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丘の祠は、祈るだけの場所じゃない


丘は、近づくほど暗かった。


空はまだ完全には夜になっていない。

灰色の雲の裏に、夕方の薄い光が残っている。村を振り返れば、家々の屋根はまだ見えたし、工房の灯りも細く生きていた。


それなのに、丘だけが先に夜へ沈んでいるように見えた。


黒い、というより、光を嫌っている色だった。


「昔から、こうなんです」


ユノが言った。

落ち着かせようとしている声だった。落ち着いてはいなかったが、そうしようとしているのは分かった。


「どういう意味だ」


ドルフが工具箱を肩にかけたまま聞き返す。


「夜になると、祠のあたりだけ冷えるんです。霧も出やすいし……子どもは近づくなって」


「理由は」


「……祈り場だから、と」


ドルフが鼻で笑った。


「理由になってねえな」


ミナはリリエルのすぐ横を歩いていた。

ついて来るなと母に言われたはずなのに、結局ここまで来てしまっている。途中で追い返されても帰らない顔をしていたし、母も本気では止めなかった。


母はそういうところがある。

一度止めて、それでも来るものは、来る理由があるのだと見る。


坂は思ったより急だった。

昼間なら何でもない道なのに、光が薄いだけで足元の草も石も別物になる。踏むたびに湿った土の匂いが立った。まだ夜ではないのに、夜の底へ片足を入れたみたいな冷たい匂いだった。


前を行くドルフの背中が、いつもより少し大きく見えた。

大人が前を歩いているだけで、子どもは少し安心する。たとえその大人が不機嫌で、口が悪くて、ろくに笑わない男でも、背中があるというだけで。


その安心が、急に消えた。


丘の中腹に立っていた補助灯が、ふっと落ちたのだ。


細い石柱の先で、弱く青白く燃えていた光が、息を止めるみたいに消える。

辺りが一段、暗くなった。


暗くなったのは目だけではなかった。

さっきまで冷たいだけだった空気に、急に重さが加わる。灯りがひとつ消えるたび、そのぶんだけ夜が厚くなって肩に乗る。そんな感じだった。


ミナが息を呑んだ。

ユノの祈り札を持つ手に力が入る。

ドルフが立ち止まり、低く言った。


「……来るぞ」


何が、とは誰も聞かなかった。


リリエルには、先に音が分かった。


草の擦れる音。

複数。

人の足音より軽くて、でも獣よりは慎重な音。


その次に匂いが来た。

湿った毛皮と、古い血の匂い。


そしてようやく、目が形を見つけた。


茂みの間に、低い位置で揺れる光が四つ。

いや、六つ。


眼だった。

灯りを反射しただけの、濡れた眼。


「灰牙だ」


ドルフが吐き捨てるように言った。


灰牙。

名前だけは聞いたことがある。夜の薄い場所に寄ってくる、犬より少し大きい魔物。群れで動き、弱った家畜や子どもを狙う。


犬に似ていた。

でも犬が人の近くで生きるために身につけたものを、全部持っていなかった。愛想も、ためらいも、可愛げもない。あるのは牙と、低い腹と、走るための脚だけだった。


怖い、とリリエルは思った。

あの牙が肌に届いたら裂ける。そう分かる形の怖さだった。


一頭が低く唸る。

それを合図にしたみたいに、左右の草が揺れた。


「下がってろ!」


ドルフが前へ出た。

工具箱を地面に降ろし、腰の短鉈を抜く。職人の道具だと思っていたものが、思ったよりずっと刃物だった。


ユノが祈り札を構える。


「天の火よ、夜を裂く清き輪となりて、我らを外つものより守り給え。境を照らし、闇を退け、この地に安き眠りを残し給え」


祈りの声が震えた。

それでも札の先に淡い光がともる。薄い膜みたいな光だったが、一頭が飛びかけて、嫌がるように身を捩った。


魔物は灯りを嫌う。

本当に嫌うのだ、とリリエルは思った。


「リリエル」


母の声がした。


振り向くと、母はミナの肩を引き寄せながら、もう片方の手で短い護身杖を抜いていた。細い棒に見えて、先端に小さな金具がついている。あれで人の手首くらいなら打てるのだと、リリエルは一度だけ聞いたことがある。


