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声は、石に残る


夏の工房には、二種類の静けさがあった。


ひとつは、誰もいない時の静けさ。

もうひとつは、全員いるのに、全員の目が同じ一点へ集まっている時の静けさだ。


その朝のアストラ工房には、後者があった。


作業台の上には、昨日から増えた測定紙。

窓の下には母のノート。

棚には再充填石と保存箱の調整部品。

壁際には直し待ちの小型灯具。


その真ん中で、カイルが難しい顔をしていた。


「……おかしい」


王都の若手技師が朝から「おかしい」と言う時は、だいたい面倒か、面白いかのどちらかだ。

そしてたいてい、両方だった。


ミナがすぐ聞く。


「何が?」


「昨日の結果です」


「昨日、もう見てたじゃん」


「見たから、今日も見てるんです」


「技師っぽい」


「技師ですから」


返しはいつも通りだったが、顔は本気だった。

測定紙の端を指で二度叩き、また目を落とす。考える時の癖だ。


リリエルは受け皿を拭きながら言った。


「標準が機嫌悪いの?」


「標準は、たいてい機嫌が悪いです」


「かわいくないね」


「かわいさは求めていません」


少しだけ笑ってから、カイルはようやく顔を上げた。


「昨日の測定で引っかかったのは、再充填石そのものの戻り方だけじゃありません。あなたたちは、石を単体で見ていない」


「器と一緒に見てるって話?」


とリリエル。


「そうです。灯具との噛み合い、箱との噛み合い、待機時の流れ方。全部、対になる相手込みで見ている」


ドルフが腕を組む。


「当たり前だろ。石だけ良くても、入れ物が受けねえなら意味がねえ」


「はい。だから気になりました」


カイルは少しだけ間を置いた。


「対になる系統――つまり、片側だけでは意味がない系統にも、同じ癖が残っている可能性があります」


ミナが首を傾げる。


「分かるように言って」


「二つで一組のものです」


「最初からそれで言って」


カイルはあきらめたように息をついた。


「二つで一組のものです」


ネリスが戸口からひょいと顔を出した。今日は街道へ出る前に寄ったらしい。荷車の手綱を指に引っかけたまま、もう会話に入っている。


「それって、離れた相手と繋がるやつ?」


カイルが頷く。


「高位設備には、古い対向応答系の術式片が残っていることがあります」


「雑に言うと?」


とミナ。


「呼んだら、向こうが返す仕組みです」


工房の空気が少しだけ変わった。


光る石。冷やす箱。そこまでは、今の工房の手の届く範囲だ。

だが、呼んで返る石は、少し違う。


遠くの匂いがする。


リリエルが聞いた。


「何をやりたいの?」


カイルは答えた。


「声が残る石があるかもしれません」


ミナが目を丸くした。


「ちょっと怖い」


「怖い話ではありません」


「でも、言い方が怖いよ」


「通信系です」


今度はリリエルが黙った。

通信。その言葉は、工房の中にあるのに、工房の外の方角を向いている。


---


きっかけは、カイルの測定針だった。


昨日のあと、カイルは棚の中の古い部品まで一通り針を当てて回っていた。

依頼品だけではなく、工房の隅のがらくた箱まで。


その針が、箱の底でわずかに震えた。


ドルフが眉をひそめる。


「そこ、使えねえもんしか入ってねえぞ」


「使えなくても、反応するなら別です」


箱をひっくり返す。

割れた留め具、欠けた受け皿、古い灯具の殻、用途不明の金属片。


その下から、灰色に濁った小さな石片が二つ出てきた。


光らない。冷たくもない。

見た目は、壊れた照明石の失敗作みたいだった。


だが、リリエルが指先で触れた瞬間、視界の奥に白い文字が落ちた。


> `LOW RESPONSE FRAGMENT`

> `PAIR POSSIBLE`

> `SIGNAL MEMORY: TRACE`


指先が、ちり、とした。

照明石の返りとも、保存箱の広い冷たさとも違う。もっと薄くて、もっと遠い感じの返りだった。


「これ」


リリエルが言う。


「片割れだと思う」


カイルがすぐ近づく。


「見せてください」


「いいけど、勝手に持っていかないで」


「持っていきません」


言いながらも、目は完全に石に吸われていた。


ノアが無言で薄布を差し出す。

リリエルはそれを受け取り、石片を二つ、並べて置いた。


その瞬間、片方の表面がほんの少しだけ白く曇った。


ミナが息をのむ。


「今、何かした?」


「並べただけ」


「並べただけで?」


「たぶん、隣を思い出した」


変な言い方だとは思ったが、手触りとしてはそれが一番近かった。


カイルは自分の革箱から小さな金属枠を取り出した。


「王都では、こういうものを応答片と呼ぶことがあります」


「半端なやつ、ってこと?」


とミナ。


「違います」


「でも半端なのは本当でしょ」


「……まあ、そうですが」


ネリスが笑う。


「今のはミナの勝ちだね」


---


最初の実験は、驚くほど地味だった。


石片を作業台の端と端に置く。

何も起きない。

少し近づける。

やはり何も起きない。


金属枠に載せると、片方がほんの少しだけ白く曇る。

でも、それだけだった。


「地味だね」


ミナが言う。


「こういうのは、だいたい最初は地味です」


とカイル。


リリエルは石片を見つめた。

光ではない。熱でもない。

もっと細い、揺れ方だけが残っている。


視界の奥に、また文字が落ちる。


> `PAIR ALIGNMENT LOW`

> `INTENT CHANNEL WEAK`

> `MANUAL GUIDE ADVISED`


「手で揃える」


リリエルが言った。


カイルがすぐ乗る。


「何を」


「向かい合い方」


「曖昧ですね」


「まだ途中だから」


