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2/11

奇跡ではなく、補正です


朝になっても、リリエルは昨夜のことを誰にも説明できなかった。


結界灯を点けた。

それは事実だ。父も、ドルフも、ユノも、その場にいた。村の人たちも見ていた。


けれど、「どうやって」と聞かれたら、答えようがない。


口が勝手に動いた。

そう言えば気味悪がられる。


頭の中に文字が見えた。

そう言えば、もっと厄介だ。


奇跡の子。

呪われた子。

神に選ばれた子。

おかしな子。


どんな名前でも、それを貼られた瞬間に、自分はもう「ただのリリエル」ではいられなくなる。八歳の、背の低い、虫を捕るのが好きで、計算は得意だけれど絵は下手な、ただの女の子では。


朝食の席で、父は何も聞かなかった。


硬いパンを割り、薄いスープを飲み、今日の巡回の話を母と交わした。井戸の蓋が軋むこと、倉の鍵が一本見当たらないこと、収穫帳簿がまだ揃っていないこと。そういう話ばかりした。


普通の朝だった。


普通の朝を、父は少しだけ頑張っていた。


一度だけ視線が合った。

父はすぐに目を逸らした。聞きたいのだ、とリリエルには分かった。けれど聞けないのだ。聞いてしまえば、昨夜のことが現実になるから。


優しい人は、そういうとき、すぐに手を伸ばせない。

壊れものだと分かっているものほど、触るまでに時間がかかる。


だからリリエルも黙っていた。


母は違った。


朝食の片づけが終わると、母はリリエルの部屋に来た。

ノックは一度だけ。返事を待たずに扉を開けるのが、母のやり方だった。


「座りなさい」


静かな声だった。

逆らえない声ではない。ただ、逆らう意味がないと分かる声だった。


リリエルはベッドの端に腰を下ろした。

母は椅子を引き、正面に座る。膝と膝のあいだに、腕一本ぶんの距離。近すぎず、遠すぎない。


「昨夜のこと」


前置きはなかった。


「お父様は怖がっています。村の人たちは奇跡だと噂しています。ドルフさんは黙っています。ユノは、自分の祈りが足りなかったのかと悩んでいます」


事実だけが並べられた。

帳簿を読むときと同じ声だった。


「あなたは、どう思っているの」


リリエルは口を開き、閉じた。


怖い。

でも、怖いだけではない。


怖さの横に、まだ名前のない何かがある。

それは冷たくなく、少しだけ熱を持っていて、胸の奥にじっと座っている。


「……分からない」


嘘ではなかった。


母は少しだけ目を細めた。

それだけで、全部を見られた気がした。隠したところも、隠しきれていないところも。


けれど母は追及しなかった。


「もう一度やれる?」


リリエルは顔を上げた。


「昨夜のこと。同じことを、もう一度」


その目にあったのは好奇心でも心配でもなかった。

確かめようとする人の目だった。


「……やってみないと分からない」


「それでいいわ」


母は頷いた。


「分からないのが正しい答えよ。分かったつもりになるほうが、危ない」


母は立ち上がって部屋を出た。

戻ってきたとき、手には小さな照明具があった。屋敷の廊下で使っている、ごくありふれた魔道具だ。


「先月から調子が悪いの。点いたり消えたりしていたから、ドルフさんに見せるつもりだったもの」


母はそれを机に置いた。


「やってみなさい」


昨夜の結界灯は大きかった。

村の外縁に立つ石柱で、夜そのものを押し返すためのものだった。


けれどこれは小さい。手のひらに乗るくらいの、屋敷の備品だ。仕組みが同じとは限らない。


分からない。

でも、だからこそ試すのだと、母の横顔が言っていた。


リリエルは側板を外した。

中には小さな魔石がひとつ。導線にあたる銀の糸は、焦げても切れてもいない。見た目には壊れていなかった。


壊れていないのに、動かない。


昨夜と同じだ。


物が壊れていないのに動かないなら、壊れているのは物ではない。

その考えが浮かんだとき、胸の奥で、またあの知らない引き出しがきしんだ。


リリエルは昨夜の祈りを思い出した。


「天の火よ、夜を裂く清き輪となりて、我らを外つものより守り給え――」


口の中で転がす。

やはり長い。


長いだけではない。

飾りが多い。呼びかけが多い。持ち上げる言葉が多い。肝心の動きに辿りつくまでが遠い。


本体はどこだ。


彼女は頭の中で言葉をほどいた。


「天の」

「火よ」

「夜を裂く」

「清き輪」


どれも美しい。

でも、なくても動く気がした。


残るのは、もっと短いものだ。


リリエルは照明具に向かって、小さく言った。


