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奇跡ではなく、管理対象


西廊下の予備灯は、窓の少ない短い通路の先にあった。


朝の光が届きにくいせいで、昼でも少し薄暗い。壁は白く塗られているのに、その白さまで冷えて見える場所だった。屋敷の中で不具合を見るには、たしかに都合がいいのだろうとリリエルは思った。


母のノートを抱えたまま、ベルトラムは通路の中央に立っていた。


昨日の広場で見たときと同じく、余計なことを何もしていない人に見えた。慌ても威圧もなく、ただ必要なものを必要な順番で並べていくためだけに立っているみたいだった。


父が短く言う。


「ここだ」


「記録と一致しています」


ベルトラムは母から渡されたノートを閉じ、予備灯を見る。


「昨夜の書斎で申し上げた確認のうち、最初のものから始めます」


三つ並べたうちの、最初のひとつだ。

暫定利用者が、本当に応答者なのか。

それを、今ここで確かめる。


ギデオンはこの場にいなかった。共同倉と保存箱の見回りに回っている。昨日の夜から村人の口も重くなっていて、誰が何を見て、何を話すかを見張る役が必要だった。家の中だけを見ていれば済む段階では、もうなくなっている。


ユノは通路の入口に立っていた。札は持っているが、まだ構えていない。祈りで割り込む場面ではないと分かっている顔だった。


ドルフは壁に寄りかかり、腕を組んでいる。落ち着いて見えるが、指先だけが少し忙しい。じっと待つのが苦手な人間の手だった。


「灯りの不調は、昨日と同じですか」


ベルトラムに問われ、母が答える。


「昨夜から今朝にかけて二度、明滅しました。いずれも自力での回復はしていません」


「結構です」


それだけ言って、ベルトラムはリリエルを見た。


昨日の広場の視線とは違う。奇妙なものを見る目ではない。怖がりもしない。試すための目だった。


「お願いします」


たったそれだけだった。


命じるでもなく、励ますでもない。

手順の次を渡してくる声だった。


リリエルは予備灯に近づいた。


側板の継ぎ目。魔石の位置。銀の細線。前にも見た形だ。自分の部屋で直した小さな照明具とほとんど同じだった。


怖くないわけではない。

でも、ここで失敗する怖さは、丘の地下や東の果樹畑で感じた怖さとは違う。牙もない。血も出ない。代わりに、見られている。


うまくいくかどうかではなく、どうやってうまくいくかを見られている。

それが少しだけ息苦しかった。


ベルトラムが、細い金属札を持ち上げる。


「記録の名と数よ、現地の形を偽るな。

封緘の有無、乱れの痕、立会う者の位置をここに揃えよ。

ギルド設備監査局、臨時検査役ベルトラム・ゾーン。

地方維持系異常応答案件につき、西廊下予備灯の再現試験を申請する。

沈んだ応答のみを浮かべ、余計な系を乱すな――照合」


金属札の表面に、淡い白い線が走る。


同時に、父が低く詠唱を始めた。


「荒れた流れよ、ここより外へ溢れるな。

散るものを壁に受け、漏れるものを床へ返せ。

この狭き廊下を仮の枠とし、灯の乱れをここに留めよ。

揺らぐなら小さく、暴れるなら鈍く、

今はただ測るためだけに従え――留まれ」


通路の空気が少しだけ重くなった。


ユノも、入口で札を立てる。


「天の火よ、散らず、揺らがず、

細き廊下の輪を乱すものを拒め。

逸れた応えを外へ逃がさず、

小さき灯のまわりに静かな境を引け。

開きすぎるものは閉ざし、

