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奇跡に値段をつける


夏の工房は、朝からうるさかった。


蝉ではない。人だ。


戸の開く音。布包みの置かれる音。ノアが木箱を引く音。ミナが「それ返却待ち! そっちは試験中!」と叫ぶ声。外ではネリスが勝手に順番をさばき、ドルフが「勝手に仕切るな!」と怒鳴っている。


アストラ工房は、夏に入ってから急に狭くなった。


建物が縮んだわけではない。物と人が増えたのだ。


依頼品の棚には小型灯具。返却待ちの棚には再充填済みの照明石。壁際には調整待ちの保存箱が三つ。窓の下のノートはもう二冊目に入っていて、母の字は相変わらずきっちりしているのに、書かれる行だけが前より明らかに増えていた。


空っぽだった棚も、もう空っぽには見えない。上段はまだ半分空いている。けれどその空き方は、寂しい空き方ではなかった。次が来る空き方だ。


「リリ、それ終わった?」


ミナが言った。


「終わる」


「それ、さっきも聞いた」


「さっきも終わるって言った」


「じゃあ急いで終わって」


「無茶言わないで」


言い返しながら、リリエルは保存箱の蓋の縁を押さえた。今朝持ち込まれた箱だ。待機漏れ。蓋の合わせ不足。先週から同じ型が続いている。


型が同じなら、直し方も速くなる。速くなれば、次の箱に手が届く。


一つずつ直しているのに、工房全体では少しずつ前に進んでいる。


それが、ちょっと嬉しい。


ノアが横から細い革片を差し出した。言わなくても、今日はその厚みだと分かっているらしい。


「ありがと」


ノアは頷くだけで、次の箱の受け皿を並べに行った。この子は、工房の中で音より先に位置が決まる子だった。いるべきところに、気づけばもういる。


外から、ネリスの声が飛んでくる。


「保存箱は今三つ待ち! 照明石は今日返すぶんだけ受けます! 留め具なら早いよ!」


「お前は誰の工房の前で商売してる!」


ドルフが怒鳴る。


「アストラ工房のだよ!」


「それを勝手に案内するな!」


「案内してるだけ!」


「それを勝手と言うんだ!」


そのやり取りに、外で待っていた女が吹き出した。笑いが起きると、人は少し待てる。ネリスはそのあたりをちゃんと分かってやっている。腹立たしいが、役には立っていた。


母がノートから目を上げずに言う。


「ネリス」


「はーい」


「今日返すものだけ言いなさい」


「分かりました」


返事だけは妙に素直だった。三秒後に続いた声は、ちゃんと修正されていた。


「照明石は今日返します! 保存箱は順番です!」


「最初からそうしろ」


とドルフ。


夏の工房は、朝からこんな調子だった。


---


その騒がしさが、戸口で一度だけ止まった。


ミナが最初に顔を上げた。リリエルもつられて見る。


戸口に立っていたのは、ユノだった。


白に近い薄青の服。夏用の軽い布。腰には札入れ。肩から小さな包み。あの冬より少し背が伸びている。顔立ちも少しだけ大人びた。けれど、目のまっすぐさは変わっていなかった。