「灯り。応答。起動」


三語だった。


照明具が点いた。


何のためらいもなく。

まるで最初からその三語を待っていたみたいに、柔らかな光が磨りガラスの内側に満ちる。


同時に、視界の奥に白い文字が現れた。


> `AUTO-CORRECTION APPLIED`

> `LEGACY COMMAND STABILIZED`


昨日と同じだった。


リリエルの手が震えた。


二回。


二回起きた。

それだけで、昨夜のことはもう偶然ではなくなった。


母は照明具の光を見ていた。

それから娘の震える指先を見て、何も言わずに部屋を出た。


胸が冷えた。

やっぱり、おかしいのだと思われたのかもしれない。


だが母はすぐに戻ってきた。

手にはノートとペンがあった。


机の上にそれを置き、椅子に座り直す。


「何を変えたの」


帳簿の声だった。


「元の文句。あなたが言い換えた文。省いた部分と残した部分。順番も。全部書きなさい」


見捨てられたのではなかった。

記録を取りに行っていたのだ。


そのことに、リリエルは少しだけ救われた。


奇跡として扱われたのではない。

おかしな子としても。


何かが起きたから、記録する。

母はそれだけのことにしてくれた。


リリエルはペンを取った。


何が見えたのかは、まだ書けない。

あの白い文字のことは、まだ。言葉にすると、それが本当に自分の外に出てきてしまいそうで怖かった。


でも、何を変えたかなら書ける。


ペン先が紙に触れた瞬間、不思議と震えが止まった。

書くということは、ばらばらのものに順番を与えることだ。順番がつけば比べられる。比べられれば、考えられる。


リリエルは書いた。


元の祈り。

言い換えた三語。

省いた部分。


書きながら、はっきりした。

自分が削ったのは、ほとんど全部、飾りだった。残したのは動きに関わる言葉だけだ。


「お母様」


「何か分かったの」


リリエルはノートを見たまま言った。


「壊れてるのは、わたしじゃない」


母の目が細くなる。


「呪文の方だと思う」


部屋が静かになった。


時計の音がした。

廊下を使用人が歩く足音がした。

その全部が、今だけ少し遠かった。


母はノートを手に取って読み返した。

一行ずつ、ゆっくりと。


「だとしたら」


母は言った。


「ほかにも壊れている呪文があるかもしれないわね」


怒りではなかった。

否定でもなかった。


ただ、次のことを考える声だった。


そのとき、廊下から短い悲鳴が聞こえた。


「奥様!」


使用人のマルタだった。

赤茶けた髪を後ろでひとつに束ねた、肩幅の広い女で、鍋でも樽でも軽々運ぶくせに、子どもが熱を出せば真っ先に青くなる人だった。


母が立ち上がる。

リリエルもつられて走った。


廊下に出ると、壁に掛けられた照明具が、奥から順に点いていた。


ひとつ。

またひとつ。

またひとつ。


昨夜リリエルが直した結界灯が、村の外でゆっくり光を広げたのと同じように。

屋敷の灯りが、見えない何かに撫でられるように、一斉に明るさを取り戻していく。


誰も触っていない。

誰も祈っていない。


ただ、リリエルがさっき机の上のひとつを起こしただけだ。


視界の奥に、また白い文字が流れた。


> `RELATED NODE DETECTED`

> `LOCAL LIGHTING CLUSTER RESYNC IN PROGRESS`


リリエルは足を止めた。


ひとつではなかった。

あの照明具だけではなかった。


母が振り返る。


「今、何が起きているの」


答えられなかった。

けれど、さっきまでよりはっきり分かることもあった。


壊れていたのは、ひとつの灯りじゃない。


もっと大きな何かの、手順だ。


廊下の奥で、最後の照明具がぱちりと点いた。

屋敷の光が、今までより少しだけ白く、静かに並ぶ。


そして、そのいちばん端の灯りが、次の瞬間、何かに押し潰されたみたいに、ふっと消えた。


リリエルの視界に、最後の文字が落ちる。


> `MAINTENANCE LOG AVAILABLE`


そのとき、庭の方からばたばたと駆け込んでくる足音がした。


「リリ!」


飛び込んできたのはミナだった。

日に焼けやすい顔にそばかすが散っていて、走るたびに三つ編みの先が跳ねる。今日はその片方が半分ほどけていた。


「うちの裏の見張り灯、変なの!」


息を切らしながら、それでも声だけは大きい。


「勝手に点いて、すぐ消えた!」


背中が冷えた。


「いつ」


「今朝。誰も触ってないのに」


母が静かに聞く。


