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帳簿に載ると、戻れない


朝になると、村の広さは元に戻る。

少なくとも、昨日まではそうだった。


家が十数軒。井戸がひとつ。畑と柵と家畜小屋。

夜のあいだだけ小さくなっていた世界が、朝の光といっしょにほどける。そういう場所だった。


けれど、その朝の村は、少しも元に戻っていなかった。


リリエルが屋敷の玄関を出ると、広場を横切っていた女たちの声が一瞬だけ止まる。

止まって、すぐまた動く。

動くけれど、昨日までの動き方ではない。


見ている。


あからさまではない。

でも、見ている。

夜に丘へ上がって、灯りを戻してきた子を見る目だった。


リリエルはその視線を見ないふりで通り過ぎた。

見たら、そこに名前がつく気がした。


奇跡の子。

変な子。

灯りを呼ぶ子。

どれであっても、ついた瞬間に戻れなくなる。


「お嬢様」


背後から呼ばれて振り返ると、屋敷の家令が立っていた。


ギデオン・レスターは、四十代の終わりに入ったばかりの男だった。痩せぎすで背が高く、癖のない黒髪にはこめかみから白いものが混じり始めている。細い鼻梁の下の口はいつもきつく結ばれていて、帳簿の数字が合わないときだけ、片方の眉がほんの少しだけ上がる。服にも言葉にも皺がない人だった。


今朝も、灰色の上着に一点の乱れもなかった。

ただ、目の下にだけ、昨夜眠れていない影が薄く落ちている。


「お父様とお母様が書斎でお待ちです」


家令の声は固い。

いつも固いが、今日はいつもより薄かった。敬意で磨かれた硬さではなく、余計な感情を混ぜないための薄さだと分かる。


「……今すぐ?」


「はい。今すぐ、がよろしいかと」


そう言うと、ギデオンは先に歩き出した。

一歩の幅まできっちりしている人だ、とリリエルは思う。何でもきちんと並べていないと落ち着かない人なのだろう。だからたぶん、昨夜のことがいちばん嫌いな種類の出来事だ。順番も理由も分からないまま、家の中へ入ってきた。


書斎では、もう朝が始まっていた。


父は机の前に立ち、地図を広げている。

母は一冊のノートを開き、昨夜の記録をきれいに写し直していた。ドルフは椅子に座るのを嫌って壁際に立ち、工具箱に新しい金具や小さな刷毛を詰めている。ユノも来ていた。神官服の襟元だけが少し歪んでいて、顔色はまだ完全には戻っていない。


