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領主の机は、工房より散らかる


父は、いつも工房にいるわけではない。


当たり前だ。

領主なのだから。


それを、リリエルはその朝、あらためて思い知った。


朝の屋敷は、工房より先に執務室がうるさかった。


紙の音。

足音。

扉の開閉。

ギデオンの低い声。

父の「それは後だ」と「それを先に回せ」が、朝から何度も飛んでいる。


執務室の机の上は、工房の作業台よりひどかった。


帳面。

地図。

境界杭の報告。

保存倉の割り振り表。

街道荷の確認紙。

税の相談書き付け。

父の机だけが、夏の朝から別の戦場をしていた。


工房の方は、まだ静かだった。

静かだが、昨日までの静かさではない。


丸と線の石は布に包んで窓下へ移され、測定紙と母のノートは箱にまとめられている。表向きはいつもの工房だ。けれど中身だけが、一段先へ進んでしまっている。


カイルの速報は、昨夜のうちにベルトラムの分と合わせてガレスに託されていた。

本人が王都へ向かうのは、現場記録をもう少し揃えてからだという。


その違いは、父のいない朝でよく分かった。


「……ほんとにいないね」


ミナが言った。


「いると思ってたの?」


とリリエル。


「ちょっと思ってた。最近ずっと工房にいたから」


「最近ずっとじゃないよ。いた時だけ印象が強いんだよ」


「それ、なんかずるい言い方だな」


ノアは棚の前で、返却待ちの照明石を静かに並べ直していた。

言葉は入らない。ただ、昨日の騒ぎでずれた札の位置まできっちり戻している。こういう時のノアは本当に早い。


母は窓下でノートを開いていた。

昨日の記録の続きを整理している。時刻。反応。切断手順。表示語。ベルトラムへ渡した写し。カイルへ渡した写し。残した原本。


「父上は?」


とリリエルが聞くと、母は顔を上げずに答えた。


「西の用水路の見回り。戻ったら境界杭の件。そのあと夏の保存倉の割り振り。昼前に街道荷の帳面確認。午後は村寄りの三軒で税の相談」


ミナが目を丸くする。


「多くない?」


「多いわよ」


母はさらりと言った。


「だから毎日ずっと工房にはいられないの」


「だよねえ」


ミナは頷いた。納得が遅い。


その時、執務室の方から父の声が飛んだ。


「ギデオン、それは工房分じゃなくて保存倉分で切れ!」


「分けております!」


「なら字を大きくしろ!」


「帳面は怒鳴る相手ではありません!」


ミナが吹き出した。


「めちゃくちゃ働いてる」


「だから言ったでしょ」


とリリエル。


母の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


---


工房を開けたのは、父が屋敷を出てからだった。


今日は返却中心。新規は急ぎだけ。

母がそう決めた。


「工房を閉めないんじゃなかったの?」


とミナ。


「閉めないわ。でも、昨日の今日で何でも受けるのは違うでしょう」


「それはそう」


「今日は“回す日”じゃなくて“整える日”です」


その言い方がいかにも母だった。

走りながらでも、どの日に何を優先するかは崩さない。


ネリスは朝からいた。

荷車を工房の外へ寄せたまま、なぜか今日も最初からいる。


「市場の人、今日も早いね」


とミナ。


「市場だから」


とネリスが言った。


今度はリリエルが先に言い直した。


「道の匂いを一番早く拾う人って意味」


「そうそう、それ」


ネリスが嬉しそうに指を鳴らす。


「昨日みたいなことが起きた翌日は、噂の足が速いの。こっちが黙ってても、向こうはもう“何かあった”って顔してる。だから最初の言い方が大事なんだよ」


「何て言うの」


とミナ。


「“工房は今日も普通に開いてます”」


ネリスは即答した。


「これが一番効く」


「それだけ?」


「それだけが効く時もあるの。人ってね、変なことが起きた翌日ほど、“いつも通り”に弱いんだよ」


リリエルは少しだけ感心した。

この子は言葉が軽いようで、時々こういうところだけ妙に深い。


カイルはその横で不本意そうな顔をしていた。


「悔しいですが、正しいです」


「最近その台詞多いね」


とリリエル。


「この工房にいると増えます」


「いいことじゃん」


「複雑です」


でも帰る気はやっぱりなかった。


---


最初の客は、照明石の返却だった。


次が保存箱の受け取り。

その次が、留め具だけ直した灯具。


どれも昨日までと同じだ。

同じだが、工房の中の誰もが昨日のことを忘れてはいない。


だから丸と線の石を視界の端で気にしながら、それでもいつもの仕事を続ける。