「走れる?」


「……うん」


「なら、祠まで行くわよ」


「え」


「ここで灯りが落ち続けるなら、あれはまだ増える」


その声に迷いはなかった。

怖くないわけではないはずだった。実際、護身杖を握る母の手は白くなっていた。怖いまま計算しているのだと、リリエルには分かった。


ドルフが叫ぶ。


「おい、奥方!」


「ここで全部相手にするより、先を閉めた方が早いでしょう」


母の返しは静かだった。

静かなまま、相手が退けない言葉を置く。母はそういう言い方をする。


視界の奥で、白い文字が流れた。


> `AUXILIARY BEACON OFFLINE`

> `LOCAL THREAT RESPONSE DECREASED`


意味は全部分からない。

でも、灯りが落ちたから危険が上がったのだと分かる。目の前の現実を、別の冷たい言葉で言い換えているだけだった。


「リリ!」


ミナが声を上げた。


右から一頭、灰牙が低く走った。

地面に近い、滑るような走り方だった。ドルフの正面ではなく、横を抜けて小さい方へ向かう。そういう狡さがある。


ユノの札の光がそちらへ振られる。

間に合わない。


その瞬間、母が一歩前へ出た。


護身杖の金具が灰牙の鼻先を打つ。乾いた音。

魔物が短く悲鳴を上げてよろめく。


強い打撃ではない。

でも、正確だった。


ドルフがすぐに踏み込み、横から鉈を振るった。灰牙の肩口が裂け、黒いものが飛び散る。血の匂いが一気に濃くなった。


「今だ、行け!」


リリエルは反射で走っていた。


祠まではあと少しだった。

石段が三段、その上に小さな社のようなものが見える。下から見上げたときより低いのに、圧があった。しゃがみこんだ獣みたいな形だった。


背後ではまだ、唸り声と人の声が混ざっている。

振り返りたかった。

でも振り返ったら足が止まりそうで、できなかった。


石段を上がる。

祠の前へ出る。


そこで、リリエルは立ち止まった。


祠は祠ようで、祠ではなかった。


しめ縄が張られている。

供え皿がある。

鈴もある。


でも、石の面が妙に滑らかだった。自然に削れた石の肌ではない。細い継ぎ目が、夕方の残り光の中に規則正しく走っている。


人の手で作った、というより、最初から道具として置かれたものの表面だった。


「どうしたの!」


母が石段の下から叫ぶ。

ミナを背にかばいながら、上がって来る気配だけがある。


「これ……」


リリエルは祠の正面に手を触れた。


冷たい。


石の冷たさなのに、その奥に別の温度がある。眠っている金属みたいな感じだった。


白い文字が、一気に視界へ広がる。


> `RESTRICTED NODE DETECTED`

> `LOCAL MAINTENANCE INTERFACE INACTIVE`

> `AUTH: PARTIAL MATCH`


心臓が強く跳ねた。


昨日までより長い文。

そして最後の一行だけが、なぜか胸の奥に引っかかった。


意味は分からない。

なのに、喉の奥がその音の形だけを知っている気がした。


背後で灰牙がまた唸る。

ドルフの短い怒鳴り声。

ユノの祈り。

ミナの息を殺す音。

全部が一度に耳へ入る。


リリエルは祠の表面を見た。

継ぎ目。段差。指先が引っかかる浅い溝。


ここ、開く。


そう思った瞬間、分からないのに分かる感覚が来た。

前にもあった。結界灯のとき。照明具のとき。頭ではなく、もっと別の場所が先に知る。


リリエルは鈴の下の石板を強く押した。


何も起きない。


違う。


もう一度。今度は横へ。

石板が、かすかに沈んだ。


乾いた音がした。

祠の正面の石が、左右へほんの少しだけずれる。


「おい!」


ドルフの声が、初めて本気で驚いていた。


開いた隙間の奥は暗かった。

でも、ただの空洞ではない。磨かれた板のようなものが埋まっている。中央に丸い窪み。その周囲に、見たことのない細い文字列。