「来たか」


父が言う。


怒っている声ではなかった。

けれど、昨日までの声とも違った。


「座れ。話を詰める」


リリエルが椅子へ座ると、ギデオンが紙を一枚差し出してきた。

昨夜の屋敷内の明滅箇所を図にしたものらしい。玄関脇、廊下、客間、裏手の使用人棟。驚くほど正確に印がついている。


「使用人たちから聞き取りました」


ギデオンはそう言ってから、机の端へもう一枚紙を置いた。


今度は村の見取り図だった。

北の補助灯。東の果樹畑。丘の祠。


そこにも細い赤線が引かれている。


「噂の方も」


父が短く言う。


ギデオンは頷いた。


「はい。“お嬢様が丘で灯りを起こした”“祠が開いた”“夜に灰牙が出た”あたりまでは、もう止まりません。ですが地下の部屋については、まだ言葉が揃っていません」


言葉が揃っていない。

それが妙に嫌だった。言葉が揃えば、今度は村中に同じ形で広がるからだ。


「揃わせない方がいいのかしら」


母がペンを置かずに言う。


「揃うのを待つより、先にこちらで名前を決めた方がいいかと」


ギデオンの返しは早かった。


「名前のないものは、噂の方が強くなります」


なるほど、とリリエルは思った。

この人は、怖いものを怖がらない代わりに、曖昧なものを嫌うのだ。曖昧なままだと人が勝手に増やすから。


父が地図の丘の部分を指で叩いた。


「問題はここだ。昨日の夜は一度保った。だがまた落ちるなら、次は北だけで済む保証がない」


「済みません」


ドルフが言った。


「北だけだと思う方がおかしい。あの下の部屋に、もっと線がある」


そのとき、ユノが机の上へ薄い綴じ冊子をそっと置いた。

古い紙だった。縁が黄ばんで、紐綴じの穴が擦り切れている。


「神殿の倉から見つけました」


ユノの声はまだ少しかすれていたが、昨夜よりまっすぐだった。


「丘の祠の記録です。ただし、かなり古いものしか残っていません」


父が冊子を取る。

ギデオンが横から覗き込む。

リリエルも身を乗り出した。


最初の数頁は祈りの文句ばかりだった。豊穣。境。夜守り。

けれど、その中に一箇所だけ、妙に乾いた書き方の欄がある。


守灯所 年二度手入れ要


リリエルはそこへ目を止めた。


「……祈り場じゃなくて、手入れ場」


呟くと、ユノが小さく頷く。


「その言葉だけ、文体が違いました。ほかは全部、祈りの文です。ここだけ……帳面みたいで」


帳面みたい。

その言い方が、リリエルには少しだけ救いだった。ユノももう、祈りと別の言葉の層があることを認めている。


ギデオンが冊子を受け取り、目を細めた。


「年二度手入れ要、か」


その声は妙に冷たかった。


「つまり、昔は知っていた者がいたということですね。祈るだけでなく、手入れが要ると」


「だろうな」


ドルフが吐き捨てるように言う。


「んで、いつから誰も手ぇ入れなくなったかは知らねえが、放っといた結果が今だ」


父はしばらく黙っていた。

やがて決める声で言う。


「もう一度潜る」


部屋の空気が少しだけ硬くなる。


「ただし昨日みたいな手探りでは行かん。人をつける。時間を決める。村にも役割を振る。北も東も見回りを増やす」


父の視線が順に動く。


「ドルフさんは道具。ユノ殿は記録の続き。ギデオンは村の出入りを絞れ。母は記録を整理しろ。ガレスには護衛をつける」


そして最後に、リリエルへ来る。


「お前は、見たものを順番に言え。勝手に触るな。触る前に、まず言葉にしろ」


勝手に触るな。

言いたいことは分かる。


けれど少しだけ腹が立った。

昨日、自分が勝手に触らなければ、北の灯りは戻らなかったのだ。


その腹立ちを読まれたみたいに、母が静かに言った。


「言葉にしたあとで触ればいいのよ。順番を増やすだけ」


それは母の言い方だった。

止めるのではなく、一個手順を足す。


リリエルは小さく頷いた。


「……分かった」


---


昼前、もう一度丘へ向かった。


昨日と違って、空は明るかった。

明るいのに、丘はやはり少しだけ暗かった。影の濃さが周囲と違う。光が同じように当たっているのに、そこだけ吸われているみたいに見える。


ガレスが先に立つ。

雨色の外套の下に新しい革当てを増やし、短槍の穂先にも細い符金具が一つ結ばれていた。昨夜のままでは足りないと、自分で判断したのだろう。黙っている男だが、黙ったまま手だけ早いところがある。