それが今日の工房だった。


昼前、ギデオンが執務室帰りの顔で入ってきた。

いつも以上に帳面の匂いがする顔だ。


「旦那様からです」


そう言って紙束を二つ置く。


「保存箱改修の記録を、領内の保存倉運用へ転用したいと」


リリエルが目を瞬いた。


「もう?」


「もう、です」


ギデオンは真顔だった。


「西の保存倉で夏の傷みが出始めています。旦那様は、工房の改修手順が使えるなら先に倉へ入れたいと」


ミナが小声で言う。


「工房にいないのに、工房のことしてる」


「領主だからね」


と母。


「目の前にいないだけで、別の場所で工房の使い道を増やしてるのよ」


その言い方で、リリエルは少しだけ胸の奥が明るくなった。


父は工房に張りつく人ではない。

でも離れた場所で、工房の手順を領の仕事へつないでいる。

それはそれで、ずっと父らしかった。


カイルが紙を覗き込んだ。


「保存倉への先行導入……判断が早いですね」


「旦那様は、使えると見たものは早いです」


とギデオン。


「ただし、使えるかどうかの判断に時間がかかるだけで」


「嫌な言い方」


とミナ。


「事実です」


ギデオンは少しも揺れなかった。


---


その紙束の下に、もう一枚あった。


父の字で、短く書き込みがされている。


工房へ。領の外へ出る可能性があるものは、領の中でもう一度使い道を確かめてからにしろ。先に足元を固める。


リリエルはそれを読んで、少しだけ笑った。

それから、もう一度読んだ。


あの冬、リリエルは一人で遠くへ触れてしまった。

誰にも言えないまま、世界の裏側を覗いた。


今は違う。


遠くへ触れる前に、「まず近くで」と言ってくれる人がいる。

それだけで、同じ怖さが別の形になる。


「何て?」


とミナ。


「遠くへ行く前に、近くで使えって」


「普通だ」


とドルフ。


「でも大事だよ」


リリエルは紙をもう一度見た。


丸と線の石。

外部中継。

未登録経路。


そういう言葉はどれも遠い。

けれど保存箱も照明石も、結局は近くの困りごとから始まった。


遠い道に触れたからこそ、近い場所で何ができるかを先に確かめる。

それは工房のやり方として、かなり正しい気がした。


母も同じことを思ったらしい。


「では、今日の午後はそちらに振ります」


「何をするの?」


とミナ。


母はノートを一枚めくった。


いつの間にか、工房の中ではあの石を「念話石」と呼ぶようになっていた。

名前がつくと、道具は少しだけ本物に近づく。


「見張り台と屋敷のあいだで、念話石の運用試験」


ミナがぱっと顔を上げる。


「やるの!?」


「領の中で、です」


母の声は平らだったが、少しだけ速かった。やる気の時の速さだ。


カイルも顔を上げた。


「事故時連絡を前提に?」


「ええ。父上の言う通りです。空の向こうを追う前に、足元で役立つ形を一つ増やす」


ネリスが言った。


「いいね。その方が話もしやすい」


「すぐそこへ行くな!」


とドルフ。


「だって大事じゃん」


「今はまだ大事じゃねえ!」


「今は、ね」


ネリスはけろりとしていた。


---


午後、父はほんの少しだけ工房へ寄った。


本当に、ほんの少しだけだ。


土のついた靴。

腕に書類。

顔は汗で少しだけ疲れている。

でも目は起きていた。


「進んでるか」


それが最初の言葉だった。


「進んでる」


とリリエル。


「今日は見張り台と屋敷で運用試験する」


父はすぐ頷いた。


「いい。街道荷の遅れが出る日は、先に見張り台から知らせが来るだけでも違う」


カイルが聞く。


「領主としての判断ですか」


「暮らしの側の判断だ」


父は書類を机へ置いた。


「遠い道がどうとか、王都がどう見るとか、それは大きい話だ。でも今この領で必要なのは、見張り台から足場の崩れがすぐ届くことだ」


その言い方は、工房の言葉ではなかった。

領を回している人の言葉だった。


リリエルは少しだけほっとした。


父はちゃんと、父の場所にいる。

工房に来るのは工房のためだけじゃない。工房が領にどう繋がるかを見に来ているのだ。


ミナが父の袖を引いた。


「父上、今日はずっといる?」


「いない」


即答だった。


「これから東の見回り。夕方には戻るが、その頃には試験終わってろ」


「冷たい」


「領主だからな」


父はそう言って少しだけ笑った。

それからリリエルの方を見た。


「面白くなっても、今日は領の中だけにしろ」


「分かってる」


「ほんとか?」


「……たぶん」


「怪しいな」


その会話だけで、工房の空気が少し軽くなった。


父は工房に長くはいなかった。