見たことがないのに、胸が苦しくなるほど懐かしい。


リリエルがその窪みに手を当てると、板の奥にかすかな光が走った。


> `LOCAL MAINTENANCE NODE ONLINE`

> `MANUAL ACCESS ACCEPTED`


その瞬間、丘の下で何かが変わった。


風、ではない。

見えない波が、祠から村へ向かって走ったような感覚。


北の方角で、ひとつ灯りが点く。


続いて、もうひとつ。


石段の下でユノが息を呑んだ。


「補助灯が……」


ドルフが短く叫ぶ。


「まだ来るぞ!」


灰牙は完全には退いていなかった。

灯りが戻っても、すぐには消えない。血の匂いもある。飢えもある。夜へ寄ってくるものは、灯りだけで全部追い払えるわけではない。


一頭が石段を駆け上がる。


リリエルの体が凍った。


速い。

低い。

牙の白さだけがやけに見える。


そのとき、祠の奥の板がひときわ強く光った。


視界に短い文字。


> `EMERGENCY BEACON PULSE`


何をするのか分からないまま、リリエルの口が動く。


「外縁灯。北側、起動!」


意味が正しいかどうかも分からない。

でも言った瞬間、丘の中腹の補助灯が白く爆ぜた。


閃光ではなかった。

だが夜に慣れた目には十分すぎる光だった。


石段を駆け上がっていた灰牙が、悲鳴みたいな声を上げて身をひねる。着地に失敗し、横へ転がる。その隙にドルフが踏み込み、今度は迷いなく首元へ鉈を入れた。


黒い血が石段を汚した。


しばらくのあいだ、誰も喋らなかった。


祠の奥の板は、まだ淡く光っている。

丘の下では、落ちていた補助灯が順番に戻っていく。ひとつ、またひとつ。村の北端に、さっきまでなかった灯りが線になって生まれていく。


ユノが、石段の途中で立ち尽くしていた。

札を持つ手が下がっている。彼の顔には安堵もあったが、それより大きいのは、祈り場の正面が“開いた”のを見てしまった人の顔だった。


母が最初に口を開いた。


「……祈るだけの場所じゃなかったのね」


問いではなかった。

事実を、机の上に静かに置く声だった。


ドルフが血を振り払いながら言う。


「なら何だ、こりゃ」


リリエルは開いた祠の奥を見つめた。


祠。

ノード。

メンテナンス。

インターフェース。


どの言葉もまだ自分のものではない。

でも、祈るためだけの場所ではないことは分かった。


願うためではなく、触るための場所。

信じるためではなく、直すための場所。


視界の奥に、また文字が現れる。


> `MAINTENANCE LOG AVAILABLE`

> `ADDITIONAL ACCESS BELOW SHRINE`

> `WARNING: DEEPER LAYERS LOCKED`


下。


リリエルは足元を見た。

祠の床石の一枚に、ほかより細い継ぎ目がある。


石段の下では、死んだ灰牙の血がゆっくりと隙間へ流れていた。

その黒い筋を見ながら、リリエルは思った。


灯りを直すというのは、光を戻すだけのことじゃない。

灯りが落ちれば牙が来る。

灯りを点ければ血が流れる。


直すことと、守ることと、傷つけることが、全部同じ夜の中にある。


「まだ、ある」


自分の声が小さく落ちる。


母が振り向く。


「何が」


リリエルは祠の床を見たまま答えた。


「この下に、まだ何かある」


丘を渡る風が冷たくなった。


さっきまで魔物の唸り声で満ちていたはずの空気が、今は逆に静かすぎた。

静かになったときの方が、かえって怖いことがある。物音が消えると、隠れていたものの形だけが浮き出るからだ。


村の北端の灯りは、もう落ちていなかった。

けれど丘の祠の奥では、目覚めたばかりの何かが、まだこちらを見ている気がした。


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