祠の下にあるもの
誰も、すぐには動かなかった。
石段の上には、首を断たれた灰牙がまだ転がっていた。黒い血が段差に溜まり、細い筋になって下へ流れている。さっきまで牙を剥いていたものが、もうただの重い肉に変わっている。その変化だけが、かえって夜の怖さを濃くした。
補助灯は戻っていた。
村の北端に落ちていた暗がりが、少しずつ押し返されていく。ひとつ、またひとつ。さっきまで歯が抜けたみたいに欠けていた灯りの列が、細くつながり直していく。
それなのに、安心していい空気ではなかった。
祠の奥の板は、淡く光ったまま眠ろうとしない。
戻った灯りより、その光の方が場違いだった。村のどの灯りとも違う。ぬくもりがない。冷たいのに、生きているみたいだった。
「下がれ」
ドルフがようやく言った。
誰に向けたのか分からない声だった。自分に言ったのかもしれない。
母は祠の奥を見たまま、静かに尋ねた。
「どれくらい保つと思いますか」
「何がだ」
「今、戻った灯りです」
ドルフは答えなかった。
答えられないのだろう、とリリエルは思った。直ったのではない。戻っただけだ。その違いは、ここにいる全員がもう分かっている。
視界の奥で、白い文字が小さく明滅した。
> `TEMPORARY STABILIZATION`
> `SUBLEVEL MAINTENANCE RECOMMENDED`
読めた瞬間、胸のあたりが冷えた。
一時的。
安定。
推奨。
言葉は静かなのに、中身は少しも静かではない。
今は保っている。けれど、このままではまた落ちる。
「保たない」
リリエルは言った。
自分の声なのに、誰かが代わりに喋ったみたいに聞こえた。
ドルフが振り返る。
「何だと」
「たぶん、また落ちる。今は戻っただけ。……下を見ないと」
沈黙が落ちた。
ミナが小さく息を吸う音がした。
ユノはまだ札を持ったまま、祠とリリエルを見比べている。
母だけが、一度も目を逸らさなかった。
「この下に何があるの」
問いは短かった。
リリエルは床石の継ぎ目を見た。
細い線だった。祠を開いたときと同じ、自然にはできない種類の線。
「分からない」
それは本当だった。
でも、分からないままでいられない感じがする。
「でも、たぶん……手入れする場所」
「手入れ?」
ユノがかすれた声で繰り返す。
「灯りの、ですか」
「たぶん」
“たぶん”ばかりだ、とリリエルは自分で思った。
でも今はそれ以上の言い方ができない。知らないことが多すぎるのに、喉や指先だけが勝手に知っている。
ドルフが血のついた鉈を草で拭きながら言った。
「奥方。ここから先は危ねえ」
「危なくない場所なんて、今日もう残っていないでしょう」
母の返しは静かだった。
静かなまま、相手が退けない言葉を置く。母はそういう言い方をする。
ドルフは舌打ちした。反対しきれない舌打ちだった。
そのとき、石段の下から足音がした。
丘の異変を見て駆けつけたのだろう、領地の巡回兵が二人、息を切らして現れた。先頭の男は二十代半ばほどで、短く刈った栗色の髪に、左の眉へ古い傷が一本走っていた。雨色の外套の下に革の胸当てを着け、手には短槍を持っている。黙って立っているだけで、夜道に慣れている人間の空気があった。
「奥様」
母は男の顔を見るなり言った。
「ガレス、ちょうどいいわ。この子を村まで送って。お父様に、北の補助灯は一度戻ったけれど、丘の祠を確認している最中だと伝えて」
ガレスは灰牙の死骸と開いた祠を一瞥し、短く頷いた。
「承知しました」
ミナは唇を尖らせた。
「でも――」
「伝言は早い方がいいわ」
母の声は変わらない。
けれど変わらないからこそ、逆らえない時がある。
ミナは一瞬だけリリエルを見た。残りたい顔だった。
それでも頷いた。
「……分かった」
ミナは不満そうにしたが、今度は逆らわなかった。ガレスと、もう一人の巡回兵に挟まれるようにして石段を下りていく。途中で一度だけ振り返り、何か言いたそうにしたが、結局何も言わなかった。