でも必要な言葉だけ置いていく。

それで十分だった。


---


午後、試験は見張り台とのあいだで行われた。


屋敷側に丸。

見張り台に線。

中継は門。


今度は最初から用途が決まっている。


「連絡内容は短く」


カイルが言う。


「“けが”“荷崩れ”“来客”“異変”。まずはその四つで分ける」


ミナが手を挙げる。


「“お腹すいた”は?」


「不要です」


「絶対そのうち要るよ」


「要りません」


ノアが口を開きかけて閉じ、それからもう一度開いた。


「……でも、ミナは言いそう」


「ノアひどい!」


工房が笑う。笑ってから、試験が始まる。


見張り台のノアは「荷の遅れ」と送ったらしい。

だが届いたのは「に」と「お」の輪郭だけだった。


「“荷”と“遅れ”の頭だけ来たってことか」


とリリエル。


「惜しい」


とカイル。


「輪郭は近いですが、まだ後半が落ちる」


走って戻ったノアが息を整えながら言った。


「……“荷の遅れ”で送りました」


「やっぱりまだ人間側の補正が要るね」


とリリエル。


「でも前よりずっといい」


遠くへ伸ばすのではなく、役目を決めたことで石の迷いが減ったのだと、リリエルには感じられた。


母がノートへ書きつける。


用途限定で反応精度上昇。自由応答より実用性高。


ネリスが腕を組んでうなずいた。


「使い道が見えるといいね」


「まだ先の話です」


とカイル。


「でも今のはかなりいい顔してた」


「やめてください」


その顔を見て、リリエルは少しだけ笑った。


---


試験が終わった頃、父が戻ってきた。


空はもう夕方の色で、工房の前の影が長い。


「どうだった」


父は戸口から聞いた。


リリエルは丸の石を持ち上げた。


「自由に喋るのはまだ無理。でも、決めた言葉を短く返すなら前よりずっといい」


父はすぐに分かった顔をした。


「なら使える」


「うん」


「見張り台と門と屋敷で回せるか」


「たぶん」


「たぶん、か」


父は少しだけ笑った。


「工房の“たぶん”は信用することにしてる」


それから試験紙とノートを見た。

父は細かい技術の読みをする人ではない。だが、記録が増えている量は読む。


「これを三日続けろ」


「三日?」


とミナ。


「短くない?」


「領の仕事として入れるなら、三日ぶんは要る」


父の声はもう完全に領主の声だった。


「一回うまくいった、では人は任せられん。三日続いて、同じ時刻で、同じ見張り役でも回るなら、使い道になる」


カイルが少しだけ感心したように言った。


「堅実ですね」


父は肩をすくめた。


「失敗した時に困るのは、だいたい堅実に見なかった側だからな」


ドルフが低く笑った。


「そういう時は、わりといいこと言う」


「わりとか」


「いつもじゃねえ」


「ひどいな」


でも、父は少し嬉しそうだった。


---


夜、工房が閉まるころには、朝の違和感はもう消えていた。


丸と線の石は、布の上で静かに休んでいる。

保存箱も照明石も、今日は勝手に鳴らない。

工房はちゃんと工房の顔へ戻っていた。


それでも、昨日までとは違う。


遠い道に触れた。

王都へ報告が上がった。

でもその翌日に、見張り台とのあいだで役立つ形を一つ増やした。


それが今日のいちばん大きなことだった。


母はノートを閉じ、父は今日遅れてきた書類を抱え直し、ギデオンは「執務室に戻します」と言い、ノアはもう明日の布を畳み終えていた。


ミナが言う。


「父上、ほんとに仕事してたね」


父が足を止めた。


「してたぞ」


「ちょっと工房にいすぎかなって思ってた」


「それは俺じゃなくて、お前らが毎回面白そうなことを始めるからだ」


「責任転嫁だ」


とリリエル。


「半分はそうだな」


父は笑った。


その笑い方で、リリエルはようやくきれいに納得した。


父は工房に立つ人ではない。

その代わり、工房が領のどこへ届くかを決める人だ。

今日やっと、その違いがリリエルにもはっきり分かった。


リリエルは窓の外を見た。


夏の夜はまだ深くない。

工房の灯りは、今日もちゃんとこの場所を照らしている。


遠い道はたしかにある。

空の向こうから返ってきた何かも、たしかにあった。

でも今夜の工房にあるのは、それだけじゃない。


母のノート。

ノアの布。

ミナの声。

ネリスの商売の勘。

カイルの面倒そうな顔。

ドルフの手。

そして、ここにはいない時間の方が長い父の机。


全部つながって、工房は回っている。


それが分かっただけで、今日はもう十分だった。


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