騒ぎすぎるものは鎮め給え――静まり給え」


三枚の札が、予備灯の上と左右へ滑った。

淡い光が、父の作った見えない枠へ重なる。


父の術。ユノの祈り。ベルトラムの手順。

三つが揃うと、何も起きていないはずなのに、通路の奥行きだけが少し変わった気がした。


「応答を」


ベルトラムが言う。


リリエルは予備灯へ手を伸ばした。


「灯り。応答。起動」


短い詠唱だった。


次の瞬間、磨りガラスの向こうに光が満ちる。

ためらいはなかった。昨夜のうちに待っていたみたいに、予備灯はすぐ点いた。


視界の奥に白い文字が流れる。


> `AUTO-CORRECTION APPLIED`

> `LEGACY COMMAND STABILIZED`


同時に、ベルトラムの金属札が淡く光った。


祈り札ではない。薄い金属板の縁に細かな刻みが走り、表面に短い線が浮かんでいる。祠の奥の板や地下の表示ほどはっきりではないが、何かを受け取っているのだと分かる。


ベルトラムは金属札を一度見て、それから予備灯を見た。


「記録と一致」


そこで初めて、ドルフが鼻を鳴らした。


「それで終わりかよ」


「終わりません」


ベルトラムはすぐに答えた。


「再現性の確認があります」


言い返しが早いくせに、喧嘩の調子ではない。事実だけが先にある声だった。


母が別のページを開く。昨夜のうちに増えた、二冊目のノートだ。


「西廊下の端と、階段脇の壁灯も同時に揺れています」


「では次です」


ベルトラムは指を折らなかった。数えるときも、並べるときも、身振りをほとんど使わない。言葉だけを机の上へ置いていくみたいに話す。


三人で廊下を移動した。


予備灯。

階段脇。

角の壁灯。


母が記録した順番どおりに見ていく。リリエルが短い詠唱を入れるたび、ひとつ点き、もうひとつがわずかに応答し、連動が起きる。地下室や果樹畑ほど大きくはない。だが確かに、灯りはひとつずつではなかった。


「局所連動あり」


ベルトラムがそう言う。

母のペンがすぐ動く。


ドルフがぼそりと言った。


「分かったような口ききやがって」


「分かる範囲で言っています」


ベルトラムは振り向かない。


ユノが、そのやり取りのあいだだけ少しだけ口元を緩めた。笑いそうになったのかもしれない、とリリエルは思う。ほんの一瞬だけだったが、昨日から固まっていた空気にそこだけ小さなひびが入った。


だが、そのひびは長くは持たなかった。


「最後に、丘を見ます」


ベルトラムが言う。


通路の空気が、また少しだけ固くなる。


祠。

地下の部屋。

赤い目。

眠っている腕。


昨日までの村の不具合は、もうあそこを抜きには語れない。灯りの異常も、問い合わせも、追跡も、たぶん全部あそこへ戻る。


父が短く頷いた。


「行こう」


---


丘の祠は、昼に見ると余計に祠らしく見えた。


編み縄が渡され、鈴が下がり、小さな供え皿が置いてある。子どものころから知っていた古い祈り場の顔だ。昨夜その下へ潜ったことが、夢みたいに思えるほどだった。


けれど、リリエルにはもう無理だった。

ただの祈り場として見ることができない。


石の継ぎ目。

正面の板のずれ方。

床石のわずかな線。


どこが開くかを、目が先に探してしまう。


ガレスは石段の下に残り、外周を見ていた。灰牙が戻らないとも限らない。雨色の外套は朝の光の下では昨夜より地味に見えるのに、槍を持って立つと、そこだけ境目みたいだった。