そう言って、リリエルは二つの石の間に、小さな照明石をひとつ置いた。


カイルが眉を上げる。


「基準を挟むのか」


「いきなり互いを見せるより、一回同じものを見せる方が早い気がする」


「理屈があるのが嫌ですね」


「褒めてる?」


「かなり」


その時、ノアが小さな木札を二枚持ってきた。

片方に丸、片方に線。


リリエルが見ると、ノアは少しだけ視線を逸らした。


「区別した方が、見やすいかと思って」


「ノア、えらい」


とミナ。


ノアは即座に固まった。褒められると毎回こうなる。


丸と線の札を石の横に置く。

それだけで、白い文字が少し変わった。


> `PAIR ALIGNMENT IMPROVED`

> `MARKER ACCEPTED`


カイルが息を止めた。


「今、変わりましたか」


「変わった」


「困るな……」


「何が」


「見える人がいると、説明が一段飛ぶんです」


「でも早いよ」


「それは認めます」


---


二度目で、ようやく応答が出た。


リリエルが丸の札の石へ指を置き、小さく言う。


「……いる?」


石はすぐには何も返さない。


少し遅れて、線の札の石が、ちり、と鳴った。


本当に小さな音だった。

でも、偶然ではないと、その場の全員に分かった。


ミナが跳ねた。


「鳴った!」


ネリスが戸口から身を乗り出す。


「今の、返事?」


カイルは石を見たまま呟いた。


「音の記録じゃない……応答の癖だけが残ってる」


リリエルが言う。


「“呼ばれたら返す”の形だけ残ってる感じ」


「その言い方の方が近いです」


カイルは素直に頷いた。


今度は、線の札の石へカイル自身が触れた。


「……聞こえるか」


少し間を置いて、丸の札の石が、ふっと白くなった。

光るほどではない。だが、向こうが何かしたと分かる程度には、たしかに返った。


「返した」


リリエルが言う。


「完璧じゃないけど」


カイルの顔が、昨日よりさらに面倒そうになった。

つまり、本気で面白くなっている時の顔だ。


「片側入力、片側応答。しかも音そのものじゃなく、呼びかけと返答の輪郭だけを残してる……」


ミナが聞く。


「つまり?」


「“いる?”と“いる”の間だけ、残ってる」


「すごいような、ちょっと怖いような」


「今はすごい方でいいと思う」


とリリエル。


---


午後、工房の中だけでは足りなくなった。


「距離取る」


リリエルが言った。


「ノア、線の方持って廊下」


ノアは頷き、石を受け取って音もなく廊下へ出た。

ミナが追いかけようとして、母に止められる。


「ミナはここ」


「なんで!」


「あなたは見ている時に声が出るから」


「それはそうだけど!」


工房の中が妙に静かになった。

いつもの騒がしさが、一段だけ引いている。


リリエルは丸の札の石へ触れた。


「ノア」


少し待つ。

何も起きない。


もう一度。


「ノア」


廊下の向こうで、ちり、と小さな音がした。

それとほとんど同時に、手元の石が薄く震えた。


ミナが両手で口を押さえる。


「今、いた!」


「いたね」


リリエルは続けた。


「返して」


少し間があって、今度は手元の石の奥に、ほんの短く、何かが触れた。


声ではない。

でも、声になりかけた最初の輪郭だけがあった。


視界の奥に文字が落ちる。


> `RESPONSE RECEIVED`

> `CONTENT: MINIMAL`


カイルは完全に技師の顔になっていた。


「音声保存ではない。対になる応答の最小単位だけを噛ませてる……」


リリエルが言う。


「“呼ぶ”と“返る”だけ、残ってた」


「はい。それです」


もうカイルは、その言い換えを否定しなかった。


---


実験を切り上げ、石片を布へ戻そうとした瞬間だった。


今までより、少しだけ深い文字が視界の奥に落ちた。


白い。軽いのに、輪郭だけは妙にはっきりしている。


> `PAIRING PROTOCOL FRAGMENT FOUND`


リリエルは息を止めた。


「……出た」


「何が」


カイルがすぐ聞く。


「表示。ペアリング・プロトコル・フラグメント」


カイルの表情が変わった。


それは、知らない単語を聞いた顔ではなかった。

知っている言葉に、ここで出会ってしまった顔だった。


リリエルは続ける。


「たぶん、対の接続手順の断片」


カイルが小さく呟く。


「ただの偶然応答じゃない……手順の残骸が、本当に残っていたのか」


母がノートを閉じた。

父もいつの間にか入口に立っている。

ドルフは腕を組んだまま、今度は笑っていなかった。


明るい空気のままなのに、その向こうに、少し別の厚みが加わった。


それでも最初に口を開いたのは、やっぱりネリスだった。


「つまり、まだ増えるんだ」


「何が?」


とミナ。


「面白いこと」


ネリスはにっと笑う。


「工房の棚、まだ空いてるし」


それを聞いて、少しだけ空気が戻った。

ミナが笑い、ノアが廊下から戻ってきて、カイルは小さく息をつき、リリエルもようやく肩の力を抜いた。


工房の夏は、まだ忙しい。

保存箱は止まるし、照明石は弱るし、値段の話も、王都の規格の話も終わっていない。


その真ん中で、今度は声まで石に残り始めた。


作業台の上の二つの石片は、もうただの壊れた石には見えなかった。

まだ通話には遠い。便利道具と呼ぶには早すぎる。


でも、対になる何かの入口だけは、たしかにここにあった。


工房の中を、夏の風が抜けていく。

暑いのに、少しだけ先の季節の匂いがした。


アストラ工房は、壊れたものを直す場所だったはずだ。

なのに今日は、まだ名前のないものまで起こしてしまった。


それは少し怖くて、かなり面白かった。


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