「ユノはどうする」
ドルフが聞いた。
ユノは札を握る手に力を入れた。
「行きます」
少しだけ間があった。
その間が、彼の怖さだった。
「祈り場の中がどうなっているのか、見ないままでは戻れません」
ドルフは鼻を鳴らした。
「そうかよ」
それで話は決まったらしかった。
---
祠の床石は、見つけるより開ける方が簡単だった。
継ぎ目のある一枚に指をかけると、持ち上がるのではなく横へ滑った。石なのに、石らしい重さのかかり方をしない。見た目だけ石で、動きは別のものだった。
床の下に、四角い穴が開く。
冷たい空気が、下から湧いた。
土の匂いではない。
もっと乾いている。長いあいだ閉じられていた場所の匂い。古い木箱を開けたときに少し似ているが、木よりも金属に近かった。
「階段か」
ドルフが覗き込む。
穴の底へ向かって、細い石段が続いていた。人ひとりぶんの幅しかない。大人が横向きになれば、肩が壁に擦れそうな狭さだった。
「祈り場の下に、こんなものが……」
ユノの声は、半分祈りみたいだった。
母はノートを抱え直した。
「灯りは」
リリエルが祠の外を見る。
北端の補助灯はまだ点いている。だが、その光はさっきより少しだけ弱い気がした。
視界の奥に、また文字が出る。
> `STABILITY WINDOW: LIMITED`
「急いだ方がいい」
そう言うと、全員の目がまた自分に向いた。
そのことに、もう少しずつ慣れ始めている自分が嫌だった。
ドルフが先に降りた。
次にリリエル。
その後ろに母、ユノ。
順番は誰も相談しなかったのに、自然にそうなった。
階段は狭かった。
壁に手をつくと、ひやりとした。湿ってはいない。地中なのに、むしろ乾きすぎている感じがした。下へ行くほど、外の風の音が遠くなる。代わりに、自分たちの息と足音だけが近くなる。
五段。
十段。
十五段。
思ったより深い。
降りながら、上の方で一度だけ、かすかな叫び声が聞こえた気がした。
村の誰かか、風の音か、判然としなかった。判然としないままの方が、かえって嫌だった。
「まだか」
ドルフが低く言った、その直後だった。
階段の先に、淡い光が見えた。
灯りではない。
眠っている光だ。何かが完全には死んでいない時の、薄い残り火みたいな光。
最後の段を下りる。
部屋があった。
狭い。
けれど祠の見た目から想像していた“地下室”とは全然違った。
土間ではない。
床は平らで、壁は石に見えるのに継ぎ目が揃いすぎている。部屋の中央に腰の高さほどの台があり、その上に板状のものが斜めに埋め込まれている。祠の奥で光った板に似ていたが、こっちの方がずっと大きい。
周囲の壁には細い溝が走り、何本もの金属線のようなものが埋まっていた。棚に見える場所には、丸い石が整然と並んでいる。魔石だ、とリリエルは思った。けれど今まで見た魔石と少し違う。磨かれ方が揃いすぎている。まるで部品みたいだった。
「……何だ、ここは」
ドルフが呟く。
その声は、工房で道具を見るときの声ではなかった。
もっと単純な声だった。理解できないものを前にした大人の声。
ユノは部屋へ入ったきり動けなかった。
札を持つ手が下がっている。足元が崩れるみたいな顔をしていた。
母だけが、まず部屋全体を見た。入り口、壁、中央の台、棚。危険があるか、持ち出せるものがあるか、まずそれを見ている目だった。
リリエルの視界に白い文字が走る。
> `HILL NODE SUBLEVEL`
> `LOCAL MAINTENANCE ROOM`
> `PRIMARY CONSOLE OFFLINE`
コンソール。
また、知らないのに知っている形の言葉だった。
中央の台に近づく。
斜めの板の表面は暗い。祠の奥の板より大きく、ひびひとつない。脇に並ぶ溝や丸い窪みは、祈りの作法とはまるで関係がなさそうだった。
指先が、どこを触ればいいか知っている気がした。
怖かった。
でも、その怖さより先に手が動く。
