表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/19

行商の少女は、匂いで分かる


工房ができて三日目の朝、棚はまだ半分も埋まっていなかった。


空っぽの棚というのは厄介だ。

前の日より少しだけ物が増えると、かえって空きの方が目立つ。


一段目には古い留め具が四つ。

二段目には磨き終えた受け皿が二枚。

窓の下の記録台には、母のきっちりした字で書かれたノートが一冊だけ。

作業台の端には、ドルフから「貸し」ではなく「今だけ置いてやる」と言われた小型の万力が、偉そうな顔で乗っている。


工房らしくはなった。

だが、まだ“回っている場所”の顔ではない。


「静かだねえ」


窓際で雑巾を絞りながら、ミナが言った。

暇な時のミナの雑巾は、必要以上にきつく絞られる。


「三日目だから」


リリエルは記録台の前で返した。


「三日目に大繁盛してたら、たぶん別の意味で怖いよ」


「でも一人くらい来てもいいじゃん」


「来るよ」


「根拠は?」


「壊れてるものが多いから」


前にもしたやり取りだった。

ミナはすぐ笑う。


「それ、便利な答えだね」


「便利だよ。だいたい合ってるし」


そう言いながら、リリエルはノートの余白へ今日の日付を書いた。

依頼帳と呼ぶには、まだ白い紙の方がずっと多い。


ペンを持つ右手の指先に、かすかな重さが残っている。

痛みではない。

一年半、石や板に触れるたび返ってきた振動の名残だ。朝は少しだけ重い。昼にはだいたい忘れる。そういう付き合い方を、指の方が先に覚えていた。


そこへ、こつこつ、と小さな音がした。


扉だ。


ミナが先に顔を上げる。雑巾を握ったまま。

リリエルもそちらを見る。


入口には、女の人が一人立っていた。


領内の人だ。顔は知っている。

村の広場に面した小店で、乾物を扱っている家の女の人だった。

見覚えはある。けれど、名前まではすぐに出てこなかった。


でも、両手で抱えた布包みの持ち方で分かった。


帰るつもりではない人の持ち方だ。


「あの……」


声は小さい。

けれど足は引いていない。


リリエルは立ち上がった。

立ち上がってから、自分の背筋が思ったより伸びていることに気づいた。


「どうしましたか」


女の人は、布包みを抱え直した。


「ここ、直してくれるって……聞いて」


ミナの顔が一気に明るくなる。

今にも何か言いそうな顔だったが、その前に奥から母の声がした。


「持ち込まれた物は、まず見せてもらってからです」


母は記録台の横にいた。

いつから聞いていたのか分からない。たぶん最初から聞いていた。


女の人が少し肩をすくめて、布を開く。


出てきたのは、小さな照明石だった。


手のひらに乗るくらいの大きさ。

透明に近い石の中が白く濁っている。金具は古く、片側の留めが少し浮いていた。何度も使われた顔だ。そして今は、完全に沈黙している。


リリエルは息を吸った。


来た。


最初の依頼だ。


「お名前を、伺います」


母が静かに言う。


「あ、はい。ルウナです」


「品物の使い方は」


「夜の店番です。台の横に置いてて……二日前から急に暗くなって、昨日はもう全然」


「代用品はありますか」


「蝋燭はあります。でも風が入るので、すぐ揺れて」


母が頷いてノートへ書く。

質問の形がもう、工房のものになっていた。


「預かりですか、それともここで待ちますか」


ルウナは少し迷ってから、言った。


「……待っても、いいですか」


待つ。


その一語だけで、リリエルの胸の中に小さく火がついた。

最初から最後まで見られる。直せるかどうかを。


「いいですよ」


言ってから、自分で少し驚いた。

思ったより声が落ち着いていた。


---


作業台の上に照明石を置く。


金具の浮き。濁り方。残熱なし。

待機消費の痕がある。充填不足のまま、無理に使い続けた石の顔だった。


リリエルは布を巻いた指でそっと持ち上げる。


白い文字が軽く落ちた。


> `LOW CHARGE`

> `IDLE LEAK DETECTED`

> `RECHARGE POSSIBLE`


軽い。


前みたいに目の奥は熱くならない。

日常の中の表示は、もう驚きではなく作業の入り口だった。


「どう?」


ミナが横から覗き込む。


「死んではない」


「それ、いい言い方?」


「石には、いい言い方」


「人だったらちょっと怖いよ」


「人には言わない」


やり取りをしながら、リリエルは金具を外す。

ゆっくり。焦らず。

脈動再充電の手順は、もうノートに正式名がある。


《アストラ式・脈動再充電》。


名前がついてから、失敗の仕方まで少し変わった。

「なんとなくやってみた」ではなくなったからだ。


「ノア」


母が扉の外へ声をかけた。


少しして、細い影が戸口に現れた。


無口な少年だった。

年はリリエルとあまり変わらない。工房の立ち上げの時にも、黙って道具を運んでいた。頼まれなくても近くにいる子だ。


「水盆を」


母が言う。


ノアは頷いて、すぐ動いた。

返事が小さいのではない。動く方が先の子なのだ。


ミナが小声で言う。