「どの見張り灯?」


ミナは手振りで方向を示した。

村の北端。結界灯からは少し離れた場所だ。


はずの、という言い方をした自分に、リリエルは気づいた。

もう“つながっていない”と断言できなくなっている。


「先にドルフさんのところへ行きましょう」


母はそう言った。

ノートはもう手に抱えられている。


「今は、屋敷の中だけ見ていても足りないわ」


---


ドルフの工房には、珍しく人が多かった。


村の男が二人、扉の前で言い争っている。中からは金属を打つ音ではなく、人のざわめきが聞こえた。


ドルフがリリエルたちに気づくと、顔をしかめた。


「来たか」


挨拶でも歓迎でもない声だった。

その硬さで、何かが起きていると分かる。


「何があったの」


母が聞くと、ドルフは舌打ちまじりに答えた。


「外れの見張り灯が二つ、朝から点いたり消えたりしてる。石を替えても直らねえ。こっちの工房灯まで巻き込まれて、さっきから勝手に明るさが変わる」


リリエルは工房の中を見た。

たしかに、天井から下がる灯りが微妙に脈打っている。明るくなり、落ち、また戻る。壊れかけた呼吸みたいだった。


「結界灯は?」


ドルフの目が一瞬だけ細くなる。


「外縁のは今のところ保ってる。だが、北側の補助灯が怪しい」


ミナが小さく「やっぱり」と言った。


工房の奥では、ユノが見張り灯に向かって祈りを唱えていた。


「天の火よ、夜を裂く清き輪となりて、我らを外つものより守り給え――」


けれど、その声にはもう昨夜のような真っ直ぐさがなかった。疑いながら祈っている声だ。そういう声は、聞いているだけで分かる。


一瞬、灯りが強くなる。

次の瞬間、ふっと落ちる。


ユノは唇を噛んだ。

悔しそうだった。悔しいだろう、とリリエルは思う。昨日まで正しいと信じていた手順が、急に頼りなく見え始めたのだから。


ドルフが低く言った。


「お嬢ちゃん」


それはいつもの呼び方だった。

でも、もう少し違う意味を持っていた。


「お前、昨日みてえに何か分かるか」


工房の中が静かになった。


男たちも、ユノも、ミナも、母も。

みんながリリエルを見る。


朝、自分が恐れていたものが、遅れて喉に戻ってきた。

逃げたい、と一瞬だけ思う。


その瞬間、工房灯がまた明滅した。

明るくなり、落ち、また持ち直す。まるで何かの合図みたいだった。


視界の奥に、白い文字が流れた。


> `LOCAL LIGHTING CLUSTER UNSTABLE`

> `SYNC LOSS DETECTED`


リリエルは息を呑んだ。


昨日より少しだけ、読めた。

意味までは分からない。けれど、形が分かる。昨日はただ怖かった文字が、今日は少しだけ手がかりに見えた。


それがいちばん嫌だった。

慣れてきている。


「……壊れてるんじゃない」


自分の声が、やけに小さく聞こえた。


「何だって?」


ドルフが身を乗り出す。


リリエルは見張り灯と工房灯を交互に見た。

別々の灯りに見える。けれど、今の文字は“ひとまとまり”として扱っている。


クラスター。


それが何かは分からない。

でも、ひとつずつ壊れているのではない。つながった何かの呼吸がずれている。


「壊れてるんじゃなくて……揃ってないの」


「揃ってない?」


ユノが、祈りの途中みたいな顔でこちらを見た。


「順番が、ずれてる。たぶん」


自分でも何を言っているのか、半分しか分からない。

でも、口に出した途端、その言葉は少しだけ本当らしくなった。


ドルフは困ったように頭を掻いた。


「石じゃなくて、順番だと?」


リリエルは見張り灯の側板を外した。

母は止めない。ドルフも止めない。昨日までなら「危ないから触るな」と言われていたはずなのに、誰も言わなかった。


中の魔石は割れていない。

導線も生きている。

なのに灯りだけが揺れている。


結界灯と同じだ。

照明具と同じだ。


「ユノ」


名前を呼ばれて、ユノが少し肩を揺らした。


「さっきの祈り、もう一回言って」


「え」


「最初から。ゆっくり」


ユノは戸惑った顔をした。

けれど今の彼にも分かっているのだろう。このままでは直らない。


彼は祈りを口にした。


「天の火よ、夜を裂く清き輪となりて、我らを外つものより守り給え――」


リリエルはそれを聞きながら、頭の中で言葉を削っていく。


天の火。

夜を裂く。

清き輪。

外つものより守り給え。


飾り。

説明。

祈り。

命令の本体ではないもの。


本体はもっと短い。

もっと直接で、もっと乱暴なはずだ。


けれど削りながら、胸が少し痛んだ。