「待て」
ドルフの声が飛ぶ。
リリエルは止まれなかった。
板の右端にある細い溝へ、そっと指を滑らせる。
暗かった板の表面に、線が走った。
白い線だった。
細く、まっすぐで、灯りというより表示だった。
ユノが息を呑む。
母が何も言わずにノートを開く音がした。
板の上に文字が並ぶ。
> `LOCAL MAINTENANCE ROOM RESTORED`
> `DEFERRED LOGS: 1382`
> `CRITICAL ALERT: NORTHERN AUXILIARY CLUSTER FAILURE`
一三八二。
その数字だけが、やけに重かった。
千を超える記録が、ずっとここで読まれずに溜まっていた。
ドルフが顔をしかめる。
「読めるのか」
リリエルは頷けなかった。
読める。けれど、読んでいるというより、意味だけが先に入ってくる。言葉を一度も知らないはずなのに、喉の奥か指先が先に理解している。
「北の補助灯が……壊れてる」
かろうじて、それだけ言う。
母のペンが走った。
「ほかは」
リリエルは板を見た。
文字の列の下に、別の表示があった。線でつながった点。村の見取り図に少し似ている。でももっと簡略で、もっと冷たい。北側のいくつかの点が赤く点滅していた。
「灯りが……つながってる」
「見張り灯だけか?」
ドルフが聞く。
「たぶん、結界灯も」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がまた冷えた。
もし全部がつながっているなら、落ちるのは見張り灯だけでは済まない。
村の外縁そのものが薄くなるかもしれない。さっきの灰牙程度では済まなくなる。
ユノが、やっと声を出した。
「そんな……」
否定ではなく、願いみたいな声だった。
そのとき、板の端で別の文字が明滅した。
> `OPEN LOG?`
意味が分かる前に、リリエルの胸が嫌な形で跳ねた。
ログ。さっきから何度も出ている。ここに、何かが記録されている。
「開けるなよ」
ドルフが言った。反射の声だった。
母は逆に言った。
「開けなさい」
二人の声が重なる。
リリエルは板を見つめた。
どちらが正しいか、分からない。
でも時間がないことだけは分かる。
北側の赤い点滅は、さっきより増えていた。
視界の奥で、文字がひとつだけ近くなる。
> `RECOMMENDED ACTION: REVIEW FAILURE SOURCE`
原因。
壊れた理由を見る。
そうしないと、直してもまた落ちる。
リリエルは板の中央に手を置いた。
「開く」
ドルフが舌打ちする。
母のペンが止まる。
ユノが、祈り札を持ったまま指を組みかけて、途中でやめた。祈ろうとして、何に祈るのか分からなくなった手だった。
板の上に、新しい文字列が流れ始めた。
最初は読めなかった。
次に、単語が拾えるようになった。
最後に、意味が胸の中へ落ちてきた。
今までの短い表示とは違った。
誰かが書き残した記録みたいな、少し柔らかい綴りだった。
> `Northern auxiliary cluster repeating desync`
> `Cause unresolved`
> `Manual maintenance overdue`
> `Primary operator unavailable`
> `Fallback authorization waiting...`
そこで、世界が一瞬だけ揺れた。
地下の部屋が消える。
代わりに、知らない白い天井が見えた。
明るすぎる部屋。
乾いた空気。
何かが絶えず低く鳴っている。
目の前に、光を閉じ込めたような薄い面がある。
びっしり文字が並んでいる。
手が見える。
その面の上を走っている。
指が長い。
節がある。
爪が短く切られている。
誰の手なのか分からない。
でも、動かしているのは自分だという感覚だけがある。
知っている。
なのに思い出せない。