「いつもいるよね」


「気になるんじゃない」


「リリエルのこと?」


「工房のこと」


「半分ずつだと思うな」


聞こえていたのかいないのか、ノアは何も言わなかった。

水盆を作業台の脇へ置き、濡れ布を添える。その手つきが妙に正確で、リリエルは少しだけ感心した。


ドルフの工房には、こういう子が残る。

口が先じゃなく、手が先の子だ。


リリエルは照明石を受け皿へ置いた。


一気にはやらない。

三回に分ける。石に息をさせるように、負荷と休止を繰り返す。


一回目。


白い濁りが、石の奥でほんの少し薄くなる。


「え」


ルウナが声を漏らした。


まだ光ってはいない。

でも、変わったのは見て分かる。


二回目。


石の芯に、かすかな白が灯る。


呼吸の浅い人の胸が、ようやく一度だけ深く動いたような、小さな戻り方だった。


ノアがじっと見ている。

ミナは見すぎて瞬きを忘れている。

母はノートから目を離さない。だが、書く手の速さが少しだけ増していた。


三回目。


リリエルは石へ手を添えた。


「……戻って」


誰にともなく、小さく言う。


それは呪文ではなかった。

けれど、手順と一緒に口から出る言葉は、時々そういう形を取る。


白い文字が落ちる。


> `STABLE`

> `IDLE LEAK REDUCED`

> `RETURN TO USABLE RANGE`


次の瞬間、照明石がぽっと白く灯った。


作業台の上に、小さな光の円ができる。


工房が静まった。


ミナが最初に息を吐いた。


「わあ……」


それは驚きの声というより、見る前から止めていた息が勝手に出た音だった。


ノアの手が、水盆の縁で止まっている。

母のペンも止まっていた。


ルウナは何も言わなかった。

ただ両手を口へ当てて、しばらくそのまま動かなかった。


それから、少し遅れて目が潤んだ。


「ほんとに……」


言葉の先が続かない。

代わりに、照明石へ手を伸ばす。


リリエルはすぐには渡さず、言った。


「まだ熱が残ってるので、少しだけ待ってください」


その言い方が、自分でも少しだけ工房らしく思えて、少しだけ嬉しかった。


ルウナはこくこく頷く。

今度はちゃんと、任せて待つ人の頷きだった。


母がノートを閉じた。


「初回なので、今回は預かり記録だけ残します」


「お代は」


ルウナが慌てて言う。


「今回は結構です」


母は言った。


「最初の依頼ですから。じつはまだ決めていませんの、次から整えます」


母の声は落ち着いている。

最初から値段をきっちり取るより前に、まず成功例を確実に残す。そういう順番だった。


リリエルは照明石を布の上へ移した。

光は安定している。白く、揺れない。


昨日までただの石だったものが、今日からまた夜を照らす。


それは不思議な感じのすることだった。


壊れたものを直す。何度もやってきた。

でも今日は違う。


自分の家でも、自分の部屋でもない。

知らない人が持ってきた、知らない夜の光を直した。


この石は今夜、自分の知らない店先で灯る。


――ああ、これが工房なのか。


ルウナが両手で照明石を受け取った時、その顔は来た時よりずっと明るかった。石の光だけではない。顔の方が先に明るくなっていた。


「助かります」


泣きそうな声で言って、でも最後には笑った。


帰る時、扉のところで振り返る。


「……また、持ってきてもいいですか」


母より先に、リリエルが頷いた。


「いいです」


それはたぶん、今日いちばん大事な返事だった。


---


最初の依頼人が帰ったあと、工房の中はしばらく妙に静かだった。


照明石があった場所だけ、まだ少し温かい気がする。もちろんそんなはずはない。

でも、人が安心して帰ったあとの場所には、しばらく余熱みたいなものが残る。


ミナが先に笑った。


「やったね」


「うん」


「やったじゃん」


「うん」


「もっと嬉しそうにしていいんだよ」


「してる」


「足りない」


「ミナが二人分やってるから」


「じゃあちょうどいいね」


ノアはまだ作業台の横に立っていた。

照明石が戻った受け皿を見ている。石はもうないのに、皿の上を見ている。


母が片づけながら言う。


「ノア、水盆を下げて」


「……はい」


やっと返事が出た。

でも視線はまだ受け皿にある。


リリエルは言った。


「見たい?」


ノアが少しだけ顔を上げる。


「……もう一回」


声は小さい。けれど、はっきりしていた。


リリエルが笑う。


「照明石はもう返しちゃった」


「あ……」


少しだけしょんぼりした顔になる。


「でも、手順なら見せる」


ノアの目が戻った。


その時だった。


戸口のところで、軽い音がした。


こつ、ではない。

ことん、と荷を一度置く音だ。


旅の荷を下ろす音だった。


みんながそちらを見る。


見知らぬ少女が立っていた。


年は少し上か、同じくらいか。

日に焼けた肌。肩から斜めに下げた布袋。足元には小さな荷車の手綱が垂れている。服は町の子とも村の子とも違う。歩くための服だった。止まるより先に進む人間の服だ。裾が短く、靴底が厚い。