ユノが毎日唱えてきた言葉を、自分は今、機能の方だけで仕分けている。彼にとっては、どの一語にも意味があったはずなのに。


祈りの価値と、命令の機能は別なのだ。

分かっているのに、今の自分の手は機能の方しか拾わない。


視界にまた文字が走る。


> `RECOMMENDED: CLUSTER RESYNC`

> `MANUAL PHASE ALIGNMENT REQUIRED`


分からない言葉ばかりなのに、最後の部分だけは胸の底に沈んだ。


揃える。

ずれた順番を、もう一度揃える。


リリエルは見張り灯に手を添えた。

冷たい。石なのに、どこか湿った肌みたいな冷たさだった。


「灯り、応答。補助灯、再接続」


工房の中の空気がぴんと張る。


何も起きない。


失敗した、と思った瞬間、工房の奥の灯りがひとつ点いた。

続いて見張り灯。

その次に入口の灯り。


順番に。

一斉ではなく、近いところから遠いところへ波が走るみたいに。


ミナが小さく息を呑んだ。

ドルフが「おい」と低く唸る。

ユノは口を開いたまま、何も言えない。


工房の灯りが一巡して、また戻る。

今度は消えない。明るさも揺れない。


そのとき、ユノが一歩だけ下がった。

見張り灯からではなく、リリエルから距離を取るみたいに。


すぐに自分で気づいたのだろう、彼は足を止めた。けれど、その一歩は消えなかった。


視界の奥に、新しい文字が出た。


> `LOCAL CLUSTER RESYNC COMPLETE`

> `MAINTENANCE LOG AVAILABLE`


「……直った」


誰かが呟いた。


それが誰の声だったのか、リリエルには分からなかった。

自分だったかもしれない。


だが、その安堵は長く続かなかった。


工房の外から、別の声が飛び込んできた。


「ドルフさん! 北の補助灯、全部落ちた!」


空気が一変した。


整ったと思った。

けれど整ったのはここだけだった。


手の届く範囲を直したら、その外側が壊れていた。

まるで、ひとつ治したことで別のどこかに負荷がかかったみたいに。


その考えが怖かった。

自分が手を出さなければ、北の補助灯は落ちなかったかもしれない。因果関係は分からない。分からないのに、責任だけが胸に溜まる。


視界の奥に、今まででいちばん長い文字列が現れた。


> `LOCAL FIX APPLIED`

> `UPSTREAM NODE UNSTABLE`

> `NEAREST LOG SOURCE: HILL NODE`


丘。


リリエルの頭に、夜の向こうに沈んでいたあの丘が浮かんだ。

古い祠のある丘。子どものころから「夜に行くな」と言われてきた場所。何があるのかは、誰もちゃんと教えてくれなかった場所。


母が、ゆっくり息を吸った。


「丘ね」


その声で、リリエルは少しぞっとした。

母ももう、偶然だとは思っていない。


ドルフが眉をひそめる。


「何だ、丘ってのは」


ユノが青ざめた顔で言う。


「丘の祠は……古い祈り場です。昔は、夜灯の守りを祈る場所だったと聞いています」


「祈るだけの場所じゃないのかもね」


母はそう言った。


外では北の方角から、人の叫ぶ声がかすかに届いていた。

補助灯が落ちれば、結界の薄い場所ができる。害獣が寄る。人は怯える。夜は村を小さくする。昨夜、リリエルが知ったばかりのことだ。


ドルフが工具箱を掴んだ。


「行くぞ」


誰が最初に動いたのか、分からなかった。

でも次の瞬間には、みんなが動いていた。


ユノが祈り札を掴む。

ドルフが工具箱を肩にかける。

母がノートを抱える。

ミナまでついて来ようとして、母に睨まれて、それでも半歩も引かなかった。


工房を出ると、空はもう夕方の色に寄り始めていた。

灰色の雲の下で、丘の祠だけが、妙に黒く見えた。


道の途中、リリエルは一度だけ振り返った。

工房の灯りはまだ点いている。さっき揃えたばかりの、整った光だった。


でも、その向こう――村の北端は暗かった。


直したのに、まだ足りない。

見えたのに、まだ分からない。

それが少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。


視界の奥に、最後の一行が浮かぶ。


> `WARNING: PARTIAL USER APPROACHING RESTRICTED NODE`


意味は全部は分からない。

けれどひとつだけはっきりしていた。


次は、あの丘だ。


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