変わったのは、工房を見た瞬間の顔だった。


驚いている。


看板。棚。人。依頼品。ノート。値札。外で待つ人影。


全部を見て、最後に作業台の保存箱へ目が止まる。


「……すごいことになってますね」


「すごいよ」


ネリスが外から言う。


「今ちょうどすごい時」


「あなたは誰ですか」


ユノが即座に聞いた。


「ネリス。行商見習い。そっちは神殿の人?」


「見習い神官です」


「じゃあ同じ見習いだ」


「全然同じではありません」


「でも“まだ偉くない”って意味では同じでしょ」


ユノが少しだけ詰まった。


ミナが小声で言う。


「ネリスに先に捕まった」


「だいたい誰でもそうなる」


とリリエル。


母がようやくノートから顔を上げた。


「ユノ、久しぶりね」


「はい。ご無沙汰しています」


そこでやっと、いつものユノの声に戻った。


「今日はどうして?」


父も奥から顔を出した。今日は午前だけ工房に寄って、午後は領内の見回りに出る予定だったらしい。手にはまだ釘箱を持っている。領主の格好なのに、手だけ工房だった。


ユノは包みを持ち直した。


「神殿の保存箱が止まりました」


工房の中が一瞬だけ静かになって、それからミナが吹き出した。


「神殿も止まるんだ」


「止まります!」


ユノが珍しく少し大きな声を出した。


「保存箱は神具ではありません!」


「でも神殿のやつって、ちょっと神聖そうに見えるよね」


「見えるだけです! 中身は普通の箱です!」


ネリスが外から言う。


「じゃあ修理代取っても怒られないね」


そこで、ユノが止まった。


視線が、窓下のノートの横へ落ちる。そこには小さな木札が立っていた。母が先週置いたものだ。


照明石再充填。留め具調整。保存箱点検。保存箱調整。


全部、小さく値が書いてある。


ユノはそれを見て、もう一度工房の中を見回した。依頼人。預かり札。返却待ちの棚。値札。


それから、静かに聞いた。


「……お金を取っているんですか」


今度は、本当に工房が静かになった。


重い沈黙ではない。けれど、軽く返せる問いでもなかった。


母が先に答えた。


「取っているわ」


「奇跡に?」


責める声ではなかった。分からないから、確かめている声だった。


母は平らに言った。


「奇跡ではなく、修理と調整に、です」


ユノの眉が少し寄る。


「でも、人を助けることでしょう」


「そうね」


母は否定しない。


「助けることよ。でも、続けるなら形が要るの」


ユノは黙って聞いている。


「石も減る。布も減る。革も減る。時間もかかる。手順も残す。誰か一人の善意だけで回していたら、先にそっちが止まるわ」


父がそこで口を開いた。


「無料でやる日が続けば、どこかで無理が出る」


父の声は母より少し荒い。理屈を磨くというより、生活の重さで押す声だ。


「それじゃ困るんだ。持ち込む方も、直す方も」


外からネリスが言う。


「安すぎても駄目だよ」


全員がそちらを見る。


ネリスは荷車の縁に肘を乗せたまま、平然としていた。


「一件ならいいの。でも十件来た時に“善意で頑張ります”ってやると、十一件目で回らなくなる。そういう店、街道で何回も見た」


「店ではないでしょう」


とユノ。


「じゃあ何?」


ネリスの返しは速い。


「人が持ってきて、直して、返して、次の人が待ってる場所だよ。名前も看板もある。店じゃないって言う方が難しいでしょ」


「工房です」


ノアがぽつりと言った。


珍しく自分から会話へ入ったので、少しだけ皆がそちらを見る。


ノアは少しだけ固まって、それでも続けた。


「……工房だから、回るようにしないと」


小さな声だった。でもちゃんと届いた。


ドルフが鼻を鳴らす。


「そういうことだ」


そこで、ユノの視線がリリエルへ来た。


「リリエルは、どう思ってるんですか」


真正面から聞かれた。


逃げられない聞き方だった。でも、逃げたくもなかった。


リリエルは少しだけ考えた。


それから、作業台の保存箱に手を置いて言った。


「前は、直せばいいと思ってた」


ユノは黙って聞いている。


「でも今は、次も直せる方が大事だと思う」


棚を見る。依頼品を見る。ノートを見る。外で待っている人たちを見る。


「一個だけなら、たぶんお金はいらない。なくても無理してやると思う」


たぶん、本当にそうだ。


「でも今は、一個じゃない」


工房の中は静かだった。誰も急かさない。


「次が来る。次の次も来る。夏はもっと来る。わたしがやりたいだけじゃ足りない。続く形にしないと、途中で止まる」


ユノの目が少しだけ揺れた。


「止まったら、困る人が増える」


「……はい」


「だから取る」


リリエルは少しだけ息を吸った。


「奇跡に値段をつけてるんじゃない。止めないために、形をつけてるんだと思う」


ユノは何も言わなかった。


でも、さっきまでの顔ではなくなっていた。納得した顔ではない。けれど、目の前のものを自分の信仰ごと受け取ろうとしている顔だった。