懐かしいのに、触れた瞬間に指のあいだからこぼれていく。
息が詰まった。
瞬きひとつぶんで、また地下室へ戻る。
戻った瞬間、自分の手を見た。
小さい。八歳の手だ。
さっき見えていた手とは、まるで違う。
でも指先に、あの薄い面の感触だけがまだ残っている気がした。
触ったことがないはずなのに。
「……リリエル?」
母の声が遠かった。
膝が少し揺れた。
倒れるほどではない。けれど立っている地面が、ほんの少しだけずれた感じがした。
今のは何だったのか。
記憶。
夢。
幻。
分からない。
でも、“見た”。
それだけは確かだった。
ユノが蒼白になっている。
「顔色が……」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
けれどそう言わないと崩れる気がした。
板の上に、まだ文字が流れている。
最後の一行だけが、ほかより強く光っていた。
> `Fallback authorization waiting...`
待っている。
何を。
誰を。
喉がひりついた。
ドルフが低く言う。
「読めるんだな」
否定できなかった。
「……少しだけ」
「少しで十分だ。北の灯りを保たせる方法は分かるか」
その言い方が、ありがたかった。
今必要なのは、今見たものの意味ではなく、何ができるかだった。
リリエルは板の下を見る。
文字。点滅。線。
その中に、ひとつだけ脈みたいに明るくなる場所があった。北。そこへ流れる線が細くなっている。
「たぶん……ここが詰まってる」
詰まる、というのが正しい言い方かは分からない。
でもそうとしか見えなかった。
「掃除できるか」
ドルフはすぐにそう聞いた。
工房の職人は、分からないものを分からないままにしない。直せる言葉に置き換える。
リリエルは部屋の壁に並ぶ魔石の棚を見た。
いくつかだけ、光が死んでいる。ほとんど同じ形なのに、北側につながる線のそばだけ色が鈍い。
視界の奥に、短い文字が出る。
> `REPLACE CELL`
「替えるのかも」
「どれを」
リリエルは指を伸ばした。
左から三番目。少し奥。表面に細いひびのある石。
ドルフは迷わず手を伸ばした。
だが棚から石を抜こうとした瞬間、部屋の奥で何かが鳴った。
低い、嫌な音だった。
腹の底に響く音。
聞いたことがないのに、身体が先に嫌がる種類の音。
板の上の赤い点が、一斉に増える。
> `WARNING`
> `UNAUTHORIZED COMPONENT REMOVAL`
「待って」
リリエルが叫ぶのと、ドルフが手を止めるのはほぼ同時だった。
空気が変わる。
地下の部屋に、丘で感じたのとは別の危険が満ちる。
魔物の牙みたいに見える危険ではない。見えないのに、確実にこちらへ向く危険だった。
板の上に、また新しい文字が走る。
> `DEFENSE SUBROUTINE PARTIAL WAKE`
リリエルの背中を冷たいものが走った。
「……起きる」
「何が」
ドルフが聞く。
答えられなかった。
けれど答えは、すぐ別の形で現れた。
部屋の隅で、今まで壁だと思っていた一枚が、かすかにずれたのだ。
石の継ぎ目が開く。
暗い奥から、細い赤い光が一本、ゆっくりこちらへ向いた。
光はただの線ではなかった。
壁の溝を伝って流れる液体みたいに、暗がりの中を這っている。意志があるのか、ただ反応しているだけなのか分からない。分からないのに、こちらを見ている感じだけははっきりしていた。
まだ来ない。
まだ襲ってこない。
ただ、目を開けたみたいにこちらを向いている。
ユノが息を止めた。
母のペン先が完全に止まる。
ドルフが鉈の柄を握り直す。
祠の下には、まだ動くものがあった。
リリエルは板の表示と、開きかけた壁の隙間を交互に見た。
北の灯りを直す前に、別の何かが起きようとしている。
視界の奥に、最後の一行が鋭く光る。
> `MANUAL OVERRIDE REQUIRED`




