯の新設。

王都との往復。

学院とのやり取り。

手順書の初版。

改訂。

現場指導。

村外搬出。


そういう日を積み重ねて、リリエルは二十五歳になった。


朝の結界灯は、もう揺れなかった。


工房の戸を開けて最初に、それを見た。


白い灯りだった。

細くもならない。

明滅もしない。

朝の薄い青の中で、もう役目を終えかけた灯りが、きちんと最後まで立っている。


十七年前に見たあの灯りとは、まるで違う。


村の真ん中に立つ結界灯は、いまでは壊れかけた古い設備ではなく、朝になると静かに消えていくものになっていた。


冷たい空気が、まだ残っている。

畑の土は湿っている。

遠くで荷車の車輪が鳴る。

パンを焼く匂いが、道の向こうからゆっくり届く。


何事もなかった朝みたいだった。


道の端の補助灯は、昔より低い位置に並んでいる。

保存箱の回収札は、工房の前だけでなく、広場の脇にも立っている。

荷運びの若い衆は、腰に念話石を提げている。

昔なら村ひとつに一つもなかったようなものが、いまはあるのが普通みたいな顔で朝の中へ混ざっていた。


リリエルは、戸口の柱へ肩を預けた。


三年前、門のところで「おかえり」と言われた朝のことは、まだ覚えている。

戻ってきたあと、世界は止まらなかった。

だから、この朝は帰還の続きの朝でもあった。


「寝起きの顔で設備を見るな」


と父が言った。


振り向くと、エドガルがもう荷台の横にいた。


朝の土が靴についている。

畑をひと回りしてきた顔だった。

白いものはさらに増えた。

けれど、立ち方は変わらない。


「設備じゃなくて、灯りを見てた」


「同じだ」


「違うと思う」


「お前の中では同じだ」


それを言い返せないのが悔しい。


父は荷台の布をめくった。

中には、小型の保存箱が三つ。

昔の村なら、ひとつあれば大騒ぎだった大きさだ。

いまは修理待ちの札がついて、朝の荷台に当然みたいに載っている。


「南の棚道で一台、冷えが落ちた」


「完全停止?」


「そこまではいっとらん。昨夜のうちに予備へ切り替わっとる」


リリエルは笑った。


「その言い方はいいね」


「何がだ」


「“壊れた”じゃなくて“切り替わった”って言える朝」


エドガルは鼻を鳴らした。


「誰がそうしたと思っとる」


「私たち」


「半分正解だ」


そこで、工房の奥からノアの声が飛ぶ。


「先生、第三棚の予備札、足りません」


ドルフがすぐ怒鳴る。


「足りねえなら昨日のうちに言え!」


「言いました」


「俺に聞こえる声で言え!」


ミナはその横で笑っていた。


「朝から元気だね」


工房の中から、金属の軽い音がした。

誰かが測定具を並べている音だ。

村の朝は、ちゃんと人の顔で鳴っていた。


続いている朝は、忙しい。

だから、いい。


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