---


その時、外から別の声がした。


「すみません!」


若い男が、息を切らして工房へ飛び込んできた。腕の中に布包み。顔が青い。


「箱が止まって……朝しぼった分がもうぬるくて、うちだけじゃなくて裏の家の分も預かってて……!」


布を開いた。中には小型保存箱用の交換石が二つ。どちらも弱っている。


母がすぐ立った。


「名前は」


「トーマです、裏通りの——」


「品物が先。あとで聞くわ。ノア、受け皿。ミナ、預かり札。リリエル、石から見て」


「うん」


体が先に動く。


ユノだけが一拍遅れた。


けれど、その一拍のあとで、自分から動いた。


「札、使います」


全員が一瞬だけユノを見た。


ユノは顔を上げた。


「冷えの保ち、少しだけ助けられます。長くは無理ですけど、今の間なら」


母が短く頷く。


「やって」


ユノは包みから札を抜いた。細い文字。淡い青。


「静かなる巡りよ、散らず、荒れず、

失われる冷えを薄く留め給え。

腐りへ急ぐものを一歩だけ遅らせ、

人の手が届くまで、この器を保ち給え——」


札が、布包みの上へふわりと落ちた。箱の表面に薄い青の膜が張る。


強い術ではない。だが今はそれでいい。リリエルの手が届くまでの、ほんの少しを稼ぐ術だ。


トーマの顔が少しだけ戻った。


「すみません、すみません……!」


「謝らなくていいです」


ユノが言った。


その声は、さっきよりまっすぐだった。


「そのために、ここがあるのでしょう」


そう言ってから、ユノ自身が少しだけ驚いた顔をした。自分の口から出た言葉に、自分で追いついていない顔だった。


リリエルは交換石を手に取った。


右手の指先に、もう慣れた重さが触れる。軽い石だ。返ってくる振動も軽い。深刻な劣化ではない。間に合う。


「こっちはすぐ戻せる」


トーマの肩が大きく落ちた。


「ほんとですか!」


「ほんと」


「早い!」


とミナ。


「いけるやつだから」


「今の顔で分かるの?」


「分かる」


「ずるい」


「だから工房なんだよ。たぶん」


自分で言って、少しだけおかしかった。


ドルフが横で低く笑った。


「板についてきたな」


嬉しい時ほど、この人は短くしか言わない。でもその短さがちょうどよかった。


---


昼を過ぎるころには、工房はまたいつもの騒がしさに戻っていた。


トーマの石は戻り、トーマ自身は何度も頭を下げて帰った。ユノの札はきっちり時間をつなぎ、祈りと手順が初めて同じ仕事の中で並んだ。


一件が終わり、次の一件が来る。


その合間に、ユノは窓際で小さく息を吐いた。


「……難しいです」


「何が?」


とミナ。


「全部です」


「正直だね」


「正直にしか言えません」


それから、少し間を置いて、リリエルの方へ向いた。


「まだ、抵抗はあります」


「うん」


「奇跡という言葉を、値札の横に置くのは、まだ慣れません」


「うん」


「でも……」


ユノは工房の中を見た。ノアが棚を整え、ネリスが外で次の客に何か言い、母がノートへ記録し、父が運び込まれた箱を壁際へずらしている。


工房が、誰か一人の奇跡ではなく、皆の手で回っている。


「救いが続くなら……それは、売り物でも罪ではないのかもしれません」


今度は、少し強かった。


まだ揺れている。まだ迷っている。けれど、もう否定はしていなかった。


答えが出たというより、目の前の現実を置き去りにしないと決めた声だった。


それで十分だと、リリエルは思った。


ネリスが外からすぐ反応した。


「その言い方、いいね」


「……あなたは全部すぐ言いますね」


「行商だから」


「便利な言葉ですね」


「便利だよ。だいたい本当だし」


ユノが少しだけ眉を寄せた。でも、口元はもう怒っていなかった。


母がノートを閉じた。


「では、保存箱の調整価格は少し見直しましょう」


「早い!」


とミナ。


「話が済んだら次は運用です」


「出た」


と父。


「運用が出た日は、もう止まらないぞ」


「止まっていたら困るもの」


母は平然としている。


ネリスがにっと笑った。


「やっぱり好きだな、この工房」


「何が」


リリエルが聞く。


「皆ちょっとずつ正しいとこ」


そう言って、外の列へ戻っていく。勝手な子だ。でも、たぶん本気でそう思っている。


工房の中へ、夏の風が入った。もう涼しくはない。でも、その暑さは少し前と違っていた。


ただ困るだけの暑さではない。忙しくなる暑さ。工房が回る暑さ。暮らしの困りごとが、ここへ流れ込んでくる暑さだ。


リリエルは作業台の上の保存箱を見た。


奇跡に値段をつけたのではない。少なくとも、自分はそう思わない。


値段がついたから続く。続くから届く。届くから、次の人が待てる。


工房の夏は、思ったより忙しくて、思ったより明るい。


そしてたぶん、まだここからもっと増える。


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