ベルトラムは祠の正面に立つと、革鞄から細い金属札を取り出した。


「境に置かれた古き節よ、現地の照合を拒むなら、その拒み方を示せ。

封緘の有無、管轄の所在、立会う者の数をここに揃えよ。

ギルド設備監査局、臨時検査役ベルトラム・ゾーン。

地方維持系異常応答案件につき、丘祠局所節点への限定接触を申請する。

開かぬなら沈黙で応え、開くなら記録に従え――照合」


金属札が白く光る。


祠は、開かなかった。


鈴も鳴らない。

石もずれない。

風も動かない。


ただ、何も起きないという形で、拒まれたのだと分かった。


ベルトラムはそこで初めて、ほんの少しだけ間を置いた。驚いた、というほどではない。予想のうちのひとつが消えた、という顔だった。


「応答なし」


母のノートにその一行が増える。


ベルトラムは金属札をしまい、横へ退いた。


「お願いします」


また、同じ言葉だった。


リリエルは祠の前へ出る。


背中に、大人たちの視線がある。押してはこない。けれど外しもしない。これから何が起きるかを、全員が知っている。


リリエルは正面の石板へ手を当てた。


冷たい。

でも、昨夜ほど深く眠ってはいなかった。


「保守室。接続。開示」


指先の下で、わずかに沈む感触。

乾いた音。

祠の正面の石が左右へずれ、細い隙間が生まれる。


ユノが息を呑む。

ガレスの槍が、石段の下でわずかに鳴る。


昨夜と同じだ。

けれど、昨夜と違って、今はみんなが見ている。


開いた隙間の奥で、板が淡く光る。


視界の奥に白い文字。


> `AUTH: PARTIAL MATCH`

> `LOCAL MAINTENANCE NODE ONLINE`


その下に、新しい一行が落ちてきた。


> `FOLLOW-UP AUTHORITY: ASSIGNED`


リリエルの喉がひりつく。


昨日は `PENDING` だった。

保留。

待機。

まだ決まっていない形。


今は違う。

割り当て済み。

決まった。

次が来る。


来たのはベルトラムだ。

でも、次もまた別にいる。


その感覚が、冷たい水みたいに背中を流れた。


「何が見えました」


ベルトラムが聞く。


リリエルは祠の奥を見たまま答えた。


「……次の人が、決まった」


「割り当てですか」


「うん」


ベルトラムは否定しなかった。


「私の役割は、初期確認と現地安定化の判断までです」


その言葉で、かえってはっきりした。

この人で終わりではない。

ここで終わる規模では、もうない。


ベルトラムは祠の開口部を見て、それから父と母の方を向いた。


「確認できました」


言葉は短かった。

だが、その短さの中に、ここまで歩いてきたもの全部が入っているようにリリエルには思えた。


「暫定利用者は実応答者です。局所保守は偶然ではなく再現性を持っています。領地側も、少なくとも現時点では、秘匿より管理を優先しています」


昨日、書斎で並べた三つが、今ここで閉じたのだと分かった。


父が低く言う。


「それで」


「認定に進みます」


ベルトラムは革鞄から一枚の罫紙を取り出した。

細い欄がきっちり並んだ紙だった。最初から、こういう場所で、こういう名前を書くために用意されていた紙だ。


領地名。

利用者タグ。

保護者承認。

限定保守範囲。

立会者。

監査注記。


母のノートよりよほど冷たい紙だった。


ベルトラムは紙を板代わりに手の上へ置き、父へ向かって言う。


「アストラ領主エドガル・アストラ殿。保護者承認を」


父は一瞬だけ黙った。


その沈黙は長くなかったが、軽くもなかった。

娘を差し出す沈黙ではない。娘をこの先どう守るかを、その場で決める沈黙だった。


やがて父は言った。


「範囲を限定する。立会いなしでは入れない。危険兆候があれば中断する。それが条件だ」


「妥当です」


ベルトラムは即答する。


「記載します」


母のペンがノートの上で先に走る。

ベルトラムの紙にも、同じ条件が冷たい字で載っていく。


「リリエル・アストラ嬢を、未成年局所応答者として暫定登録済み案件に紐づく現地利用者と認定。以後、限定保守の範囲内でのみ、立会いのもと応答を認める」


読み上げられた自分の名前が、祠の前の昼の空気に落ちる。


名を呼ばれるのとは違った。

記録の中へ入れられる音だった。


視界の奥に、最後の文字が現れる。


> `LOCAL USER TRACKING ACTIVE`


追われている、ではない。

追跡されている。


意味は似ているのに、ずっと逃げにくい言葉だった。


リリエルは祠の開口部を見たまま、小さく息をした。

外の風は明るい。昼だ。村も見える。

それなのに、自分だけが少し別の場所へ立たされた感じがする。


ドルフが低く言った。


「で、次はどうすんだ」


「井戸。保存箱。屋敷内照明の連動系。村内に残る局所窓口の洗い出し」


ベルトラムは迷わず答えた。


「順に確認します」


ドルフが鼻を鳴らす。


「仕事だけは速えな」


「遅いよりは有益です」


その返しに、母がほんの少しだけ目を伏せた。笑いそうになったのかもしれない、とリリエルは思った。


父が母を見る。


「記録を増やせ」


「もう増やしています」


「足りなくなる」


「そのときは紙を増やします」


適切。

その言い方が、父には少しだけ救いだったのかもしれない。


ベルトラムは書類をしまい、祠の前で一度だけ周囲を見た。


「今日はここまでです。立会条件が成立しました。以後の確認は、管理対象として進めます」


奇跡ではなく。

噂でもなく。

祟りでもなく。


管理対象。


その言葉は冷たい。

でも冷たいからこそ、少しだけ救いでもあった。名前をつけられないまま怖がられるよりは、まだましだった。


石段を下りるとき、リリエルは一度だけ振り返った。


昼の祠は静かだった。

ただの古い祈り場にしか見えない。


でも、もう知っている。

その下に部屋があり、板があり、赤い目が眠っていて、自分の名前がそこへつながってしまったことを。


見えてしまったものは戻らない。

記録されたものは消えない。


そして、次がもう決まっている。


丘を下りる風の中で、リリエルは喉の奥に小さく残った熱を飲み込んだ。


怖い。

でも、怖いだけでは終わらない。


そう思ってしまったところまで含めて、もう昨日までとは違っていた。


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