少女は工房の中を、鼻先から順に見回した。


視線が速い。

でも雑ではない。

匂いを拾う獣みたいに、要るところだけを順に拾っていく目だった。


棚の古い魔石。

さっき使った受け皿の跡。

机の端の試験痕――黒く焦げた一筋の線。

磨き跡の残る金具。

布の並べ方。


それだけ見て、にっと笑った。


「あ、これ売れる」


工房の中が、一瞬止まった。


リリエルは少女を見る。

母も見る。

ノアもミナも見る。


少女は全くひるまない。


「いや、壊れてるのを直すのが珍しいんじゃなくて」


誰もまだ何も聞いていないのに、少女は勝手に説明を始めた。


「その置き方がもう売れるやつなんだよね。再充填した石と、してない石、分けてるでしょ。記録も取ってる。しかも棚がまだ空いてる。ってことは、これから増える前提で並べてる」


ミナがぽかんとした顔で言う。


「……誰?」


「あと匂い」


少女はミナの質問を自然にまたいだ。


「ここ、石を焼いた匂いがする。ちょっとだけ。でも換気もしてる。ってことは、燃やしてるんじゃなくて、熱を通してる。道具として使ってるってこと」


母が少しだけ目を細めた。


「あなた、何をしに来たの」


少女はそこでやっと名乗った。


「ネリス。行商見習い」


明るく言って、肩をすくめる。


「街道筋で変な噂を聞いたの。村の外れで壊れた石を直してる場所があるって。嘘くさいから確かめに来たんだけど――」


工房の中をもう一度見る。


「――思ったより、ちゃんとしてた」


「ちゃんとしてた、で来るの?」


ミナが半ば呆れた声で聞く。


「行商は足で来るものだよ」


ネリスはそう言って、棚の前まで入ってきた。

勝手に入り込んだのに、不思議と荒っぽい感じだけではなかった。境目を越えるのに慣れている人間の入り方だった。村と村、店と道、家の中と外。そういう線を毎日またいでいる足だ。


「目はわりと本物なの」


自分で言って、自分で頷く。


「匂いで分かるんだよね。売れるものの匂い」


「匂い」


とミナが繰り返す。


「うん。言葉にすると変だけど、棚の並べ方とか、道具の置き方とか、使い終わった布の畳み方とかに出るの。回ってる店と、回ってない店は、匂いが違う」


それから、空いている棚の上段を見上げた。


「これ、村だけで使うの、もったいなさすぎるよ」


その一言で、さっきまで別々だったものが一つにつながった気がした。


作業台。受け皿。直した照明石。ノート。空っぽの棚。


リリエルたちが見ていたのは、「ここで直せる」ということだった。

でも、この子は違う。


「ここで直したものが、どこまで届くか」を見ている。


工房の中に、外の風が一気に吹き込んだ気がした。


ミナが先に笑った。


「なんかすごい子来た」


「すごいよ」


ネリスは即答した。


「だから来たんだもん」


自信だけで出来ている子だった。

けれどそれが嫌味にならないのは、自信の中身が「自分はすごい」ではなく「自分の目は確かだ」に寄っているからだと、リリエルは思った。


母がノートを開き直す。


「座りなさい」


ネリスが少し目を丸くする。


「え、いいの」


「話を聞くだけです。座る方が長く話せるでしょう」


母の声は平坦だった。

だがノートを開いたということは、記録する気があるということだ。


ネリスはにっと笑って、作業台の端に腰を下ろした。

ノアが黙ってその横に水を置く。


「……ありがと」


ネリスが少しだけ意外そうな顔をした。

ノアは何も言わずに元の場所へ戻る。


ミナが小声で言う。


「ノアの方がよっぽど行商向きかも」


「黙って気が利くのは行商じゃなくて番頭だよ」


ネリスが即座に返す。


「行商に必要なのは、黙らないこと」


リリエルはその言葉を聞きながら、ノートの新しいページに日付を書いた。


最初の依頼人が来て、最初の石が戻った。

そのすぐあとに、市場の匂いを嗅ぎつける子が来た。


空っぽの棚は、思ったより早く埋まり始めるのかもしれない。


リリエルは、まだ何も置かれていない上段を見た。

そこへ何が並ぶのかは、まだ分からない。


でも今日から、この棚は村の中だけを向いた棚ではなくなった。


窓の外では、春の風が荷車の幌をぱたぱた鳴らしていた。


工房の朝は、まだ始まったばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