ドルフは昨日より大きい工具箱を持っている。

ユノは札の束だけでなく、紐綴じの記録帳も抱えていた。

ギデオンまで来ていたのは、少し意外だった。家令は現場へ来る顔ではない。だが今日の彼は帳簿だけでなく、腰に鍵束まで下げていた。


「書けるものは全部書きます」


リリエルと目が合うと、ギデオンはそう言った。


好きで来たのではない。

けれど必要なら来る人なのだ、と分かった。


祠の前に立つと、昨日の血はもう黒く乾いていた。

灰牙の死骸は片づけられている。血の跡だけが、石段の隙間に薄く残っていた。


床石をずらし、階段を下りる。


昼でも地下は昼ではない。

ひやりとした空気。乾きすぎた壁。

最後の段を下りたとき、中央の板は暗いままだったが、壁の隙間の奥に沈んだ赤い腕はそのまま眠っていた。赤い線だけが、糸みたいに細く残っている。


「起きてねえな」


ドルフが低く言う。


「今は」


ガレスがそれに重ねた。


その二語が、頼もしいのか不安なのか分からなかった。


リリエルは中央の板へ近づいた。

昨日と同じように、右端の溝へ指を滑らせる。


白い線が走る。


> `HILL NODE SUBLEVEL`

> `LOCAL MAINTENANCE ROOM`

> `FALLBACK USER STATUS: PARTIAL`


部分。

途中。

完全ではない。


その感じが少しだけ悔しい。


「昨日の続き」


リリエルが言うと、母はすぐノートを開く。

ギデオンも別の紙へ書き始めた。

同じものを二人が別々に書く音は、少し変だった。


板の下には昨日見た線の地図が出る。

北。東。屋敷の灯り。


そこで初めて、リリエルは別の印に気づいた。


井戸。

保存箱。

家畜小屋脇の小灯。

屋敷裏の使用人棟の灯り。


全部、つながっていた。


「……これ」


思わず声が漏れる。


「まだあるのか」


父ではなく、ギデオンが先に聞いた。


「ある。灯りだけじゃない」


リリエルは線を目で追う。


「井戸も。保存箱も。屋敷の裏の灯りも。みんなここにつながってる」


部屋が静かになった。


ドルフがゆっくりと鼻を鳴らす。


「だから結界灯ひとつ直したら、屋敷の灯りまで動いたのか」


ユノが板を見つめたまま言う。


「祈りが別々でも、下は別々じゃなかった……」


その言い方が少し痛かった。

ユノにとっては、昨日までそれぞれ別のものだったのだろう。


ギデオンのペン先が止まる。


「井戸まで?」


「うん」


「……それは困る」


その一言は、妙に実感があった。神秘でも奇跡でもなく、生活の責任として困ると言う声だった。


父が板の上の線を見る。

その目はもう、娘を見ている父の目ではなく、領地の地図を見る領主の目だった。


「つまり、この丘が落ちれば、村がばらばらに悪くなる」


「たぶん」


リリエルが答える。


「一度に全部じゃない。でも、順番に」


順番に悪くなる。

その言い方をした瞬間、地下室の冷たさが少し違うものになった。ここは祠の下ではない。村の喉元だ。


板の端で、新しい欄が開く。


> `DEFERRED LOGS: 1382`

> `OPEN PRIORITY SUMMARY?`


「要約がある」


リリエルが言う。


今度は父が頷いた。


「開け」


リリエルが触れると、文字列が切り替わった。

長い文ではなかった。箇条書きみたいに、短い行が並ぶ。


> `Northern auxiliary cluster repeating desync`

> `Eastern feeder intermittent overdraw`

> `Household lighting branch unstable`

> `Cold-storage cycle delayed`

> `Water access pressure drop`

> `Primary operator unavailable`

> `Fallback authorization waiting`


水。

保存。

灯り。

全部、同じ列に並んでいる。


リリエルは息を呑んだ。

村の困りごとが、そのまま並んでいた。しかも昨日今日ではない。ずっと前から、遅れた手入れのまま積み重なっている。


「待っているって、何を」


ユノが聞く。


その声は祈りではなく、ただの問いだった。


リリエルは最後の行を見る。


`Fallback authorization waiting`


待っている。

代わりの権限。

途中ではない、もっとちゃんとした何か。


指先が、板の下の暗い欄を示した。

さっきまではなかった小さな枠が、今は開いている。


そこには、たった二行だけ出ていた。


> `ENTER LOCAL IDENTIFIER`

> `REGISTER FALLBACK USER`


地下室が急に静かになる。


誰もすぐには息をしなかった。


登録。

利用ではない。

記録に載る言葉だ。


ギデオンが最初に反応した。


「待ってください」


いつもの家令の声より少しだけ早かった。


「それは……名前を載せるということですか」


リリエルは答えられなかった。

でも、たぶんそうだ。


ドルフが低く言う。


「入れたら戻れねえ匂いがするな」


その言葉が、いちばん正確だった。


母がノートを閉じる。

父の顔は硬い。

ユノは板とリリエルを見比べたまま、喉を鳴らしている。


誰も、軽く決められない。


リリエルは板を見た。


名前を入れる。

帳簿に載る。

そうしたら、昨日までの曖昧なままではいられない。


でも、入れなければどうなる。

また北が落ちる。東が揺れる。井戸へ来るかもしれない。今度は保存箱かもしれない。


村の困りごとが、全部ここへ並んでいる。

知らなければただの不具合だったものが、今は待ち行列みたいに見える。


父が、ようやく言った。


「今日は入れるな」


短いが、強い声だった。


「村へ戻る。外で決める」


それは逃げではない、とリリエルには分かった。

ここで決めたら、勢いで触ってしまう。外で決めるための時間を取るのだ。


ギデオンが小さく息を吐く。

母は何も言わない。

ドルフも反対しなかった。


ただ、板の上では二行だけが静かに残っていた。


> `ENTER LOCAL IDENTIFIER`

> `REGISTER FALLBACK USER`


リリエルは、その文字から目を離せなかった。


帳簿に載ると、戻れない。


そう思ったのに、同時にもう分かっていた。

たぶん、自分は戻れない方へ行く。


村へ戻る階段を上がりながら、背中がひどく重かった。

昨日の夜より重い。

地下で赤い腕を見たときよりも。


名前は、牙より重いのだと、そのとき初めて知った。


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